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後藤徹氏の妹の陳述書-その2

先回に引き続き、後藤徹氏の妹の陳述書を掲載する。

後藤徹氏の妹の陳述書-その2の構成
1.身上・経歴
2.私か統一協会に入信した経緯
3.私の統一協会での活動歴
4.統一協会を脱会した経緯
5.徹との話し合いをすることにした経緯
6.新潟での話し合い
7.荻窪での話し合い
8.フラワーホームから追い出すことになった経緯

青印
が今回アップしたもの



6.新潟での話し合い
 (1)1995年9月11日、徹が自宅に帰ってきました。家族で食事を済ませた後、夜8時頃から、父が徹に統一協会についての話を切り出し、徹か統一協会に戻ってしまってから、ずっと心配していたことや、霊感商法などの統一協会の社会的な問題などを徹と1時間半位話しました。このような父を中心とした家族の話に徹も騒いだりすることなく応じていました。その後、父は、徹の今後の人生もかかっていることだから、統一協会について場所を変えてじっくり話し合おうと徹に言いました。徹は、父の話を聞いて戸惑って、始めは渋っていました。この時、徹はその場を立ち去ろうと思えばそうできたのですが、父と家族の促しによって自ら立ちあがり、玄関で靴をはき、自分で歩いて車に乗りました。

徹の横には母が寄り添って歩いていて、私は家族みんなが出てから、玄関の鍵をかけ、ワゴン車に乗り込みました。この日、心配して来てくれた叔父のOYさんも同乗し、■<後藤徹氏の兄嫁>さんのお兄さんが新潟の道に詳しかったので車の運転手として来てくれました。■<後藤徹氏の兄嫁>さんはお兄さんの横の助手席に座り、中央の列に私と叔父と■<後藤徹氏の兄>が座り、後列に父、徹、母が座りました。車中では、特に会話はなく、静かでした。徹が騒いだり、逃げようとして暴れたりすることもありませんでした。徹は途中で、父が用意していた携帯トイレで用を足し、「トイレの世話までさせて悪いね。」と言っていました。

また、途中ガソリンスタンドに寄って給油をしました。給油の間10分くらいはガソリンスタンドにいましたが、徹は声を出したりすることはなく、おとなしく車の中で座っていました。■<後藤徹氏の兄嫁>さんのお兄さんが車の窓を開けて、ガソリンスタンドの従業員と話をしているときも、徹か声を出すことはありませんでした。
  新潟の多門マンションに着くと、徹は騒いだり抵抗したりすることなく自分の足でマンションに入りました。着いた時は、もうすでに夜中になっていたので、皆すぐに就寝しました。徹も両親と一緒にすぐに寝ていました。

(2)翌日から、徹との話し合いが始まりましたが、■<後藤徹氏の兄>は、仕事があるので、2日程して東京に戻りました。話し合いの中で、父が、「統一協会がなぜ真理だと言えるのかきちんと説明してほしい。」と言うと、徹は、原理講論を使って講義をし始めました。数日間その講義が続き、家族も疑問に思う点を指摘しましたが、徹が答えに窮して、埓が明かないことが度重なりました。そこで、父は、原理について詳しい牧師先生がいるから一緒に話を聞こうと話をし、徹がこれに応じたので、10月初めころ、マンションに松永牧師に来てもらいました。

それ以降、松永牧師は週2~3回来て、終始徹に穏やかに語りかけ、聖書と原理講論の矛盾点や、統一協会の実態などを話したり、徹からの質問に答えたりしていました。徹は、最初は松永牧師を少し警戒していたようでしたが、その後は、素直に話を聞き、自ら聖書について質問をしたりしていました。また、統一協会を脱会した元信者の人達も、数名来て自分の体験談など話して、徹と話し合ってくれました。徹も元信者の人達に何でやめたのか自ら質問していました。

(3)徹は1995年12月末頃、突然、真剣な表情で、家族に向かって、「統一協会をやめる。」と言いました。両親は、これを聞いでそのときは、少し安堵した様子でした。しかし、後にこれは偽装だとわかりました。

  この頃の徹は、朝9時頃起きて、新聞や本、聖書などを読んだりしていました。また、レンタルビデオ店から、徹が見たいと言っていたビデオ(フォレストガンプやダイハードなど)を私が借りてきて、家族で見たりしていました。午後は、元信者の人達が2~3人来て、お菓子を食べながら雑談したり、トランプやウノなどのゲームをしたりしていました。松永牧師も何度か来てくれました。徹は、松永牧師に聖書の話を良く聞いていました。父とは、将棋をしたり五目並べをしたりしていました。私とは子供の頃の話をしたり、ふざけて私をからかったりもしていました。夕飯後は、テレビを見たりして、その後運動し、風呂に入っていました。

  10時頃、徹か夜食を食べたいと言うので、母がうどんなど作り、それを食べていました。徹がカップラーメンを食べたいと言うので、買って台所に置いておくと、自分でお湯を注いで食べることもありました。統一協会にいた時飲んでいたという、粉末の紅茶やレモネードを飲みたいと言ったり、歴史の参考書や専門学校案内も見たいと言ったりするので、私か買ってきました。それから読書などをして、だいたい1~2時頃寝ていました。新潟に来た当初は、和室で徹と父が一緒に寝ていたので、12時前には皆寝ていましたが、そのうち、徹か一人で和室に寝るようになり、遅くまで起きていることもしばしばありました。

  徹が脱会を表明した頃、マンションには、徹、父、母、私の4人で生活していました。叔父のOYさんは一ヶ月位して帰られました。■<後藤徹氏の兄嫁>さんは、多門マンションの近くにある実家で生活していました。■<後藤徹氏の兄>は、東京の自宅におり、月に数回マンションに来ていました。■<後藤徹氏の兄>は、徹を統一協会に誘った立場であることや、男兄弟であること、その当時仕事が忙しかったこともあったので、徹との話し合いには加わりませんでした。

(4)1996年の2月頃、松永牧師は徹に、「気持ちが整理されるかもしれないから統一協会に入信してからやめるまでの出来事を書いてみたらどうか。」と勧めました。これを受けて、徹は10枚位の手記を書いていました。また同じ頃に、徹は、自ら脱会の連絡文を書き、徹が所属していた統一協会の支部に父が郵送しました。3月頃に、父と■<後藤徹氏の兄>と徹で話し合い、父と■<後藤徹氏の兄>で、徹が生活していた十条にあるホームに徹の荷物を引き取りに行きました。そのビルは鈴木ビルという名称でした。

  私は、脱会すると言ってからの徹の態度や言動に、どことなく不自然で、家族に対しても心を開いていないように感じる時がありました。私と冗談を言ったりふざけたりしでいる時も、どこか繕っているように感じることもありました。私は、徹が長年信じてきた信仰を手放すことにしたものの、まだ心の整理がつかずにそのような状態になっているのかもしれないと思い、様子をみていました。

(5) 1996年3月の末頃、父は、心筋梗塞になってしまい、新潟市民病院で緊急手術を受けました。その後、父は東京の自宅に戻って療養をしながら、監査役として、時々会社に出るようになりまし た。徹と母と私は、新潟に残って、新潟で生活をしていました。それでも、父は翌1997年1月から4月までに3~4回、徹のことを心配して徹の様子を見に新潟に来ました。徹は陳述書で、父が心臓の手術後同室に戻ってきたと述べていますが、父は東京で療養しつつ、時々仕事に出るようになっており、3~4回新潟に来て、何泊かしただけでした。

(6)なお、徹は、陳述書で、玄関ドアを内側から施錠できるようになっていたと述べていますが、実際には、私たち家族は玄関ドアの鍵に細工をしたことはありませんでした。徹は、自由に出て行くことができました。しかし、徹が自分でマンションから出て行こうとすることはありませんでした。

(7)1997年の4月頃、父に肝臓ガンが見つかり、もはや手遅れの状態でした。■<後藤徹氏の兄>がこのことを徹に告げると徹はショックを受け、激しく泣いていました。徹が、父が自分を拉致監禁しで、棄教を迫っていると考えていたのであれば、あのように父の病気を知って泣いたりすることはなかったと思います。

