MK氏の陳述書ー後藤徹氏の監禁現場に宮村氏と同行したMK氏の驚くべき陳述書
監禁中の後藤氏と対面したMK氏の衝撃的な陳述書をここに紹介する。
被告側は、あくまでも親子の話し合いと主張するが、MK氏が見たものはそうではなかった。
MK氏がなぜ、後藤徹氏の監禁現場に足を踏み入れることになったのか、そしてなぜ、原告側から陳述書を提出することになったのか?
驚くべき内容が記されている。
まずは、読んでいただきたい。
私は1996年2月中旬頃,統一教会の信仰を脱会させる目的をもった親族等によって東京都杉並区荻窪にあるフラワーホームというマンションの1室(確か5階)に監禁された統一教会信者です。同室に度々来た宮村峻の脱会説得により,私は,一度は統一教会の信仰を失いました。このため,宮村峻が監禁中の統一教会信者のもとを訪れて行う脱会説得に同行させられ,同マンションの上の方の階に監禁されていた後藤徹さんの部屋にも行ったことがありますので,以下,前後の経緯について述べたいと思います。
1.略歴
私は1967年9月30日,東京都■■区で生まれました。父は■■,母は同■です。兄弟は,3才年下の弟,■がいます。父は,生前は■■■■の仕事をしていましたが,2008年に胃がんが原因で他界しました。母も,2008年に■■■となり,現在は東京の■■病院に入院中です。
私は地元の小中高等学校を卒業後,1986年4月に■■大学■■部に入学し,1990年3月に卒業しました。卒業後は,「ミスターミスユニバーシティビューティーペイジェント」という,世界の学生たちが集まるイベントの企画制作事務所に勤めました。
2.統一教会への入会
1986年11月,私は統一教会信者のHさんという人から路上で声をかけて頂き,吉祥寺にあったビデオセンターを紹介して頂きました。Hさんは当時,統一教会の友好団体で大学生のサークル組織である全国大学連合原理研究会(以下,「原研」と言う)に所属して伝道活動をしており,吉祥寺のビデオセンターは,原研が統一教会の教理である統一原理を広く世に広めるためにビデオを通して啓蒙活動を行っている場所でした。私は同ビデオセンターでの勉強等により統一原理を真理であると確信し,同教会の信仰を持つに至り,原研に入会しました。そして,1987年6月に両親に統一教会の信仰のことや原研のことを話して原研の学生寮に入寮し,伝道活動などの活動に従事するようになりました。
3.親族の反対
父は当初私の信仰に賛成してくれましたが,母は元々宗教が嫌いで,賛成とも反対とも言っていませんでした。その後,母親はあちこちに連絡をしながら統一教会のことを調べ,日本イエス・キリスト教団の荻窪栄光教会で行われていた脱会説得活動のことを知ったようです。
4.第1回目の監禁
1990年の夏頃から91年始め頃までの約6ヶ月間,私は両親,親族等によって東京都杉並区西荻窪のマンションに監禁されました。同室には,日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会のKY牧師やMという元統一教会信者がやってきて脱会説得を行いました。一度,ドアの外まで逃げ出すことができ,「助けてくれー」と大声で助けを求めたことがありました。この時,誰かが警察に通報したらしく,警察官が来ましたが,私は部屋の中に引き戻されて弟に体と口を押さえつけられ,声を出すことができませんでした。対応に出た両親が,「娘が統一教会に入っていて今説得しているところなんです」と言うと,警察官は「あまり騒ぎを立てないようにお願いしますよ」と言っただけで帰ってしまいました。
1回目の監禁のときは,私が頑として脱会を拒んだところ,両親等は,最後はあきらめて私を監禁から解放してくれました。
5.第1回目の監禁から解放後の経緯
監禁からの解放後,いったん元の職場に戻りましたが,また監禁されるかもしれないという恐怖心と両親に監禁されたショックとで仕事が全く手につかず,長期休暇をもらいました。また,ここまで捕まえに追いかけてくるのではないかという思いがどうしても抜けず,何ヶ月間かは住む場所も転々と変えました。少しずつ精神的安定が保たれてくるにつれて,職場に復帰し,住む場所も定着しました。一方,母親はその後水茎会という,統一教会に反対する父兄会に繋がり,宮村峻という,脱会説得の専門家の指導を受けるようになりました。水茎会では会員の父兄は,子弟を拉致監禁して宮村の脱会説得を受けさせるために順番待ちをしつつ,その間,宮村や元統一教会信者,及び,既に子弟の脱会に成功した父兄等から,拉致監禁,脱会説得に向けた指導を受けます。
1992年8月に私は3万双の国際合同結婚式に参加し韓国人男性と結婚しました。その前に両親にも結婚式に出る旨を話すために,その年の6月か7月頃に私の職場で両親と会い,合同結婚式に参加することを話しました。
同年秋頃,TBSから拉致監禁の被害を受けた統一教会信者の取材をしたいとの申し入れがあり,私が応じることになりました。第1回目の監禁があった西荻窪のマンションをテレビカメラで撮影後,近くの公園でSというレポーターからインタビューを受け,拉致監禁のことや,マスコミで報道されていた「霊感商法」についての意見を求められました。私は,当時「霊感商法」と言われる活動には一切関わっていませんでしたので,その通り答えたところ,年末に放映された番組では,私の「霊感商法」問題に関する応答はカットされていました。後日宮村から聞いたところでは,S氏が番組の編集段階で宮村にお伺いを立て,「この部分はまずい」との判断を受けたために,カットしたのだそうです。このことを私は2回目の監禁の最中に宮村から聞きました。
1993年2月,韓国で所帯を持つ準備をするために渡韓しました。またこの頃入籍しました。渡韓後,夫を紹介するため両親に韓国まで来て貰ったり,韓国で開催された日本人向けの修練会(泊まりがけの勉強会)に母親に参加して貰ったりしたこともありました。ところが,後日母親から聞かされたところでは,どちらも宮村に相談し,宮村から,私の警戒を解くために韓国に行ったらいいとアドバイスを受けたために,本当は行きたくないところを無理に韓国に行ったということでした。
6.第2回目の監禁
(1)荻窪のアパートでの監禁
1996年1月中旬頃,婚姻生活を開始するに先立って,実家の両親に挨拶をするため韓国から日本に一時帰国のつもりで帰国しました。ところが,韓国に帰る日の直前頃,両親が急に「統一教会について家族で相談したいことがある」と言われました。私は直感的に2度目の拉致監禁だと察し,拉致監禁するのを何とか止めて欲しいと思い,先に謝った方がいいと思って母親に土下座して,「お母さんすみません」と言いました。ところが母親は却って逆上し,「お父さんこの人叩いて」と叫びました。すると,これを聞いた父親が,私の髪の毛を掴んで私の顔を上に持ち上げ,平手打ちで私の顔を何度も叩きました。父親が私の顔を叩いたり,母親が私を叩くように言ったことは,それまで1度もなく,まるで誰かから,「連れて来るときは,叩いてでも連れてこい」と事前に言われていてそのシナリオ通りに行動しているかのような不自然な行動でした。私は両親,弟によって外に連れ出され,いつの間にか用意されていた見覚えのないワゴン車に乗せられました。そこには既に,親戚2~3人がいつの間にか待ち構えていました。当時私は両親を信頼しきっていたので,裏切られたことの精神的衝撃が大きく,父親に叩かれた辺りから殆ど無気力状態になり,抵抗することもできませんでした。
ワゴン車は荻窪に向かい,私は荻窪のアパートの2階に連れて行かれ監禁されました。後日聞いたところでは,当時宮村が使用していた拉致監禁専用の部屋には空きがなかったけれども,私が韓国に帰れば捕まえる機会がなくなるといことで,両親が急遽荻窪にアパートを借りて,拉致監禁を決行したのだそうです。同室の玄関ドアは,チェーンなどにより厳重に施錠されました。親族等は同室を出入りする際,その厳重な鍵をいつもカチャカチャと音を立て,しばらくいじってから開錠したり,施錠したりしていました。玄関前はいつもカーテンで仕切られていたので,この鍵の様子を見ることはできませんでしたが,二重,三重に厳重に施錠されていたことは間違い有りません。
私は2度目の監禁ということで,両親らに対する憤りが収まらず,両親等とは殆ど話をしませんでした。2~3週間後,埒が明かないので私は両親等に対して「会わせたい人がいるなら連れて来たらいい」と言いました。すると早速次の日,同室に宮村が来ました。しかし私は一切話しをしませんでした。すると宮村は,「何だい,威勢良く,会わせたい人がいるなら連れて来いと言っておきながら,だんまりか?」と言いました。この発言を聞いて,私の両親は私が前日言ったことをすぐに宮村に伝えたのだと思いました。また宮村は,西荻窪における第1回目の拉致監禁に関与したKY牧師やMという元信者が行っている脱会説得活動について,「あれは真似事をしているだけだ。俺はそんなあまっちょろくないぞ。いつまでも話さなければずっとこのままだ。時間は十分あるんだからいつまでも好きなだけ居ていいよ。両親だってそのつもりだ」と言いました。この発言を聞いた母は,大きく頷いていました。この日以降,私はショックと憤りとで,宮村は元より両親らとも6ヶ月間,一切口をきかなくなりました。宮村はこの日から2~3回くらい来て毎回1~2時間滞在して私に話をしていきましたが,私がしゃべらないため,その後ピタッと来なくなりました。
(2)荻窪フラワーホームでの監禁
