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後藤徹氏の兄の陳述書ーその1

後藤徹氏の兄の陳述書を二回に分けて掲載する。
これで兄嫁、妹に続き、後藤徹氏の家族の陳述書がそろうことになる。
コメント欄で話題にのぼった後藤徹氏の伯父とは、後藤氏の父の妹の夫であるとこの陳述書には書かれている。

後藤徹氏の兄の陳述書-その1の構成


1.略歴
2.統一協会への入信の経緯と活動内容,及び脱会するまで
3.両親との話し合い
4.統一協会を離れてから
5.1回目の徹との話し合い
6.株式会社タップへの就職
7.■<後藤徹氏の妹>との話し合い
8.青春を返せ裁判
9.徹のいるビデオセンターに通う
10.旧姓HYさんとの結婚
11.2回目の徹との話し合い
12. 新潟にて
13.父の死と東京への移動
14.フラワーマンションに移る
15.宮村さんとの話し合い
16.フラワーホームでの生活
17.徹の嫌がらせについて
18.部屋に出入りしていた業者について
19.三回の断食について
20.祈りについて
21.徹を玄関の外に出した経緯
22.徹か立ち去って後
23.最後に
青印が今回アップしたもの

陳 述 書

                       
1.略歴
私は,1960年3月28日,両親の実家がある山形県米沢市で生まれました。父は製紙会社の会社員でしたが1997年に亡くなっております。母は専業主婦です。兄弟は今回私に対して訴えを起こした弟の徹と,被告になっている妹■<後藤徹氏の妹>がおります。
 父親の勤務地であった宮城県石巻市で小学校3年生まで暮らし,その後,父の転勤に伴い東京の武蔵野市に移りました。中学1年の時に保谷市(現西東京市)に家族全員で引っ越してきました。高校3年の時からは親とは離れて埼玉県和光市に,就職時は小平市と,何度か転居しましたが,ずっと東京近郊で暮らしております。

 私は,1978年3月,私立芝浦工大付属高等学校卒業,同年4月芝浦工業大学工学部・建築工学科に入学し,1982年3月同大学を卒業しました。同年4月,東京都港区に本社のある中堅ゼネコンの安藤建設株式会社に就職し,建築設備の設計,現場管理・積算などの仕事を担当しておりました。

私は,1986年の3月ごろ街頭のアンケートをきっかけにそれと知らずに世界基督教統一神霊協会(以下「統一協会」といいます)の教えを信じこまされ,1986年12月に統一協会に入信しました。その後アベル(上の立場の者)から会社を辞めて献身するよう指示されたため,退社し,献身して,正体を隠した勧誘活動やいわゆる霊感商法などの活動をしていました。1987年5月に両親らと話し合いをして,統一協会のことを冷静に見直すことができたことをきっかけに,統一協会の問題に気付き脱会しました。

2.統一協会への入信の経緯と活動内容,及び脱会するまで
 私がどのように統一協会に取り込まれていったのか,入信中どのような活動をしていたのか,なぜ統一協会の信者であることをやめられたのかは,乙イ6号証の統一協会を被告とする損害賠償請求の「青春を返せ裁判」の陳述書の内容の通りです。私は,統一協会という正体を知らずに,巧みに統一原理を信じ込まされ,正しいことをしていると信じて,人の心理的な弱みにつけ込んだ霊感商法や正体を欺いた伝道活動等で世の中に人々に多大な迷惑をかけてしまいました。騙されていたとは言え,弟妹である徹や■<後藤徹氏の妹>も引き込んでしまい,両親や弟妹にまで多大な苦労をかけることになってしまい,深く悔やんでおります。

3.両親との話し合い
1987年の初旬,統一協会に献身し,伝道機動隊の副隊長として,伝道活動,印鑑,絵画宝石,着物等の販売による違法な資金集めに専念していた私は父に西東京市の実家に呼び出されました。父から統一協会の問題点について場所を移して話し合いたいと言われ,父が私と誰にも邪魔されずに話し合うために借りてくれていた神戸のアパートに一緒に行きました。統一協会が真理だ,この世界を救う唯一の教えだと信じていた私は,アパートで,両親に統一原理の素晴らしさを切々と訴えました。しかし,あまり理解してもらえませんでした。そのうち,父から統一協会のことに詳しい人がいるから一緒に話を聞いてみようと持ちかけられました。統一協会では,反対派の話を聞いてはいけないと言われていたため,気は進みませんでしたが,両親の熱意と本気で話し合おうという姿勢を見てないがしろにできないと思い,聞くことにしました。その人はキリスト教の牧師ではなく,一信徒で,Oさんと言う人でした。確かに統一協会の教えの内容に詳しく,聖書と原理講論の矛盾点を突く考察は鋭いものがありました。

話を聞くうちに,自分は聖書の読み方や内容,書かれた時代や背景などを全くと言っていいほど知らないし,統一原理が本当に正しいと言える内容なのか自分できちんと確かめたとは言えない,ということがわかってきました。聖書と統一協会の教えである統一原理に矛盾はない,と教わっていたのですが,Oさんから説明されると,どう考えても聖書と矛盾していると言わざるを得ない内容に,統一原理に対する疑問が湧いてきました。たとえば統一原理の内容に,摂理的時代の同時性というものがあり,日数や年数に意味かあるという説明をするのですが,詳しく調べてみると,40年と言っているところが実は12年だったり,400年が327年だったりと,ほとんどが統一原理の主張通りでなく,説得力がないものでした。

また,原理講論では「後のアダム」としてイエス・キリストが来られたとされていますが、聖書では「最後のアダム」となっており,「最後」では再臨のメシアたる文鮮明の立場がなくなってしまうので意図的に改ざんしたとしか思えないようなところもありました。真理でもないものにいつまでもしがみついていてもしょうがない,しかし,統一原理が真理でないならこの世の中は一体どうなってしまうのか,やっぱり真理ではないのか。裏切ったら自分も家族も子孫も先祖も大変なことになってしまうと教えられてきたが,やめたらどうなるのか。もしも真理だったら取り返しのつかないことになってしまうし,献身までしてやってきた今までの自分の活動は一体何だったのだろうというような想いが交錯して,この時期は,情緒が不安定になり,とても苦しかったです。

神戸に行ってから2週間くらい経ったころだったでしょうか,Oさんから「東京から原理に非常に詳しい人がきているので,話を聞いてみますか?」と言われたので,その人の意見も聞いてみたいと思い承知しました。すると宮村さんが元信者の人達3人と来られました。宮村さんは,統一協会の草創期のことなど私か疑問に思っていたことも含めて,資料を交えて詳しく教えてくれました。実際に韓国に行って,統一協会の文鮮明教祖が教団の旗揚げ前に通っていたイスラエル修道院というところの,かつてを知る人に聞いた話とか,文鮮明と共に教団を立ち上げ,今は離脱している元大物幹部の話など,生々しい内容でした。最初は,原理のことも知らないで,と反発する気持ちも湧きましたが,話し合ううちに,この人は自分と違って,実際に確認をとっている,この人の話を信用していいのではないかと思うようになりました。そして,私は真理でもないものを信じても仕方ないと考え,統一協会と訣別することにしました。統一協会が真理ではないとわかってから,訣別を決意するまではそんなに時間はかかりませんでした。それでも,これまで全身全霊をかけて信じ,活動してきた統一協会をやめることの大変さを知っていたのでしょう,宮村さんからは別れ際に「もっときちんと統一協会の問題を整理したければ東京に戻ってから,荻窪栄光教会に来て森山先生の話を聞いたらいい。」と言われました。

