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後藤徹氏 拉致監禁(保護説得)関連 年表

陳述書や、準備書面のやりとりがつづいたが、ここで双方の言い分の食い違いや、出来事を整理するため、後藤徹氏の監禁事件を中心にまとめた年表を作成してみた。
この年表は、今まで裁判所に提出された双方の陳述書等をもとに作成されたものである。
特に双方の言い分が食い違う点については、移動については、後藤氏の主な抗議行動についてはで記載した。
後藤徹氏 拉致監禁(保護説得)関連 年表
年月日起こったこと備考
1931年11月25日・後藤氏父誕生 
1932年12月10日・後藤氏母誕生 
1943年8月29日・松永牧師誕生(新潟県) 
1944年8月・宮村氏誕生 
1960年3月28日・後藤氏兄誕生 
1963年11月2日・後藤徹氏誕生 
1965年・兄嫁誕生(新潟市) 
1967年2月14日・後藤氏妹誕生 
1971年・松永牧師:日本基督神学校卒業 
1971年4月・松永牧師:日本同盟基督教団新津福音 キリスト教会牧師就任 
1973年9月・宮村氏:明治大学法学部卒業・卒業後からタップ設立まで(株)日制に勤務。
1977年10月・宮村氏:(株)タップ設立 
1982年10月・宮村氏:退職し、同名(株)タップ設立 
1982年・宮村氏:統一教会女性信者と両親の相談にのる。(森山牧師に頼まれる)・宮村氏は荻窪栄光教会の聖書の勉強に通っていた。
 ・家族の会水茎会ができる。 
1982年3月・兄:芝浦工業大学工学部建築学科卒業 
 ・兄:(株)安藤建設就職・建築設備の設計、現場管理、積算などの仕事を担当
1984年9月~・宮村氏:統一教会相談にのる。 
1985年~・松永牧師:統一教会と関わる。 
1986年・松永牧師:荻窪栄光教会森山牧師の元を訪ねる。 
1986年3月・兄:街頭アンケート→統一教会ビデオセンターに行き始める。 
1986年6月・兄嫁:友人YYさんから統一教会に勧誘される。 
1986年8月31日・徹:兄に呼び出されて御徒町ビデオセンターに連れていかれる。・徹:大学4年生
1986年秋・妹:兄から会いたいと連絡。町田駅側にあるビデオセンター入会。・短大側の町田の寮で生活。両親は大阪の社宅
1986年11月・兄:献身したいと両親を説得 
 ・両親がキリスト教会に通っていた母の弟に統一教会のこと聞く・両親:3人教会に入っていることを知る。
1986年11月・妹2days参加。(29~30日)・宮崎台研修センター
1986年12月・妹:ライフトレ通いで参加。・4~16日 ライフトレ中、家系図を書かされ、数百万の霊石を授かるように言われるが、授からず。
1986年12月・妹:兄に誘われ、着物の展示会に行き、着物購入。 
1986年12月・妹4days(21~24日)参加。 
1986年12月・兄統一教会入信。会社退職。 
1987年初旬・兄献身。・伝道機動隊副隊長
1987年1月・後藤両親:森山牧師を訪ねて、荻窪栄光教会にくる。 
1987年2月・妹:新トレ参加。 
 徹と妹:母から大阪の牧師の話しを聞いてほしいと言われた。(第8次長の指示でトイレにいくふりして逃げた) 