2,3ヶ月経った後,私は両親から「他に部屋があるからそっちに移る」と言われ,車で杉並区荻窪3-47-15にある荻窪フラワーホームというマンションの一室に移されました。この時車を運転したのは全く知らない人でした。車での移動時間は約10分程度でした。監禁されたのは,同マンションの確か5階の部屋だったと思います。この部屋は2LDKで,後藤徹さんが監禁されていたという,同マンション804号室と全く同じ作りでした。私はベランダに面した奥の部屋に常駐させられ,隣のトイレまでは行くことが許されましたが,その先には行くことを許されませんでした。
同室の玄関ドアは内側から厳重に施錠され,両親が持っていた鍵がないと開けられないようにされました。ベランダ側の窓は,雨戸がいつも閉まっていてまったく光が入らないようになっていました。また,雨が降っても風が吹いても,この窓からは何の音も聞こえませんでした。ベランダに段ボールか何かを積み上げるなど,音が遮断されるような仕組みにしていたのだと思います。
もう片方の窓は,セロハンのようなもので覆われ,中からは外が見えないように,また,外からは中が見えないようにされていました。
移動してしばらくすると,宮村峻が元信者を数人引き連れて私の様子を見に同室に来ました。宮村は私に話をさせようとして,私や原研の徳野会長等の悪口を言って私の口を開かせようとしました。悪口は,主にシック(統一教会信者のこと)は馬鹿だとか,頭が働いていないというものでしたが,徳野会長については,徳野会長がかつて法廷で証言した時のことを捉えて「よくも恥ずかしげもなく,『私はシュバイツアーを尊敬している』などと言えるよね,あいつは馬鹿だわ」などと言っていました。
弟はこの時既に結婚しており,子供が2人いましたが,毎日仕事をせずに殆ど監禁部屋に詰めていたため,遂に妻から離婚を迫られるようになりました。このため,私に対しても苛立ちを隠せなくなり,私が常駐していた部屋に来てコタツの机の部分を何度もティッシュペーパーの箱で叩いて大きな音を出して私を威圧したり,私の髪を掴んで私の後頭部を何度も壁にぶつけて,私を痛めつけました。弟はそれほど家庭が大事なら,家に帰って妻子の面倒を見ればいいはずですが,恐らく宮村から厳命を受けており,自分の意思だけでは家に帰ることもできないようでした。弟は中学の頃,不良をしており,担任の先生に暴行を加え,頭蓋骨陥没の傷害を負わせたこともあった程なので,私はこのままでは自分も病院送りにされるのではないかと不安にかられました。また,6ヶ月間も監禁されていると,「統一原理が真理であろうがなかろうがもうどうでもいい」という気分にもなっていました。しかし,家族に対する憤りは収まらず,到底家族と話す気にはなれませんでした。そこで私は,「宮村が話すことがあるなら話す」旨伝えました。私は6ヶ月間喋らずにいたので,この頃になると口の神経が麻痺してしまい,声を出そうとしても,「ヒー」などの音になるだけで,うまく喋ることができませんでした。このため,私は筆談でこのことを伝えました。
翌日頃,さっそく宮村が部屋に来ました。宮村に話しかけられて声を出そうとしても,やはり「ヒー」などの音になってしまい,うまく喋れませんでした。すると宮村は私の髪の毛を掴んで流しまで私を連れて行き,水を流し始めました。これでうがいをしろということでした。しかしうがいをしても声が出るわけではなく,宮村に対しても筆談で意思を伝えました。普通に喋れるようになるには3日かかりました。
私が対話に応じるようになると,宮村はだいたい週に3回くらいの割合で元信者数人を引き連れて部屋に来るようになり,本格的な脱会説得を始めるようになりました。宮村の話は統一原理批判や文鮮明教祖の批判が主でしたが,宮村は時に私の肩をもって両親を批判し,「あんたの親はこんなことをするなんて馬鹿だねー」などと,あからさまに両親の批判をしました。宮村からどんなに批判されても,両親はただ首をうなだれて聞いているだけでした。この様子を見て,両親は宮村の言うことに対しては平身低頭で,一切逆らえないのだということが良く分かりました。
一切外出を許されない極度の緊迫感の中で監禁され続け,しかも宮村から一方的な教会批判を聞かされる中,だんだんと心理的ダメージが蓄積していきました。そして,統一原理を考えついたのは金百文という牧師で文鮮明師ではないという話を聞かされたときに,遂に私は保っていた信仰が崩れ落ち,統一原理は真理ではなく,文鮮明は偽メシアで,自分は統一教会によって騙されていてのだと思うようになり,信仰を失ってしまいました。この頃でも,「閉塞された環境の中で一方的に聞かされる話を鵜呑みに信じていいわけはない。もしかしたら,統一原理が真理かも知れない」と思うこともできたのですが,この頃になると,これ以上,宮村から人の悪口を聞かされたくないという思いが先立ち,統一教会の信仰を維持しようという力は萎えていました。そのくらい,人の悪口を聞かされることで,私の心は傷ついていました。
7 信仰を失って以降のマンションでのリハビリ生活
(1)リハビリ生活
宮村も私が信仰を失ったものと認定したようで,今度は日本基督教団の有馬牧師が同室に来て,聖書の話をするようになりました。信仰を失ってからもマンションでの生活はすぐには終わらず,「リハビリ」と呼ばれる生活が続きました。これは,統一教会の信仰で異常になった頭を正常に戻すという名目で行われるものです。リハビリ生活が始まっても直ぐには玄関ドアの厳重な施錠ははずされず,監禁状態が続きました。私は玄関ドアの厳重な施錠を見て,「いつまで犯罪人扱いするんだ」と憤る思いが生じたことがありました。
有馬牧師が通ってくるようになってから何週間か経った後,新宿にあった同牧師の教会で行われる日曜礼拝にも参加するようになりました。それまで殆ど外に出られなかったため,足の筋肉が落ち,ふくらはぎのふくらみがなくなっていました。
私が信仰を失って以降,宮村が部屋に来る回数は減り,宮村が来ない分,スタッフが部屋に訪問に来ました。部屋に来たスタッフには,今思い出せる限りで,Oという男性,A夫妻,TY,Mという女性,Yという女性,NI,それにSという男性がいました。宮村が最初からスタッフを連れて来る以外,宮村とスタッフとは決して時を同じくして訪問することはありませんでした。このため,誰がいつどの監禁部屋に訪問するかということは全て計画通りに行われていることが分かりました。スタッフは私の見ている前で宮村に連絡することは決してありませんでしたが,部屋を出た後などに必ず宮村の携帯に連絡を入れているようでした。宮村が夜部屋に来ていた際には,宮村はスタッフからの,「これからどこそこに行きます」,とか,「今終わりました」,などの連絡を携帯で頻繁に受け,これに対して宮村は,「あ,そう,うん,うん,ご苦労」などと受け答えしていました。スタッフが部屋に来たときには,自分達の経験談などを話していきました。皆,拉致監禁によって脱会した元信者でした。
リハビリ生活の間,私は他の監禁されていた信者の脱会説得の場に同席させられることが数回ありました。これも,宮村等が言うところの「リハビリ」の一環として行われるものでした。まだ信仰を保っている信者の,監禁され何の反論もできない情けない姿を直視させることで,「自分も信仰を持っているときはあんな状態だったのだ」ということを認識させ,社会復帰をするには引き続きリハビリが必要だと自覚させるのが目的だそうです。
訪問の際には,宮村の使いの信者がフラワーホームにやってきて,「今度だれそれの部屋に行きます」,という形で宮村の意向を伝えて来ました。今覚えている限りで,別のマンションの一室に監禁されていた女性信者の部屋に2回行き,宮村が行う脱会説得を後ろに座って聞かされました。宮村が先に行って脱会説得を始め,そこに後元信者が私を呼びに来て私が元信者と共に訪問するという手順でした。元信者の案内で部屋に行き,元信者が玄関ドアをトントンと叩くと,中で監禁されている統一教会信者の親が,玄関ドアに施してある特殊な施錠(チェーンと錠)を外して私達を中に入れました。そして,私達が中に入ると,再度厳重な施錠を施しました。これは,宮村等による脱会説得中に,監禁されていた信者が隙を見て脱出するのを防止するためです。その日の脱会説得が終わって宮村と共に部屋を出るときも,信者の親がまず玄関ドアの施錠(チェーンと錠)を外し,私達が外に出ると,改めて施錠をしていました。
(2)婚姻無効裁判の提起
ある時,宮村が部屋に来て私に対し,「祝福どうする?」と聞いてきました。既に入籍した韓国人の夫との関係をどう処理するかということでした。宮村が,離婚と婚姻無効裁判を提起する方法との2つの選択肢があると言うので,私は「離婚します」とだけ答えました。離婚の方が手続が簡単だと思ったからです。ところが,スタッフがやってきて,「本当にそれでいいの?もう少し考えた方がいい」と言われ続けました。このため私は,婚姻無効裁判を起こさない限り,リハビリ生活からは解放されないのだと気付きました。そこで私は意に反して婚姻無効裁判を提起することに同意しました。裁判は,宮村の知り合いの紀藤正樹弁護士に委任することとなりました。紀藤弁護士と会うときは,両親の付き添いで紀尾井町にある紀藤弁護士の事務所に行きました。
(3)西央マンションでの忘年会