4. 統一協会を離れてから
神戸で両親や,Oさん,宮村さんと話し合いをして統一協会の教えや活動が間違いだと認識した私は,統一協会を離れることにしました。徹と■<後藤徹氏の妹>がまだ統一協会信者として活動していて,私が脱会したことを理由も知らずに知れば,動揺すると思ったので,脱会したことは統一協会に通知しませんでした。ひと月くらい私は当時大阪に住んでいた両親のところにおりました。その後,もともと東京で暮らしていたので,東京に戻って,荻窪にアパートを借りて1人で生活を始めました。宮村さんに,「良かったら東京に戻ったら森山先生のところで統一協会での体験をさらに整理したらどうか。」と言われていたこともあり,荻窪栄光教会のある荻窪に住むことにしたのです。この頃はまだ,ふいに,統一協会の教えが正しいのではないかという思いに捉われたりして精神的に不安定でした。それに統一協会の信者であったときは,上位の信者であるアベルの言うとおりに行動するように習慣づけられていました。脱会すると,自分自身で考え,判断し,行動するというあたりまえなことが大変なことでした。自分に自信が持てなくなっていたこともあり,統一協会での体験を自分なりに整理しないと人生を次のコマに進める力が湧いてこないという想いがありました。幸い,当面の生活費のことは心配しなくていいと両親に言われていたこともあり,その言葉に甘え,しばし,自分自身の精神の「リハビリ」を当面の人生の目標とすることにし,直ちに,就職することは考えていませんでした。

私は1987年6月か7月頃,毎日のように荻窪栄光教会に通って森山先生の話を聞きました。統一原理の聖書解釈がいかに「キリスト教」とは違い,荒唐無稽なものであるか,という話を詳しく聞きました。最初は,統一協会での聖書解釈が頭に残っており,聖書をなかなか素直に読めませんでした。礼拝や水曜日の祈祷会にも行って,キリスト教では聖書をどう読んでいるのかを勉強しました。それがイコール統一協会の教えの矛盾の確認となりました。しかし,イエス・キリストの十字架は摂理の失敗の結果ではなく,人類の贖いのためにあえて掛ってくださったのだ,と心から思えたのはそれから半年以上たってからでした。また,水茎会といって,元信者やその家族,あるいは,現役信者を抱える家族達が集まる会合に顔を出して,相談に来られているご家族の話し相手になったり,話し合いをしている最中の家族から経験したことを話してほしいと頼まれて家族と話し合いをしている信者に自分の体験談を話しに行ったりしていました。

 そんな日々の中で,統一協会に子どもが入ってしまった家族の苦悩を改めて思い知りました。両親が子を心配する気持ちを痛感し,同時に改めて自分の徹と■<後藤徹氏の妹>に対する責任を感じました。両親と相談しつつ,まずは徹と話し合いをしようということになり,父親が中心になって準備をしました。当時,保谷の実家には信者の■<後藤徹氏の妹>が1人で暮らしていました。自分自身からの経験からも家族の話し合いには,統一協会員に邪魔されずに落ち着いて話し合いが出来る環境が必要ですから,自宅で話し合うということは考えられなかったので,京王プラザホテルに呼び出して話し合いをすることにしました。

5.1回目の徹との話し合い
1987年10月,父が徹と「統一協会のことで話しをしたい。」と言って京王プラザホテルで会う約束をしました。父と徹は,新宿駅で待ち合わせをして,二人で京王プラザホテルに来ました。私は先に行って部屋で待っていました。事前に私が部屋で待っていると父親から聞いていた徹は,私をみて涙声で「おお,久しぶり。元気だった?心配してたんだよ。」というようなことを言いました。やはり,徹が私のことを相当心配してくれていたんだと思い,私にも胸にこみ上げるものがありました。徹の陳述書には,京王プラザホテルまで,統一協会員が2人付き添って来ていたとありますが,私も父親も全く気が付きませんでしたし,徹も話していませんでした。半年間音信がなかったのですから予想はしていたでしょうが,私が統一協会をやめたことを徹ははっきりとは知りませんでした。

そこで私は,徹に統一協会を離れたことを告げ,父と二人で徹に対し,統一協会の教えや活動のことをもう一度考えて欲しい,家族で統一協会について話し合いたいと促しました。夜になって大阪から出てきた母親も合流しました。徹にも両親が心配している様子は伝わったのか,この時は真面目な様子で話し合いに応じてくれました。徹は仕事のことを気にしていましたが,当時徹が勤めていた大成建設の徹の上司には父が直接事情を説明しており,無断欠勤にはならないし,会社の方でも問題はないと言ってくれていると言うと徹は安心した様子でした。自分の経験上,統一協会信者は,原理のことを知らない人を見下してしまう傾向かあるので,本人が一目置かざるを得ない統一原理や聖書に精通している人に話をして貰った方がよいと考えていました。そこで,両親や私が,「統一協会のことに非常に詳しくて,信頼できる人がいるので話を聞いてみないか。」と誘ったどころ,本人も同意したので宮村さんに来てもらうことにしました。宮村さんや元信者の人達には,事前に水茎会で会った時に,徹と話し合いを行うことは言ってあり,本人が話を聞きたいと言ったら話をして貰えるよう,父から予めお願いしてありました。宮村さんと何人かの元信者の人達は数日間,一日あたり2時間ぐらいずつホテルの部屋に来て徹と話し合ってくれました。宮村さんは,原理講論と聖書の矛盾,徹が知らない教祖や組織の現実などの話をしてくれました。最初は宮村さんの話す内容を疑っているような様子だった徹も,統一協会では聞かされていない真実味あふれる具体的な内容に,少しずつ統一協会で教えられていたことに疑問を持ち始めた様子でした。特に統一協会の草創期にあった,教祖文鮮明が多くの女性信徒と肉体関係を持っていたという,いわゆる「血わけの儀式」のことにはショックを受けていたようでした。

 話し合いを続けるうち,徹は統一協会の教えやその活動に疑問を持つようになり,もう一度考えると言うようになりました。そこで,私は,徹に対し,さらに,統一協会のことを整理するのに,自分もお世話になった荻窪栄光教会の森山諭先生のところに通って勉強したらどうかと伝えたところ,徹も同意したので,父の手配した荻窪にあるマンションの一室に徹と両親と私で一緒に移りました。そのマンションから,森山諭先生のもとに家族で通い,聖書や統一協会の勉強を続け,統一原理と聖書の矛盾や聖書本来の教えの確認をしたりしていました。父は最初だけ一緒に荻窪栄光教会に通いましたが,じきに仕事に復帰し,ほとんど母と私が徹と一緒に通いました。マンションから栄光教会への行き帰りは徒歩で片道20分弱かかりましたが,家族3人で散歩しながら,毎日2週間ほど通いました。

 徹は,家族や宮村さん達のせいで会社に戻れなくなり,辞めざるを得なくなったと主張しています。しかしながら,荻窪栄光教会に通っていた頃,徹の会社の上司に徹と父と私で,会いに行ったことがありました。会った場所は,徹が当時勤務していた大成建設の現場事務所で,会った相手は,現場所長と直属の上司の方でした。父の方から,話し合いを始める前に会社側に事情は伝えてありましたので,そのときも,上司から徹に対して直々に「仕事のことは心配しなくていいから安心するように。待っているから。」という温かい言葉を頂きました。実際,話し合いに入っており,出勤していない期間が無断欠勤として扱われることもなく,給料もきちんと振り込まれていました。話し合いをきっかけに徹が会社を辞めなくてはならない理由はどこにもなく,徹はその後私たちのもとから離れたあと,自分の判断で勝手に辞めたのです。