  父はガンが見つかってから川越市の帯津三敬病院へ入院しましたが、6月22日に容態が急変しました。私たちは、父が息を引き取る前に、徹に会わせたいと思いました。しかし、間にあわず、父は亡くなりました。父は、病床で、母と■<後藤徹氏の兄>に「徹のことを頼む。」と言って息を引き取ったと聞きました。父は以前から高血圧で、体調面で不安な面があったのですが、徹が、家族が知らないうちに合同結婚式に参加して信者同士で家庭を持ってしまう可能性があったため、そうなってしまう前に、徹と話し合いをしたいと考えていたため、父は、自身の体の無理を承知で徹と話し合いをすることを望んでいたと聞きました。私も、そんな父の願いが判ったので協力することにしたのです。

7.荻窪での話し合い
 (1)父が亡くなった6月22日の夕方、徹、私、■<後藤徹氏の兄嫁>さん、■<後藤徹氏の兄嫁>さんの2人の兄さんとで、東京の自宅に行ったと思います。自宅には母と■<後藤徹氏の兄>がいて待っていました。父の亡骸に対面した私は、悲しみが込み上げて泣いていましたが、徹は、父の胸のあたりに置いてあった刀を見て、「何これ?」と母に聞いていました。その様子が不自然に明るくて、私は違和感を覚えました。それは、私か統一協会にいた時に経験した、感情を押し殺して明るくふるまう感覚に似ていたので、もしかしたら徹は偽装脱会をしているのではないかと思いました。東京に着いてから、■<後藤徹氏の兄>から父は生前マンションを用意しているので、そこで話し合いを続けて欲しいと考えていたと聞きました。そのために、新潟には帰らず、父があらかじめ用意してくれていた、荻窪にある「荻窪プレイス」というマンションに、車で移動しました。

   母は、父が亡くなった後の様々な手続き等があったため、しばらくは自宅に残り、1ヶ月ほどしてからマンションに来ました。荻窪プレイスでは、徹、母、■<後藤徹氏の兄>、■<後藤徹氏の兄嫁>さん、私の5人で生活し、■<後藤徹氏の兄>はこのマンションから職揚に通い、時々新座のマンションにも帰って、寝泊まりしていました。寝ていた場所は、奥の部屋に徹が寝て、居間に母、私、■<後藤徹氏の兄嫁>さんが寝ていました。徹は、聖書や原理講論を読んだり、私や■<後藤徹氏の兄嫁>さんと雑談したりしていました。また、買い物は、私と■<後藤徹氏の兄嫁>さんのどちらかが行っていました。■<後藤徹氏の兄>も仕事で外出することが多かったので、母が来るまでは私と■<後藤徹氏の兄嫁>さんのどちらかが買い物に出ている時は、徹と私か■<後藤徹氏の兄嫁>さんの二人になることがよくありました。

   徹は陳述書で、荻窪プレイスで、玄関にダイヤルロツク式の鍵がしてあるのを見たと記載していますが、そのような鍵は付けていませんでした。

(2) 1997年12月、荻窪プレイスを出なければならなくなったと■<後藤徹氏の兄>から聞きました。そこで、以前父が候補に挙げていたフラワーホームに急きょ移動することになりました。乗用車で、母、徹、■<後藤徹氏の兄嫁>さん、私、■<後藤徹氏の兄>か■<後藤徹氏の兄>の友人が運転して移動しました。

   フラワーホームに移動してから数日した後、徹から偽装脱会していたことを告げられました。私は半信半疑でしたがやっぱり偽装だったと知り、非常に落胆しました。ただし、脱会していないということがはっきりわかったので、これを機にきちんと話し合いができると思い、母が、「もう一度しっかり統一協会を検証してほしい。そのためには統一協会に詳しい宮村さんも交えて話をしましょう。」と言いました。徹は、京王プラザホテルで宮村さんから棄教を強要されたと言っていますが、このとき宮村さんから話を聞こうという家族の勧めに反対することはありませんでした。

(3)1998年の1月頃、宮村さんに来てもらい、統一協会の実態について話し合いに参加してもらうようになりました。元信者の人達も来て、統一協会での自らの体験を話したり、徹が、今統一協会ではどんな活動をしているのか、と質問してそれに答えてくれたりしました。宮村さんや元信者の人達は、週に4回、平日の夕方5時半から8時ぐらいまで約2時間徹と話し合いをしてくれました。徹は、話し合いを拒否するような姿勢を見せるどころか、自ら宮村さんに、共産主義や、統一協会の教えである勝共(正式には国際勝共連合。統一協会の教祖である文鮮明によって1968年に創設された政治団体。共産主義はサタンの思想で、神と人類の敵であるとして、それに代わる、統一原理を基に作られた勝共思想の普及を第一の運動方針に掲げている。)について質問していました。宮村さんはそれに一つ一つ答えていました。逆に、宮村さんの方から徹に質問しても、徹は答えられず、都合が悪くなるとはぐらかしたりごまかしたりしていました。また、宮村さんの話を遮るように大きな声でしゃべったりして、持論を展開するばかりで話はかみ合わないことが多かったです。

  徹は陳述書で、宮村さんに棄教を強要されたと述べていますが、家族も宮村さんも、徹に棄教を強要したことはありません。「統一協会の教義が真理なら家族は信じるから、なぜ真理だと言えるのか説明してほしい。」と私は徹に言い続けていました。しかし、徹はいつも、「価値観が違うから。」とか「今は時ではないから。」と言ってまともに答えてくれませんでした。また、徹は、「話を聞いていない。」「自分の頭で考えろ。」と私が言ったことに対して、「統一協会批判を全然聞き入れようとしない。」「統一協会の誤りを認めろ。」という意味だと述べていますが、そのようなことはありません。徹とのやり取りを聞いていれば明らかに的外れなことを言っているのですが、本人はそれに気付かないようでした。このやりとりを徹は自分だけ批判されていると被害妄想的に思い込んで陳述書に書いています。

 徹は、必要とする情報を得ることができなかったと述べていますが、時期はいつだったかよく覚えていませんが、広辞苑に似た辞書や現代用語の基礎知識等、徹が読みたがった本を■<後藤徹氏の兄>が渡しました。私たち家族は自分に都合のいい情報だけを徹に渡していたわけではありません。

  平行線のかみ合わないやり取りが続き、宮村さん来てもらっても意味がないと考え、9月頃からは家族だけで話をすることにしました。それ以降宮村さんは来ていません。
  宮村さんが来なくなった頃私と■<後藤徹氏の兄嫁>さんとで話していると、徹がいつものようにはぐらかしたりごまかしたりを繰り返しました。徹は、都合が悪くなったり、自分の思うようにならないと「拉致監禁していいのか。」などと決まり文句を言うようになりました。

 これに対し、私や■<後藤徹氏の兄嫁>さんは「これのどこが監禁なの?いやなら出ていけばいいじゃない。」「窓を開けて叫べばいいじゃない。」などと言うと、徹は「自分がしたいようにする。」とか「自分の勝手だ。」などと言って動こうとしないのです。■<後藤徹氏の兄嫁>さんが「玄関の方に行こう」と言って徹の腕を引っ張って玄関の方に行こうとしましたが、徹は「いいよ」と言ってあぐらをかいたまま動こうとしませんでした。家族だけの話し合いはその後も続きました。私は、徹が自分で考えて、宮村さんの話を聞く気になってくれるのを待っていました。

(4)前述したとおり、統一協会では、このような話し合いの場では、反対している相手と相対基準を結ばないで、話を聞かずにやめた振りをして戻ってくるように指示します。私自身もそう教わって、信者のときは、そうしなければいけないと考えていました。多くの信者もそのように考えてそう実践しようとします。反対している家族や牧師はマスコミの悪い情報に踊らされていると教えられるため、まともに話を聞こうともしません。

また、人情より天情に徹せよという教えがあるため、家族の情に流されないようにしました。原理を知ってからやめるとひどい地獄へ行くと言って、恐怖心を植え付けたりしています。永遠の霊界で苦しみ続けること、しかも先祖や子孫までそうなることは信者にとって死ぬことより恐ろしいことです。また、脱会することは、それまでの統一協会のために犠牲にしてきたことを捨てることになるので、避けたいという思いが強くありました。

