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後藤徹氏の妹の陳述書-その1

後藤徹氏の妹の陳述書を掲載する。
後藤徹氏の妹は、兄、兄嫁と同様、かつては、統一教会の信仰をもっていたが、宮村氏の説得により脱会した過去を持つ人物である。


後藤徹氏の妹の陳述書-その1の構成
1.身上・経歴
2.私か統一協会に入信した経緯
3.私の統一協会での活動歴
4.統一協会を脱会した経緯
5.徹との話し合いをすることにした経緯

6.新潟での話し合い
7.荻窪での話し合い
8.フラワーホームから追い出すことになった経緯

青印が今回アップしたもの


乙イ第7号証(陳述書・■<後藤徹氏の妹>)

陳 述 書

平成23年10月4日
東京地方裁判所 民事第1 2部合議係 御中

■<後藤徹氏の妹>


1.身上・経歴
私は、1967年2月14日に、製紙会社に勤めていた父■と母■の長女として東京で生まれました。本件の原告後藤徹 (以下、「徹」と言います。)と被告■<後藤徹氏の兄>(以下、「■」と言います。)は私の兄です。徹は、19 6 3年生まれなので私よりも3つ年上でした。■<後藤徹氏の兄>は、1960年生まれで私よりも7つ年上でした。

私は、父の転勤のため、熊本で高校を卒業し、19 8 5年4月に、熊本にいた両親の元を離れ、東京の町田にある田中千代学園短期大学服飾科に入学し、1987年3月に同短大を卒業しました。卒業後は、同じ年の4月に、東京田中千代服飾専門学校の専攻科に入り、翌1988年3月に同専攻科を卒業して、渋谷にある株式会社エコーという婦人服メーカーに就職し、19 8 9年3月に退職しました。その後、1992年春頃から1995年8月まで立教大学内の書店に勤務していました。その後は、仕事はしていません。

  また、私は、2009年10月25日に結婚し、現在は、保谷の実家で私の母の世話をしながら、工務店を経営している夫と3人で生活をしています。

2.私か統一協会に入信した経緯
 (1)私は、1985年4月から1987年3月まで、町田にある田中千代学園短期大学服飾科に通学し、短大のそばにある寮で生活をしていました。当時、両親は、父の仕事の関係で大阪の社宅に住んでいました。私か短大に通っていた1986年秋頃、当時、東京で働いていた■<後藤徹氏の兄>から会いたいと連絡かおり、久しぶりに町田駅近くの喫茶店で会いました。しばらく話した後、■<後藤徹氏の兄>から私に勧めたいものがあると言われ、私は、町田駅のそばにあるビデオセンターに連れて行かれました。■<後藤徹氏の兄>は、「ここで学べる内容はすばらしいし、今後、必ず役立つから。」と言って私に受講するよう強く勧めました。そのため、私は■<後藤徹氏の兄>を信用して、その日のうちにビデオセンターに入会しました。この時、私は、このビデオセンターが統一協会だとは全く知りませんでした。当時、■<後藤徹氏の兄>はすでに統一協会に入信しており、次男の徹もすでに■<後藤徹氏の兄>の勧めで入信していたと後になってから知りました。

(2)私は、ビデオセンターに入会してから、週に2,3回ビデオセンターに通っていました。■<後藤徹氏の兄>から、「ビデオセンターに通っていることは、今は家族や友人に言わないほうがいい。」と言われたので、誰にも言わずに通っていました。なぜ兄がそう言ったのかわかりませんでしたが、後になって、通っている途中で、ビデオセンターが統一協会だと、周囲から批判的な情報が入ってしまって、通うのをやめることにならないようにするためだったことがわかりました。

   私は、ビデオセンターの講義に聖書の話などが出てくるので、スタッフに「ここは宗教ですか。」と何回か聞きましたが、「いいえ、違います。」と言われてきました。ですので、ビデオセンターが宗教団体の施設だとは全く思いませんでした。

(3)ビデオを一通り見終わって、あまりピンと来ないので、もう通うのをやめようか思っていましたが、スタッフに、今度は「2日間のセミナー(以下、統一協会での呼び方に倣い「2 d a y s」と言います)がある。」「絶対良いから、是非参加して。」としつこく言われ、仕方なく1986年11月29日から30曰にかけて宮崎台の研修センターで行われた1泊2日のセミナーに参加しました。参加者は、男性女性別に5,6人を1班として、各班に班長と呼ばれるスタッフが据えられていました。後から知ったことですが、このスタッフは皆統一協会信者でした。私の班は、Kという20代後半の女性が班でした。

   そこでは、近隣のビデオセンターに通っている多くの青年が集まり、講師が朝から晩までビデオセンターで見たものと同じ内容の講義をしました。これも後から知ったことですが、講師はUという名前の30代位の男性信者で、彼が2日間講師として話し続けました。このU講師は、講義を始める前に「これから講義を始めるので、導いて下さい。」と祈りを捧げていましたが、それについて、私たちはあらかじめ班長から講師はクリスチャンだから祈りをすると聞かされており、統一協会の儀式であることは秘匿されていました。