徹は,家族の心配する心情を理解してくれたのか,家族と話し合ったり荻窪栄光教会に通って勉強することで基本的に統一協会の教えや活動の問題点について真剣に考えてくれているように見えました。ところが,荻窪栄光教会に通い始めてから2週間くらいたったころかと思いますが,礼拝中だったでしょうか,トイレに行くと立ったまま帰ってきませんでした。徹か統一協会に戻ってしまったと考えざるを得ないので,私たち家族は茫然自失となり深い喪失感にさいなまれました。

6.株式会社タップへの就職
 それからしばらくして私は自活のために就職しました。宮村さんが広告関係の仕事をしていることは以前に聞いており,興味を感じていた私は,1988年2月頃,ちょうど欠員が出たと聞いて,宮村さんの経営する会社「株式会社タップ」に就職させてもらいました。仕事は大手住宅メーカーをメインとする広告受注の営業です。就職してからは忙しさもあり,他の統一協会員とその家族が話し合いをしている場に元信者として行くことはだんだんとなくなりました。
 徹や統一協会は,私がタップに就職したことについて,カバン持ちだとか,話し合いの順番を早くするためだとか主張しているようですが,この就職は将来の徹や■<後藤徹氏の妹>との話し合いのためなどではなく,私個人の問題で,全く話し合いとは関係のないことです。

7.■<後藤徹氏の妹>との話し合い
 ■<後藤徹氏の妹>は1989年当時,西東京市の実家に1人で暮しておりました。両親は大阪,私は荻窪のアパートに住んでおりました。1989年3月,両親と私は■<後藤徹氏の妹>の住む西東京市の実家に行き,統一協会について話し合いをしようと持ちかけたところ,■<後藤徹氏の妹>も素直に話し合うことに応じてくれました。実家は,統一協会側に把握されており,統一協会側から邪魔がはいる可能性があるので,荻窪にマンションを借りて皆でそちらに移動して話し合いをしました。最初,家族だけで話をしていましたが,やはり,統一協会と家族の問題について詳しい第三者から客観的な話をして貰った方がよいだろうということになり,■<後藤徹氏の妹>の了解を得て,宮村さんや元信者の人にも来てもらうことにしました。家族との話や元信者の人達との話し合いで,ある程度統一協会の問題点に気付き始めていたのか,■<後藤徹氏の妹>は,宮村さんと2~3回話した時点で統一協会から離れる決意をしたように見えました。

8.青春を返せ裁判
 統一協会の問題性を司法の揚で明らかにするために,私は1991年4月4日に統一協会に対して損害賠償請求訴訟を他の被害者総勢40名で東京地裁に提訴しました。統一協会の素性を隠した伝道の手法から,嘘や脅しを交えつつ価値観を変えてしまう教え込みと信者教育の方法,霊感商法をはじめとする活動に専念させることの問題点などを詳しく訴え,1999年3月3日,統一協会側に賠償金を支払わせる和解を勝ち取ることが出来ました。先程述べた乙イ6号証は,この青春を返せ裁判のときに裁判所に提出した私の陳述書です。これをお読み頂ければ,何故,私が統一協会の信者になってしまった徹や■<後藤徹氏の妹>のことを放ってはおけなかったのかお分かり頂けると思います。

 乙イ6号証にも書いてあるとおり,統一協会の信者は,自分自身の意思で,統一協会の信仰の正しさを確信し,信者となることを選択したと思い込まされています。しかし,これらの確信や選択は,決して自分白身の真に自由な意思のもとになされたものではないのです。このことに気付いたときに,初めて,統一協会の呪縛から離れて,統一協会と自分の信仰について客観的にみることが出来るようになるのです。私は,そして両親も,徹や■<後藤徹氏の妹>に,統一協会の信仰の内容と活動,自分自身が信者になった理由,自分自身の信者としての信仰生活と統一協会の活動について,客観的に見つめ,自分の頭で考えることができるようになって欲しかったのです。その上で統一協会を選ぶならそれでも構いません。もっとも,騙されたことに気がつけば,自ずから統一協会を離れる人がほとんどです。逆に,統一協会を頭ごなしに否定して,無理やり信仰を捨てさせようとしても本人をかえって頑なにさせ,統一協会の教えこみのカラに閉じこもってしまうだけで逆効果なのです。話し合いとは,統一協会信者が自分の頭で考えることができるようになるためのきっかけ作りです。ゆえに信者自身が,自分自身の選択として,話し合いに入ることが不可欠なのです。統一協会の言うように「拉致監禁」し,信仰を捨てさせることは出来ません。
 このことは,元信者である私も,■<後藤徹氏の兄嫁>や■<後藤徹氏の妹>も身を持って痛感していることです。

9.徹のいるビデオセンターに通う
 私は1995年9月に徹と2度目の話し合いをもつ前に,1993年頃に,半年ほどの期間,1週間から2週間に一度,徹と話しをしようと思って,当時徹の所属していた葛西のビデオセンター(自己啓発サークルと偽って人を誘い込む統一協会の伝道拠点)に通ったことがあります。統一協会のビデオを見たりしながら,話し合いのきっかけを探り,家族が何故こんなに徹のことを心配しているのか,徹が統一協会の問題点にきちんと目を向けてくれるようにすることは出来ないかと模索していました。しかし,ビデオセンターにいる2時間ほどでは話し合いに使える時間に限りもありますし,本人が統一協会の信仰と活動を客観的にみる視点が全く欠落してしまっている状態では,私との話し合いで一時的に冷静に考えられたとしてもすぐアベルに言いくるめられてしまうので,徹が自分で統一協会の活動を続けることの是非について考えるのは,とても無理だと感じました。徹の側に統一協会の言うことが本当なのだろうかという気持ちが少しでも芽生えていればチャンスはあるとも思いましたが,そういった雰囲気はありませんでした。一度,「普通の観点から見れば統一協会のやっていることはおかしくないか?」と水を向けてみたこともありましたが,「う~ん,価値観が違いますからねぇ。」とはぐらかされてしまいました。

10.旧姓HYさんとの結婚
 1991年春頃新潟を離れて上京していた■<後藤徹氏の兄嫁>と知り合い,1995年の1月に結婚しました。この結婚式には徹も列席しています。

11.2回目の徹との話し合い
 私は徹が,違法行為を繰り返す反社会的な団体である統一協会に所属し,直接的,間接的に世の中に害悪を与えていることを強く懸念すると同時に,統一協会の精神的呪縛から離れて,自分の頭で自分の人生について考え選択するようになってもらいたいと考えていました。なんとかして徹に統一協会の真の姿を見てもらいたい,自分自身の信仰と行動について,真剣に冷静に客観的に見つめ直してもらいたい,そのためにもう一度話し合いをしたいと考えていました。