  また。信者は、アベルからの指示どおりに考え、また行動するように習慣化されられています。サタンに支配された私達は、より神に近いアベルの指示のもとで行動しないと誤りを犯すことになり、自分で考えて自分の意思で行動することはいけないことと再三教えられて、自分で考えることができなくなってしまいます。そして徹の場合、一度目の話し合いの後、統一協会に戻ってから統一協会を正当化する本や、批判している牧師の活動を誹誇中傷する本などを多数読まされたり、批判している牧師に対抗するための講義を聞かされたりして、理論武装していたようでした。こういった教え込みなどによって、家族との話し合いはより困難になっていたのだと思います。

(5)家族は何とか聞く耳を持ってほしいと一生懸命に話をしました。話の内容は大体以下のようなやりとりの繰り返しでした。
Q なぜ統一協会は反社会的な活動をするの?霊感商法のような詐欺が統一協会だと許されるの?
A それはね、説明するのは難しいんですよ。
Q 難しくたって悪いことをしてしまっているんだから、なぜそれが正しいことなのか、ちゃんと説明できなきゃまずいでしよ。難しいって言っていれば何をやってもいいの?
A いや、そんなことはないですよ。天から啓示で与えられたものなので。堕落している現代人にはなかなか理解できないんですよ。いずれわかる時が来ますから。
Q いつまで経ったって詐欺は詐欺じゃないの?じゃあ同じことをオウムがやったっていいじゃない。正しいことなんでしよ?
A いや、オウムはだめだね。真理じゃないし、メシヤじゃないし。
Q オウムだって自分たちが真理だって言ってるじゃない。真理だって言えば何やってもいいの?
A.いや、本物じゃないから。
Q じゃあ、なんで原理は本物だと言えるの?そこをちゃんと説明してよ。真理なんでしよ。人が生きでいくための正しい道なんでしょ?もしそれが本当だったら私達だってやらなきゃいけないじゃない。
A いやー、難しいですね。誤解されてるし。
Q 誤解というならどこがどう誤解なのか、正しくはどうなのかちゃんと教えてほしい。
  マスコミや世間の見方が間違っているの?誰が見たって霊感商法のように悪いものは悪いでしよ?
A イエスキリストがそうだったように、新しい真理が世に出る時には、迫害がつきものなんですよ。真理だからこそ迫害される、当時と全く同じですよね。
Q 迫害というけれど、やってることは普通に考えたら悪いことだよね。自分たちが悪いと批判されてるだけなのに、それを迫害と言ってるだけじゃないの?北朝鮮と一緒だよね。迫害されること=真理じゃないでしょ。
 A 結局価値観の違いですよね。価値観が違えば理解は難しいですよ。
 Q 価値観が違えば何をやってもいいの?行動がおかしいから考え方もおかしいんじゃない?と言ってるのにどうしてちゃんと見直そうとしないの?

  何度もこのような同じ話を繰り返しましたが、話はこれ以上かみ合わないのでした。
  私は、以前母を東京駅に置いて二人で逃げた時の話もしました。両親はわかってないからいいのだと、自分を正当化していましたが、私は、「私達が両親に対してとった行動によって、ますます信頼を欠くことになってしまったのではないか。いくら口で素晴らしいことを言っていても、やっていることがこれでは全く説得力がない。しかも、心配する両親に対して、理解してもらえるように話し合って来なさいと言われるのが普通だと思うが、騙して戻って来いと指示するのはおかしいし、それに疑問を持たないで従ってしまうのもおかしい。」と言いました。

徹は、始めは黙って聞いていましたが、話しているうちにだんだん顔つきが変わり、一方的に自分の主張を通そうとしていました。都合が悪い話になると、このようになったり、話をすりかえたりごまかしたりもしました。

  徹は夜中までテレビを見たり、統一協会で役立ちそうな原理の勉強や、統一思想や世界情勢などの、自分にとって都合のいい本を読んだりして、家族が切望している話合いや統一協会の問題に正面から向き合おうとしませんでした。これから一体どうしたいのか、ちゃんと確かめる気があるのかと問いかけても煮え切らない態度で、はっきりしませんでした。

(6)フラワーホームでの生活状況について
ア フラワーホームに移ってからは、奥の部屋(甲9号証添付の図4記載のMの部屋)に、徹、母、私の3人で寝ていました。食事は、主に私と母が作り、奥の部屋で皆一緒に食べました。この頃は、徹は、朝7時ごろ起床して朝食をとり、聖書や原理講論を読んだりしていました。昼食後は話し合いをしたり、徹は日中、腹筋したりスクワットしたり運動した後シャワーを浴び、夜も風呂に入っていました。夜はだいたい11時半位に寝ていました。

イ 1998年の秋頃、徹か子供の頃好きだった熱帯魚を奥の部屋で飼っていましたが、1年くらいで死んでしまったのでやめました。その代わりに、観葉植物を置いていました。朝食後には、家族皆で健康維持のために、ビタミンやカルシウムなどのサプリメントを飲み始めました。この頃から、台所の冷蔵庫の横にあった棚にお菓子やインスタントコーヒーを置いていました。皆自由にとって食べ、徹はコーヒーを1日4~5杯砂糖やミルクをたくさん入れて飲んでいました。

ウ 1999年の春頃から2007年の秋頃までテレビを奥の部屋に置いていました。食事をするときは。テレビを見ながら食べていました。
   徹は、2001年頃、一人部屋にこもるようになってからは、かなり長い時間テレビを見ていました。大河ドラマや朝まで生テレビなど、夜中から明け方まで見ていたこともありました。

エ フラワーホームには、業者の人が出入りしていました。
   2000年7月頃には、奥の部屋のエアコンが動かなくなり、電気店と、メーカーの業者に依頼して修理してもらいました。
   2002年には、給湯管の取り換え工事がありました。台所と風呂場で、2~3人作業し、朝から夕方までかかっていました。
   このようにフラワーホームには家族や元信者以外の者も何度か訪れていますが、そんな人達に徹が自分が監禁されているなどと言って救いを求めたことはありませんし、これらの人達と接触を試みようとしたこともありませんでした。

 オ 2003年の冬頃、私と母は、玄関前のスペースで話をしていました。奥の部屋の方から何か声が聞こえたので、行ってみると、徹か母と私を呼ぶ声でした。私か何かあったのかと聞くと、徹は、■<後藤徹氏の兄>がトイレから出られなくなっていると言いました。私はトイレの前に行くと、■<後藤徹氏の兄>がトイレの中から「戸が開かなくなった。中からやってもだめだ。」と言っていました。私は何かしようと、トイレのドアノブを引っ張ったり、ドアノブの真ん中の溝にスプーンの柄の方を差し込んで回したりしたが動きませんでした。それを見ていた徹か私に「ドライバーはないのか?」と聞くので持ってくると、徹はドアノブにドライバーを差し込んで回したりしましたがドアは開きませんでした。■<後藤徹氏の兄>はトイレの中で、携帯でつながったOさんに、外から壊さないとだめかもしれないので何とかして欲しいと伝え、20分ぐらいしてOさんがバールを持って来てくれました。Oさんはドアノブをバールで壊し始め、30分ぐらいしてドアノブがはずれ、トイレのドアが開き、■<後藤徹氏の兄>は出られました。■<後藤徹氏の兄>は奥の部屋に行き、徹に「騒がせてすまなかったな。」と言っていました。この時も徹はマンションから出ていきませんでしたし、出て行くようなそぶりも見せませんでした。

 カ 2007年の春頃、奥の部屋の窓の外にあった雨どいの取り換え工事が2回在りました。奥の部屋の窓から外に出て、2人で作業していました。
   その他、年に1~2回台所と風呂場などの排水溝の清掃のために業者が部屋に入っていましたが、そのような時も、徹は奥の部屋から出ずに、黙っていました。

(7)フラワーホームに統一協会信者が押し掛けてきて、話し合いを妨害されては困るので、玄関のドアチェーンに南京錠を一時付けていたことがありましたが、1998年4月中には取り付けるのをやめました。

   徹は家族に監禁され、常時監視されていたと述べていますが、徹は奥の部屋に一人でいることが多く、2001年頃からは襖も閉め切って、一人奥の部屋でこもって家族を中に入れようとしなかった時期もあり、何をしているのかもわかりませんでした。また、フラワーホームでは、徹と母と私の三人で生活していた期間か大部分で、母か私が買いものに行ったりしている時は、私か母一人になることも多くありました。

