後藤徹氏の兄嫁の陳述書 ─その3
今回で最終となる。
後藤氏の兄嫁は、平手打ちは認めたものの、虐待ではなく後藤氏のわがままな態度に猛省を促すためのものだったという。
後藤氏は、わがままなパラサイトだったのか、それとも、虐待をともなった監禁生活を送っていたのか?
読者の皆様の率直な意見をうかがいたい。
第1 はじめに
第2 後藤家の一員となったこと
第3 義父母の心配
第4 再度話し合う決意
第5 新津教会での集会
第6 新潟のマンションへ
第7 新潟での話し合い
第8 東京へ
第9 荻窪フラワーホーム804号室に移ってから
第10 最後に
青印が今回アップしたもの
後藤氏の兄嫁は、平手打ちは認めたものの、虐待ではなく後藤氏のわがままな態度に猛省を促すためのものだったという。
後藤氏は、わがままなパラサイトだったのか、それとも、虐待をともなった監禁生活を送っていたのか?
読者の皆様の率直な意見をうかがいたい。
後藤徹氏の兄嫁の陳述書 ─その3の構成
第1 はじめに
第2 後藤家の一員となったこと
第3 義父母の心配
第4 再度話し合う決意
第5 新津教会での集会
第6 新潟のマンションへ
第7 新潟での話し合い
第8 東京へ
第9 荻窪フラワーホーム804号室に移ってから
第10 最後に
青印が今回アップしたもの
第8 東京へ
1 義父の病気
それから間もなくして、義父が新潟のマンションで心筋梗塞を起こして救急車で運ばれました。命に別状はなくほっとしましたが、義父も心労やストレスも溜まって我慢していたのだと思いました。新潟市民病院に1ヶ月くらい入院し義母も義父の看病でバスを使って小一時間くらいのところにある病院に通っていました。退院後、なかなか気持ちが通じない徹さんとの生活が義父にも相当のストレスだったのだろうということで、義父は体調も考えて東京の自宅でひとり療養することになりました。
というのも、徹さんは、脱会を表明していましたが、まだ心の整理がつききっていないようでしたし、ましてや私たちの本当の目的である徹さんと家族との信頼関係が充分に回復できていない状況でした。私たち家族が本当の家族に戻るには、まだ話し合いが必要でした。しかし、このような徹さんとの生活は、やはり神経を遣い、病み上がりの義父には負担になると考え、義父は東京の自宅で療養した方がよいのでは、ということになりました。
そこで、義父だけ東京の自宅に帰り、私たちは新潟に残って、徹さんと、家族の関係を回復するための話し合いを続けることにしました。義父が東京に戻ってから、義母は、義父の様子を見に上京して実家に帰ることもありましたし、義母や■<後藤氏の妹>さんどちらかが、買い物をしに出かけたりして、徹さんと二人だけになることももちろんありました。ですからいつでも出て行こうと思えばできたと思いますが、そういうことはありませんでした。この間私も徹さんと話をすることはありましたが、徹さんに変化はありませんでした。
義父も、そんな徹さんの様子を気にかけて心配していたので、東京から新潟のマンションに何回か来たこともありました。1997年5月頃、義父の具合を見に上京した義母が、義父の顔色など様子がおかしいというので、母の勧めで、義父は保谷厚生病院に検査入院することにしました。その結果、肝臓がんが見つかりました。余命は3ヶ月から半年ということでした。保谷厚生病院では本人に願<ママ>を告知するなら退院してくださいといわれたとのことで、母と夫が受け入れてくれる病院を探しまわり、5月26日、川越の帯津三敬病院に入院させてもらいました。
そして、義母は義父の看病のために上京しました。■<後藤氏の妹>さんだけで徹さんの面倒をみるのは大変だということで、私は、パレスマンション多聞に戻って、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと一緒に生活することにしました。
2 東京へ