 両親も同じ思いだったと思います。そして何より我が子のことをとても心配していました。私は,徹に対して,自分が欺して勧誘したという責任感もありましたが,両親,特に母はただひたすら子どもが心配で不憫で仕方がないという感じでした。
 私が,葛西のビデオセンターで試みたように,喫茶店や自宅で統一協会の問題点について短時間話し合ってみても,統一協会から霊界の恐怖などを利用した強烈な教え込みを受けて客観的に判断する力を奪われており,統一協会のアベルのもとで考え,活動している生活環境下では徹と本当の意味で本音で話し合うことは難しいと思いました。やはり統一協会の影響から離れた環境下で話し合いをしないと,徹自身が自分で統一協会の矛盾や問題点について考えることができないので,徹が活動している東京からは離れた地方で話し合いをした方がいいのではないかと考えました。また,徹は宮村さんとはすでに話し合ったことがあるので,出来れば別の先生に話し合いをしてもらえないかと両親と私で検討した結果,妻の■<後藤徹氏の兄嫁>がかつてお世話になった新津福音キリスト教会の松永牧師にお願いできないか,という話しになりました。ちょうど1995年春頃,新潟市内に■<後藤徹氏の兄嫁>の祖父が暮らしていたマンションが空き家になっており,そこを話し合いの場として,借りられそうだということも,松永先生にお願いしようと考えた要因としてありました。父から松永先生に連絡をすると,松永先生は「ご本人が話を聞くと言うならお話しします。しかし,本人が私の話を聞けばいいというものではありません。家族としての心構えを学んでください。」とのことでした。そこで,1995年の初夏あたりから5~6回程度,両親,■<後藤徹氏の妹>,私,■<後藤徹氏の兄嫁>で新津の教会に通って体験者の家族の方や元統一協会の信者の人などからお話を聞いたり,礼拝に出たりしました。家族も徹と一緒に統一協会について勉強するという心構えが必要であり,このことを通じてお互いに本音をぶつけ合い,信頼し合える関係を築くためのプロセスであるということを学びました。

 話し合いに向けて,■<後藤徹氏の兄嫁>の祖父が以前住んでいて空き家になっているマンション(パレスマンション多門607号)を借りる手はずは父がしました。おりしも徹が1995年9月に西東京市の実家に遊びにくるとのことでしたので,そのとき,もう一度話し合いをしないかと徹に持ちかけようと父が決めました。徹のことを前々から心配してくれていた父の妹の夫であるOY伯父さんも来てくれるとのことでした。直接の家族だけではなく,親戚も徹のことを心配していることを徹に分かって貰えればいいなと期待しました。

 1995年9月11日に徹が実家に帰宅しました。両親,私,■<後藤徹氏の兄嫁>,■<後藤徹氏の妹>で食事をした後,父が,徹に対して統一協会の活動をしていることをとても心配している,と切り出しました。なぜ,心配なのか,父をはじめ母や私,■<後藤徹氏の妹>や■<後藤徹氏の兄嫁>も徹に話をしました。なぜ人をだまして伝道したりするのか。目的があって実際にやっている霊感商法をなぜやっていないとうそをいうのか。なぜ詐欺・強迫的な霊感商法のようなことまでしてしまうのか。なぜ借金をさせてまで献金をさせるのか。末端の信者が極度に貧しい生活をしているのになぜ教祖は贅沢な暮しをしているのか。結婚相手を自分の自由意思とは関係なくあてがわれるようなことが許されるのか。メシアこと文鮮明が言った予言はぜんぜん当たらないではないか。普通に考えたら統一協会というところは,金もうけ目当ての悪徳団体に見える。もし本当に人の行くべき道で正しい真理だというなら,我々にきちんとわかるように説明してほしい。真剣に話を聞くし,納得できれば一緒に信じるから。第一,もし間違っていたらどうするんだ?自分だけでなく誘う人の人生にまで影響するだろう。このような話をこもごも1時間半くらいしました。徹も家族が真剣に自分のことを心配してくれている態度に打たれたのか,話し合いをすることを承知しました。

徹は「左右両脇を抱えられ,力づくで持ち上げられ」た(甲9・7頁)と言っていますが,事実に反します。実際には,徹は,抵抗することも嫌がることもなく,自分で席を立って靴をはき,歩いてワゴン車に乗り込みました。しぶしぶだったかもしれませんが,私は徹が話し合いすることに同意し,自分から移動してくれたので心からホツとしました。ここで嫌だといわれてしまったら,話し合いは出来なくなってしまうからです。
 新潟への移動中,徹は,特に,文句を言ったり騒いだりすることなく,静かにしていました。座席は確か一番後ろに母と父親と徹,真ん中に私と■<後藤徹氏の妹>と伯父さん,助手席に■<後藤徹氏の兄嫁>,運転席には■<後藤徹氏の兄嫁>の兄のHTさんが座ったように思います。ちなみに■<後藤徹氏の兄嫁>の兄のHTさんには徹は私の結婚式の時に会っています。徹は意思に反して車に乗せられたかのように述べていますが,途中,ガソリンスタンドに寄り給油したので,もしそうならば,そのときに逃げようとしたり,店員に助けを求めたりする筈ですが,そのようなことはありません。途中,徹が尿意を催したと言い出したので,父が持っていた携帯トイレを渡し,徹はそれで用を足しました。徹が携帯トイレでは嫌だとか,普通のトイレに行きたいと言ったりしませんでした。新潟のマンションには夜中の1時ごろに到着しました。

1 2. 新潟にて
 新潟に到着した次の日から話し合いが始まりました。私は徹を誘った張本人であること,男兄弟であり,感情的に反発されやすいこと等を考え,1泊か2泊で東京に戻りました。その後は月に数回様子を見に行く程度でした。
 ■<後藤徹氏の妹>,■<後藤徹氏の兄嫁>から聞いた話ですが,まずは徹の話を家族が聞くということで統一協会の教えである統一原理について話して欲しいと頼んだところ,徹は「だったらこのメモにある本を持ってきてよ。」と言い,統一協会側の本を要求してきました。そこで,父は,「徹はすでに今,信じているんだろう,それを話して欲しい。今,信じているものについて何を信じているのか説明できなければおかしいだろう。」と言い,徹は,その後,「原理講論」を使って話をしはじめたそうです。徹が要求した本も,全部一遍にはそろえられませんでしたが,少しずつそろえました。ちなみに,徹は,陳述書において「窓が全て『ウィンドロック』という防犯錠が取り付けてあり,内側から開けられないようにされていました。」(甲9・8頁),あるいは,「玄関は,私が部屋に入れられた後,何らかの形で内側から施錠されました」(同)と書いていますが,事実に反します。ドアの鍵や窓のストッパーは通常のものでした。最初は家族だけで話し合いをしていたが,統一協会の教えや活動に詳しい人の話を一緒に聞くということになり,徹も了解の上で松永牧師に来て貰い,統一協会の原理講論と聖書の矛盾や活動の問題点などについて話し合って貰うことになったと聞きました。私は月に何回か,徹の様子を見に新潟に行きましたが,松永牧師が来られた時に同席したことはほとんどありませんでした。

家族から聞いていたところによると,松永先生は,最初の数ヶ月は週に2~3回来てくださり,最初は統一協会を批判的に検証することに抵抗感が見られた徹も,12月頃には統一協会は間違っているから辞めると言い出したそうです。徹が統一協会の問題点に気付いたのであれば,こんなに嬉しいことはないと思いました。しかし,統一協会が決めた合同結婚式の相手となるパートナー(相対者)について何の話もしないなど,一緒に生活している■<後藤徹氏の兄嫁>や■<後藤徹氏の妹>からするとあまりすっきりしない感じがするとのことでした。私もそうでしたが,冷静に考えられるようになっても,それでも教え込みの内容が強烈で,理屈だけの問題ではないため,徹自身の中にもまだ葛藤があるのだろうと思いました。