   2001年1月頃、■<後藤徹氏の兄>は仕事をやめ、フラワーホームのマンションにいることが多くなりました。■<後藤徹氏の兄嫁>さんは体調をくずし、新座のマンションで生活していました。この頃は、家族は徹と話し合いがでないので、徹の様子をみているだけでした。2月頃、徹は部屋をうろうろしながら大声で家族を罵倒し、襖や障子を壊しました。■<後藤徹氏の兄>は徹を注意しましたが、やめないので、徹を取り押さえましたが、ますます反発して「暴力魔!独裁者!」など騒いでいました。母も私も徹が物を壊さないように取り押さえましたが、わざとアコーディオンカーテンにつかまって離さず、アコーディオンカーテンが壊れてしまいました。ひと悶着した後、徹は「あ一疲れた。部屋に戻ろう。」と言って部屋に戻り、何事もなかったかのように、家族の作った食事を食べていました。このように、この頃、■<後藤徹氏の兄>がマンションに滞在することが多くなり、徹が■<後藤徹氏の兄>に感情的に反発し、■<後藤徹氏の兄>と徹がもめることが多くありました。

   徹は、顔や手足から出血して血だらけになったと述べていますが、ちょっと切れた程度で、絆創膏を貼って治る程度の傷でした。また、着ていた上着はボロボロに破かれたとありますが、上着はニットのジャケットで、徹を取り押さえた際に、多少ニットがほどけた程度でした。徹は、ほどけた部分を繕って再度着でいましたから、ボロ
ボロに破けたというのは明らかに誇張しています。

そんなことをくり返し、しばらくして、■<後藤徹氏の兄>は徹とコミュニケーションを取ろうと、徹か読みたがっていた本を持って行くと、徹は「え、いいの?」と言って、急に態度を変えていました。そんな徹の態度を見て、その場しのぎに、自分のやりたいようにやっているのだなと思いました。

(8)徹は、奥の部屋で寝ていた母と私の布団一式と、私と母の服が入っていた引き出しを部屋の外に出して、部屋の襖を閉めて、一人こもる状態になってしまいました。徹は家族とコミュニケーションをとろうとせず、新聞ばかりを読んでいたり、かなり遅くまでテレビを見ていたりしており、明け方まで見ているときもありました。この時から徹は食事も一人でするようになり、母が食事を運び、食べ終わると徹が自分で台所に食器を持って行っていました。私が部屋に入って掃除しようとすると、「自分でやるからいい。出ていってくれ。」と言って私や母を部屋に入れようとしませんでした。徹は自分で掃除したいと思ったときに、週一回くらい掃除機をかけていました。夜は奥の部屋で一人で寝ていました。この頃、私か手作りしたパンを焼いて冷蔵庫に入れておくと、徹が知らないうちに出して食べていました。

   徹は、新聞をため込み、世界情勢や政治など自分の関心のある記事を切り抜いて赤線を引いていました。また、ノートに原理の図などびっしり書き、ノートがなくなると、母に「これ。」と言って『ノート、赤鉛筆、ボールペン』など欲しいものを書いたメモを渡しました。その通りに母や私が買ってきて、買ってきた物を徹に渡していました。

 (9)3回の断食
  ア 2004年、■<後藤徹氏の兄>が職場復帰して仕事に出ることになり、新座のマンションに戻り、徹が奥の部屋で一人こもっているのを心配していた■<後藤徹氏の兄嫁>さんが、フラワーホームに来て生活するようになりました。この年の4月頃、徹か断食をはじめました。

■ <後藤徹氏の兄嫁>さんが台所で食事を作っている時、徹はドスドスと大きい音をたてて運動していました。気になった■<後藤徹氏の兄嫁>さんは、閉まっていた襖を開け、徹に静かにするよう注意しました。徹は■<後藤徹氏の兄嫁>さんに反発的な態度で言い返していたので、それから私も話に加わりました。徹が奥の部屋で一人こもって生活していたので、これからは皆で奥の部屋で一緒に食事すると言うと、徹は嫌がりました。しかし、母と■<後藤徹氏の兄嫁>さんと私は、あえて徹がいすわっていた奥の部屋で食事しました。徹はそれなら食べないと言って食事しませんでした。その後も、私達が奥の部屋で食べようとした時、徹は一緒に食事をするなら断食すると言いだしました。家族はやめるように言いましたが、徹は聞かずにやり始めたので、仕方なく見守っていました。徹は、初めの頃は運動したりしていましたが、10日過ぎたあたりから、運動をしなくなり、風呂にも入らなくなったので、母がお湯で濡らしたタオルを用意し、体を拭くようにと徹に渡していました。19日位経つと、徹は断食をやめると言ってきました。断食後の食事は私と母が気を遣いながら、重湯から徐々に普通食に戻していきました。徹の陳述書には、1回目の断食後、約1年かけて体重が戻ったとありますが、実際には、1回目の断食後は、けっこうたくさんご飯を食べていたので、体重はもっと早く元に戻っていました。

    これをきっかけに、また家族と一緒に食事するようになり、皆で鍋を囲んで食べたりしたこともありました。家族と一緒に食事をするのを嫌がっていた徹でしたが、「こうやって皆で鍋を食べるのもいいね。」などと言っていました。

    この頃、徹とは、母、■<後藤徹氏の兄嫁>さん、私の3人と一緒に話し合うことが多くありました。話しの途中で徹に疲れた様子が見えた時は、私と■<後藤徹氏の兄嫁>さんで、本を見ながら、徹に足裏マッサージや背中を指圧したこともありました。徹はやり終わった後「ありがとう。」と言っていました。■<後藤徹氏の兄嫁>さんと私で話す時は、徹は聖書の聖句の意味やキリスト教の教義など、かなり細かいことを質問してきたので、分かる範囲で答えたりしていました。また、世間話や子供の頃の話、音楽や、昆虫の話しなどもしましたが、原理の話になると、顔つきが変わり、はぐらかしたりごまかしたりで、話になりませんでした。この頃、徹と母、■<後藤徹氏の兄嫁>さん、私の4人で話をしていた時、徹が、はぐらかすので、「ちゃんと聞きなさいよ。」と注意すると、徹は台所に行って嫌がらせのようにうろうろするので、■<後藤徹氏の兄嫁>さんと私が台所に行ってやめさせようとすると、そばにあったポットをわざと倒し、そばにいた■<後藤徹氏の兄嫁>さんの足にお湯がかかって火傷してしまったこともありました。

イ 2005年の4月頃、徹は2回目の断食をしました。きっかけは徹が韓国語のテキストが欲しいと言ってきたことでした。私は、韓国語の勉強ばかりやって、大事な話がおろそかになってもよくないと言って、韓国語のテキストを買うことを断ると、徹はまた断食を始めると言い出しました。2回目の断食の時は、徹は23日目位にやめました。断食終了後に徹が体重を量りたいと言うので、体重計を持ってきて計ってみると、45キロ位でした。断食後も統一協会について話をしましたが、まともに答えようとせず、話し合いにならなかったため、私と■<後藤徹氏の兄嫁>さんは、ここから出て自分で働いたらどうかと何回も言いました。しかし、徹は、「そう言われましても…。」と言って、マンションから出て行くそぶりは一切見せませんでした。

    この頃、夕食後、母が食器を洗っているときに、徹は10~20分位運動していました。10キロ位ある座卓を持ち上げたり、スクワットしたりしていました。それを見て母が、食べてすぐ運動しない方がいいと言っていましたが、徹はそのままやり続けていました。徹はマンションでの生活で体力的に弱くなっていったと主張していますが、実際には、10キロもある座卓でトレーニングをするくらい体力がありました。

ウ 2006年の4月頃、徹は3回目の断食をしました。この時は、ノートが欲しいと言ってきたのですが、今までたくさん渡してきていたので断ると、また断食を始めると言い出しました。この時は29日位経ってやめました。家族の心配をよそに3回も断食を繰り返し、体力がなくなるとやめると言って、あたりまえのように断食後の食事を出してもらっている徹の独りよがりで身勝手な態度に、家族はあきれかえっていました。断食後は今までで一番長かったので、慎重に胃に負担がかからないように薄い重湯から始まって、徐々に濃くしていき、おかゆから普通のご飯と変えていきました。ポカリスエットは、粉末のものを溶かして出し、何度も断食をしているので栄養面など体のことを気遣って食事を作りました。この頃、花粉症だった私は、体質改善に青汁がいいと知り、毎朝青汁だけ飲んでいました。徹の体にもいいと思い、朝食に出していました。朝食は胚芽パン1枚と、きなこ、ごま、はちみつなどが入った青汁を出していました。昼と夜はご飯と小魚の佃煮、納豆、味噌汁の中には徹だけに魚のつみれや煮た魚などを入れて出しました。