   当時は、私は自己啓発のセミナーを受けているつもりで、セミナーの実態が、統一原理の講義であることは全く知りませんでした。講師は熱弁を振るって講義し、修練生は涙を流しながら聞いており、独特の高揚した雰囲気がありました。最初に、「創造原理」の話があり、その後、「堕落論」の講義がありました。「堕落論」の講義では、神の世界がアダムとエバが罪を犯し、堕落したことにより、私たち人類はみなサタンの世界に堕ちてしまったため神様は悲しんでいると告げられました。そして、再び神中心の世界に復帰するためにどうすべきかについて講義を受けました。「イエスの生涯」でイエスは人類の復帰を失敗したと教えられました。イエス路程で、イエスがいばらの道を通って、それでも失敗した、せっかく神が遣わしたイエスを人間が傑にしてしまったという物語を情感込めて語り、講義を受ける部屋の照明は落とされ、スタッフがもの悲しい歌を歌うため、皆その物語に引き込まれてしまい、人類の罪深さ、神の悲しみ、そして、イエスの悲しい最後に涙を流して聞いていました。私自身も、この雰囲気に飲まれ、非常に引き込まれました。

   また、「2 d a y s」の最後に、講師から名前は明かさないが、「今、イエスキリストの失敗を克服するべく、再臨のメシヤがこの地上に来ている。」と教えられました。私はこれを聞いて、気持ちがさらに高揚させられたことを記憶しています。

(4)なお、「2 d a y s」では、他の修練生と話をしてはいけないとされていました。疑問点などは全てK班長に聞くように指示されました。また、外部と電話連絡することは一切駄目だと言われました。これは、後で、講義に疑問を持たれたり、参加者同士で話し合って脱会されたりしないようにするためのマニュアルに沿った方法だと知りました。

(5)「2 d a y s」が終わり、気分が高揚させられたまま相模大野にある次の修練所へと送られました。そこでスタッフの歓待を受け、次に同じ年の12月にライフトレーニングというコースがあるからと強く勧められ、断る理由もないのでライフトレーニングに参加することになりました。

   また、この頃、■<後藤徹氏の兄>に誘われて、着物の展示会に連れて行かれ、着物を買うよう進められました。その時、私は■<後藤徹氏の兄>に対し、以前私の成人式用の着物は母が用意してくれると言っていたことを話しました。すると、■<後藤徹氏の兄>は、ここで気に入った着物があれば、それを買って欲しいと両親に言えば着物の代金は両親が払ってくれるだろうから、ここで着物を買うことを決めようと言いました。私は、両親の了解を取らないまま子供たちだけでこのような高価な着物を買うことを決めて良いのかとためらいました。しかし、■<後藤徹氏の兄>や会場にいた販売員からとてもよく似合っているから絶対買ったらいいと、あまりにも執拗に勧められたので、着物を買う気になってしまいました。そして、私は展示会場から母に電話して、気に入った着物があったから買って欲しいと頼みました。母は突然のことで戸惑っていましたが、そんなに気に入ったならお金を出すから買いなさいと言ってくれたので、私は勧められるままに着物を買ってしまいました。その時は、この展示会が統一協会の主催しているものであることは全く分かりませんでした。後に、新生トレーニングで展示会活動を統一協会でやってお金を集めていることを知らされ、このときの着物の展示会も統一協会が主催していたものだと知りました。

   なお、1986年11月頃、■<後藤徹氏の兄>は、会社を辞めて統一協会に献身したいと両親を説得したようでした。両親は、■<後藤徹氏の兄>があまり熱心に頼み込むので、仕方ないとあきらめたようでした。その後、両親は、キリスト教会に通っていた母の弟に、統一協会のことを聞いてみたところ、統一協会は非常に問題ある団体だと聞かされ、それから両親は子供たちのことを心配し、統一協会について熱心に調べたようでした。この時、すでに私たち兄妹3人が統一協会に入信していたことを両親はわかっていたようでした。このことは私か統一協会をやめた後に聞きました。

(6) 1986年12月4日から16日までライフトレーニングという修練会があり、参加しました。この修練会の行われた場所は相模大野にある神奈川第3地区所轄の修練所でした。本来はそこで寝泊まりするのですが、当時、田中千代学園短期大学の町田にあった寮で生活をしていた私は、通いで参加しました。ライフトレーニングでは、「2 d a y s」と同じように創造原理、堕落論、復帰原理についての講義を繰り返し受けさせられました。講師はKAという30歳前後の男性でした。講義が終わって、一日の終わりに心情日誌というものを書かされました。その日一日にあったことや、講義を聴いての感想や、自分の思っていることや感じたことなどを正直に書き、それを班長であるアべルに提出し、班長などスタッフの信者がチェックするのでした。このようにして、私の心情や考えはアべルに把握され、それに基づいて指導され、コントロールされていました。

  その修練会の途中で、修練生全員が家系図を書かされ、次の日、場所ははっきり覚えていませんが、東京都内の霊場と呼ばれる所ヘ車で連れて行かされました。その会場の中は薄暗く、数か所に壷や多宝塔が展示してあり、異様な雰囲気でした。修練生一人一に霊能師の先生が付き、自分の家系図を作り、それを見ながら話をされました。