 年が明けて3月ごろ徹が脱会の意思をしたためだ手紙を当時所属していた教会の責任者宛てに書きました。徹とも相談し,もめ事にならないよう,父親と私とで十条にあった,ホーム(統一協会の献身者の寮)に荷物を引き取りに行きました。衣装ケースが2つとダンボール箱が1つ,スーツが1着だったと思います。それが徹の私物として返却されました。その後だったと思いますが,父親が心筋梗塞で倒れ,新潟市民病院で緊急手術を受けました。幸い一命はとりとめたものの,静養が必要とのことで,退院後東京の自宅に戻り,地元の病院に通いながら療養生活をするようになりました。このころから,徹と一緒に生活をするのは母と■<後藤徹氏の妹>,妻の■<後藤徹氏の兄嫁>になり,母は東京の父のところへ行くことも多く,■<後藤徹氏の兄嫁>も実家と行ったり来たりで,実質■<後藤徹氏の妹>と徹の二人だけのことも多かったのです。

13.父の死と東京への移動
 1997年3月,父が体調不良を訴え,検査したところ,肝臓がんの末期であることがわかり,余命は半年から3ヵ月と告げられました。それまで新潟と東京を行き来していた母も,父の治療のサポートのために常に東京の父と一緒に暮らすようになりました。そのため,徹と一緒にいるのは■<後藤徹氏の妹>と■<後藤徹氏の兄嫁>だけとなりました。末期がんの患者に病名を告知した上で面倒を見てくれる病院を方々探し,川越の帯津三敬病院という病院に入院しました。こちらは本人が試したいと思った治療法は民間療法であってもある程度自由にやらせてもらえるところでしたので,肝臓がんに効く薬が香港にあると聞いて私か購入しに飛んだり,SODやアガリスク茸など様々なものを試してみました。それもこれも,なんとかしてもう一度元気になって徹ときちんと話し合いをしたいという父の願いがあったからでした。

 父は,入院の前に,以前お世話になった宮村さんを母と尋ね,自分の病状も告白した上で,もう一度徹と話をして欲しいとお願いをしに行ったそうです。それ程父は,徹のことを心配していました。
 しかしながら,治療のかいもなく,父の病状は悪化し,6月22日には容体が急変しました。徹や■<後藤徹氏の妹>にも最後の別れをさせるため,皆で上京するように新潟に電話で連絡しました。しかし結果的に徹達は父の死に目には間に合いませんでした。

 西東京市の自宅で徹や■<後藤徹氏の妹>,また,■<後藤徹氏の兄嫁>と■<後藤徹氏の兄嫁>の二人の兄が遺体と対面しました。父は病状が回復した時に徹と話し合いをするために東京の荻窪にマンションを用意していました。生活の拠点を東京に移したいと話すと,徹もこれを承知して,■<後藤徹氏の妹>,■<後藤徹氏の兄嫁>と共に,新潟には戻らず,そのまま荻窪の「荻窪プレイス」というマンションの605号室に移動しました。
 徹自身が家族の話し合いを終わりにしたいと言い出さない以上,私は,不安定なままの徹をそのままほっぽり出すわけには行かないと思っていました。徹は統一協会との関係をどうするかということについて,なお整理できておらず,葛藤を抱えており,家族が協力してそれを解消できるようにサポートしたいと思っていましたし,徹に付き合う覚悟でいました。こちらのマンションでは徹を見守り,家族と向き合ってくれるようになることを願いつつ,生活していました。徹は「ドアノブのあたりに数字を合わせるダイヤルロック式の鍵がはっきりと見えました」など(甲9・15頁)と言っているようですが,玄関にそのようなものをつけたりはしていません。私は平日の日中は勤めに出ており,マンションにはいませんでした。マンションにいる時も,この頃は,徹が自分から何に悩んでいるのか,何がスッキリしないのか話してくれるのを待っていましたので,私たちから統一協会のことや徹のスッキリしない態度のことを話題にしないようにしていました。

14.フラワーマンションに移る
 1997年12月,大家さんの都合で,荻窪プレイスを出ることになり,荻窪フラワーマンション804号室に移動しました。引っ越しの際には,私の友人3人に家具の移動や掃除など手伝ってもらいました。徹には移動することを告げ,家族で車に乗って移動しました。徹は普通に車に乗り込み,転居先のマンションにいきました。車は確か私が運転したと思います。徹の供述に私が玄関から徹を犬のように追い払ったとありますが,そういう事実は一切ありません。
 フラワーマンションでは,確かに当初,玄関チェーンを短く詰めるような形で南京錠を掛けていました。これは,話し合いを再開した時,統一協会信者が侵入してきて,妨害されるのを防ぐためでした。しかし,その後しばらくして,南京錠は取り外しました。

15.宮村さんとの話し合い
 フラワーマンションに移動して何日かして,徹が偽装脱会していたことを告白しました。徹のスッキリしない態度が続き,家族との会話も戻らない中でしたので,そうじやないかと思う気持ちがありました。それならそれでもっと早くにそういってくれていたらと思いました。しかし,本心をいってくれたことで,これをまた家族関係を回復させるきっかけに出来るのではないかと思いました。自分から偽装脱会の事実を認め,告白してくれたことに私は「正直に言ってくれてありがとう。」と感謝しました。徹も偽装脱会という形で家族やかかわってくれた人達を騙し続けていたことを詫びました。徹の陳述書の17ページには机を思いっきり叩き「こんな監禁なんてやり方をするあなた方が悪いんでしょう!」と糾弾し,云々とありますが,そんなふうに声を荒げたり,責め立ててきた事実はありません。また,徹が話し合いを拒絶し,話し合いの場を立ち去ろうした事実もありません。

 そこで,私は新潟での話し合いや一回目の話し合いのことも振り返りつつもう一度しっかりと統一協会を検証して欲しい,よく考えてほしいと言いました。徹は統一原理に未練はあるし,文鮮明もスパッと切り捨てられない,悪い事をしていると言われていることはわかるけど,悪いとは思いきれない,と言っていました。
 徹は統一協会の教え込みにより,統一協会を客観的に見られなくなっており,統一協会信者以外にとっては,常識的な当たり前のことがわからなくなっていました。「なぜ宗教であることを隠して自己啓発セミナーだと偽って誘い込んでいいのか。正しい真理だと言うならなぜきちんと説明しないのか。なぜ統一協会がやる霊感商法は許されるのか。自分で真理だからと信じていれば許されるなら,オウム真理教だって同じことではないのか。客観的に見たら聖書の権威を利用して信仰で人を虜にして,反社会的な手段まで使って金もうけをさせ,結婚相手まで指定して人生を搾取しているように見える。そんな真理がありえるんだろうか。もし,まがい物だったら誘った人に対してどう責任をとるのか。」などという話もしました。また,行動の元になる信仰の根拠か統一協会の教えである統一原理であるから,それについてもそれが正しいのかどうかちゃんと調べて自分で考える必要があるんじゃないのか,と話しました。また,話の流れの中で,宮村さんの話題を出して,もう一度宮村さんの話を皆で聞いてみたらどうだろうと言ったところ。徹も了解したので,宮村さんにお願いして来てもらうことにしました。宮村さんには,父が生前に母と一緒に,徹に話をしてやってほしいとお願いしており,荻窪プレイスに入ったころには,徹が話を聞きたいと言ったらお願いしますと私の方からも伝えてありました。