1996年の年末頃,私は西央マンション301号室で行われた忘年会に参加しました。西央マンション301号室は杉並区南荻窪4-11-10にあり,常時スタッフの誰かが待機しているスタッフルームのような部屋でした。同室は拉致監禁の順番待ちをしている父兄のための教育に使用されたり,あるいは,臨時にリハビリ中の人に使用させるなどしていたようです。私の親族も同室にて教育を受けたようです。
忘年会には,スタッフとして脱会説得活動に携わっていた元信者,スタッフではないもののリハビリが終わった元信者,及びリハビリ中の元信者の併せて約20名が参加しました。スタッフの何名かは,タップという宮村が経営する広告代理店で働いていましたので,宮村とは常時脱会説得活動に関して連絡を取り合っている様子でした。スタッフの宮村に対する信奉心は強固で,統一教会の信仰を止めた代わりに宮村信仰を始めたのではないかと思える程でした。
リハビリ中の元信者には,SHさんという女性,Sさんという■■の女性,■■のKMさんという女性,名前は思い出せませんが,バレイをしていた女性などがいました。私と同時期にリハビリ中の人達が少なくとも4人,また,信仰をもったまま脱会説得中の人が少なくとも1人(監禁中の後藤さん)いたことを考えると,私が居た部屋と併せて監禁専用の部屋が最低6箇所はあったことと推定されます。私が荻窪フラワーホームに移される前に監禁されていたアパートのような,監禁専用部屋でない部屋は,緊急の時以外利用しないからです。
当時はこうして,いつも誰かがどこかの監禁専用部屋に監禁され,脱会するとリハビリを受け,それが終わるとまた次の人が同じ部屋に拉致監禁され,脱会説得を受ける,ということがほぼ流れ作業的に繰り返し行われていました。
(4)後藤さんの部屋での脱会説得
1998年に入ってから,他の信者の脱会説得に加わるという趣旨で,同じフラワーホームの804号室に1回行きました。同室には後藤徹さんが監禁されていましたが,後藤さんについては以前から,数年間監禁されている人がいることをスタッフから聞かされていました。この日も宮村が先に行って脱会説得を始めた後,元信者が部屋に私を呼びに来ました。私と元信者とは階段を上って804号室に行き,元信者が玄関ドアをトントンと叩くと,後藤さんの親族が,玄関ドアに施してある特殊な施錠(チェーンと錠)を外して私達を中に入れました。私達が中に入ると,再度後藤さんの親族は厳重な施錠を施し,後藤さんが逃げられないようにしました。同室で後藤さんは,宮村から罵詈雑言を浴びせられる中,ひたすら首をうなだれていました。私は人格を否定するような悪口を聞くのが嫌で,スタッフのような立場で脱会説得活動に加わることだけは避けたいと思っていたので,後藤さんに対する脱会説得には殆ど加わりませんでした。
その日の脱会説得が終わって宮村と共に部屋を出るときも,後藤さんの親族がまず玄関ドアの施錠(チェーンと錠)を外し,私達が外に出ると,改めて施錠をしていました。
(5)リハビリ生活からの解放
婚姻無効裁判を提起して以降,宮村が部屋に来ることは殆どなくなり,スタッフが時折訪問に来るだけとなりました。ある時父は,「いつまでここに居るのかねー?」と言いました。すると母がたしなめるように,「全部宮村さんに委せておけばいいのよ」と言いました。この頃までには,両親には何の権限もなく,宮村の言いなりということは分かっていましたが,両親はリハビリ生活が継続する理由を知っているものと思っていましたので,それすら知らされていないことが分かって私は驚きました。
その後私は,部屋に訪問に来るスタッフに対して,私は何で部屋から解放されないのか,と聞くようになりました。すると彼らは,最初のうちは,「もう少し頭を正常に戻さないと」などと様々な理由をつけていました。しかし,私の頭は正常に働いており,遂にこのような口実は通用しなくなっていました。すると遂にスタッフは「そしたら宮村さんに直接聞いてみたら?」と言いました。その何日か後,私は弟と共に西央マンション301号室に行きました。するとスタッフが5~6人おり,そこに宮村が来たので,私は宮村に対して,「どうして私はまだマンションを出られないんですか?」と聞きました。私はこのように反抗的な態度をとった場合,「まだお前の頭は治っていない」と言われてリハビリ生活が長引くのが恐ろしく,このようなことを聞くのも心臓がドキドキしました。私の問いに対し宮村は,なだめるような感じで色々と遠回しに理由付けをしていましたが,要は,「外に出たら夫の元に戻るかも知れないので,婚姻無効裁判が終わるまではだめだ」ということでした。結局,リハビリ生活から解放するか否かの決定権は宮村がもっており,宮村の許可なしには,スタッフも親も何もできないシステムになっているのでした。拉致監禁の決行までの教育の期間に統一教会信者の親族等はこのようなシステムに則った行動をとるよう徹底した教育を受けていたようです。
いつしか玄関ドアの厳重な施錠はなくなり,弟は自分の家に帰り,父は仕事に行くようになりました。こうして,部屋では母と2人だけになりましたが,逃走して再度捕まった場合,「また監禁される」という恐怖心から,逃げ出すことはできませんでした。
1998年9月頃,婚姻無効の判決が出て裁判が終わると,私は2年7ヶ月ぶりに荻窪フラワーホームから解放されました。
8 荻窪フラワーホームから解放後の経緯
荻窪フラワーホームから解放された後,有馬牧師の教会が所有していたマンションの一室を借りて生活することになりました。監禁によって脱会した信者は,誰でも最初は精神的に不安定になり,一人暮らしをすることが難しいので,多くの場合,宮村の家の近くで生活するか,実家に帰って両親と一緒に生活しました。ところが私の場合,監禁によって両親との関係は最悪になり,私が両親を毛嫌いしたため,到底両親と一緒には住めませんでした。また宮村も人間的に好きになれなかったため,宮村の家の近くにも住みたくはありませんでした。宮村のことが人間的に好きになれなかった理由は,あからさまな拉致監禁をしておきながら,「保護,救出」などと言い換えて詭弁を用いていたこと,脱会説得中の人格攻撃が激しいことからです。
マンションで一人暮らしをするようになってからは,軽いうつ病になりました。今までの価値観が全く否定され,善悪の基準がなくなり,ずいぶんと不安定な状態でした。このため,なるべく早く社会復帰ができるようにと外を歩き回りながら身体を健康に戻しつつ,就職活動をしました。
9 統一教会に戻った経緯
マンションから解放されてすぐに,私は同じ3万双の国際合同結婚式に参加し,当時韓国で生活していたKさんという友人の信者に電話しました。私は既に信仰を失ってはいましたが,私がいきなり失踪して2年7ヶ月も連絡がないままだったので,心配しているだろうと思ったからです。この友人との電話でのやりとりは,私にとっては大きな心の支えになりました。精神的に不安定で眠れないときなどは,夜中に6時間も電話で話したことがあります。
1999年1月から,医大受験生のための添削を主な業務とする株式会社■■という会社に就職し,同年7月には同社の経営者が経営する姉妹会社である株式会社サビーズにて貿易関係の仕事をしました。同社は日韓貿易も行っており,韓国支社を開設する計画があったため,同社社長の勧めで延世大学に9ヶ月間語学留学しました。ところが,同社の韓国支社開設計画が頓挫したため,卒業と共に私は民団系の新聞社で勤務したり,翻訳会社に勤務して時事翻訳をしたりしましたが,その後独立し,フリーランスで翻訳の仕事をしました。
一方,新宿西教会には1999年半ばまで通いましたが,だんだんとキリスト教に魅力を感じなくなり,韓国に語学留学してより後は,仏教系の道場に通ったり,テソン真理教という仏教家の新興宗教団体に通ったりもしましたが,どこに行っても心が満たされることはありませんでした。そこで私は山に籠もってひっそりと修道生活を送りたいなどと思うようになりました。
こうした中,Kさんに何か良い仕事がないか尋ねたところ,丁度,山の中にある清平修練苑という統一教会系の修練所でアルバイトを募集しているとのことでした。そこで当時私は統一教会の信仰を持っていたわけではないにもかかわらず,清平修練苑の面接を受け,アルバイトをするようになりました。同所にて生活する中,やはり私の真理に対する渇望を満たしてくれる教えは統一原理以外にはないと気づき,再度統一教会の信仰を元返すようになりました。
10 水茎OB会について
監禁からの解放後,実家に水茎OB会から,会費の払込用紙や会費の納入を呼びかける書簡,会合の案内が届くようになりました。水茎OB会というのは,子弟の脱会に成功した父兄の集まりで,封筒に記された住所は,前記西央マンション301号室になっていました。年会費は1万円で,会費の納入を呼びかける書簡によると,宮村(「Mさん」ないし「M様」と記載)による「救出活動」のために会費は使われているとのことでした。
両親が健在だった頃は,やはりまた監禁されるのではないかと不安になったことはよくあります。今は,父は亡くなり母も入院生活ですのでその心配はなくなりました。
2009年12月10日,私は西央マンションを見に行きました。集合ポストの301号室には「S」の名義が記されていました。「S」という姓はとても珍しいので,たぶん,私と同時期にリハビリをしていたSHさんの親御さんの名義を現在は部屋の借り主として使用しているのだと思います。
被告側は、あくまでも親子の話し合いと主張するが、MK氏が見たものはそうではなかった。
MK氏がなぜ、後藤徹氏の監禁現場に足を踏み入れることになったのか、そしてなぜ、原告側から陳述書を提出することになったのか?