ご飯は大きめの茶碗に大盛りで出していたので、家族で一番ご飯は食べでいました。しかも、私たちは健康に気遣って五分づきのご飯を出していましたので、食事制裁などということはしていません。徹は、この後、食事を少ししか与えられなかったと陳述書で述べていますが、徹からは家族と同じものを食べさせてほしいと訴えてきたことはありませんでした。徹は、炊飯器から米を抜き取って食べたとありますが、そのようなことは知りませんでしたし、徹のいた部屋のすぐ横には冷蔵庫が置いてあったので、何か食べようと思えば食べられました。

徹は、私の機嫌が悪い時は、ポカリスエットを支給する時間を数十分遅らせたとありますが、毎日きっちり時間を決めて出していた訳ではなく、その時は何かの都合で少し遅くなっただけなので、徹の思い違いです。
また、彼は、断食を、監禁による講義のハンガーストライキと言っていますが、いつも断食する理由は取るに足りないことだったので、原理数(1,3,4,7,12,21,40など)を意識して蕩減条件(自分の願望をかなえるために、一定期間祈祷や断食を行うこと)を立ててやっているとしか思えませんでした。

徹は、インフルエンザにかかったのに病院に連れて行ってもらえなかったと述べています。しかし、実際は、徹はインフルエンザのような高熱を出すことはなく、2日程 度横になって休んでいるうちに治っていました。徹自身も病院に連れて行って欲しいとうことは言っていませんでしたし、私たち家族も、徹が病院に行く必要はなかったと思います。

   また、徹は、水虫の薬ももらえなかったと言っていますが、私の記憶している限りでは水虫の薬は渡していました。
   徹は、私がいきなりビデオテープを取り上げて、破壊したと述べています。しかし、実際は、私か奥の部屋に入ったら、ビデオ付テレビからなくなっていたと思っていた録画用ビデオテープが突然出てきたので、どうしたのかと思ってビデオテープを取ろうとしたら、徹は見られたくなかったのか、あわてた様子でビデオテープを取り上げたので、私もびっくりして咄嵯にビデオテープをつかんだところ、徹と引っ張り合うような状態になって、ビデオテープが壊れてしまったに過ぎません。徹は自分がテレビを録画して見ていたことを知られたくなかったので咄嵯にビデオテープを取り上げようとしたのだと思います。私がビデオテープを自ら破壊しだのではありません。

   3回自の断食の後、■<後藤徹氏の兄>も時々来て話をすることがありましたが、話し合いにならず、これからどうしたいのかと問いかけていましたが、徹は、「そういわれましても・・・。」と言うばかりで、具体的な返答はありませんでした。
   2008年1月に私が徹を軽く突いたことはあったと思いますが、それで徹がふらついてしまうようなことはありませんでした。徹はこの頃も運動をしていましたし、そんなに体力が衰えていることはありませんでした。

8. フラワーホームから追い出すことになった経緯
 (1)前述のように、徹との話し合いはかみ合わない状態がずっと続いていましたので、このままでは埓があかず、本人のためにも良くないと思い、家族でどうするか考えていました。徹の方から何か行動を起こすことも考えられなかったので、家族の方から行動を起こさなければ、今の状況は何も変わらないと思いました。徹に本気で現実と向き合ってもらうためにも、機会を見て、徹を敢えて玄関の外に出すことにしました。そうすれば、徹も態度を決めて真剣に考えてくれるのではないかと考えたからでした。

2008年2月10日、昼食後に、私と母が徹に、「これからどうしようと思っているの?」と、いつものやり取りがはじまり、途中から■<後藤徹氏の兄>と■<後藤徹氏の兄嫁>さんも入って来て話に加わりました。■<後藤徹氏の兄>は以前から徹に、「身の振り方を考えろよ。」と徹に言っていたのですが、徹の方からは何も言ってこなかったので、もう一度そのことを聞いていました。徹は「うーん…。」と言ってはっきりしないので、■<後藤徹氏の兄>が、「もう一度ちゃんと向き合って話をするか、ここを出ていくか決めろ。」と言うと、徹は「そう言われましても・・・。」と、いつもの調子であいまいな態度を取っているので、■<後藤徹氏の兄>が「それじゃあここから出ていけ。」と言って徹を引っ張りました。しかし徹は抵抗して動こうとしなかったので、皆で徹を玄関まで引っ張って行き、玄関の外に出しました。

徹は玄関のドアをたたいていましたが、しばらくすると音がしなくなったので、■<後藤徹氏の兄>が外を見てみると徹の姿はありませんでした。■<後藤徹氏の兄>は徹を探しに行きまたが、見つからなかったので、またここに戻ってくると思い、マンションで待っていました。しかし、2、3日経って徹は戻ってこなかったので、統一協会に戻ってしまったのだと思いました。それから5日後位に、引っ越し、■<後藤徹氏の兄>と■<後藤徹氏の兄嫁>さんは新座のマンションへ、母と私は保谷の自宅へ戻りました。

2008年7月2日の昼頃、徹は突然保谷の自宅にやって来ました。母と私は台所で昼食の準備をしていると、玄関の方から「ごめんください。」と声がするので行ってみると、徹が立っていました。「いやー、久しぶり元気だった?」などと、明るそうに声をかけてきました。母も私もびっくりして「どうしたのよ、突然。」と言うと、「保険証ある?あと免許証も欲しいんだけど。」と聞いてくるので、「住民票移したんでしょ?そっちに連絡が行くはずだよ。」と言うと「そうなんだけど、古い保険証を保谷の市役所に返さないと新しいのをもらえないみたいで。あ、ちょっと上がって話をしてもいいかな?」と言ってリビングに入って行きました。「いや一懐かしいなー。」
と言いながら椅子に座り、以下のようなやりとりをしました。〈Mは、後藤徹氏の妹〉

徹:「お母さん元気だった?」
母:「もうさんざん心配かけて。あっちこっち悪いよ。もう長生きできないよね。」
徹:「うーん・・。M<後藤徹氏の妹の愛称>は働いているの?」
M:「働いてないよ。」
徹:「兄貴や■<後藤徹氏の兄嫁>さんは元気?」
M「まあ、それなりにやってるよ。」
徹:「もう荻窪のマンションは引き払ったの?」
M:「ここに住んでいるんだから、もう必要ないでしょ。保険証はあるかもしれないから見てみる。」
母が保険証を探しに行って、徹に渡した。
徹:「免許証はないかな?」
M:「免許証は再発行しでもらえるでしょ?」
徹:「古いのがあれば簡単に手続きしてもらえると思うんだけど。」
M:「もうどこにやったかわかんないよ。今すぐは探せないから見つかったら送るから住所教えてよ。」
徹:「・・うーん。いいよ、こっちから連絡するから。」
M:「何で教えられないの?」
徹:「いや・・今住んでるアパートは家賃が高いから、近々引っ越そうかと思ってて・・。電話もないし。」
母:「あんた今どこに住んでるの?」
徹:「大塚。アパートで独り暮らししてる。」
母:「働いてんのか?」
徹:「アルバイトだけどね。テレホンアポインターって知ってる?肉体労働はきついからな。働かないと食べていけないし。」
母:「ずいぶん太ったんじやない?」
徹:「うん、20キロぐらい太った。」
母:「礼拝は行ってんのか?」
徹:「行ってる。」
母:「献金はしてんのか?」
徹:「少しね。あ、やっぱり免許証はいいや。なんとかなるから。あ、それとマンションで書いたノートある?」
M:「もう捨てたよ。」
徹:「えー、捨てちゃったの。まあ、しょうがないな。」
    15分ぐらいやり取りして徹は立ち上がり、帰ると言って玄関に行き、
徹:「ずっとここに住むの?」
M:「ここしか住む場所がないでしょ。」
徹:「ああ、そうか。それじゃあ元気でね。」
   徹は玄関を出て帰って行きました。