宮村さんは年が明けた1998年1月はじめころに,元信者の人達数人と一緒に来てくれました。徹は宮村さんに対し,最初ふてぶてしいような雰囲気でしたが,宮村さんや元信者の人達の真剣さに態度を改め,普通に話をするようなりました。教えの内容の矛盾や,教祖や幹部の,人の道を説くものにあるまじき言動の話をしてくれましたが,徹は素直には認めたくないようでした。特にかつて教団の草創期に教義上の儀式として,教祖が多くの女性と性交渉を行っていたといういわゆる「血わけの儀式」の件は認めたくなかったようで,「でっち上げじゃないか。」とか「何か深い理由があると思う。」などと言って事実を素直に受け止めようとせず,統一協会の現実から目をそらしていました。自分にも経験がありますが,統一協会ではメシアである文鮮明を否定的に考えたり,教えに疑問を持つこと自体が罪であると教え込まれており,そのような発想をしないように習慣づけられています。この壁を打ち破るのは容易なことではなく,非常な恐れを伴います。一度統一協会の信仰を持って裏切ると,最初から知らなかった場合より死後,数段ひどい状態になる,永遠に霊界の地獄で苦しまねばならない。救いの道を閉ざされた,一族の霊に糾弾され,永遠に責め立てられる上,永遠の地獄でのたうちまわると頭に刷り込まれているのです。統一協会の教えでは,死後,死者の霊は,自分の心の状態にみあったところに自然と行きつく,愛に満たされた人ほど神に近い明るい霊界に行き,自己中心な人ほど神から遠くて暗い霊界に行く。最も低い霊界は地獄で,そこでは自分のことしか考えられない愛のない霊が集まっており,永遠に争い傷つけあっている。あまりの苦しさに死のうとしてももはや死ぬこともできない。霊の世界では心の状態が姿に現れるので低いところにいる者たちはもはや人間の形をしておらず,それこそ魑魅魍魎のうごめく世界になっており,そこが地獄であると教わります。そしてもし,一度統一協会につながったのに裏切って離れたものはそういう地獄に落とされると思い込んでいます。この考えというのは理屈ではなく思考回路や体に染み込んでいますので,統一協会に対して疑う気持ちが湧いてももし万が一これが真理だったら?だとしたら自分だけでなく家族や親族,先祖や子孫までも大変なことになってしまうと思ってしまうので,離脱することが非常に困難なのです。徹もこのような葛藤の状態にあったと思います。

 その他にも,韓国の田舎に住む農家の男性が,嫁欲しさに統一協会に参加費を払って合同結婚式に参加し,実質お金で買われたような形で,信仰も持たない言葉も文化も違う韓国の田舎に嫁がされ,大変な苦労を強いられている日本人女性信者たちの実態を実際に現地に行って見聞きしてきた宮村さんが話してくれました。しかし,そんな話を聞いても徹はあまりピンと来ていないようでした。統一協会の教えや指示は絶対的に正しいというところからしか考えられないため,どんなに理不尽でひどい状態であっても,「それがその人が負うべき蕩減だ。」と考え,おかしいとは思わなくなっているようでした。「蕩減」とは,償いとか罪滅ぼしのような意味合いで,自分に課せられた試練を乗り越えることで霊的レベルがアップする,と考えられています。

 そのうち宮村さんとの話し合いは,徹が宮村さんからの間いかけに答えることが出来なくなり,黙り込んでしまうことの繰り返しになりました。徹本人の中でも,色々と葛藤はあったのだと思いますが,ついには,原理が間違っていても自分はやるんだ,ということを言い出しました。宮村さんの話に対し,まともに,言い返すことが出来ず,かと言って,統一協会の考え方を否定することも出来なくなり,開き直るしかなくなったのだと思います。せっかく,宮村さんが来て話し合ってくれたのですが,本人がこのような精神状態に凝り固まって話し合いが成り立たなくなっている以上,私としては,宮村さんに来てもらっても意味がないと考えるしかありませんでした。そこで「きちんと客観的に統一協会問題に取り組む姿勢ができるまで,家族だけで対応します。」と宮村さんに伝えました。ところが,原理が間違っていても自分はやるんだ,と言い放ちはしても,徹はフラワーホームを出て行こうとはしませんでした。私を含めた家族は,徹が出て行こうとしないのを見て,もしかしたら,ふとした拍子に徹も自分の頭で考えることが出来るようになるかもしれない,家族として,徹の葛藤を見守り,付き合って行くことが必要なのかもしれない,と思って,徹を突き放すことはしませんでした。
2012-03-06(Tue)
 

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不思議発見 

 最初は余談。(一部敬称を略す)

 徹の兄さんが結婚したのは95年1月とのこと。初めて知りました。
 て言うことは・・・。

 徹が「家族との話し合い」に参加させられたのは、同じ年の95年9月から。
 結婚したばかりの兄嫁さんはそれからずっと、義弟と結婚したわけではないのに、徹につきっきり。

 兄さんと兄嫁さんがようやくにして2人っきりの生活が始まったのは、それから12年5ヶ月後のこと。つまり、95年1月から12年間以上、結婚生活を凍結していたわけである。

 あれから12年。ようやく徹が視界から消え、2人はあらためて顔をまじまじと見つめ合いましたとさ。
「お、おまえ、その顔は?」
「あ、あなた、その顔は?」
 浦島太郎ほどではなかったとしても・・・。嗚呼、おいたわしや!兄夫婦。(涙・涙・涙)

 徹なんかほっとけば良かったのに。
 弟、義弟への愛はそれほど強かったということなのでしょう。

 だが、待てよ。「家族の話し合い」が大切だと、耳にたこができるぐらいに繰り返し繰り返し言っておきながら、ようやくにして念願の「家族の族の話し合い」が始まった翌日に、兄さんは嫁さんをおいて、東京にトンズラ。
 そりゃ、ないぜ。

 その理由について、兄さんはこう釈明する。
<徹を誘った張本人であること,男兄弟であり,感情的に反発されやすい>
 からだって。
 変なのぉ~。

 まず前段。自分が弟を誘って入信させたのだから、「すまなかった。おまえにマインドコントロールをかけてしまった。この俺が一番悪いのだぁ」と土下座し、涙を流して謝れば、
 徹だって、<兄さん、そこまでにぼくのことを・・>と涙ぐみ、「兄さん、もう頭をあげてくだされ」と、兄さんの涙がたれた頬を震える手で拭ってあげる。そうなれば、家族の話し合いはスムーズに進んだかもしれないというのに。

 嗚呼、それなのにそれなのに。新妻を置いて、東京に。
 嗚呼、おいたわしや、兄嫁さん。(涙・涙・涙)

 もっと変なのは、男兄弟は感情的に反発されやすいから、家族の話し合いに男兄弟は加わらないほうがいい、だって。
 まさに珍説!
 ぼくには兄がいるけど、男兄弟ゆえで感情的に反発なんかしたことなんかないし、知り合いの兄と妹で、感情的に反発しあっている人たちもいる。兄弟姉妹関係に「性」別は関係ないはずだ。
 ひょっとして、代理人・山口貴士さんの兄弟姉妹関係の投影か。

 さて、ここれからが不思議発見だ。
 草野仁がしゃべる。

 兄さんは宮村とかなり前から近しい関係にありました。この当時は、社長と社員の関係でもあったのですから。
 だったら、どうして遠い新潟のマンションで、家族の話し合いをしなければならなかったのか?
 あとで荻窪に移るのだから、最初から荻窪のマンションでやればよかった。そうすれば、兄さんも宮村の会社に通いながら、家族の話し合いに参加することができていたはずです。

<さて、ここからが問題です>
 どうして荻窪のマンションではなく、兄嫁さんの弟に運転を頼むほどに、地理に不案内な新潟のマンションで家族の話し合いを始めたのでしょうか。 