1987年3月・徹:日大理工学部建築学科卒業 
1987年3月~4月・妹:田中千代学園短大服飾科卒業→専門学校専攻科入学 神奈川第3→東京第8に移動 飯田橋の春日研修センターの新トレに通いで参加。・保谷の自宅一人暮らし(兄から3人献身すると両親の反対が強くなるからと言われ、働きながら通うことにした。)
1987年4月・徹:(株)大成建設入社・御徒町ホームより通勤
1987年5月・兄脱会。(統一教会に通知せず)・1月位大阪の両親の元で生活。その後荻窪のアパートで一人暮らし。
1987年夏(?)・宮村:尾島氏(森山牧師の友人)が神戸で兄と話している。依頼されて兄と2時間話す。 
1987年10月・兄:荻窪栄光教会に通う。(毎日)水茎会にも参加。・精神のリハビリ目的
 ・両親と兄が宮村の元に挨拶に来る。 
1987年10~11月・徹:京王プラザホテルに監禁される。 
 3日後、偽装脱会。1週間後、荻窪のマンションに監禁。父(最初だけ)、母と荻窪栄光教会に通う。 
 ・徹:荻窪栄光教会礼拝中脱出。 
1987年11月下旬・鈴木祐司と偽名で第10で潜伏生活。会社は退職。 妹と池袋で1度会っている。・兄:父が徹上司に話していて、欠勤扱いではなかった。荻窪に通っていた頃、兄と徹で会社の上司と会っている。徹と主張が食い違っている。
1987年12月・妹:越谷の4days参加。(12月31~1月3日) 
1988年2月・兄(株)タップ就職。 
1988年3月~4月・妹:専門学校卒業。(株)エコー就職。(渋谷)青年部に行く・母が妹宅に1月おきに来て家事をする。統一教会、兄の話しは全くせず。
1989年3月・妹:荻窪のマンションに拉致監禁。・3ヶ月のマンション共同生活(1ヶ月:統一教会の誤りに気付く。2ヶ月:外出、外食しながら過ごす)
 ・妹:退職する。 
1989年4月・妹:宮村と話す。(5,6回) 
 ・妹、脱会する。 
1991年1月・兄嫁:新潟に帰省する。→松永牧師と話す。宮村とも2日間話す。→脱会する。 
 ・脱会後、上京する。・兄嫁:統一教会を訴える。(新潟)→勝訴
1991年2月・妹、兄:保谷の実家で生活 
1991年2月末・両親、兄、妹:保谷で暮らす・徹:両親へ電話連絡
1991年4月4日・兄:損害賠償請求訴訟(40名)・東京地裁
1991年春・兄と兄嫁が出会う。 
1992年・父→徹「もうあんなことしない」と明言。・徹と家族の交流再開。 
 ・徹より8月の3万双を受けるつもりと家族に話す。・父:統一教会会長の神山威、第10教会長SYに家族が徹の祝福を反対しているということを記載した文書を内容証明で送る。徹:電話、手紙、誕生日のプレゼントを贈るなど、家族との関係回復のため努力する。
1992年春・妹:立教大学内書店勤務。
1992年8月・徹:3万双祝福受ける。
1993年・徹:実家に来て、一緒に夕食を食べるようになる。
1993年・兄:半年の間、1~2週に1度徹の所属していた葛西のビデオセンターに2時間位話しに行く。・父も徹のアベルに会って話している。(時期はもっと早いかも。)
1993年・徹:父を統一教会のイベントに誘う(兄、妹は誘わず。) 
1994年・徹:2ヶ月に1回実家に帰ってくる。・陳述書にはないが、徹の相対者はこの頃脱会
1995年・徹:毎月実家に戻ってくる。 