同じ年の6月22日、夫から連絡かおり、義父が危篤なので、急いで皆上京するように言われました。急いで準備していましたが、その最中に、義父が亡くなったとの連絡が入りました。私も■<後藤氏の妹>さんも突然の連絡に動揺しましたが、■<後藤氏の妹>さんから徹さんに状況を話して、とりあえず支度して車で東京まで行こうと話したと思います。徹さんは、訃報を聞いて少し驚いた様子でしたが、その後、部屋の隅に行って一瞬「わあっ!」と泣き声を発しました。
そのあとは、取り乱すこともなく、落ち着いていました。その様子を見た時は、なんとなく不自然で、純粋に父を亡くした悲しみよりも、統一協会の信仰を持った人の発想で、救われてない者に対する憐れみや救いのために自分が力不足であったと後悔しているような感じを受けました。そのあと、車をどのように手配したか覚えていません。このときは義父が死去した直後で私も■<後藤氏の妹>さんも本当に精神的に動揺していました。徹の陳述書(甲9の14頁)には、私たちの他にTさんがいて、Tさんが運転していたとされていますが、良く覚えていません。
日が沈まないうちに保谷の実家に着き、義父と対面しました。しばらくして夫が、義父が、病床でも徹さんのことをずっと心配しており、脱会したといっても、徹さんの気持ちの整理がついていないだけでなく、徹さんと家族との間で本当の信頼関係を築いてはいないことを心配しており、家族と一緒に暮らす中で、話し合いを重ねて、信頼関係を取りもどしてもらいたいと考えて、自分の体調が戻れば東京で再び義父も一緒に話し合いたいと考えていたということを話しました。夫が、もう新潟にいても仕方ないので、これから生活の拠点を東京に移したい、そのために義父が借りたマンションがあるので、そこに行こうと告げました。義父のガンがわかった頃、義父が徹さんと話し合いをしたいと考えているという話は夫から聞いていましたが、私も■<後藤氏の妹>さんもこの時まで、義父らが東京でマンションを用意していることは知りませんでした。そこで、義母を実家に残し、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと私とで夫の乗用車に乗って、東京都杉並区の荻窪プレイス605号室に移動しました。
義母と夫は、1ヶ月ほど、父の死後のさまざまな手続きもあって、義母は、保谷の実家におり、夫は、自宅と実家を行き来して仕事もしながら生活していました。ですので、最初の1ヶ月くらいは、荻窪プレイスでは、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと私が生活をしていました。この頃も、■<後藤氏の妹>さんが買い物に出たり、徹さんと■<後藤氏の妹>さんか私のどちらかが二人きりになる機会もありました。
そのうち、夫も義母も一緒に生活するようになりましたが、荻窪プレイスでの徹さんの様子は、新潟にいるときとあまり変わりませんでした。普通に話をすることももちろんありましたが、奥の部屋にいる時は、無愛想で、話しかけても無反応なことも多く、部屋に一人でいたがりました。義父が亡くなった悲しみもあったのでしょうが、どこか他人行儀な態度が目立ちました。まるで人目に触れたくないかのように、部屋の死角になるような場所を選んで座り、一人で部屋にいたがって、■<後藤氏の妹>さんや私か部屋に入ると嫌そうなぞぶりをしました。
そんなこともあって、脱会すると言ったのは嘘だったのではないかと思い始めました。他の家族も皆同じように感じていたようでしたが、徹さんにはそのような話はせずにいました。もし、徹さんが私達に嘘をついているのなら、そのことを本人に確認したところで、本当のことを言ってくれるはずもないし、それよりも彼が自発的に自分の考えなどを家族に話してくるようになることの方が大事なことと思い、自分から話しをしてくるまで見守って様子をみることにしていました。