 このとき、私は、担当の霊能師の先生から「先祖が地獄で苦しんで、あなたの救いを求めている、先祖が救われるためには、あなたが出家するか、それができないなら多宝塔を授かるしかない。」と言われました。そして、霊能師の先生から、1800万円と書いた紙を見せられ、先祖はこの金額を提示していると言われました。私はあまりに高額な請求に動揺しましたが、先祖が救われるならこれを買うしかないという思いでいっぱいになりました。しかし、当時、学生の私にそのような大金を支払えるはずはなく、私が困っていると、霊能師の先生は何度か席をはずし、その都度提示金額が下がりましたが、それでも数百万の霊石を授かるようにと迫られたのです。私は親に相談すると言って、その時は帰らせてもらいました。そして、私は、このことを■<後藤徹氏の兄>に相談しましたが、■<後藤徹氏の兄>もあまりの金額にびっくりして払わなくて良いのではないかと言ったので、結局多宝塔は買わないですませました。後に、私は統一協会での活動を続けていく中で、統一協会が家系図を見ながらどのようなトークで多宝塔を買わせるかについて、作戦を練り上げて分担を決めてゲストを勧誘して大金を出させる霊感商法だとわかり、霊能師の先生も信者が演じていることを知りました。

このことを知った時、私は、着物を買わされたことや多宝塔や霊石を購入するよう執拗に迫られたこともすべて仕組まれていたこと、そして、このような大金をお金のない学生であった私にも支払わせようとしていたことに、驚くとともに「そこまでやるか。」という思いになりました。

もっとも、私は、この時すでに万物復帰の教えを聞いていましたので、「天の摂理」を進めていく上でこれも必要なことなのだろうと、無理矢理、自分を納得させていました。
 ライフトレーニングの終盤には、ここが統一協会で、文鮮明が神から人類の救済を託されたメシヤ(救い主)だと明かされました。私は当時統一協会の名前も文鮮明の名前も聞いたことがなく、世聞を騒がせている団体だということも知りませんでした。そのため、自分が通っていたところが統一協会だと知らされても驚きはありませんでした。私は、「2 d a y s」で高揚させられ、「歴史の同時性」の講義を受け、歴史には一定の法則があって、その法則通りにいくと今メシヤが来ている時期だと告げられていましたので、メシヤが来ているかもしれないと思い込まされていました。その後、知らず知らずのうちに原理の教えがすっかり頭に入ってしまっており、文鮮明がメシヤであることを抵抗なく受け入れていました。私は、自分が通っていたところが統一協会だと知らされた後、■<後藤徹氏の兄>、徹とそれぞれ別の機会に会って話したことがありました。■<後藤徹氏の兄>と会った際には、■<後藤徹氏の兄>からは、3人献身すると両親の反対が強くなるかもしれないから、私は献身しないで、働きながら通った方がいいと言われました。

そのため、私は献身せず、兄の指示に従い、統一協会に通うことにしました。この時、私は、すでに統一協会の教えをすっかり受け入れてしまったので、■<後藤徹氏の兄>に対し、正体を隠されたまま統一協会に通わされたことについて、特に抗議をしたことはありませんでした。徹とは、巣鴨の学生部のホームに私が行ったことがありますが、何を話したかは覚えていません。

(7)その後、私は、宮崎台の研修センターで、12月21日から24まで「4 d ays」という4日間のセミナーに参加しました。このときの講師は、WKという30代位の男性でした。

3.私の統一協会での活動歴
 (1)その後、1986年12月に「4 d a y s」に参加した後、1987年2月に、新生トレーニングという1ヶ月の修練会に通いで参加しました。新生トレーニングでは、「報・連・相(報告・連絡・相談)」するように言われており、一日一回かならずアベルに電話をするよう言われていました。これは修練生の行動をアべルが把握し、修練生を常に統一協会内では神に近い立場にあるとされていたアべルに報・連・相(報告・連絡・相談)をするという習慣を根付かせ、アベルの指示に従わせるためのものだったと思われます。また、信仰生活についての実践的な方法論の講義がありました。具体的には、礼典学という講義があり、「三拝敬礼式」という儀式を毎週日曜朝5時から行うよう指示されていました。この他にも、日曜の午前10時からの礼拝に参加させられたり、献金の方法、伝道方法、万物復帰の意義と価値を教え込まれたりしていました。万物復帰とは、人間は神様に背いて堕落してしまい、万物以下まで落ちてしまったので、神様の元に戻るためには、万物(お金)をまず神様に捧げなければならないという教えでした。

  伝道方法については、実際に、町中でアンケートと称してビデオセンターに連れて行く活動をやらされました。また、万物復帰に関しては、二人ひと組になって、一軒一軒戸別訪問で回って珍味を売り歩いたり、統一協会関係の宝飾展や着物展にその正体を隠して誘って展示会に勧誘したりする活動をやらされました。当時、霊感商法がマスコミで取り沙汰されていましたが、アベルから、統一協会において堕落人間とされているこの世の人達が天の物(統一協会で販売している物)を授かる(購入する)ことによって、そのお金は天に積まれることになり、それを授かったこの世の人達は天国行きの切符を手にすることになるのだと教えられていました。ですから、私は、悪いことをやっているという意識はありませんでしたし、むしろ救いのために良いことをやっているのであって、マスコミや世間の人達は、真実を知らないために反対しているのだと思い込まされていました。