1995年1月16日・兄:兄嫁結婚。 
1995年2月・両親、徹、妹:父の会社の保養所のある葉山に1泊旅行。 
1995年初夏・父より松永牧師の元に電話。両親が家族の相談会に参加。・兄嫁陳述書では、4月から半年かけて5~6回通うとある。兄陳述書は全て初夏とまとめられている。
1995年6月・両親、兄、兄嫁:5~6回新津教会に通う。
1995年6月か7月・両親、兄、兄嫁、妹:徹の話し合いを新潟で行うことにしたと、宮村に伝える。(1995年当時(株)タップ6名社員でうち3名が元信者。兄は重要なクライアントを担当していた。)・家族は、徹が家庭を持つ前に話し合いたいと思っていた。家族だけで腰を据えて話し合える場所を用意することが不可欠、徹が東京で活動していたので、統一教会に邪魔されない離れた場所がいいのではないか、と考えた。
1995年8月・徹:36万双祝福受ける。・新潟に兄嫁の祖父が所有していたマンションあり。祖父死後、叔母が住んでいたが、仙台に引っ越したため、空き家。兄嫁母が叔母と交渉し、父が借りるてはずを行う。
1995年8月・妹:仕事を辞める。
1995年9月11日・徹:帰宅し、自宅で1時間半話し、新潟へ。
 (ワゴン車に乗った際の主張は、徹は拉致、家族は同意と主張)・宮村は一度徹と話したことあるので、兄嫁と面識のあった松永牧師に依頼することとした。
 ・途中、ガソリンスタンドに寄る。
 ・車中、徹は簡易トイレで用を足した。 
1995年9月12日・話し合いが始まる。兄は1泊か2泊して東京に帰る。 
 ・伯父が1ヶ月滞在。 
 ・徹が家族に原理講義 
1995年10月・父より松永牧師に話し合い依頼。その翌日か翌々日より元信者を連れて行く。 
 ・週3日合計20~30回。 
1995年末・兄嫁体調崩したため、マンションを出て、新潟の実家で生活。アルバイトする。たまに新座の実家に帰る。新潟のマンションにも時々顔を出す。 
1995年12月・徹:脱会表明。松永牧師より手記を書くよう勧められ、10枚程書く。・松永牧師:来なくなる。
1996年3月・徹:脱会の意思の手紙を所属していた教会の責任者あてに書く。父と兄で十条のホームに荷物を引き取りに行く。 
1996年3月・父、心筋梗塞で倒れる。新潟市民病院で心臓バイパス手術。退院後は東京の自宅で療養生活。時々母が様子をみに帰っていた。・父:退院後、療養しながら監査役として時々会社に出る。
 (この間、徹と妹2人だけのことが多かった。) 
1996年末・徹もう脱会届けを書いて1年もたつのに、どうして散歩もさせてくれないのか、と家族を責める。・父、徹の様子をみに時々新潟に来る。(何泊かしたのみ。)
1997年初め・上記のようなことは言わなくなる。
1997年3月・父:肝臓癌。余命3ヶ月~半年。(兄が徹に告げる。)・妹の陳述書は4月、兄嫁陳述書では5月となっている。
1997年4月・両親:宮村を訪ね、父の病状報告。徹は偽装脱会をしている。もう一度、徹と話し合いをして欲しいと依頼。・父:病状が回復した時のために荻窪にマンションを用意していた。
1997年5月26日・父:川越の帯津三敬病院入院 