驚くべき内容が記されている。
まずは、読んでいただきたい。
陳 述 書
MK
私は1996年2月中旬頃,統一教会の信仰を脱会させる目的をもった親族等によって東京都杉並区荻窪にあるフラワーホームというマンションの1室(確か5階)に監禁された統一教会信者です。同室に度々来た宮村峻の脱会説得により,私は,一度は統一教会の信仰を失いました。このため,宮村峻が監禁中の統一教会信者のもとを訪れて行う脱会説得に同行させられ,同マンションの上の方の階に監禁されていた後藤徹さんの部屋にも行ったことがありますので,以下,前後の経緯について述べたいと思います。
1.略歴
私は1967年9月30日,東京都■■区で生まれました。父は■■,母は同■です。兄弟は,3才年下の弟,■がいます。父は,生前は■■■■の仕事をしていましたが,2008年に胃がんが原因で他界しました。母も,2008年に■■■となり,現在は東京の■■病院に入院中です。
私は地元の小中高等学校を卒業後,1986年4月に■■大学■■部に入学し,1990年3月に卒業しました。卒業後は,「ミスターミスユニバーシティビューティーペイジェント」という,世界の学生たちが集まるイベントの企画制作事務所に勤めました。
2.統一教会への入会
1986年11月,私は統一教会信者のHさんという人から路上で声をかけて頂き,吉祥寺にあったビデオセンターを紹介して頂きました。Hさんは当時,統一教会の友好団体で大学生のサークル組織である全国大学連合原理研究会(以下,「原研」と言う)に所属して伝道活動をしており,吉祥寺のビデオセンターは,原研が統一教会の教理である統一原理を広く世に広めるためにビデオを通して啓蒙活動を行っている場所でした。私は同ビデオセンターでの勉強等により統一原理を真理であると確信し,同教会の信仰を持つに至り,原研に入会しました。そして,1987年6月に両親に統一教会の信仰のことや原研のことを話して原研の学生寮に入寮し,伝道活動などの活動に従事するようになりました。
3.親族の反対
父は当初私の信仰に賛成してくれましたが,母は元々宗教が嫌いで,賛成とも反対とも言っていませんでした。その後,母親はあちこちに連絡をしながら統一教会のことを調べ,日本イエス・キリスト教団の荻窪栄光教会で行われていた脱会説得活動のことを知ったようです。
4.第1回目の監禁
1990年の夏頃から91年始め頃までの約6ヶ月間,私は両親,親族等によって東京都杉並区西荻窪のマンションに監禁されました。同室には,日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会のKY牧師やMという元統一教会信者がやってきて脱会説得を行いました。一度,ドアの外まで逃げ出すことができ,「助けてくれー」と大声で助けを求めたことがありました。この時,誰かが警察に通報したらしく,警察官が来ましたが,私は部屋の中に引き戻されて弟に体と口を押さえつけられ,声を出すことができませんでした。対応に出た両親が,「娘が統一教会に入っていて今説得しているところなんです」と言うと,警察官は「あまり騒ぎを立てないようにお願いしますよ」と言っただけで帰ってしまいました。
1回目の監禁のときは,私が頑として脱会を拒んだところ,両親等は,最後はあきらめて私を監禁から解放してくれました。
5.第1回目の監禁から解放後の経緯
監禁からの解放後,いったん元の職場に戻りましたが,また監禁されるかもしれないという恐怖心と両親に監禁されたショックとで仕事が全く手につかず,長期休暇をもらいました。また,ここまで捕まえに追いかけてくるのではないかという思いがどうしても抜けず,何ヶ月間かは住む場所も転々と変えました。少しずつ精神的安定が保たれてくるにつれて,職場に復帰し,住む場所も定着しました。一方,母親はその後水茎会という,統一教会に反対する父兄会に繋がり,宮村峻という,脱会説得の専門家の指導を受けるようになりました。水茎会では会員の父兄は,子弟を拉致監禁して宮村の脱会説得を受けさせるために順番待ちをしつつ,その間,宮村や元統一教会信者,及び,既に子弟の脱会に成功した父兄等から,拉致監禁,脱会説得に向けた指導を受けます。
1992年8月に私は3万双の国際合同結婚式に参加し韓国人男性と結婚しました。その前に両親にも結婚式に出る旨を話すために,その年の6月か7月頃に私の職場で両親と会い,合同結婚式に参加することを話しました。
同年秋頃,TBSから拉致監禁の被害を受けた統一教会信者の取材をしたいとの申し入れがあり,私が応じることになりました。第1回目の監禁があった西荻窪のマンションをテレビカメラで撮影後,近くの公園でSというレポーターからインタビューを受け,拉致監禁のことや,マスコミで報道されていた「霊感商法」についての意見を求められました。私は,当時「霊感商法」と言われる活動には一切関わっていませんでしたので,その通り答えたところ,年末に放映された番組では,私の「霊感商法」問題に関する応答はカットされていました。後日宮村から聞いたところでは,S氏が番組の編集段階で宮村にお伺いを立て,「この部分はまずい」との判断を受けたために,カットしたのだそうです。このことを私は2回目の監禁の最中に宮村から聞きました。
1993年2月,韓国で所帯を持つ準備をするために渡韓しました。またこの頃入籍しました。渡韓後,夫を紹介するため両親に韓国まで来て貰ったり,韓国で開催された日本人向けの修練会(泊まりがけの勉強会)に母親に参加して貰ったりしたこともありました。ところが,後日母親から聞かされたところでは,どちらも宮村に相談し,宮村から,私の警戒を解くために韓国に行ったらいいとアドバイスを受けたために,本当は行きたくないところを無理に韓国に行ったということでした。
6.第2回目の監禁
(1)荻窪のアパートでの監禁
1996年1月中旬頃,婚姻生活を開始するに先立って,実家の両親に挨拶をするため韓国から日本に一時帰国のつもりで帰国しました。ところが,韓国に帰る日の直前頃,両親が急に「統一教会について家族で相談したいことがある」と言われました。私は直感的に2度目の拉致監禁だと察し,拉致監禁するのを何とか止めて欲しいと思い,先に謝った方がいいと思って母親に土下座して,「お母さんすみません」と言いました。ところが母親は却って逆上し,「お父さんこの人叩いて」と叫びました。すると,これを聞いた父親が,私の髪の毛を掴んで私の顔を上に持ち上げ,平手打ちで私の顔を何度も叩きました。父親が私の顔を叩いたり,母親が私を叩くように言ったことは,それまで1度もなく,まるで誰かから,「連れて来るときは,叩いてでも連れてこい」と事前に言われていてそのシナリオ通りに行動しているかのような不自然な行動でした。私は両親,弟によって外に連れ出され,いつの間にか用意されていた見覚えのないワゴン車に乗せられました。そこには既に,親戚2~3人がいつの間にか待ち構えていました。当時私は両親を信頼しきっていたので,裏切られたことの精神的衝撃が大きく,父親に叩かれた辺りから殆ど無気力状態になり,抵抗することもできませんでした。
ワゴン車は荻窪に向かい,私は荻窪のアパートの2階に連れて行かれ監禁されました。後日聞いたところでは,当時宮村が使用していた拉致監禁専用の部屋には空きがなかったけれども,私が韓国に帰れば捕まえる機会がなくなるといことで,両親が急遽荻窪にアパートを借りて,拉致監禁を決行したのだそうです。同室の玄関ドアは,チェーンなどにより厳重に施錠されました。親族等は同室を出入りする際,その厳重な鍵をいつもカチャカチャと音を立て,しばらくいじってから開錠したり,施錠したりしていました。玄関前はいつもカーテンで仕切られていたので,この鍵の様子を見ることはできませんでしたが,二重,三重に厳重に施錠されていたことは間違い有りません。