(2) 1987年1月か2月頃に母から電話があり「東京に行くので、徹と私に大阪に一緒に行って、牧師先生の話を聞いてほしいと言ってきました。両親は、当時、吹田市の教会に通っており、そこの牧師の話を聞いてもらえば統一協会の実態をわかってもらえると考えたようでした。徹と私は、■<後藤徹氏の兄>とともに、そのことを当時第8地区の責任者だったKH次長に相談しました。すると、KHは、反対牧師の話を聞くと信仰を失うかもしれないから、途中でトイレに行く振りをして逃げ出してホームに戻ってくるようにと指示されました。当時、「反対牧師の素顔」という冊子を読まされたり、同じ内容のビデオを見せられたり、講義で反対牧師が信者を拉致監禁して無理矢理脱会させられるという話を聞かされたりしていました。その中には、反対牧師によって注射を打たれ、精神病院に連れて行かれるとか、手錠を掛けられるという話もあって、私は、反対牧師はとても怖いという強烈な印象を植え付けられていました。また、統一協会をやめたら地獄に堕ちることになると再三言われていましたので、そのことについての恐怖心もありました。

  母は保谷の自宅に迎えにきて、大阪に行こうと言われ、徹と私と母の3人で東京駅に行きました。駅に着いて私は、母を騙さなければならないことに葛藤しましたが、アべルの指示に従うしかないと思いなおしました。サタンに支配された私達は、誤った判断をしてしまうので、より神に近い立場のアベルの指示に従うようにと教えられていたからでした。そして、指示された通り、腹が痛いと言ってトイレに行き、徹も付いてきてそのまま2人で第8地区のホームに戻りました。後で私か徹と一緒にいる時に、大阪の自宅に徹が電話すると、母は電話口で泣いており、私は辛くなりました。しかし、両親は反対派の情報を聞かされていて、原理が真理であることを知らないので反対しているにすぎないのであって、いずれ分かって私たちに感謝する日が必ず来ると統一協会で教わっていたので、両親は原理のことを何もわかってないのだし、先に知った者が「御旨を進めていく」しかない、つまり、統一協会のいう地上天国実現のために、また家族が救われるために統一協会の活動をしていくのだと、気持ちを振り切っていったのでした。

(3) 1987年3月、短大を卒業した私は、渋谷にある東京田中千代服飾専門学校の専攻科に1年通うことにしました。このころ両親は大阪にいたため。短大の寮を出た私は空き家になっていた保谷の自宅で一人暮らしを始めました。それを機に、神奈川第3地区から兄2人が所属していた東京第8地区に移動するよう言われました。第8地区はお茶の水、秋葉原方面を担当する地域組織でした。そして、私はアべルの指示で第8地区が運営していた飯田橋の春日研修センターに通うようになりました。ここでもう一度新生トレーニングに通いで参加しました。この時、■<後藤徹氏の兄>は、すでに献身者となっており、徹は巣鴨の東京第8地区の学生部にいましたので、別々のホームで生活をしていました。この時、徹は、御茶ノ水や神保町で伝道活動をしていたようでした。

(4)その後、私は学生部に所属し、亀戸にあった一軒家で統一協会の信者である学生達と一緒の集団生活をしていました。この頃は、休日や夜にお茶の水の街頭で伝道と称して、ビデオセンターに正体を隠して誘い込む活動をさせられていました。

その年の5月頃、■<後藤徹氏の兄>がホームからいなくなり、両親と話し合った結果、■<後藤徹氏の兄>が統一協会をやめたのではないかと、アべル(一般的なニュアンスとして近いのは『上司』) から知らされました。私のアベルは、Yさんというまだ大学生の女性でした。私はこのことを聞いて、■<後藤徹氏の兄>が反対派に無理矢理脱会させられてしまったのだと思い、ショックを受けました。それ以来、私は■<後藤徹氏の兄>がどこで何をしているかもわからず心配でしたが、かといって両親にそのことを聞くのもためらっていました。そして、私自身も反対派に無理矢理に脱会させられるのではないかと心配でした。

(5) 1987年11月頃、今度は徹がいなくなったということを聞かされ、私自身も警戒し、学生部のホームに泊まったり、私か自宅に帰る時にアべルが付いて来て一緒に泊まったりすることもありました。その後、徹は統一協会に戻って来て、東京第10地区(小岩、葛西方面)で、鈴木祐司と偽名を使って伝道などの活動をしていていることがわかりました。しばらくしてから私は、徹と池袋で1回会いました。徹は、「宮村さんと話をして、霊人体がぐちゃぐちゃになった。1回は落ちたけど、どうしても確かめたいことがあって、その疑問点を確かめるために統一協会に戻ってきた。」と言っていました。統一協会では人間は目に見える肉体と、目に見えない霊の体があり、これを霊人体と言っています。霊人体は地上生活で善を行うことによって成長し、悪い事をすると傷つくとされ、信者は常に目に見えない霊の世界を意識して生活しています。その霊人体がぐちゃぐちゃになったというのは、反対派の話を聞いて、原理が本当に真理なのか心が揺らいだということです。このとき徹は父や兄に対して敵意や悪意を持ってはいませんでした。父や兄から拉致・監禁されたとか、ひどい目にあったなどとも聞いていません。