黒柳徹子さん:そりゃあ、陳述書にあるように、「徹さんは、宮村さんとはすでに話し合ったことがあるので,出来れば別の先生に話し合いをしてもらえないか」と思ったからじゃないの?
板東さん:そりゃあ、ヘンですよ。
黒柳さん:(ちょっとムッとした顔で)どうして、ヘンなの?
板東さん:だって、すでに話し合ったことがあるから別の人に-というのは理由になっていませんよ。前に話し合ったときに徹さんとバトルになったとか、お互い嫌悪の感情を抱いてしまったとか。それなら、わかるけど。 陳述書はあいまいだよ。
まこと君:黒柳さん、それにですよ。荻窪の宮村さんではなく、新潟の松永先生に頼んだんから、勉強会のために、東京から新潟までわざわざ日参しなければならなかったのですよ。荻窪の宮村さんにお願いすれば、兄さんはタップに勤めながら、徹さんを説得でき、なおかつ新妻と一緒にいることができたのですよ!
 もういいことづくめなのに、わけがわからん。
 草野さん、ヒントを。

草野さん:まこと君の意見はなかなかですよ。ヒントですか?
 それは、新潟から荻窪に移ってから、1年間も、宮村先生、あっ私(草野)が100万円以上を献金した有田さんのお友だちなのですが、その宮村先生が1年間もそこの、荻窪の最初のマンションに訪問しなかったことです。

 さあ、みなさん、もういいでしょう。回答を。

(ナレーション:視聴者からの回答もお待ちしています。見事当選された方には、鳥取県の水木しげる記念館への旅にご招待いたします。どうかこのブログの読者のみなさま、ご応募ください)

(注釈)不思議発見の旅は続く。ひとまず、お休みです。
2012-03-08 19:15 | 米本 | URL   [ 編集 ]

大成建設って 

<徹も家族が真剣に自分のことを心配してくれている態度に打たれたのか,話し合いをすることを承知しました。徹は「左右両脇を抱えられ,力づくで持ち上げられ」た(甲9・7頁)と言っていますが,事実に反します。実際には,徹は,抵抗することも嫌がることもなく,自分で席を立って靴をはき,歩いてワゴン車に乗り込みました>

次の日の仕事のこと(やりかけの仕事もあっただろうに)やら、友人(会う約束もしていただろうに)のことやら、衣類・下着(お気に入りの服もあっただろうに)のことやら、ハミガキやら整髪料やら、一切合切をほっぽり出して、話し合い場所に出向いていった、って???。そんなこと、信じられます?!

いくら話し合いを承知するとしても、まず身辺整理をしてからでしょ。
無断で欠勤。しかも、何日も何ヶ月も。
こんなことを大成建設は容認していたんでしょうか。
こんないいかげんな会社なんですか、大成建設は。

<荻窪栄光教会に通い始めてから2週間くらいたったころかと思いますが,礼拝中だったでしょうか,トイレに行くと立ったまま帰ってきませんでした。徹が統一協会に戻ってしまったと考えざるを得ないので,私たち家族は茫然自失となり深い喪失感にさいなまれました>

自分の意思で話し合いに臨み、自らの意思で荻窪栄光教会に通っている人間が、礼拝中にトイレに行く振りをして逃走しますか?。
統一協会の間違いに気付いたのに、統一協会に戻りますか?

マンションの一室(数ヶ月は<玄関チェーンを短く詰めるような形で南京錠を掛け>てあった)で、統一協会を脱会した兄・妹、元信者、統一協会を悪く思っている宮村氏、松永牧師らと、統一協会信者である徹さんがたった一人で、連日、話し合い。

こんな話し合いに、何ヶ月も何年も、耐えられますか?
逃げ場なし、味方なし、1対多。

<そのうち宮村さんとの話し合いは,徹が宮村さんからの間いかけに答えることが出来なくなり,黙り込んでしまうことの繰り返しになりました。徹本人の中でも,色々と葛藤はあったのだと思いますが,ついには,原理が間違っていても自分はやるんだ,ということを言い出しました>

徹さんは「原理が間違っていても自分はやる」と言い出したのに、なぜ、その後、統一協会に行かなかったのでしょうか?
統一協会では日曜日の礼拝を生命視している、というのに。
反発し、話し合いが決裂したのに、なぜ、徹さんはマンションを出なかったのでしょうか?

兄らは、徹が居座った、って詭弁を弄するんでしょうが、統一協会には「居座る」という教えも前例もありませんよ。

素朴な疑問ですが、不労マンション生活がここまで長期に及ぶと、話し合いのテーマは自ずと変化するもんではないですか?
たとえば、「なんで働きもしないで、居座るのか!?」とか「みんな困っているじゃないか、早く働けよ!」とか。
ところが、こんな話題はとんと出てこない。
不自然すぎますね。
2012-03-09 08:24 | みんな | URL   [ 編集 ]

不思議発見・その2 

「不思議発見・その2」を投稿したのですが、コメント文に重大な事実誤認があったため、全文削除いたします。

 関係者の方に不快な思いをさせてしまい、削除して、謝罪する次第です。

 申し訳ありませんでした。

 事実を再度確認して、改めて、投稿いたします。

2012-03-09 18:57 | 米本 | URL   [ 編集 ]

No title 

<1997年3月,父が体調不良を訴え,検査したところ,肝臓がんの末期であることがわかり,余命は半年から3ヵ月と告げられました。それまで新潟と東京を行き来していた母も,父の治療のサポートのために常に東京の父と一緒に暮らすようになりました。>

<川越の帯津三敬病院という病院に入院しました。>

<父は,入院の前に,以前お世話になった宮村さんを母と尋ね,自分の病状も告白した上で,もう一度徹と話をして欲しいとお願いをしに行ったそうです。>

<しかしながら,治療のかいもなく,父の病状は悪化し,6月22日には容体が急変しました。徹や■<後藤徹氏の妹>にも最後の別れをさせるため,皆で上京するように新潟に電話で連絡しました。しかし結果的に徹達は父の死に目には間に合いませんでした。>

<父は病状が回復した時に徹と話し合いをするために東京の荻窪にマンションを用意していました。>

<生活の拠点を東京に移したいと話すと,徹もこれを承知して,■<後藤徹氏の妹>,■<後藤徹氏の兄嫁>と共に,新潟には戻らず,そのまま荻窪の「荻窪プレイス」というマンションの605号室に移動しました。>

後藤さんのお父さんは、1997年3月に肝臓癌の末期を宣告され、余命3か月~半年と言われてます。
治療のため、川越の病院に入院しました。
この時点で、徹さんと妹さんと兄嫁さんは新潟のマンションにいます。
お父さんは、徹さんが偽装脱会していると疑がっており(確信に近い)、自分の病気を明かした上で、宮村氏に再度説得を依頼しています。その為に荻窪のマンションを用意しています。


お父さんが余命3か月~半年を宣告されたのに、荻窪にマンションを用意していたのに、何故後藤さん一家は新潟にとどまったのでしょうか?
松永牧師の話しの途中ならわかります。(いや、それでも普通ならお父さんの病気を方を優先させると思います。)
だけど、この時は(偽装とはいえ)脱会を表明した後。松永牧師の話しはほぼ終わっているはずなので、荻窪に移動できるはずです。

荻窪に移動した方が、妹さんもお父さんの看病ができるし、いざという時、新潟に比べたら早く病院に到着できます。
それに、宮村氏と徹さんの話しが開始したと聞けば、お父さんも安心します。

普通に考えれば、お父さんの癌告知の時点で、家族の話し合いは中断するだろう。
しかし、それよりお父さんは徹さんと宮村氏の話し合いを望んでいました。それでしたら、お父さんの用意した荻窪のマンションに移動することを考え、宮村氏にマンションに話しに来てもらうように依頼すると思うのですが。


それより、癌で治療しているお父さんの元に息子である徹さん、娘である妹さんが行かないのは、おかしいと思うのですが。

どうなのでしょう?