私は2度目の監禁ということで,両親らに対する憤りが収まらず,両親等とは殆ど話をしませんでした。2~3週間後,埒が明かないので私は両親等に対して「会わせたい人がいるなら連れて来たらいい」と言いました。すると早速次の日,同室に宮村が来ました。しかし私は一切話しをしませんでした。すると宮村は,「何だい,威勢良く,会わせたい人がいるなら連れて来いと言っておきながら,だんまりか?」と言いました。この発言を聞いて,私の両親は私が前日言ったことをすぐに宮村に伝えたのだと思いました。また宮村は,西荻窪における第1回目の拉致監禁に関与したKY牧師やMという元信者が行っている脱会説得活動について,「あれは真似事をしているだけだ。俺はそんなあまっちょろくないぞ。いつまでも話さなければずっとこのままだ。時間は十分あるんだからいつまでも好きなだけ居ていいよ。両親だってそのつもりだ」と言いました。この発言を聞いた母は,大きく頷いていました。この日以降,私はショックと憤りとで,宮村は元より両親らとも6ヶ月間,一切口をきかなくなりました。宮村はこの日から2~3回くらい来て毎回1~2時間滞在して私に話をしていきましたが,私がしゃべらないため,その後ピタッと来なくなりました。
(2)荻窪フラワーホームでの監禁
2,3ヶ月経った後,私は両親から「他に部屋があるからそっちに移る」と言われ,車で杉並区荻窪3-47-15にある荻窪フラワーホームというマンションの一室に移されました。この時車を運転したのは全く知らない人でした。車での移動時間は約10分程度でした。監禁されたのは,同マンションの確か5階の部屋だったと思います。この部屋は2LDKで,後藤徹さんが監禁されていたという,同マンション804号室と全く同じ作りでした。私はベランダに面した奥の部屋に常駐させられ,隣のトイレまでは行くことが許されましたが,その先には行くことを許されませんでした。
同室の玄関ドアは内側から厳重に施錠され,両親が持っていた鍵がないと開けられないようにされました。ベランダ側の窓は,雨戸がいつも閉まっていてまったく光が入らないようになっていました。また,雨が降っても風が吹いても,この窓からは何の音も聞こえませんでした。ベランダに段ボールか何かを積み上げるなど,音が遮断されるような仕組みにしていたのだと思います。
もう片方の窓は,セロハンのようなもので覆われ,中からは外が見えないように,また,外からは中が見えないようにされていました。
移動してしばらくすると,宮村峻が元信者を数人引き連れて私の様子を見に同室に来ました。宮村は私に話をさせようとして,私や原研の徳野会長等の悪口を言って私の口を開かせようとしました。悪口は,主にシック(統一教会信者のこと)は馬鹿だとか,頭が働いていないというものでしたが,徳野会長については,徳野会長がかつて法廷で証言した時のことを捉えて「よくも恥ずかしげもなく,『私はシュバイツアーを尊敬している』などと言えるよね,あいつは馬鹿だわ」などと言っていました。
弟はこの時既に結婚しており,子供が2人いましたが,毎日仕事をせずに殆ど監禁部屋に詰めていたため,遂に妻から離婚を迫られるようになりました。このため,私に対しても苛立ちを隠せなくなり,私が常駐していた部屋に来てコタツの机の部分を何度もティッシュペーパーの箱で叩いて大きな音を出して私を威圧したり,私の髪を掴んで私の後頭部を何度も壁にぶつけて,私を痛めつけました。弟はそれほど家庭が大事なら,家に帰って妻子の面倒を見ればいいはずですが,恐らく宮村から厳命を受けており,自分の意思だけでは家に帰ることもできないようでした。弟は中学の頃,不良をしており,担任の先生に暴行を加え,頭蓋骨陥没の傷害を負わせたこともあった程なので,私はこのままでは自分も病院送りにされるのではないかと不安にかられました。また,6ヶ月間も監禁されていると,「統一原理が真理であろうがなかろうがもうどうでもいい」という気分にもなっていました。しかし,家族に対する憤りは収まらず,到底家族と話す気にはなれませんでした。そこで私は,「宮村が話すことがあるなら話す」旨伝えました。私は6ヶ月間喋らずにいたので,この頃になると口の神経が麻痺してしまい,声を出そうとしても,「ヒー」などの音になるだけで,うまく喋ることができませんでした。このため,私は筆談でこのことを伝えました。
翌日頃,さっそく宮村が部屋に来ました。宮村に話しかけられて声を出そうとしても,やはり「ヒー」などの音になってしまい,うまく喋れませんでした。すると宮村は私の髪の毛を掴んで流しまで私を連れて行き,水を流し始めました。これでうがいをしろということでした。しかしうがいをしても声が出るわけではなく,宮村に対しても筆談で意思を伝えました。普通に喋れるようになるには3日かかりました。
私が対話に応じるようになると,宮村はだいたい週に3回くらいの割合で元信者数人を引き連れて部屋に来るようになり,本格的な脱会説得を始めるようになりました。宮村の話は統一原理批判や文鮮明教祖の批判が主でしたが,宮村は時に私の肩をもって両親を批判し,「あんたの親はこんなことをするなんて馬鹿だねー」などと,あからさまに両親の批判をしました。宮村からどんなに批判されても,両親はただ首をうなだれて聞いているだけでした。この様子を見て,両親は宮村の言うことに対しては平身低頭で,一切逆らえないのだということが良く分かりました。
一切外出を許されない極度の緊迫感の中で監禁され続け,しかも宮村から一方的な教会批判を聞かされる中,だんだんと心理的ダメージが蓄積していきました。そして,統一原理を考えついたのは金百文という牧師で文鮮明師ではないという話を聞かされたときに,遂に私は保っていた信仰が崩れ落ち,統一原理は真理ではなく,文鮮明は偽メシアで,自分は統一教会によって騙されていてのだと思うようになり,信仰を失ってしまいました。この頃でも,「閉塞された環境の中で一方的に聞かされる話を鵜呑みに信じていいわけはない。もしかしたら,統一原理が真理かも知れない」と思うこともできたのですが,この頃になると,これ以上,宮村から人の悪口を聞かされたくないという思いが先立ち,統一教会の信仰を維持しようという力は萎えていました。そのくらい,人の悪口を聞かされることで,私の心は傷ついていました。
7 信仰を失って以降のマンションでのリハビリ生活
(1)リハビリ生活
宮村も私が信仰を失ったものと認定したようで,今度は日本基督教団の有馬牧師が同室に来て,聖書の話をするようになりました。信仰を失ってからもマンションでの生活はすぐには終わらず,「リハビリ」と呼ばれる生活が続きました。これは,統一教会の信仰で異常になった頭を正常に戻すという名目で行われるものです。リハビリ生活が始まっても直ぐには玄関ドアの厳重な施錠ははずされず,監禁状態が続きました。私は玄関ドアの厳重な施錠を見て,「いつまで犯罪人扱いするんだ」と憤る思いが生じたことがありました。
有馬牧師が通ってくるようになってから何週間か経った後,新宿にあった同牧師の教会で行われる日曜礼拝にも参加するようになりました。それまで殆ど外に出られなかったため,足の筋肉が落ち,ふくらはぎのふくらみがなくなっていました。
私が信仰を失って以降,宮村が部屋に来る回数は減り,宮村が来ない分,スタッフが部屋に訪問に来ました。部屋に来たスタッフには,今思い出せる限りで,Oという男性,A夫妻,TY,Mという女性,Yという女性,NI,それにSという男性がいました。宮村が最初からスタッフを連れて来る以外,宮村とスタッフとは決して時を同じくして訪問することはありませんでした。このため,誰がいつどの監禁部屋に訪問するかということは全て計画通りに行われていることが分かりました。スタッフは私の見ている前で宮村に連絡することは決してありませんでしたが,部屋を出た後などに必ず宮村の携帯に連絡を入れているようでした。宮村が夜部屋に来ていた際には,宮村はスタッフからの,「これからどこそこに行きます」,とか,「今終わりました」,などの連絡を携帯で頻繁に受け,これに対して宮村は,「あ,そう,うん,うん,ご苦労」などと受け答えしていました。スタッフが部屋に来たときには,自分達の経験談などを話していきました。皆,拉致監禁によって脱会した元信者でした。
リハビリ生活の間,私は他の監禁されていた信者の脱会説得の場に同席させられることが数回ありました。これも,宮村等が言うところの「リハビリ」の一環として行われるものでした。まだ信仰を保っている信者の,監禁され何の反論もできない情けない姿を直視させることで,「自分も信仰を持っているときはあんな状態だったのだ」ということを認識させ,社会復帰をするには引き続きリハビリが必要だと自覚させるのが目的だそうです。