1997年6月22日・父:死去。東京の自宅でワゴン車で行く。自宅で父の遺体と対面。→荻窪プレイス605に移動。・徹:財布、免許証、現金を新潟に置いたまま。兄嫁、妹は父が荻窪にマンションを用意したことを知らなかった。
1997年12月・荻窪フラワーマンション804号室移動。 
 ・徹:移動後、間もなく偽装脱会していたことを告白。・徹脱出試みたが兄にとり押さえられる。(家族は否定)
1997年12月末・兄:宮村に、徹が話しをしたいと言っているので、来てほしいと電話。・徹をはじめ家族がインフルエンザにかかるが、徹は医者に行かせてもらえず。 
1998年1月~9月・宮村:元信者数人と来る。・徹:18時~20時、最初の頃は毎日(計73回)
・妹:週4日(平日)17時半から20時。
1998年2月か3月・松永牧師が来る。(やりとり内容は徹、牧師、家族で違う)・兄嫁:最初の1ヶ月週3日(平日)18時~20時。それ以降、週1~2回。4~5ヶ月した頃は2週に1回。
・1998年9月以降、元信者のみで訪問していた時あり。
  ・MKの陳述書によれば、1998年、脱会したMKが、フラワーホーム804号室を訪れる。玄関に特殊な施錠(チェーンと錠)が施されているのを目撃 
1998年4月・南京錠(統一協会員による話し合いの妨害を防ぐためにした)を取り付けるのをやめる。(兄陳述書)
1998年9月・徹「統一教会が出鱈目で文がメシヤでないことがわかった。でも、活動は続けたい。」と宮村に言う。(宮村陳述書には10月と記載)宮村「これ以上話し合ってもしょうがない」兄「きちんと客観的に統一教会問題に取り組む姿勢ができるまで家族で対応します」これ以後、宮村説得に来なくなる。 
1999年3月3日・兄:統一教会に賠償金を支払わせる。和解を勝ち取る。 
1999年5月・テレビが入ってくる。 
2000年1月・「現在用語の基礎知識」入る 
 産経新聞、後に東京新聞が定期的に支給。 
  ・2000年3~6月:壁の改修工事
  ・2000年7月:クーラーの修理
  ・2000年8月、神戸真教会 高澤守牧師民事裁判敗訴
2001年1月末・兄:(株)タップ退職。・業績がおもわしくない
 ・兄嫁:体調崩し、新座のマンションで生活。 
2001年2月・兄:残務整理。兄がマンションに常駐するようになる。 
 ・脱出試みてもみ合いになる。1か月抗議行動をする。その間宮村が2回来る。・脱出試みは家族否定。徹が暴れただけと主張。この2回目が宮村最後の訪問。2回の訪問は宮村は否認。
 ・徹:奥の部屋から家族を追い出す。寝食別にする。 
2001年9月12日・1987年脱会説得時に会ったことがあるという脱会説得専門家が1日だけきて説得。 
  ・2002年6月:給湯管の検査、水漏れ調査
  ・2002年7月:給湯管のやりかえ工事
2003年・トイレのドアが壊れて兄が出られなくなる。兄の友人が助けに来る。 
2004年・兄嫁がフラワーマンションに来て生活。 
2004年4月・1回目ハンガーストライキ 
 徹:21日と主張 家族:19日 
 重湯→お粥→ご飯と1ヶ月かけて戻す。体重は1年で戻る。(妹:もっと早く戻った。) 
2004年8月・兄:営業担当で(株)タップ復帰。 
2005年4月・2回目ハンガーストライキ 
 徹:21日 妹:23日 
 終了後45.6� 
 徹:7ヶ月粗末な食事 
   