2012-03-11 01:26 | koyomi | URL   [ 編集 ]

暇人の穿ちコメント 

先のコメントにタイトル付け忘れて、すみません。And既に兄陳述書(2)がアップされているのに、連続(1)へのコメントすみません。

このお詫びとして、どうしましょうか~?koyomiちゃんのサイン色紙でも。(いらんわ!そんなもん!)

という、冗談はさておき

どうも気になってしまったことがあり、兄さん、妹さん、徹さんの陳述書をざっと見直してみました。(以下敬称略)

1986年3月:兄VCに行く。
1986年8月31日:徹東京御徒町VCに行く。
1986年秋:妹VCに行く。
1986年12月:兄統一教会入信。その後献身。
1987年5月:兄保護説得を受け、脱会。
1987年10月:徹保護説得を受ける。
1987年11月:徹脱出。
1989年3月:妹保護説得を受ける。
1989年4月:妹脱会。
1995年9月:徹2回目保護説得。

兄がVCのに行き始めてから、妹脱会まで3年。
なんて、スピーディー。後藤さんのお父さんがかなりやり手だったことが伺えます。この3年は、後藤一族はさぞ忙しかったことでしょう。

それなのに、妹脱会から徹さん2回目の保護説得まで6年。
徹さん1回目保護説得失敗から2回目に踏み切るまで8年。

長くないですか?

その間に徹さんは2度も祝福を受けてます。
1度目の祝福相手が脱会したため、家庭をもつに至りませんでたが、もしその方が脱会しなければ家庭をもっていたはずです。それは、統一教会反対している家族にとっては何としても阻止したいこと。

92年の3万双前後に保護説得決行を考えると思うのですが。(それでも妹さん脱会から3年は経っていることになる。)

人気説得者宮村氏の順番待ちでそうなった、と考えてもいいが、何も説得者は宮村氏だけではない。事実、徹さんの2回目説得の最初は松永牧師に依頼しているので、宮村氏に拘っていたわけではないだろう。(ということにしておく。)

6年の間に何があったかというと、

1991年春:兄が兄嫁と出会う。
1993年:半年に渡り、1~2週に1度徹が所属していた葛西のVCに兄が通い、話しをする。
1995年1月:兄と兄嫁結婚。
1995年初夏:5~6回新津教会の勉強会に行く。

ふむふむ。
89年妹さんが脱会後より、93年まで家族は徹さん救出に向けて何もアクションを起こしてない。いや、それはないだろうから、置いといて。

ひねくれた私がつい穿った見方をするのは、兄と兄嫁の結婚後、8か月後に保護説得をしたこと。
初夏には保護説得の具体的準備をしていたので、結婚半年後には夫婦の関心ごとは徹保護説得になっていた、と思う。

こんなの、あり~?
と思うのは、既に私が統一思考が抜けて、新婚時代は誰にも邪魔されず、ラブラブ夫婦生活を送りたいわ!と思っているから。という冗談は抜きにして。

普通、保護説得が12年もかかるとは思わない。95年には36万双の祝福があり、それに徹が参加することは予想できていた。ということは、今度こそ家庭を持つことを阻止するためには、95年にやるしかないのだ。
それなのに、その年初めに結婚するか?
私が兄か後藤パパママの立場なら、兄嫁には保護説得が終了するまで待ってもらう。
私が兄嫁の立場なら、それに了承する。だって、そんな面倒なことに、新婚時代から巻き込まれたくないも~ん。あんまり待たせるようなら、さっさと見切りをつけて、別の男と見合い結婚でもするわ~。

しかし、邪な私と違い、兄嫁は偉かった。婚約者の弟への思いを理解し、「あなたと一緒ならどんな苦労もいとわないわ。だって、私も元信者。なんでも協力するわ。」

う~ん、美しい愛情物語。

とはひねくれた私は、思わない。
以下、私の穿った見方です。

徹さん保護説得のために兄と兄嫁結婚はかなりプラスに働いたはずだ。
説得場所の新潟のマンション然り、保谷から新潟への運転然り。そして、兄嫁の家族も保護説得成功経験者、兄嫁も元信者。困った時に何かと力になってくれるだろう。

そして、強制脱会者の心理。兄と兄嫁にとって、統一教会脱会のための行為は正義なのだ。
統一教会時代、伝道や経済活動していたのが、天国実現のための救いの行為と思っていたのと、思考回路は変わらない。

兄にしろ、兄嫁にしろ、甘い新婚生活より、弟を救うという夫婦共通の崇高な目標に一直線にいったのではないか?

だが、なして兄は東京にすぐ戻ったか?
わからん。

以上は、兄と兄嫁の結婚と徹さん2回目の保護説得の時期に疑問があったので、勝手に考えてみました。

ので、私の妄想話しです。

2012-03-11 17:58 | koyomi | URL   [ 編集 ]

不思議発見(その2の修正バージョン) 

 koyomiさんの投稿を読んで、「不思議発見」がいよいよ膨らんできました。
 さすが知性派ですね。

 ぼくはまだウジウジ。同じところにとどまっています。
 卒業するために、不思議発見の修正バージョンを書くことにしました。

 今回は角度を変えて、保護説得側の立場に立って。
 くどいかもしれないけど。それは御免であります。

 宮村さんの陳述書にあるように、脱会説得の主人公は家族。カウンセラーはサポート役です。カウンセラーはあくまで家族から懇願されて登場するわけです。

 ところが、徹の兄さんは徹さんを新潟のマンションにお招きした翌日に、弟とはサイナラしています。

 保護説得推進論者としての私にはどうにも納得できない。

 なぜ、兄は家族の話し合いに参加しないのか!

 どう考えても、「あとは松永牧師にお願いするわ」と言っているようにしか思えません。

 兄やんの代わりになったのは、父の・妹の・夫という伯父さんです。
 この伯父さんの氏素性は不明。どこに住んでいるのかも書面からは不明。
 でも、そうした正体不明の伯父さんが新潟のマンションに1ヶ月も泊り込む。

 兄やんの陳述書によれば、徹のことを心配していたからだというのだが、伯父さんが徹を説得したという具体的記述は、当の兄を含め兄嫁・妹、そして徹の陳述書にも登場しない。

 本当に、義理の甥が統一教会に入って心配しているのであれば、徹が荻窪のマンション「フラワーホームの804号室」に住むようになってから、一度でも顔を見せるべきなのだが、これまでの陳述書を読む限り、記載なしである。

 これは、保護説得推進人としても、あり得ない行為である。いかが。
2012-03-11 19:18 | 米本 | URL   [ 編集 ]

後藤さんはマインドコントロールされてたんじゃ・・・・ 

後藤さんはマインドコントロールされてて、自分の頭で考えることができなくなっているから、マインドコントロールをとくために、統一教会の影響の及ばないところで説得・・・・でしたよね。
でも、後藤さんは、アベルの指導を無視して、つまり、アベルは偽装脱会して逃げて来いと指導しているのに、それを行わず、自分の意思で居座った。
あれっ・・・・・自分の頭で考えてるじゃん。

マインドコントロールされた人間は、自分の頭で考えられなくなるんじゃ・・・・・

後藤さんは、そんな指導は受けてなかったと言い訳しますか?

いやでも、後藤さんは、ご自分が担当していた教会員にも、偽装脱会を指導していましたよ。

それって、後藤さんがそういう風に上から指導されてたから、下の人にも同じように指導したってことですよね。

被告側の証拠説明書に後藤さんから偽装脱会を指導されたという元教会員の陳述書がのってますし・・・・。



2012-03-13 19:34 | YAMA | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

連絡先:gotosaiban-contactus@yahoo.co.jp

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