1997年11月末頃、荻窪プレイス605号室の部屋から出なければならなくなったと夫から聞かされました。そこで私たちは引っ越しの準備をすることになりました。12月の何日だったか忘れましたが、引っ越しの当日は夫の高校の同級生が3人ほど手伝いに来てくれました。徹さんは、普通に歩いて玄関を出てエレベーターに乗って下までおり、夫の友人の車に義母と■<後藤氏の妹>さんと夫が乗って、荻窪フラワーホーム804号室に移ったと思います。私は、荷物もあったので他の車で移動したと思います。
第9 荻窪フラワーホーム804号室に移ってから
1荻窪フラワーホームで
荻窪フラワーホームについてから、皆とりあえず荷物を整理したり、部屋の様子を見たりしていました。徹さんは、部屋のあちこちを見て回って、何か落ち着かない様子でした。そのあとしばらくして、奥の部屋に、義母と徹さんと■<後藤氏の妹>さん、手前の部屋で、夫と私で休みました。
2偽装脱会の告白
荻窪フラワーホームに移ってしばらくたった頃のことでした。徹さんと家族で話しをしていた時、徹さんが統一協会の信仰を失っていないこと、教祖も教理も統一協会の活動も全て信じていると言ってきました。私たち家族は、悪びれた様子もなく偽装脱会を告白した徹さんに、なんとも虚しさを感じ、また義父の無念さを思うと憤りすら感じました。
夫は亡くなった義父が徹さんのことをずっと心配しており、亡くなる寸前まで徹さんのことが気がかりで、義母や夫に対して徹さんのことをよろしく頼むと言っていたことなど話しました。私は、徹さんに対し、新潟にいるころから、徹さんの様子がどこかよそよそしい感じで、すっきりしていないと感じていたことを話しました。さらに、私達家族が自分かちの生活を犠牲にし、家族も真剣に徹さんの人生のことを思い忍耐しながら、徹さんと向き合って話し合いをし、徹さんのことも気遣ってきたことなど話したり、そういう嘘をつくことが人の信頼関係を壊すことで、とても残念に思う気持ちを話しました。
そして、長い間、徹さんに嘘をつかれてきたことや、徹さんが心を開いてくれないことが、家族にとってどれほど辛いことか、家族がそのような関係になってしまうような教育をする統一協会の指導は、おかしいと思うことなどを話しました。徹さんは、黙って聞いていましたが、偽装脱会していたことを、私たちに「嘘をついていてすみませんでした。」と言って謝って、「自分は、統一協会の教えが真理だと思っています。」と、言っていました。徹さんは、統一協会の精神的呪縛から抜け切れておらず、私たちの心配を本気のものとして受け止めず、あいかわらず私たちがサタンに支配されている可哀想な者たちと考えており、そんな中ではやはり家族の信頼関係など戻りようもなかったのだと思いました。
それでも、徹さんが、偽装脱会だと告白し、本当のことをいってくれたことで、これがもう一度家族として本当に話し合えるきっかけになるかもしれない、と思いました。
それから、何日か、統一協会の社会的に問題となる活動や教育について話し合いました。私たちは家族の対話を取りもどしたいと思っていました。徹さんが、私たちのことをサタンと考えて、家族が本気で心配していることすら真面目に受け止めない状態を何とかしたいと思っていました。
家族で、徹さんと2週間くらいいろいろ話しをしました。その中で、以前、宮村さんから聞いたことが嘘だと思うなら、もう一度会って話をしてみて欲しいと話しました。すると、徹さんが宮村さんの話を聞いてみてもいいと言ったため、夫が、宮村さんに連絡をとり、都合がいい時に話しに来てくれることになりました。
3 宮村さんの来訪
1998年1月に入って、宮村さんが、フラワーホーム804号室に話に来てくれるようになりました。
義母と夫、■<後藤氏の妹>さん、私も同席していました。最初、徹さんは、緊張した面持ちで横柄な態度で足を投げだし、壁に寄りかかるようにして座っていました。宮村さんは、このような徹さんの様子をみて、以前話し合いをした時からずいぶんと態度が悪くなって変わってしまったと驚いていました。