 ・兄嫁:重湯、ポカリスェットから30日位かけて普通の食事 
2006年4月・3回目ハンガーストライキ 
 徹:30日 家族:29日 
 ・徹:断食終了宣言後、丸1日食事出されず。70日間重湯、ポカリスェット薄めたもの 4ヶ月で3分粥→7分粥→ご飯と戻す。以後、解放まで粗末な食事。普通食に戻ってからの食事内容はこちら
 ・兄嫁:重湯、ポカリスェットから2ヶ月位かけてご飯に戻す。以後、また断食するかもしれないと思い、負担のかからない食事を出すようにしていた。・夕食後、10�以上ありそうな机を持ち上げるなどして筋力トレーニングを1日30分していた。
2006年4月・母方祖母が亡くなる。母、妹米沢市の葬儀のため、兄が仕事を休んで徹を監視した。 
 ・妹と兄嫁と揉みあう。テレビのアンテナとケーブルおられ、テレビが見れなくなる。 
2006年6月・新聞が支給されなくなる。 
2006年9月妹と兄嫁と揉みあう。テレビのアンテナとケーブルをとられ、テレビが見れなくなる。 
  ・2007年:ガス漏れの検査
2007年11月・兄嫁→徹「あんた、この部屋を維持するのに幾らかかっていると思うの」・奥の部屋の横窓の雨どいの修理
2008年1月・徹妹に突き飛ばされる。・妹否認
2008年2月10日16時・徹:無一文で追い出される。・着のみ着のままだったが、普段からかなり厚着していた。
 ・渋谷の松濤本部まで歩いて行く。途中、交番で12年監禁されていたこと訴えるも相手にされず。お金も貸してもらえず。
2008年2月11日2時・一心病院入院 
2008年2月12日・フラワーマンションから最低限の荷物を残し、運び出す。・立位保持、歩行不可。2月下旬まで車いす。
 ・妹、母:保谷に帰宅。・入院2~3日後:胃腸炎、下痢
 ・兄、兄嫁:徹を追い出してから1週間後、新座に帰宅 
 ・兄:徹のノート、本を捨てる 
2008年2月13日・米本氏:徹を見舞いに来る。・写真撮影
  ・入院5日目:体重52.1�(身長182cm)
2008年3月4日・松葉杖、歩行器を使って歩行 
2008年3月10日・杖歩行・入院1か月:体重61�
2008年3月20日・杖なし歩行、階段昇降 
2008年3月31日・退院 
2008年4月2日一心病院有田医師診断書・全身性筋力低下、廃用性筋委縮(特に両下肢)栄養失調
2008年4月4日北里大学病院宮崎医師診断書・貧血 長期栄養不良からの回復期にあると考える・・・
2008年4月9日一心病院小出医師診断書・栄養失調、貧血
2008年7月2日・徹:保谷の実家に行く。・妹:徹は20�位太ったように見えた。(70�はありそうに見えた)
2008年8月・徹:刑事告訴する。 
2008年9月・徹:合同結婚式に参加 
  ・岩本姓になる。
2009年10月25日・妹:結婚する。 
2009年11月・兄:退職 
1987年5月の兄脱会、保護(拉致)についての兄、徹の主張
兄:父に西東京市の実家に呼び出される。神戸のアパートに行く。
Oさん(尾島さん)の話しを聞く。2週間後、東京から原理に詳しい人が来ていると言われ、宮村、元信者3人で来る。話しを聞いて、脱会する。
徹:1987年5月、兄が自宅に帰った際、両親によって拉致監禁され、脱会説得を受ける。
(以後、兄から聞いた話しとして徹の陳述書に記載)
父の手が兄の体にかかり、父が「それ」と叫ぶと物陰から見知らぬ男達が突然襲いかかってきて、兄は付近に停めてあった車の中に拉致されたそうです。そして、その車で連行される途中、踏切で車が止まった際、兄はとっさに車の窓から外に逃げ出したそうです。
食事制裁時の食事内容について
徹陳述書より:
朝はパン1枚に飲物1杯,昼はご飯1杯,味噌汁1杯,のり4枚,漬け物と小魚少々,梅干し等,夜は,ご飯1杯,味噌汁杯,漬け物,小エビ,納豆
兄嫁陳述書より:
朝は、雑穀入りの6枚切りの食パン1枚、きなこやはちみつ、黒ごまなど栄養のあるものを混ぜた青汁、昼は、男性用の大きめの茶碗1杯ご飯、具を増やした味噌汁、佃煮やおしんこなどの盛り合わせ、夜は、昼に納豆が加わったりしたようなものでした
妹陳述書より:
朝食は胚芽パン1枚と、きなこ、ごま、はちみつなどが入った青汁を出していました。昼と夜はご飯と小魚の佃煮、納豆、味噌汁の中には徹だけに魚のつみれや煮た魚などを入れて出しました。
ご飯は大きめの茶碗に大盛りで出していた
2012-03-27(Tue)
 