(6)この頃、私は、アベルに勧められ、信仰を強固なものにするため、1987年12月31日から1988年1月3日まで越谷の研修所で行われた「4 d a y s」に再度参加させられました。このときの班長はKという20代の女性でした。

(7) 1988年の3月、私は専門学校を卒業し、渋谷にある(株)エコーという婦人服のメーカーに就職しました。学生部から青年部に所属が変わり、仕事が終わってから毎日アベルの指示で、御茶の水や西日暮里にあった青年部のホームに通い活動していました。私は青年部のアべルの指示のもとに、街頭に出てアンケートと称して通行人を呼び止めて、嘘をついてビデオセンターに誘い込んだり、アフリカ難民の救済という名目で嘘の募金活動をしたり、物品販売の展示会に誘ったりしていました。帰りはいつも遅くなり、睡眠不足と疲れで仕事中に居眠りをしてミスすることもあり、上司から注意されることも再三ありました。

(8)1988年4月頃から、母が1月おきに1週間くらい、私の住んでいる保谷の家に来て家事をしたりして大阪の父と母が住む家に帰るということがありました。私は、このこともアべルに報告していました。母が来ているときには、統一協会の活動をしていることについて何か言われるのが嫌だったので、早く自宅に帰るようにしていました。母とは統一協会の話は全くしませんでしたし、母も聞いてきませんでした。また。私は■<後藤徹氏の兄>のことについても全く聞きませんでした。つまり、私と母は本音の話を避けて、よそよそしく生活したのです。

4.統一協会を脱会した経緯
 (1)就職して1年が経とうとしていた1989年の3月、私は仕事が終わって一人で住んでいた保谷の自宅に帰ると、両親と■<後藤徹氏の兄>が待っていたので、私はびっくりしました。久しぶりに■<後藤徹氏の兄>と会って、どうしていたのかなどの会話をした後に、両親から「統一協会で活動していることを心配している。そのことについてしっかり話し合おう。」と言われ、私は、「とうとう来たか。」と思い動揺しました。家族と共に荻窪のマンションへ移動しました。マンションへ行くこと自体は、私は抵抗せず応じることにしました。統一協会では、マンションについていって、話を聞いたふりして偽装脱会して戻って こいと言われていました。また、両親が非常に真剣で一生懸命話し合いをしようと言ってきたので、私は両親との話し合いに応じることにしたのです。その後、マンションで■<後藤徹氏の兄>と両親と私の4人で生活するようになりました。

(2)マンションに移ってから私は、統一協会で教えられていたように、話を聞いたふりをして、隙を見て逃げようと思っていました。元信者の人達が話をしに来てくれても、まともに話を聞かずやり過ごしていました。元信者の人達はのべ10人くらいは来たと思います。元信者は、2,3日に1回、1回に2,3人くらい来て、2時聞くらい話をしました。■<後藤徹氏の兄>は別の部屋にいて、ほとんど話をしませんでした。私は、マンションで生活している中で、気晴らしにお菓子を作ったりしでいました。両親には原理を理解して欲しいという思いはありましたが、私か説明しても、私の理解は浅いため分かってくれないのではないかと思って、統一協会の話はほとんどしませんでした。

   私は、統一協会から相対基準を結ぶな(まともに相手にしないこと)と教わっていたので、その通りにしていました。反対派はサタンで、サタンと相対基準を結ぶと良くないと言われていました。両親も統一協会をやめた■<後藤徹氏の兄>もサタン側の人間なので、相対基準を結ばないようにしていました。私や徹を統一協会に誘い、あんなに熱心に活動していた■<後藤徹氏の兄>が統一協会を辞めてしまったことを、当時の私は理解できませんでした。そして、徹が反対派の話を聞いても統一協会に戻って来てくれたことを、うれしくまた心強く思っていました。■<後藤徹氏の兄>がやめてしまったからには、徹と二人で、氏族のメシヤとして家族を救わなければならないと思っていました。後藤家の先祖や子孫を救うためにも、私は統一協会を絶対にやめることはできないという気持ちでした。また、統一協会をやめてしまったら地獄に堕ちてしまうという恐怖心がありました。しかし、統一協会に入る以前から私が持っている家族に対する愛情と、統一協会で教え込まれていた家族をサタン視する思いの狭間で私の心は痛み、葛藤もありました。