宮村さんは統一協会の、人を騙して勧誘したり、物を売りつけたりする活動などの問題や、信者が平気で嘘をついたり、社会的に問題となる活動を平気でやっていくようになることなどについて、徹さんに質問したり、宮村さんの考えを話したりしました。彼は、こういう事実があるよね、と宮村さんに指摘されたことに対して否定することができず、バツの悪い思いをしているようでした。徐々に話を聞く態度はよくなったように思いました。
しかし、話の内容がよく理解できなかったり、質問の返事に困ると、開き直って「それは、難しいですね・・・。」とか「新しい真理ですからねえ~」という回答しかしませんでした。教理や常識に照らしてどう思うのか、どう正しいと言えるのかなど質問しても、抽象的で具体性のない答えばかりで、自分の矛盾した答えにときどき苦笑いしたり、教理や活動の矛盾が露わになってくるとだんだんとテンションが下がってきて下を向いて、「うーん・・・。」とうな垂れて悩んだ様子をしたりしていました。
宮村さんの他にも統一教会をやめた元信者の人も話に来てくれました。宮村さんと一緒に来ることもあれば、1人や2、3人で来で話をすることもありました。統一協会にいた時の体験談など話したり、徹さんの体験や考えを聞いて意見を話したりしていました。徹さんは、元信者の人になぜ統一協会をやめたのか聞いたり、一方的に原理の話をしたりはするのですが、逆に、元信者から、統一協会に関わる経験や教えに関することなどを質問されても。真面目に答えずいい加減で無責任なことを言ったりすることがしばしばあったので、話をしている人は、呆れたり、怒って帰ることもありました。
宮村さんは、最初1ヶ月くらいの間は週3回程度、だいたい平日の夕方6時くらいから8時の間、2時間前後話し合いをしていました。それ以降は、週1、2回だんだんと来る頻度が減って4、5ヶ月した頃、最後は2週間に1度来るか来ないかだったと思います。
5、6月頃の徹さんは、宮村さんや元信者の人たちと話し合う中で、統一協会や教えの矛盾に悩んだり考え込むこともしばしばあり、真剣に人の話を聞いているように思いました。しかし、その後すぐに気持ちを切り替えるのか、再び目つきがきつくなり、態度も横柄になって、さっきまで悩んでたことなどなかったかのような言動を繰り返しました。
まるで二重人格のような状態で、態度や話のしかたが度々変わったりしていました。宮村さんは、統一協会の教えや活動は本当に正しいと言えるのか、冷静に客観的によく考えるようにと話しをしていました。しかし、その年(1998年)の9月頃だったと思いますが、家族や宮村さんの必死の問いかけにもかかわらず、徹さんは、開き直って意固地に統一協会やその教えに対して正しいと他の人の話を遮るような感じで言い張るようになり、まともなやり取りができなくなりました。宮村さんは、「統一協会の教義の誤りも、文鮮明がメシアでないこともわかっているというのであれば、これ以上話し合いのしようもない」と言っていました。
家族はそれでも、徹さんが表面的にそういっているだけで、実際には統一協会を客観的に見ることなど出来ておらず何も理解していないし、理解しようともしていないのではないかと思っていたので、いつか徹さんとの間で本気の話し合いができる状態になったら、また宮村さんと話し合いをしてもらいたいと思って、その場を取りなしたと思います。しかし、徹さんの様子は変わらず、このため宮村さんは来なくなりました。
それでも、夫も■<後藤氏の妹>さんも私も、なにかのきっかけやふとした拍子に、統一協会の呪縛から離れる瞬間があることを経験上わかっていましたから、もしかしたら徹さんにもその瞬間があるのではないかと思って期待してきました。宮村さんが来なくなってからしばらく経って、私たち家族も、だんだん、徹さんとまともに話し合うのはもう難しいのではないかと思い始めていました。