   このときの徹の様子は、家族に対して敵意などはまったく感じませんでした。ですから、その1ヵ月後に、徹が家族を刑事告訴してきたことは心外でした。

(2)私は徹に対して足りなかったところはあったと思いますが、足りないながらも妹として、統一協会の経験者として、できることを精一杯やってきました。対話を試みようとしているのに、徹から、上から見下すような態度を取られたり、まともに話そうとしなかったりすると、憤りを感じたこともありましたが、兄妹なのに話が通じないことに寂しさも感じていました。一緒に生活していても、徹との距離感を感じてむなしくなるときもありました。何とか聞く耳を持ってほしいと最後まで話し合いを試みようとしましたが、最後まで家族の思いが通じず、結果的に統一協会に戻ってしまったことは残念でなりません。父は徹のことを最期まで心配し、この世を去りました。父の気持ちを思うと、私は徹に、統一原理を正しいと信じているなら、父が生きている時に偽装などせずに真正面から向き合ってほしかった、父を裏切るようなことはしてほしくなかったと思いました。

(3)家族のみならず、宮村さんや松永牧師までもが訴えられた家族としては非常に心痛く、申し訳なく思っています。統一協会の問題性を感じて、純粋に統一協会信者のことを気にかけて、家族の話し合いに協力して下さっている宮村さんや松永牧師や元信者の方達は、統一協会からサタン呼ばわりされ、中傷ビラをまかれたり、車に発信器をつけられたりと、今も様々な嫌がらせを受けていると聞いております。私は統一協会にいる時に「恩讐を愛せよ。」ということを教わりましたが、やっていることはそれとは裏腹です。

 家族の一人が騙されて道に迷い、正しい道だと思い込んで反社会的活動をしていると知ったら、家族としては放ってはおけません。悪事まで働いてしまい、まともに話そうとしても聞く耳を持たないがゆえに、家族が一時自分の人生を犠牲にして話し合いの場を作っても、「話をしないで偽装して戻ってこい。相対基準を結ぶな。」などと指示されて、まともに話し合いすらできなくなってしまうことに、やりきれなさを覚えます。

 私自身の経験からしでも、統一協会に居ては正しい情報を知ることはできませんし、自分自身を冷静に客観的に見ることができなくなってしまいます。私は統一協会に入信していたのは2年半位で、献身者ではなぐ、働きながら通っていましたが、そんな私でさえまったく聞く耳を持てなくなっていました。それは統一協会での教え込みによるものであり、このような教育をされなければ、偽装するなどという発想すら出てとなかったと思います。あらためて、統一協会の問題の根深さを思わずにはいられません。

   今も統一協会を信じて疑わない徹や統一協会の信者の人達が、真実を知る機会が与えられ、正常な判断力を取り戻し、自分で考え行動できる自由を得られるように、そしで私達家族のように、この問題で苦しむ家族がこれ以上生まれることがないよう願っています。
                            以上

2012-02-28(Tue)
 

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一目散に戻ったのはなぜ? 

粉末の紅茶、レモネード、歴史の参考書、専門学校案内、広辞苑に似た辞書、現代用語の基礎知識………。
なんで徹さんはこんなものすら買いに行けなかったのでしょうか?

腹筋したりスクワットしたり、ドスドスと大きい音をたてて10~20分位運動、10キロ位ある座卓を持ち上げたり………。
なんで、徹さんは狭い部屋で運動する必要があったのでしょうか?。なぜ外で運動しなかったのでしょうか?

<もう一度ちゃんと向き合って話をするか、ここを出ていくか決めろ>
どうして、徹さんは財布、保険証、免許証を持っていなかったのでしょうか?

<何とか聞く耳を持ってほしいと最後まで話し合いを試みようとしましたが、最後まで家族の思いが通じず、結果的に統一協会に戻ってしまったことは残念でなりません>
どうして、徹さんは外に出されると一目散に統一協会に戻ってしまったのでしょうか?

<「話をしないで偽装して戻ってこい。相対基準を結ぶな。」などと指示されて、まともに話し合いすらできなくなってしまうことに、やりきれなさを覚えます>
徹さんの妹は、図らずも、徹さんが統一協会の教えを遵守し、逃げて統一協会に戻るために偽装し“話し合い”に耐え続けたことを認めています。

これを読んで、徹さんは居座っていた、と思う人はまずいないでしょう。残念でした。
2012-02-29 19:01 | みんな | URL   [ 編集 ]

矛盾、矛盾、、、ああ矛盾 

部屋での様子を妹さんはこう書いていますね。
≪1998年の1月頃、宮村さんに来てもらい、統一協会の実態について話し合いに参加してもらうようになりました。元信者の人達も来て、統一協会での自らの体験を話したり、徹が、今統一協会ではどんな活動をしているのか、と質問してそれに答えてくれたりしました。宮村さんや元信者の人達は、週に4回、平日の夕方5時半から8時ぐらいまで約2時間徹と話し合いをしてくれました≫

後藤さんが長く12年もマンションにいるはめになったのは、家族を伝道するためだったのではなかったでしょうか。後藤さんがこのマンションにいた目的はいったい何だったんでしょう。後藤さんにはここにいて益になるメリットは何も見当たりません。

≪「統一協会の教義が真理なら家族は信じるから、なぜ真理だと言えるのか説明してほしい。」と私は徹に言い続けていました。しかし、徹はいつも、「価値観が違うから。」とか「今は時ではないから。」と言ってまともに答えてくれませんでした≫

これが伝道しようとしている姿でしょうか???

≪徹は、必要とする情報を得ることができなかったと述べていますが、時期はいつだったかよく覚えていませんが、広辞苑に似た辞書や現代用語の基礎知識等、徹が読みたがった本を■<後藤徹氏の兄>が渡しました。私たち家族は自分に都合のいい情報だけを徹に渡していたわけではありません≫

これのどこが伝道しようとしている人の姿でしょうか?かえって、妹たちのほうが与える立場になっています。後藤さんのほしい情報をなんで自分で得ることができず、兄があてがうのでしょうか???

歯が浮くような嘘ばかりを並べて、本当に恥ずかしくないのでしょうか?
2012-03-01 11:34 | kiy | URL   [ 編集 ]

食事について 

<朝食は胚芽パン1枚と、きなこ、ごま、はちみつなどが入った青汁を出していました。昼と夜はご飯と小魚の佃煮、納豆、味噌汁の中には徹だけに魚のつみれや煮た魚などを入れて出しました。>

<徹からは家族と同じものを食べさせてほしいと訴えてきたことはありませんでした。>

妹さんは、上記を食事として出しており、食事制裁はなかったとおっしゃってます。
では、食事制裁を受けたと主張している徹さんは何を食べたと言っているかというと・・・

(2011年6月27日 後藤徹氏陳述書(5))
朝:パン1枚、飲み物一杯
昼:ごはん一杯、味噌汁、のり4枚、漬物、小魚少々、梅干し
夕:ごはん一杯、味噌汁一杯、漬物、小エビ、納豆

ほぼ妹さんと徹さんの主張する食事の内容は一致してます。
ので、この食事内容はほぼ間違いないでしょう。

徹さんはこの食事で1年3ヶ月過ごしています。
このメニューをみて何かが足りないと思いませんか?