(3)そんな中、1ヶ月くらいして、父から、原理に詳しい人がいるから、その人の話を聞いてみないかと言われ、葛藤はありましたが、このままこうしていてもしょうがないし、話を聞くふりをしてやり過ごせばいいかと思い、了承しました。それから元信者の人と一緒に宮村さんが来ました。この時、私は宮村さんの名前は聞いていたはずですが、反対派の人間に信仰を奪われるかもしれないと思い込まされていたため、恐怖で頭が真っ白になっていたので、誰が来たのかその時はすぐには理解できませんでした。宮村さんは、「こんなに家族が心配しているのに、あなたは何をやっているのか。」と真剣な表情で諭されました。それまでは家族が悪いと思っていたのが、初めて自分の態度の方が間違っているのかもしれないと考えるようになりました。統一協会では、自分たちは絶対正しく、周りは間違っていると教えられていましたが、宮村さんの真剣な表情を目の当たりにして、その考えに初めて疑問を持ち始めたのです。自分が間違っているかもしれないと思い始めてから、私は、統一協会を盲信させられていたことに気付きました。そして、原理の内容、文鮮明がメシヤであることにも疑問を持つようになりました。

   その後、宮村さんは5,6回来て話をしました。いままでは家族の話も元信者の話もすべて聞き流していましたが、この頃からはきちんと話を聞き、話の内容を理解しようとすることができ、原理の矛盾や統一協会の教義がキリスト教の解釈とも異なることも理解でき、もうこれ以上信じてやっていくことはできないと判断して統一協会をやめることにしました。宮村さんは、統一協会について、「真理なら信じてやれ。ただし本当に真理なのか自分できちんと考えるように。」と言われました。そして、自分の頭で考えるようになってからは、いままで盲信していた統一協会の教えは次々と崩れていきました。自分の頭で考え直すようになってから、1週間程度で統一協会をやめようと思うようになりました。

   なにより仕事一筋だった父が、会社を休んで私に付き合ってくれたことに驚きを感じました。普段、父との会話もなく、素直な気持ちを表現することが苦手な父でしたが、この話し合いを通して私のことを心の底から心配してくれた父の思いを実感しました。だからこそ私は本気で統一協会のことを、私なりに考えていかなければならないと思うようになったのです。

(4)私の場合は、マンションでの共同生活は3ヶ月くらいでした。このマンションには内側から出られなくするような鍵はかかっていませんでした。私自身も相対基準を結ぶつもりはありませんでしたが、話し合いには応じるつもりでしたので、家族に黙って出て行
 こうとは思いませんでした。共同生活を始めて1ヶ月くらいで統一協会の誤りに気付き始め、残りの2ヶ月は外出や外食もしながら、両親と■<後藤徹氏の兄>と一緒に暮らしていました。私は、統一協会の教えに縛られて、自分で考えて行動することが出来なくなっていたので、この間に、いままでの自分の考えや行動を振り返り、普通に社会生活が送れるようにリハビリ的な生活をしていました。こうして私は、家族や多くの方々の助けによって普通の生活に戻ることができました。

(5)しかし、このようなかたちで正常な判断を取り戻して、統一協会の真実を知り、結果としてやめられる人はごくわずかであり、多くの信者は真実を知ることができず、地上天国実現のためと信じ込まされ、今も反社会的な活動をしているのです。
  私は、ずっと統一協会にいたらどうなっていただろうと考えることがあります。正体を隠してビデオセンターに誘ったり、霊感商法でお金を出させたり、言われるがまま多額の献金をし、自分の意思ではなく全く知らない人と結婚させられていたことでしょう。多くの日本人女性信者が、韓国人女性も嫌がるような韓国の田舎の農村へ嫁がされ、大変な苦労をしているという話を聞き、私もそうなっていたかもしれないと思うと、改めて家族が私のために骨を折ってくれたことに対して、ありがたく思います。

5.徹との話し合いをすることにした経緯
(1)私は、1989年4月頃に統一協会を脱会しました。その後、話し合いをしていたマンションから出てから1年ほど両親とともに両親の住む大阪でアルバイトをしながら生活をしました。その後、1991年2月頃、東京に出て、保谷の実家で■<後藤徹氏の兄>と2人で生活を始めました。

  そして、1991年末頃に、両親が転勤先の大阪から東京に戻り、家族4人で保谷の自宅で生活するようになりました。この頃、両親のもとに、徹から統一協会に戻ってから久しぶりに電話で連絡して来ていたようでした。両親は、徹かどのような生活をしているのか心配しており、父は当時、統一協会の葛西の施設にいた徹に会いに行き、徹のアべルとも会って話をしてきたことがありました。また、■<後藤徹氏の兄>も葛西の徹のところに時々会いに行って、話をしていました。父は、徹が嘘をついて統一協会に戻ってしまったことを、裏切られたと思って心に引っかかっていたようでした。また、■<後藤徹氏の兄>は、徹に真実を知ってほしい。自分の頭で冷静に考えて欲しいという思いから、徹に会いに行っていました。しかし、わずかな時間の中で話すことは限られるし、じっくりと話し合うということはできないので、統一協会の施設に通って徹と話し合いをすることには、限界を感じていたようでした。この頃私は働き始めて、自分自身に余裕がなかったため徹には会いに行きませんでした。