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サイコ・ホラー 

◆1998年9月
<徹「統一教会が出鱈目で文がメシヤでないことがわかった。でも、活動は続けたい。」と宮村に言う。(宮村陳述書には10月と記載)
宮村「これ以上話し合ってもしょうがない」
兄「きちんと客観的に統一教会問題に取り組む姿勢ができるまで家族で対応します」
これ以後、宮村説得に来なくなる>

◆2008年2月
<徹:無一文で追い出される>

活動を続けたいと告白した徹さんに対して、宮村も兄もそれを容赦してない。
兄が「家族で対応」すると決意表明し、それ以降、徹さんは10年もの間、マンションから一歩も外に出ていない(出してもらえなかった)。

まるで、サイコ・ホラー映画を見ているような戦慄を覚えます。

徹さんはマンションを追い出された後、お金を借りようと交番に立ち寄っていますが、もし、あの時、警察官が徹さんをマンションに連れ戻していたら、と思うと、ゾッとします。

年表を作成してくださったので、この恐るべき犯行がよりリアルに認識できます。

ここにきてなお、ウソをつき、シラを切り通そうとしている卑怯者の一味を断固、許してはなりません。
宮村、松永、兄らには、なにがなんでも、徹さんの味わった監獄の苦しみを味わってもらわなければならないでしょう。
2012-03-30 18:29 | みんな | URL   [ 編集 ]

サイコホラーもしくは不思議ワールド 

 前にも書いたことだけど、こうして改めて年表を見ても、不思議に思うことは変わりませんでした。それどころか、ますます疑念はつのるばかり。

その1・兄やんは弟を悪の統一教会に引き入れた罪の意識から、弟とトコトン話し合いたかったはず。

 ところが・・・・。
1995年9月12日
・話し合いが始まる。兄は1泊か2泊して東京に帰る。  
・伯父が1ヶ月滞在。
 なんでやねん

その2・なぜ、荻窪に行かなかったのか。
 
1996年3月
・父、心筋梗塞で倒れる。新潟市民病院で心臓バイパス手術。退院後は東京の自宅で療養生活。時々母が様子をみに帰っていた。
1996年末
・徹:もう脱会届けを書いて1年もたつのに、どうして散歩もさせてくれないのか、と家族を責める。
・父、徹の様子をみに時々新潟に来る。(何泊かしたのみ。)
1997年3月
・父:肝臓癌。余命3ヶ月~半年。(兄が徹に告げる。)
1997年4月
・両親:宮村を訪ね、父の病状報告。徹は偽装脱会をしている。もう一度、徹と話し合いをして欲しいと依頼。
・父:病状が回復した時のために荻窪にマンションを用意していた。
1997年5月26日
・父:川越の帯津三敬病院入院  
1997年6月22日
・父:死去。

 父さんが東京に戻ったのは96年3月(後)。亡くなったのは97年6月のこと。
 どうして、新潟のマンションを引き払って、東京に引っ越さなかったのか。
 引っ越していれば、
(1)父さんは徹に声をからしながらでも話すことができた、
(2)兄やんはタップに勤めながら、弟と話すことができた、
(3)宮村先生は徹を早くに説得することができた。

 いいこと尽くしなのに、なぜ、新潟にとどまったのか。
 なんでやねん。

その3・なぜ宮村先生は早く説得しようとしなかったのか。

1997年6月22日
・荻窪プレイス605に移動。
1997年12月
・荻窪フラワーマンション804号室移動。  
1997年12月末
・兄:宮村に、徹が話しをしたいと言っているので、来てほしいと電話。
1998年1月~9月
・宮村:元信者数人と来る。

97年6月に徹は東京にやってきたのに、宮村先生が登場するまでに、6ヶ月以上もかかっている。これはなんでやねん?

 証人尋問が楽しみです。

2012-03-30 19:46 | 米本 | URL   [ 編集 ]

続き 

信者が拉致監禁されてから、宮村さんはいつ監禁場所を訪れるのか。

 宇佐美さんの婚約者だったKさんの場合、監禁された当日だった(08年1月1日)。
 そのKさんと宮村さんがM子さんの監禁場所にやってきたのは、やはり監禁された当日だった(11年1月2日)。

 後藤さんの1回目の拉致監禁のときも、監禁された当日だった。
 一心病院の小出医師の場合もやはり監禁された当日だった(92年6月12日)。

 それなのに、2回目の監禁のときだけは、ものすごく遅い。

 荻窪プレイスに移動したのは97年6月。宮村さんが、さらに移動した荻窪フラワーマンションに顔を出したのは98年1月。実に1年6ヶ月(前投稿は誤記)のことだ。

 この謎は裁判の争点とは関係ないかもしれないが、実に不可解な話である。
2012-03-30 19:51 | 米本 | URL   [ 編集 ]