甲第4号証小出医師の診断書によれば、「蛋白質の量は、30~40gであり(当院管理栄養士の推定による計算)、これは厚生労働省の出しているたんぱく質の推定平均必要量(資料2)さえも下回っていた。」とあります。

明らかに蛋白質不足です。
蛋白質と思われる食材をあげれば小魚、小エビ(これは蛋白質といえるかどうか?)、納豆、味噌汁の中に入れたつみれ、魚の煮たもの。
本当に寂しい限りです。

いくら、活動量が少ないとはいえ、40代初めの男性、肉も食べたいでしょう、いや、食べないとダメです。
ダイエット中でも、良質の蛋白質を摂るよう言われています。

30日の断食後、70日の重湯生活、4ヶ月の移行期、そして1年3ヶ月の上記の食事。これでは、診断書にある状態になるのは必至でしょう。
幼児、児童、高齢者なら虐待事例として扱われるでしょう。

しかも、そのような食事をしていたのは徹さんだけで、家族は別の食事をしていることを妹さんはきちんと語っています。

まぁ、必死に悪なる統一教会から救おうと家族は生活全てを犠牲にしているのに、当の徹さんは話しを聞かず、あげくに好き勝手に断食を始め、辛くなったらやめるというのを3回も繰り返したら、頭にくるのはわかります。
でもね・・・(この先はあえて語りません。)

余談ですが、断食後、普通の食事に戻すのは、健康人なら断食期間の2倍、健康に問題のある人で3倍だそうです。
30日の断食なら、90日で戻せば十分すぎるほどです。

なので、断食後なので、考慮して出していたのだろう、というブログ記事もありましたが、これは通じないいい訳です。




2012-03-04 01:29 | 元missM | URL   [ 編集 ]

嘘を突き通すのは難しい。 

 誰しも経験があると思うのだけど、一度、嘘をつくと、あとから様々な矛盾が生じ、さらなる嘘の釈明をしなければならなくなる。「嘘と釈明」の連鎖である。

 たとえば、宿泊が必要な遠方出張を口実に、浮気をした。ところが、ポケットからレストランの領収書が。出張日の、しかも出張先ではない場所の領収書。

 それを突きつけられた当事者は、脂汗をかきながら、釈明する。
 リーチ一発で嘘が成功すればいいのだけど、嘘の釈明によって、さらなる嘘をつかなければならなくなる場合が往々にして多い。
 嘘が5乗ともなれば、もう三行半だ。

 元missM さんほどの高いレベルの投稿ではない。卑下していうわけではないけど、たぶんに情緒的。

 私が注目したのは、次の記述である。

(後藤徹さんと家族との「何とか」は、被告側が主張する「家族の話し合い」だとして、陳述書を読む必要がある。これが前提です)


●この日、心配して来てくれた叔父のOYさんも同乗し、■<後藤徹氏の兄嫁>さんのお兄さんが新潟の道に詳しかったので車の運転手として来てくれました。

<「家族の話し合い」を新潟で行う。ふむふむ、なるほどなるほど。でも、それだったら、徹さんの兄やんが運転すればいいのではないか>

 兄嫁さんのお兄さんが新潟の道に詳しいので、お兄さんが運転した。


<ふむふむ、なるほどなるほど。兄嫁さんの兄は新潟在住だったようだから、そりゃあ、新潟の道に詳しい。なるほどなるほど。だったら、徹さんの兄やんが新潟駅あるいは万代ホテルもしくは古町のトイザラス(いずれも目印になるところ)まで運転し、そこで運転を変われば良かった(あるいは助手席に乗ってもられば良かったのではないか。

 それに、最初から同乗していた兄嫁さんとて新潟の道に詳しいはず。別に自分の兄を頼ることなく、関越道を降りたら、徹さんの兄やんに、、「そこを右に」「今度はその電柱の道を左に」と指示すればいいだけのこと。
 わざわざ、新潟の道案内のために、兄嫁さんの兄さんが新潟から東京の保谷市にまで来る必要はなかったのでは?>


※どんなに恩義がある人からの依頼であっても、松江の地理に詳しいからという理由で、岡山や広島、大阪にまで、おいらは車の道案内運転のために行きませんぜ。「標識にそって松江駅まで来て。そこから助手席に乗って、目的のマンションまで案内するからさ」
 これがふつうの感覚というもの。

 この素朴な疑問に対する回答は、陳述書では見つからなかった。
 ぜひ、兄嫁さんの兄さんには法廷に来てもらって、このことを説明してもらいたいですね。


●翌日から、徹との話し合いが始まりましたが、■<後藤徹氏の兄>は、仕事があるので、2日程して東京に戻りました。
●叔父のOYさんは一ヶ月位して帰られました。

 ここまで読むと、もういけません。頭はスバゲッティ状態・・・。

 とても重要な家族の話し合い。誰にも邪魔されたくなかった家族だけの話し合い。(ああ、美しい♪ またyoshiさんにからかわれるけど、三田明の美しい17歳だ♪)

 嗚呼、それなのにそれなのに。
 徹さんの兄やんは新潟に着いて3日目に早々と東京に戻ってしまった!
 それでいて、叔父さんは一ヶ月も新潟のマンションに。

 横山やすし風に言えば、「どないなっとんのや。なぜおまえだけが帰るんや」
 誰がどう考えても、不自然そのものです。

 やはり、一度嘘をついてしまう(家族の話し合いという嘘)と、辻褄が合わなくなるというものです。

(以下は書くかどうか悩んだ部分ですが、まあいいかと)

 徹さんの兄嫁さんと妹さんの陳述書は、山口貴士弁護士らが精査して、裁判所に提出したと思うのですが、嘘の辻褄合わせは厳密に出来ていませんね。

 その意味で、ある意味、ホッとします。
 浮気したダンナが妻に嘘の辻褄合わせなんて、完璧にはできないはずだから。

 だから、嘘と釈明の途中で、妻に平謝りに謝る。そして、若干心の傷が残ったとしても、また平穏な日々が戻る。
 ただし、嘘の5乗はOUT!

 ところが、今回の場合、困ったことに、「嘘ついてごめん」と謝ると、訴額2億円(和解成立なら数千万円か)を支払わなくてはならない。
 だから「ごめん」というわけにはいかない。痛々しい限りです。

 このあとの書面で被告側はどのような嘘の上塗りをするのやら。
 偽りの美学を貫徹して、読者を楽しませてもらいたいものです。
2012-03-04 18:28 | 米本 | URL   [ 編集 ]

神は細部に宿る 

 前投稿は冗舌すぎて、やや自己嫌悪。

 書き忘れたことを書いておきます。

 私の思考は以下のところから再び出発です。

(引用はじめ)
●翌日から、徹との話し合いが始まりましたが、■<後藤徹氏の兄>は、仕事があるので、2日程して東京に戻りました。
●叔父のOYさんは一ヶ月位して帰られました。
(引用終わり)

 おそらく何気ない一文だと思われるだろうが、徹さんの叔父さんはマンションに一ヶ月も滞在した!

 そりゃあ、「監禁12年」と「滞在1ヶ月」を比べれば、淡々と「叔父のOYさんは一ヶ月位して帰られました}という表現になるのだろうけど。

 で、具体的リアルに考えてみた。

 うちの兄の息子が統一教会に入信した。家族で説得するから「来てくれ」

 そう言われれば、ヨッシャーとなる。

 でも、(保護説得が前提)一週間に2、3度顔を出し、統一批判をやって終わりでしょうね。

 1ヶ月もマンションに寝泊まりして??。ヒェ~。

 妹御の陳述書を読んで、叔父さんのことが気にかかったのです。

 叔父さんが統一教会のことに詳しければよし、でもそんでもないような。

 徹さん、兄嫁さん、妹さんの陳述書を、叔父さんを軸に読み返したのだけど、実に影が薄いのです。言及ほとんどなし。

 叔父さんは1ヶ月ほどマンションに滞在した人なのですよ。
 ああ、それなのに。

 変なことだらけなのです。

 統一教会から妨害されないために、なぜか新潟までいった(このことは不問に伏す)。

 ところが、ようやく
 新潟に着いた兄やんは3日目に、早々と、家族の話し合いの場から離脱。

 これって、いったい、なんなのさ。

「真実は細部に宿る」!

*法的世界と真実探求世界とは、そうそう次元が変わるものではないと信じています。

後藤さん、細部に目を光らせましょう。


2012-03-05 17:41 | 米本 | URL   [ 編集 ]

血情の星ー美しき家族愛ー 

米本のお兄様のコメントにあった「美しい17歳(美しい10代)を聴きながら、妹様の陳述書を読ませていただいたら、もう涙涙。(と言っても涙は出ないのだけど。)

何に感動したかって?
だ~って、妹様が統一教会信者だったのは、2年よぉ。なのに、徹お兄様との統一教会の話し合いに付き合ったのは12年。
6倍よぉ、6倍。

せっかく統一教会をやめて心置きなく合コンを楽しめたのにぃ。

あんまり感動したから、茉莉ちゃん、地上のママちゃんにこの妹様の陳述書を読んでもらったんですぅ。
(以下、妹様の陳述書を真似して会話形式に。)

茉莉:ママだったら、Hおじちゃん(ママの弟)の為に、12年篭もって話し合いする?