(2) 1992年8月には3万双の合同結婚式があり、この頃、徹は自ら祝福を受けるつもり、すなわち、文鮮明の決めた相手と結婚をするつもりであるということを家族に伝えてきました。家族は統一協会の問題を知っている立場として、徹が祝福を受けることには反対でした。そして、父は当時統一協会の会長だった神山威宛及び統一協会の第10教会長SY宛に、家族が徹の祝福に反対していることを記載した文書を、内容証明郵便で送りました。しかし、後日分かったことですが、結局、徹は合同結婚式に参加しました。もっとも、その後、この合同結婚式で決められた結婚相手が統一協会を脱会したため、徹はこの相手とは結婚しませんでした。

それでも、家族と徹との交流は続き、1993年頃には、徹が実家に来て一緒に夕飯を食べたりするようになりました。私も、3回は一緒に夕飯を食べました。このときは、統一協会のことは特に話をしませんでした。一度、夕飯の後に、私と■<後藤徹氏の兄>とで徹を車で自宅の最寄りの保谷駅まで送ったこともありました。また、徹は父と外で会ったりするようになりました。この頃、徹は、どういう内容のイベントかはっきり覚えていませんが、父に統一協会のイベントに来ないかと勧めでいました。しかし、私や■<後藤徹氏の兄>には勧めてきませんでした。私は、このような徹の態度を見て、徹は氏族のメシヤとして後藤家を救うという信者としての責任を果たすために、まず父に統一協会を理解しでもらい、最終的に家族皆が信者になって欲しいので、まず父を誘っているのだと思いました。

  1994年には2ヶ月に1回くらいは徹が実家に帰ってきていました。この頃、父と徹と私で、奥多摩の方にドライブに行ったりもしました。また、1995年になると徹はほぼ毎月のように実家に戻ってくるようになり、1995年2月頃、両親と徹と私で父の会社の保養所がある葉山に一泊旅行したこともありました。この頃には、徹は、家族の誕生日にプレゼントを贈っていました。父や母には洋服、私には小物入れ等を贈ってくれていました。

(3)この頃、私たち家族は、徹が合同結婚式で祝福を受けた可能性も踏まえ、相対者(合同結婚式における結婚相手)と家庭を持つ前に、何とか話し合いをしたいと徹と話し合いの時を持ちたいと考えていました。もし徹が家庭か持ってしまうと、徹と一対一で話し合い
 を持つことがいままで以上に困難になると考えたためです。そのためには、家族だけで腰を据えて話し合える場所を用意することが不可欠であると考えました。■<後藤徹氏の兄>は徹と話すために統一協会の葛西の施設に通っていたこともありましたが、それには時間も制約されて限界があること、また、私自身の経験からも、統一協会の影響下にある場所では、アベルの指示に従うという思考回路ができているため、自分で考えるということが出来ないこと、自宅で話し合いの場を持ったとしても、統一協会員が押し寄せて、話し合いが持てなくなると考えたからでした。

  徹と話し合いをするにあたって、父は、新潟の松永牧師に話し合いをしてもらいたいと考えているようでした。徹は一度宮村さんと話し合いをしているので、別の先生の方がいいのではないかと思ったこと、徹は東京で活動していたので、離れた場所のほうが、統一協会に邪魔されなくていいのではないかということや、また、松永牧師は、義姉の■さんが脱会する際に、話し合いをしてもらってお世話になった先生で、伝手があったことや、■<後藤徹氏の兄嫁>さんの親戚が所有するマンションがたまたま空いていたことなどの理由から、新潟で話し合いの場を持つことにしたと、父から聞きました。

  1995年に入ってから、新潟の松永牧師の新津教会に5,6回通い、新津教会の礼拝に出席して、聖書の話を聞いたり、統一協会に関するビデオを見たり、脱会者の話を聞いたりしました。話の内容は主に親や家族としてのあり方で、家族が真剣に向き合うことが大事だということでした。このように新津教会で聞いた話や見たビデオは、元信者の人たちが統一協会の教義や教会員の考え方について話しているもので、徹の陳述書にあるような拉致や監禁の仕方についてのビデオなどではありません。そんな話やビデオのことは聞いたこともありません。教会での学びを通して、家族が真剣に向き合うことが重要であると教わり、自身の経験からもその通りだと考えていましたので、私も仕事を辞め、新潟で徹と話し合いをすることにしました。徹は、■<後藤徹氏の兄>や私か統一協会を離れ、家族で唯一人の統一協会信者として残ったので、自分が氏族のメシヤとして、家族を救わなければならないという使命感をさらに強く持っているのであろうと思っていました。それでも、私自身の経験もあり、残された徹にもなんとか正常な自分自身の判断力を取り戻し、統一協会の真実の姿を知り、本当の自分自身を取り戻してほしいという願いを持って、徹と話し合いにのぞもうと思いました。
2012-02-21(Tue)
 

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隙がなかったのね 

妹さんの話からは、自分が監禁されたこと、そして、兄の徹さんを監禁しようとしたことがはっきりと読み取れますね。

<マンションに移ってから私は、統一協会で教えられていたように、話を聞いたふりをして、隙を見て逃げようと思っていました。元信者の人達が話をしに来てくれても、まともに話を聞かずやり過ごしていました。元信者の人達はのべ10人くらいは来たと思います。元信者は、2,3日に1回、1回に2,3人くらい来て、2時聞くらい話をしました>
<マンションでの共同生活は3ヶ月くらいでした>