訪問の際には,宮村の使いの信者がフラワーホームにやってきて,「今度だれそれの部屋に行きます」,という形で宮村の意向を伝えて来ました。今覚えている限りで,別のマンションの一室に監禁されていた女性信者の部屋に2回行き,宮村が行う脱会説得を後ろに座って聞かされました。宮村が先に行って脱会説得を始め,そこに後元信者が私を呼びに来て私が元信者と共に訪問するという手順でした。元信者の案内で部屋に行き,元信者が玄関ドアをトントンと叩くと,中で監禁されている統一教会信者の親が,玄関ドアに施してある特殊な施錠(チェーンと錠)を外して私達を中に入れました。そして,私達が中に入ると,再度厳重な施錠を施しました。これは,宮村等による脱会説得中に,監禁されていた信者が隙を見て脱出するのを防止するためです。その日の脱会説得が終わって宮村と共に部屋を出るときも,信者の親がまず玄関ドアの施錠(チェーンと錠)を外し,私達が外に出ると,改めて施錠をしていました。
(2)婚姻無効裁判の提起
ある時,宮村が部屋に来て私に対し,「祝福どうする?」と聞いてきました。既に入籍した韓国人の夫との関係をどう処理するかということでした。宮村が,離婚と婚姻無効裁判を提起する方法との2つの選択肢があると言うので,私は「離婚します」とだけ答えました。離婚の方が手続が簡単だと思ったからです。ところが,スタッフがやってきて,「本当にそれでいいの?もう少し考えた方がいい」と言われ続けました。このため私は,婚姻無効裁判を起こさない限り,リハビリ生活からは解放されないのだと気付きました。そこで私は意に反して婚姻無効裁判を提起することに同意しました。裁判は,宮村の知り合いの紀藤正樹弁護士に委任することとなりました。紀藤弁護士と会うときは,両親の付き添いで紀尾井町にある紀藤弁護士の事務所に行きました。
(3)西央マンションでの忘年会
1996年の年末頃,私は西央マンション301号室で行われた忘年会に参加しました。西央マンション301号室は杉並区南荻窪4-11-10にあり,常時スタッフの誰かが待機しているスタッフルームのような部屋でした。同室は拉致監禁の順番待ちをしている父兄のための教育に使用されたり,あるいは,臨時にリハビリ中の人に使用させるなどしていたようです。私の親族も同室にて教育を受けたようです。
忘年会には,スタッフとして脱会説得活動に携わっていた元信者,スタッフではないもののリハビリが終わった元信者,及びリハビリ中の元信者の併せて約20名が参加しました。スタッフの何名かは,タップという宮村が経営する広告代理店で働いていましたので,宮村とは常時脱会説得活動に関して連絡を取り合っている様子でした。スタッフの宮村に対する信奉心は強固で,統一教会の信仰を止めた代わりに宮村信仰を始めたのではないかと思える程でした。
リハビリ中の元信者には,SHさんという女性,Sさんという■■の女性,■■のKMさんという女性,名前は思い出せませんが,バレイをしていた女性などがいました。私と同時期にリハビリ中の人達が少なくとも4人,また,信仰をもったまま脱会説得中の人が少なくとも1人(監禁中の後藤さん)いたことを考えると,私が居た部屋と併せて監禁専用の部屋が最低6箇所はあったことと推定されます。私が荻窪フラワーホームに移される前に監禁されていたアパートのような,監禁専用部屋でない部屋は,緊急の時以外利用しないからです。
当時はこうして,いつも誰かがどこかの監禁専用部屋に監禁され,脱会するとリハビリを受け,それが終わるとまた次の人が同じ部屋に拉致監禁され,脱会説得を受ける,ということがほぼ流れ作業的に繰り返し行われていました。
(4)後藤さんの部屋での脱会説得
1998年に入ってから,他の信者の脱会説得に加わるという趣旨で,同じフラワーホームの804号室に1回行きました。同室には後藤徹さんが監禁されていましたが,後藤さんについては以前から,数年間監禁されている人がいることをスタッフから聞かされていました。この日も宮村が先に行って脱会説得を始めた後,元信者が部屋に私を呼びに来ました。私と元信者とは階段を上って804号室に行き,元信者が玄関ドアをトントンと叩くと,後藤さんの親族が,玄関ドアに施してある特殊な施錠(チェーンと錠)を外して私達を中に入れました。私達が中に入ると,再度後藤さんの親族は厳重な施錠を施し,後藤さんが逃げられないようにしました。同室で後藤さんは,宮村から罵詈雑言を浴びせられる中,ひたすら首をうなだれていました。私は人格を否定するような悪口を聞くのが嫌で,スタッフのような立場で脱会説得活動に加わることだけは避けたいと思っていたので,後藤さんに対する脱会説得には殆ど加わりませんでした。
その日の脱会説得が終わって宮村と共に部屋を出るときも,後藤さんの親族がまず玄関ドアの施錠(チェーンと錠)を外し,私達が外に出ると,改めて施錠をしていました。
(5)リハビリ生活からの解放
婚姻無効裁判を提起して以降,宮村が部屋に来ることは殆どなくなり,スタッフが時折訪問に来るだけとなりました。ある時父は,「いつまでここに居るのかねー?」と言いました。すると母がたしなめるように,「全部宮村さんに委せておけばいいのよ」と言いました。この頃までには,両親には何の権限もなく,宮村の言いなりということは分かっていましたが,両親はリハビリ生活が継続する理由を知っているものと思っていましたので,それすら知らされていないことが分かって私は驚きました。
その後私は,部屋に訪問に来るスタッフに対して,私は何で部屋から解放されないのか,と聞くようになりました。すると彼らは,最初のうちは,「もう少し頭を正常に戻さないと」などと様々な理由をつけていました。しかし,私の頭は正常に働いており,遂にこのような口実は通用しなくなっていました。すると遂にスタッフは「そしたら宮村さんに直接聞いてみたら?」と言いました。その何日か後,私は弟と共に西央マンション301号室に行きました。するとスタッフが5~6人おり,そこに宮村が来たので,私は宮村に対して,「どうして私はまだマンションを出られないんですか?」と聞きました。私はこのように反抗的な態度をとった場合,「まだお前の頭は治っていない」と言われてリハビリ生活が長引くのが恐ろしく,このようなことを聞くのも心臓がドキドキしました。私の問いに対し宮村は,なだめるような感じで色々と遠回しに理由付けをしていましたが,要は,「外に出たら夫の元に戻るかも知れないので,婚姻無効裁判が終わるまではだめだ」ということでした。結局,リハビリ生活から解放するか否かの決定権は宮村がもっており,宮村の許可なしには,スタッフも親も何もできないシステムになっているのでした。拉致監禁の決行までの教育の期間に統一教会信者の親族等はこのようなシステムに則った行動をとるよう徹底した教育を受けていたようです。
いつしか玄関ドアの厳重な施錠はなくなり,弟は自分の家に帰り,父は仕事に行くようになりました。こうして,部屋では母と2人だけになりましたが,逃走して再度捕まった場合,「また監禁される」という恐怖心から,逃げ出すことはできませんでした。
1998年9月頃,婚姻無効の判決が出て裁判が終わると,私は2年7ヶ月ぶりに荻窪フラワーホームから解放されました。
8 荻窪フラワーホームから解放後の経緯
荻窪フラワーホームから解放された後,有馬牧師の教会が所有していたマンションの一室を借りて生活することになりました。監禁によって脱会した信者は,誰でも最初は精神的に不安定になり,一人暮らしをすることが難しいので,多くの場合,宮村の家の近くで生活するか,実家に帰って両親と一緒に生活しました。ところが私の場合,監禁によって両親との関係は最悪になり,私が両親を毛嫌いしたため,到底両親と一緒には住めませんでした。また宮村も人間的に好きになれなかったため,宮村の家の近くにも住みたくはありませんでした。宮村のことが人間的に好きになれなかった理由は,あからさまな拉致監禁をしておきながら,「保護,救出」などと言い換えて詭弁を用いていたこと,脱会説得中の人格攻撃が激しいことからです。
マンションで一人暮らしをするようになってからは,軽いうつ病になりました。今までの価値観が全く否定され,善悪の基準がなくなり,ずいぶんと不安定な状態でした。このため,なるべく早く社会復帰ができるようにと外を歩き回りながら身体を健康に戻しつつ,就職活動をしました。