ママ:いくら言っても、おバカ宗教にしがみつく弟なんか、もう知らんって放っておいて、イケメンナンパに行くに決まってるでしょ。(茉莉ちゃんのママは統一さんが嫌いなんです。気分を害した方々ごめんなさい。)

茉莉:・・・
茉莉:じゃあさ、茉莉ちゃんが統一に入ったらどうする?

ママ:・・・・・
ぎゃははははははは(ママは品がないのです。)あんたみたいにねぇ、年端もいかないうちから、性約時代、性書、性日礼拝、男湯で殿方の背中流すだの言ってるようじゃ、統一のような禁欲宗教に耐えられるわけないじゃない。3日で自主脱会するのがおちね。

茉莉:・・・・

ママ:にしても、徹さんも偉いわね。車の中で簡易トイレで用を足させられる、という仕打ちを受けながら、「トイレの世話までしてくれてありがとう。」と言うなんて。
ママだったら、車の中にまき散らして、みんなをパニックにさせて、その隙に逃げちゃうわよ。


本当に品のないママでごめんなさい。

結論:ママは家族のために自分を犠牲にして、話し合いはしないということ。
茉莉ちゃんがこの世に生まれて、統一に入って、どこかの誰かが手紙を持ってきても、笑って、追い返すってこと。
2012-03-05 22:36 | ジャスミンの茉莉ちゃん | URL   [ 編集 ]

カルト的人格(上) 

ジャスミンの茉莉ちゃん
>妹様が統一教会信者だったのは、2年よぉ。なのに、徹お兄様との統一教会の話し合いに付き合ったのは12年。6倍よぉ、6倍。せっかく統一教会をやめて心置きなく合コンを楽しめたのにぃ。

 確かに!
 続きを言えば、せっかく徹兄さんを追い出しヤレヤレと思ったら、刑事告訴され、警察と検察から何回かにわたる事情聴取を受ける破目に。
 不起訴そして検察審査会の不起訴不当の訴えも棄却となり、ヤレヤレと思っていたら、今度は民事裁判。まるでオンブお化けのように、縁を切ったはずの徹兄さんが付きまとってくる。
 これは祟りじゃ。

 弁護士と何度もの打ち合わせ。ようやく長い陳述書を書き終えたら、次は証人尋問だ。その前には想定問答をもとにしたリハーサルをやらなければならん。

 東京地裁の判決の如何にかかわらず、控訴審は必至。地裁判決は2013年の春ぐらいか。すべてが決着するのは早くて2014年。徹兄さんを追放してから、実に6年後のこと。
 となれば、18年間、徹、徹、徹だ。

 街を歩いていると、「闘争貫」のスローガン。「徹」の文字に吐き気を催されるのではないか。妹御や、何とも、おいたわしや。涙がにじむ。

 2014年に完全勝利で終わればいいのだけど、一部損害賠償(たとえば1000万円)が認められれば、借金返済の生活が始まる。

 兄上を12年間もマンションに閉じこめた罰、自業自得というものでしょうが、それにしても溜め息が出てしまいます。

 法廷での表情は暗いという。闘うぞという気分になれないのは当然のこと。でも、徹兄さんは12年間も毎年365日、1日24時間暗い顔をしていたのだと思うしかないでしょうね。
 
2012-03-06 11:23 | 米本 | URL   [ 編集 ]

カルト的人格(下) 

 ジャスミンの茉莉ちゃんの最初の問題提起に戻ります。

 徹さんの母上も含め、なぜ12年間も閉じこもったのか。長男夫婦、娘の将来を考えれば、母上は、父上が亡くなった段階で「もう終わりにしよう」と、提案しても良かったのではないか。

 そうしなかったのは、統一教会員の徹は息子ではない。外観は息子なのだがカルト的人格に変わった“別の息子”としか思えなかったからだと思う。

<カルトにマインドコントロールされ、カルトにどっぷりつかってしまうと、カルト的人格に変わる>(西田&ハッサン&宮村の珍説)

 長男、長女をカルトから救出し、カルト的人格から昔のような長男、長女に戻したのに、次男の徹だけをカルトのまんまにしていいはずがない。

 長男、長女も同じ想いだったであろう。
「弟を何とかして」「兄さんを何とかして」、昔の徹に戻したい!

 そうであっても、やはり12年間は長い、長すぎる。


 こういう心理になっていたのではないか、と私は想像する。
 司法試験に挑戦中の心理である。
 3年間もすべてを犠牲にして挑戦してきた。ここでやめれば、これまでの3年間は全く無駄になってしまう。
 あと1年は頑張ろう。
 しかし、翌年も不合格。ここでやめれば、これまでの4年間は・・・。あと1年、そして翌年もあと一年。

 ちなみに、前に住んでいた近所の人で10数年間、司法試験に挑戦していた人がいた。
 挑戦中は、埼玉県立図書館で姿をときおり目にしていた。
 少し前に、ばったり、道路ですれ違った。少々驚いた。どんな顔付き、姿だったかは想像にお任せする。
 
 登山家の心理とも共通する。ビバークしながら4日目に、最後のアタックで頂きにたどりつく地点に立った。しかし、何日も続く猛吹雪が近づいてくる。撤退するしかないが、ここまで登ってきて撤退すれば、すべてが無駄になる。その結果は、英雄か遭難死--。

 徹兄さんの監禁をやめるチャンスはあった。そして、撤退しようという気分になったことは間違いなくあったはずだ。

 それは、98年9月に宮村氏が撤退したときだった。
 ディプログラミング(脱洗脳)の名手、宮村氏が撤退するのだから、「もう諦めよう」と家族も思ったはず。

 これからのことは以前、火の粉ブログでも書いたことだが、宮村氏が突然、説得をやめたのは、彼が一度脱会説得に訪れた富澤祐子さんが、高澤牧師のところから脱出したからだ。

 富澤さんは鳥取教会にいるときに武器を手にした男たちに拉致されている。裁判を提起してくるのは当然予想されること。また、高澤氏は富澤さんに、「関東で監禁されて3年目になる奴がいる」と話していた。

 それで、宮村は怖くなって、手を引いたと思われる。それ以外、考えられない。
 自分が手を引くのであれば、家族にも「もう無理だ。放そう」と提案すればよかったのだが、徹さんは監禁中、「絶対に訴えてやる」と叫んでいた。

 ここで、全員が手を引けば、徹は、必ず俺を告訴&提訴してくる

 そのことが怖いばっかりに、威厳たっぷりに、家族にこう命じたと思われる。
「これからは家族だけで、家族の愛情に基づいて、徹を説得せいよ」

 平常心あれば、「先生だけが撤退するなんて、狡~い!」となるのだが、自分たちの脱洗脳を成功させた絶対尊師である。
 狡いの「ず」の字さえ出るわけがなく、
「そうだ。先生のいう通りだ。私たちは先生に甘えていたんだ。私たちだけで徹を説得しよう」
 ということになったと思われる。

*ここで、美しき10代の楽曲だなッ

 ところで、兄やん、嫁はん、妹御にインタビューする機会があったら、質問してみたいことがある。
「宮村先生に、統一教会をつぶすのは正義であり、全人民の幸福につながることだ。だから、教団本部にサリンをまけ-と言われたら、どうしますか。尊師の命令に逆らうことができますか」

 話を戻して、先生がいなくなった当初は張り切ってやっていたのだが(陳述書にある問答)、それからの9年間は、ほとんどが下痢状態、監禁のための監禁状態が続いていたといっていい。
 
 妹御は合コンにも行けず、新婚に近い兄夫婦は何とかライフも楽しめない。
 ストレスは次第に高まり、その負のエネルギーを徹兄さんにぶつける。
 徹兄さんはたまらず、ハンガーストライキ。

 このように見てくると、後藤家族の心を縛った宮村尊師がすべての元凶といっていいだろう。

 呪いたかったら、尊師を呪え。といっても、そんなことができるようなら、とっくに話し合い解散じゃなかった、監禁解散!はできていた。

 話が詰まってきた。ジャスミンの茉莉ちゃん、『その後の四十七士』ならぬ『その後の後藤一族』の脚本、書いて 
 
2012-03-06 14:08 | 米本 | URL   [ 編集 ]

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拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
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世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
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(強制脱会説得体験者。教会員)

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