隙を見て逃げようと思っていたのに、逃げられずに3ヶ月。どうしちゃったんですかねぇ。隙がなかった、ってことですね。
大の大人が散歩にも出られないほど、厳重に囲われていた―。
そればかりか、次々に元信者が現れ、聞きたくもない話を聞かされた―。
こういう状況を「監禁」と言わずして、何と言えばいいのでしょう。

<マンションには内側から出られなくするような鍵はかかっていませんでした>
<話し合いには応じるつもりでしたので、家族に黙って出て行こうとは思いませんでした>
ちょっと、ちょっと~、取って付けたような口実を並べちゃって~~~。

兄たちによって自分の人生を翻弄させられ、統一協会で不本意な活動に従事させられたことには同情します。ですが、「監禁されていない」「監禁していない」とウソを付くのはよしましょ。本当、見苦しいです。
まあ、すでに犯行に加担してしまったのだから、ウソを付きまくって逃げ切るしかない、すでに生きる道がないのでしょうけどね…。
2012-02-21 18:11 | みんな | URL   [ 編集 ]

自分の頭で考える? 

義姉さんの陳述書にも出てきた「させられていた」という言葉。義姉さん程ではないにしろ、妹さんの陳述書にも出てきてます。

妹さんは他に「思い込まされていた」「自分の頭で考えてなかった」等の言葉が出てます。

同じ脱会者でも、自主脱会者は↑の言葉は出てこないと思います。多分強制脱会者特有の言葉。
私も強制脱会者です。今は↑の言葉は、吐き気がする程嫌いですが、拉致監禁が必要悪と思っていた頃、脱会して間もない頃は「思い込まされていた」と私も言っていました。多分、あの頃は思い込まされていた、マインドコントロールされていた、という言葉に甘えていたのだと思います。
(責任回避)

新トレ、実トレ段階の頃は、確かに思い込もうとしているでしょう。でも、なんぼなんでも、それが何ヶ月、何年も続くでしょうか?
いくら質問が許されない修練会でも、いくら勉強していることを内緒にするよう言われても、いくらビデオの内容を一方的に詰め込まれても、自分の頭で全く考えないで、それが自分の考えになり、行動になるでしょうか?
信じる過程で、「本当に正しいのだろうか?」と自分の頭で考え、吟味すると思うのですが。

事実、妹さんはマンションでの勉強では、宮村氏に言われたことを自分の頭で考え、吟味し、間違いだと、自分で結論出せているわけです。
なのに、統一教会信仰をもつに至った時には、全くなく、ただ受け入れるのみだったのでしょうか?

統一教会信仰の時はただやらされるまま、統一教会脱会の時は自分の意思と言っても、普通は通じないと思います。
読んでて「何で、ここはさせられていて、何でここは自分の意思なのだろうか? ???」と頭の悪い私は、こんがらがってしまいました。
2012-02-21 22:09 | koyomi | URL   [ 編集 ]

目が覚めた 

 koyomiさんの投稿は、とてもラジカル(根源的)なものとして受け止めました。

「思い込まされていた」
何気ない言葉なのですが、よく考えてみると、とても面白い。

こういう心理もあるはずです。
「思い込まされていた」と思っていたのだが、よくよく内省するに、

「<思い込まされていた>と思っていたのだが、よくよく考えると、実は私はその情報を疑いながらも、主体的に選び取っていたのではないか」

 データもあります。

 手相でもアンケートでもいいのだけど、それに引っかかった人(失礼)は、2デイ、4デイに行き、実践トレなんとかエンセトラに進みます。

 最後まで残った人は1%。アイリンバーガーの調査によれば、もう少し多いのだけど、まあ、統計上、有意差なしでしょう。

 つまり、声をかけられた人でそれに乗った人はごくわずか、そして最後まで残った人はもっとごくわずかなのです。

 それは、決して「思い込まされた」わけでなく、「思い込まされる」ことを主体的に選び取ったのです。

 思い込まれされた人も、そうでなかった人も、すべてを選択してそうなった。
 だから、人間は動物と違って、優秀なのです。選択する力があるから。

 この陳腐な物言いに、アンチを述べたのは「猿の惑星」だと思っています。
2012-02-24 18:39 | 米本 | URL   [ 編集 ]

どっちだ? 

<マンションに移ってから私は、統一協会で教えられていたように、話を聞いたふりをして、隙を見て逃げようと思っていました。>


<私自身も相対基準を結ぶつもりはありませんでしたが、話し合いには応じるつもりでしたので、家族に黙って出て行こうとは思いませんでした。>


片や「話しを聞いた振りして隙をみて逃げようと思っていた」
片や「話し合いには応じるつもりでしたので、家族に黙って出て行こうと思わなかった」

おい、どっちなんだ!はっきりしろ!
まさか「これから私は逃げます」と家族に了承とるつもりだったのか?

後藤のとっちゃんの妹さんよ・・・
自分の頭で考えられるようになったんだろ?だったら、あの時の状況がどうだったのか?もう一度振り返ってみろよ。
マンションで統一原理と活動を振り返ったように。

2012-02-26 08:39 | 元信者の春 | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

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