9 統一教会に戻った経緯
マンションから解放されてすぐに,私は同じ3万双の国際合同結婚式に参加し,当時韓国で生活していたKさんという友人の信者に電話しました。私は既に信仰を失ってはいましたが,私がいきなり失踪して2年7ヶ月も連絡がないままだったので,心配しているだろうと思ったからです。この友人との電話でのやりとりは,私にとっては大きな心の支えになりました。精神的に不安定で眠れないときなどは,夜中に6時間も電話で話したことがあります。
1999年1月から,医大受験生のための添削を主な業務とする株式会社■■という会社に就職し,同年7月には同社の経営者が経営する姉妹会社である株式会社サビーズにて貿易関係の仕事をしました。同社は日韓貿易も行っており,韓国支社を開設する計画があったため,同社社長の勧めで延世大学に9ヶ月間語学留学しました。ところが,同社の韓国支社開設計画が頓挫したため,卒業と共に私は民団系の新聞社で勤務したり,翻訳会社に勤務して時事翻訳をしたりしましたが,その後独立し,フリーランスで翻訳の仕事をしました。
一方,新宿西教会には1999年半ばまで通いましたが,だんだんとキリスト教に魅力を感じなくなり,韓国に語学留学してより後は,仏教系の道場に通ったり,テソン真理教という仏教家の新興宗教団体に通ったりもしましたが,どこに行っても心が満たされることはありませんでした。そこで私は山に籠もってひっそりと修道生活を送りたいなどと思うようになりました。
こうした中,Kさんに何か良い仕事がないか尋ねたところ,丁度,山の中にある清平修練苑という統一教会系の修練所でアルバイトを募集しているとのことでした。そこで当時私は統一教会の信仰を持っていたわけではないにもかかわらず,清平修練苑の面接を受け,アルバイトをするようになりました。同所にて生活する中,やはり私の真理に対する渇望を満たしてくれる教えは統一原理以外にはないと気づき,再度統一教会の信仰を元返すようになりました。
10 水茎OB会について
監禁からの解放後,実家に水茎OB会から,会費の払込用紙や会費の納入を呼びかける書簡,会合の案内が届くようになりました。水茎OB会というのは,子弟の脱会に成功した父兄の集まりで,封筒に記された住所は,前記西央マンション301号室になっていました。年会費は1万円で,会費の納入を呼びかける書簡によると,宮村(「Mさん」ないし「M様」と記載)による「救出活動」のために会費は使われているとのことでした。
両親が健在だった頃は,やはりまた監禁されるのではないかと不安になったことはよくあります。今は,父は亡くなり母も入院生活ですのでその心配はなくなりました。
2009年12月10日,私は西央マンションを見に行きました。集合ポストの301号室には「S」の名義が記されていました。「S」という姓はとても珍しいので,たぶん,私と同時期にリハビリをしていたSHさんの親御さんの名義を現在は部屋の借り主として使用しているのだと思います。
以上
2012-06-04(Mon)
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年貢の納め時
すごい証言が出てきましたね~。
2度の監禁を経験し、監禁中の徹さんがいるマンションに行った…。
こんな人の証言が出てくるとは………………、びっくりです。
恐らく被告家族も宮村、山口もびっくりでしょう。
終わりましたね、宮村らは。
宮村らがこれまでしてきた説明によると…、
・原告(徹さん)が「話したい」と言ってきたので宮村がマンションに行った
・マンションは統一協会の襲撃に備えて家族が鍵をかけていた
・原告は話し合いに応じたが、のらりくらりと話をはぐらかした
ところが、実際は…。
<1998年に入ってから,他の信者の脱会説得に加わるという趣旨で,同じフラワーホームの804号室に1回行きました。同室には後藤徹さんが監禁されていましたが,後藤さんについては以前から,数年間監禁されている人がいることをスタッフから聞かされていました。この日も宮村が先に行って脱会説得を始めた後,元信者が部屋に私を呼びに来ました。私と元信者とは階段を上って804号室に行き,元信者が玄関ドアをトントンと叩くと,後藤さんの親族が,玄関ドアに施してある特殊な施錠(チェーンと錠)を外して私達を中に入れました。私達が中に入ると,再度後藤さんの親族は厳重な施錠を施し,後藤さんが逃げられないようにしました。同室で後藤さんは,宮村から罵詈雑言を浴びせられる中,ひたすら首をうなだれていました。私は人格を否定するような悪口を聞くのが嫌で,スタッフのような立場で脱会説得活動に加わることだけは避けたいと思っていたので,後藤さんに対する脱会説得には殆ど加わりませんでした。
その日の脱会説得が終わって宮村と共に部屋を出るときも,後藤さんの親族がまず玄関ドアの施錠(チェーンと錠)を外し,私達が外に出ると,改めて施錠をしていました>
考えてみれば、統一協会の襲撃に備えて鍵をかけた、といっても、鍵をかけたのはいつも家族。徹さんはいつも奥の部屋にいた、って、変ですよね~。
ウソが全部ばれちゃいましたね~。
ついに、年貢の納め時だ。
2度の監禁を経験し、監禁中の徹さんがいるマンションに行った…。
こんな人の証言が出てくるとは………………、びっくりです。
恐らく被告家族も宮村、山口もびっくりでしょう。
終わりましたね、宮村らは。
宮村らがこれまでしてきた説明によると…、
・原告(徹さん)が「話したい」と言ってきたので宮村がマンションに行った
・マンションは統一協会の襲撃に備えて家族が鍵をかけていた
・原告は話し合いに応じたが、のらりくらりと話をはぐらかした
ところが、実際は…。
<1998年に入ってから,他の信者の脱会説得に加わるという趣旨で,同じフラワーホームの804号室に1回行きました。同室には後藤徹さんが監禁されていましたが,後藤さんについては以前から,数年間監禁されている人がいることをスタッフから聞かされていました。この日も宮村が先に行って脱会説得を始めた後,元信者が部屋に私を呼びに来ました。私と元信者とは階段を上って804号室に行き,元信者が玄関ドアをトントンと叩くと,後藤さんの親族が,玄関ドアに施してある特殊な施錠(チェーンと錠)を外して私達を中に入れました。私達が中に入ると,再度後藤さんの親族は厳重な施錠を施し,後藤さんが逃げられないようにしました。同室で後藤さんは,宮村から罵詈雑言を浴びせられる中,ひたすら首をうなだれていました。私は人格を否定するような悪口を聞くのが嫌で,スタッフのような立場で脱会説得活動に加わることだけは避けたいと思っていたので,後藤さんに対する脱会説得には殆ど加わりませんでした。
その日の脱会説得が終わって宮村と共に部屋を出るときも,後藤さんの親族がまず玄関ドアの施錠(チェーンと錠)を外し,私達が外に出ると,改めて施錠をしていました>
考えてみれば、統一協会の襲撃に備えて鍵をかけた、といっても、鍵をかけたのはいつも家族。徹さんはいつも奥の部屋にいた、って、変ですよね~。
ウソが全部ばれちゃいましたね~。
ついに、年貢の納め時だ。
弟さんの愛
迫力ある陳述書でした。
迫力あるという印象を受けたのは、事実をありのままに淡々と綴ってあるからだと思います。
みんなさんが「年貢の納め時」と書かれたのはその通りで、監禁されていたという物証がない裁判で、監禁されている後藤さんを「見た」という陳述は決定的。宮村らに少なからずの衝撃を与えたのは間違いないでしょう。
この衝撃は、同じように証拠なき和歌山の毒カレー事件の裁判で、容疑者が砒素を鍋に入れるところを見たという証言が飛び出したのと匹敵するレベルです。
後藤兄弟側がこの陳述を否定しても裁判にはほとんど影響しません。それは毒カレーの容疑者が「砒素は入れていません」を繰り返すのと、何ら変わりがないからです。
よって、すでに書面が提出されているかもしれませんが、被告側は全力で、この陳述内容を否定する作業に取り組んでいると思います。
しかしながら、陳述者の「監禁下の後藤を見た」という陳述を覆すのは、とても難しい。よって、法廷外工作を行ってくる可能性があります。
要注意です。
ところで、やや枝葉のことになります。