徹をここに連れてきて 

米本さんのコメントを読んで、改めて、疑問が生じました。

<1997年3月
・父:肝臓癌。余命3ヶ月~半年。(兄が徹に告げる。)
・両親:宮村を訪ね、父の病状報告。徹は偽装脱会をしている。もう一度、徹と話し合いをして欲しいと依頼>

余命3ヶ月、と告げられて、子供の顔を見ないまま、その後の余生を過ごせるもんでしょうか?
死ぬ間際まで、信仰ゆえに子供を許さない気持ちを持ち続けられるもんでしょうか?

信仰がどうのこうのという前に、かけがえのない我が子のことを想い、その存在を有り難がったり、手を握り、会話をしたくなったりするものではないでしょうか?
親子の愛情とは、たとえお互いの思想信条・宗教が違えども、それ以上に深く強いものでしょう。

どうして父は「徹の顔が見たい」と言わなかったのでしょうか?
どうして父は「徹をここに連れてきてくれ」と言わなかったのでしょうか?

推測ですが、父は「徹をここに連れてきてくれ」と言ったのではないかと思います。
ところが、宮村や兄ら家族が徹さんの脱走(病院で騒いだりすること)を警戒し、それに反対したのではないでしょうか。

ウソで固められた兄らの陳述書。それには、人を想う気持ちが全く感じられませんね。
ウソの筋書きを貫こうとすると、どうしてもそうした記述が抜け落ちてしまいますね。
2012-03-31 08:47 | みんな | URL   [ 編集 ]

愛情か愛憎か? 

年表をジ~、ボ~と眺めていたら、今まで見えなかった疑問が湧いてきました。

お兄様がビデオセンターに行き始めたのは、1986年3月、脱会したのは1987年5月。その間1年2か月。

その後、徹氏の1回目の説得が約1か月。妹さんが約3か月。
青春を返せ裁判が約8年。
徹氏の2回目の説得12年5か月。

お兄様が統一教会脱会後、統一関連に関わった期間は16年9か月。(青春を返せ裁判と徹氏2回目説得のダブっている期間を差し引いて)

実際に統一教会に関わっていた期間は1年2か月なのに、その後の関わりは16年9か月。
その上、この裁判を足すと20年は行くだろう。

1年2か月の活動のためにその後の20年も翻弄され、しかも結末は多額の借金を背負わされるかもしれない運命。

(アジュマちゃんの言葉を借りれば)ヒェ~、たたりじゃ、たたりじゃ~!

もうひとつの疑問は

徹氏がマンションを去った後の家族の対応。

徹氏を無一文で外に追い出した動機として、兄は「統一教会についてきちんと真剣に向き合うため、追い出した。決して本当の意味で追い出したわけではないのでお金は持たせなかった。」と語ってます。
そして、「徹氏が去った後、その辺りを探したけど見つからなかった。徹氏が行く所は統一教会に決まっている。体力、気力は十分にあったので、心配してなかった」とお兄様の陳述書に書かれております。

しかし、12年も「目を覚まさせよう」と1日1日を真剣に関わってきたわりには、徹氏がいなくなった後の対応は冷たくないだろうか?

無一文の12年一人で行動してない青年が行方不明になった・・家族だったらもっと真剣に探さないだろうか?


なのに、徹氏がいなくなった翌日には、
<・フラワーマンションから最低限の荷物を残し、運び出す。>
<・妹、母:保谷に帰宅。>

な~んかあっさりしすぎてないだろうか?事後処理が早すぎないはしないだろうか?

まして1週間後にはお兄様夫婦も新座に帰宅しております。

どうも、後藤さん家族の気持ちがわからないです。
2012-04-01 10:20 | koyomi | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

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