陳述者の次の見方は皮相です。
>弟はこの時既に結婚しており,子供が2人いましたが,毎日仕事をせずに殆ど監禁部屋に詰めていたため,遂に妻から離婚を迫られるようになりました。このため,私に対しても苛立ちを隠せなくなり,私が常駐していた部屋に来てコタツの机の部分を何度もティッシュペーパーの箱で叩いて大きな音を出して私を威圧したり,私の髪を掴んで私の後頭部を何度も壁にぶつけて,私を痛めつけました。弟はそれほど家庭が大事なら,家に帰って妻子の面倒を見ればいいはずですが,恐らく宮村から厳命を受けており,自分の意思だけでは家に帰ることもできないようでした。
宮村の厳命を受けたからといって、弟さんが愛する妻子と別れるようなことはしないはずです。
もし、厳命→その結果離婚を受容するようなことが事実ならば、まさに宮村のロボットということになってしまい、被告側の主張=後藤はマインドコントロールされている=と、通底してしまいます。
偉そうでごめんだけど、私が何度も繰り返しているカルトと反カルトとの近似性を想起すべきです。
弟さんは、水茎会の勉強会などで宮村にこう問われたはずです。
「家族を愛しているか。姉を愛しているか。その愛は絶対か」
わざわざ仕事を休んで、宮村に会っているのですから、弟さんはかなりの程度で陳述者である姉を愛していたと思います。
そこで、回答はイエス。
宮村は畳みかけるように、「お姉さんを愛しているのなら、保護説得する以外にない。保護の場所に常時複数の人たちがいないと、統一教会からマインドコントロールされているお姉さんは逃げてしまう。それを防ぐ覚悟はあるのか」と、話したはず。
そうなると、弟さんには葛藤が生まれます。
<常時監禁場所にいるとなると、妻子との生活を犠牲にしなければならない。そうなると・・・>
姉も愛している。妻も子も愛している。どうすればいいのか。
葛藤はかなりのものだったはずです。
結果として弟さんは姉を脱会させる生活を選んだ。
でも、選択したからといって、葛藤がなくなるはずはない。
それゆえ、監禁が長引くにつれ、葛藤は苛立ちに変わり
<早く脱会してくれれば、俺は妻と子のところに戻ることができるのだ>
と、つい、陳述者に暴力を振るうようになったのだと思います。
こうした弟さんの心のヒダヒダを、想像力をもって理解せず、「宮村の厳命」という表層的な分析で終わりにするのなら、弟さんはあまりにも気の毒です。
強いて宮村と弟さんとの関係を言えば、カルト宮村の二分法の罠に弟さんは嵌められたということでしょう。
ちなみに、山崎浩子さんを脱会説得したお姉さんも、夫と子どもとの生活を犠牲にして、監禁下のマンションで浩子さんと生活を共にしました。その結果、結局のところ離婚となりました。お姉さんは、その後、心療内科に通院していたことがあります。ご存知でしょうが。
迫力あるという印象を受けたのは、事実をありのままに淡々と綴ってあるからだと思います。
みんなさんが「年貢の納め時」と書かれたのはその通りで、監禁されていたという物証がない裁判で、監禁されている後藤さんを「見た」という陳述は決定的。宮村らに少なからずの衝撃を与えたのは間違いないでしょう。
この衝撃は、同じように証拠なき和歌山の毒カレー事件の裁判で、容疑者が砒素を鍋に入れるところを見たという証言が飛び出したのと匹敵するレベルです。
後藤兄弟側がこの陳述を否定しても裁判にはほとんど影響しません。それは毒カレーの容疑者が「砒素は入れていません」を繰り返すのと、何ら変わりがないからです。
よって、すでに書面が提出されているかもしれませんが、被告側は全力で、この陳述内容を否定する作業に取り組んでいると思います。
しかしながら、陳述者の「監禁下の後藤を見た」という陳述を覆すのは、とても難しい。よって、法廷外工作を行ってくる可能性があります。
要注意です。
ところで、やや枝葉のことになります。
陳述者の次の見方は皮相です。
>弟はこの時既に結婚しており,子供が2人いましたが,毎日仕事をせずに殆ど監禁部屋に詰めていたため,遂に妻から離婚を迫られるようになりました。このため,私に対しても苛立ちを隠せなくなり,私が常駐していた部屋に来てコタツの机の部分を何度もティッシュペーパーの箱で叩いて大きな音を出して私を威圧したり,私の髪を掴んで私の後頭部を何度も壁にぶつけて,私を痛めつけました。弟はそれほど家庭が大事なら,家に帰って妻子の面倒を見ればいいはずですが,恐らく宮村から厳命を受けており,自分の意思だけでは家に帰ることもできないようでした。
宮村の厳命を受けたからといって、弟さんが愛する妻子と別れるようなことはしないはずです。
もし、厳命→その結果離婚を受容するようなことが事実ならば、まさに宮村のロボットということになってしまい、被告側の主張=後藤はマインドコントロールされている=と、通底してしまいます。
偉そうでごめんだけど、私が何度も繰り返しているカルトと反カルトとの近似性を想起すべきです。
弟さんは、水茎会の勉強会などで宮村にこう問われたはずです。
「家族を愛しているか。姉を愛しているか。その愛は絶対か」
わざわざ仕事を休んで、宮村に会っているのですから、弟さんはかなりの程度で陳述者である姉を愛していたと思います。
そこで、回答はイエス。
宮村は畳みかけるように、「お姉さんを愛しているのなら、保護説得する以外にない。保護の場所に常時複数の人たちがいないと、統一教会からマインドコントロールされているお姉さんは逃げてしまう。それを防ぐ覚悟はあるのか」と、話したはず。
そうなると、弟さんには葛藤が生まれます。
<常時監禁場所にいるとなると、妻子との生活を犠牲にしなければならない。そうなると・・・>
姉も愛している。妻も子も愛している。どうすればいいのか。
葛藤はかなりのものだったはずです。
結果として弟さんは姉を脱会させる生活を選んだ。
でも、選択したからといって、葛藤がなくなるはずはない。
それゆえ、監禁が長引くにつれ、葛藤は苛立ちに変わり
<早く脱会してくれれば、俺は妻と子のところに戻ることができるのだ>
と、つい、陳述者に暴力を振るうようになったのだと思います。
こうした弟さんの心のヒダヒダを、想像力をもって理解せず、「宮村の厳命」という表層的な分析で終わりにするのなら、弟さんはあまりにも気の毒です。
強いて宮村と弟さんとの関係を言えば、カルト宮村の二分法の罠に弟さんは嵌められたということでしょう。
ちなみに、山崎浩子さんを脱会説得したお姉さんも、夫と子どもとの生活を犠牲にして、監禁下のマンションで浩子さんと生活を共にしました。その結果、結局のところ離婚となりました。お姉さんは、その後、心療内科に通院していたことがあります。ご存知でしょうが。
紀藤弁護士 = 拉致監禁グループの一員
<本文より引用>
> 婚姻無効裁判を起こさない限り,リハビリ生活からは解放されないのだと気付きました。そこで私は意に反して婚姻無効裁判を提起することに同意しました。
> 裁判は,宮村の知り合いの紀藤正樹弁護士に委任することとなりました。紀藤弁護士と会うときは,両親の付き添いで紀尾井町にある紀藤弁護士の事務所に行きました。<引用終わり>
紀藤弁護士、テレビ、記者会見といろんな所に出てきますが、MKさんが脱会に至った様子(拉致監禁)について知らないはずはないですよね。自由報道協会でおこなった「カルト新聞」記者会見で、紀藤弁護士も会見しています。私のブログで、今、連載で扱っています。
http://humanrightslink.seesaa.net/
> 婚姻無効裁判を起こさない限り,リハビリ生活からは解放されないのだと気付きました。そこで私は意に反して婚姻無効裁判を提起することに同意しました。
> 裁判は,宮村の知り合いの紀藤正樹弁護士に委任することとなりました。紀藤弁護士と会うときは,両親の付き添いで紀尾井町にある紀藤弁護士の事務所に行きました。<引用終わり>
紀藤弁護士、テレビ、記者会見といろんな所に出てきますが、MKさんが脱会に至った様子(拉致監禁)について知らないはずはないですよね。自由報道協会でおこなった「カルト新聞」記者会見で、紀藤弁護士も会見しています。私のブログで、今、連載で扱っています。
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