4 その後の徹さんとの生活
宮村さんが、来られなくなってからもしばらくの間は、義母、夫、■<後藤氏の妹>さんと私は、徹さんと話し合いをするようにしました。家族は、とにかく統一協会の活勤は、この世的には社会悪だし、徹さんの言い張っていることは理由がない、きちんと説明して欲しいと話しました。しかし、徹さんは、意固地になって「間違っていようと、人に迷惑がかかろうと何だろうと私は、やるんだ!」などと言って、私たちの話をまともに聞くこともせず、開き直った態度は変わりませんでした。
私も、いつまでも人の話を聞こうとしない徹さんに呆れて、「家族の心配や気持ちもわからず、人の意見も冷静に聞けないなら、ここから出て行って、そのおかしな考え方で生きていってみなさいよ。」などと言ってみたりもしましたが、彼は出て行こうとはしませんでした。こうは言っていましたが、家族として、また同じく統一協会に欺された元信者として、徹さんを見捨てることは出来ないとも思っていました。しかし、何とか家族の対話が取り戻せないか、徹さんがふとした瞬間に家族が本気で徹さんの心配をしていることを分かってくれるのではないかと期待していました。
しかし、徹さんがあまりにも家族の気持ちを踏みにじる態度を取り続けるので、これ以上家族で話し合いをしても、徹さんに家族の気持をわかってもらうことは、もう無理ではないかと思うようになりました。それからは、私は、「マンションをでて、自力で生活していくことを考えたら?」と促したりするようになりました。それでも徹さんは一向に出て行こうとしませんでした。私たち家族も、もう徹さんに家族の思いを分かってもらうのは無理だ、と思いつつも、ひょっとしたら、という期待も捨て切れなくて、徹さんを無理やりマンションから出す、ということはしませんでした。
5 徹さんの断食
(1)1回目の断食(平成16年4月頃)
このころ私は、体調を崩したりしてしばらく新座の自宅マンションに帰っており、徹さんともしばらく顔を合わせていませんでした。徹さんは、2年程家族と食事を共にせず、必要な時以外は、話も顔も合わせることがないような状況でした。
ある日、しばらくぶりにフラワーホームの台所に立って昼食の準備をし始めた時、徹さんがドスドスと大きな音を立てて運動を始めたので、もう少し静かに運動するように注意したところ、横柄な態度でうるさいなどと言い返してきたので言い合いになりました。■<後藤氏の妹>さんと義母もやってきて、一緒に生活しているのに食事は別々で顔も合わせないなんてこんな生活はおかしいという話になり、■<後藤氏の妹>さんがこれから一緒に食事をしようと言って奥の部屋で以前のように食事をすることになりました。それを機に徹さんは再び家族と会話をするようになりました。しばらくぶりに奥の部屋を開けると、あまりに部屋が汚く散らかっていました。
そこでまず、■<後藤氏の妹>さんと私で掃除をし、たまってた新聞や要らないものを徹さんに確認しながら片づけ、その日の夕食から奥の部屋で以前のように家族そろって食事をすることにしました。
徹さんは、最初は家族で食事をすることに反発していましたが、とにかく食事くらいは一緒にしようと義母と■<後藤氏の妹>さんと私で必死に説得しました。最初は、ぶつぶつ文句を言っていましたが、しばらくすると徹さんもあんまり意地を張ってもいけないと思ったのか、徹さんから、世間話をしてきたり、夫の仕事のことや、山形の祖母の話を聞いてきたりして、表情も和らいで笑ったり普通の感じで話したりもしていました。
しかし 2、3日経った頃、何か心境の変化があったのか、昼食を奥の部屋に運んでいくと、彼はまた、一緒に食事をすることを拒みました。私が、「家族として一緒に食事をするのは当然のことでしょ。」と言うと、いきなり、「今日から断食をします。」と言って断食の宣言をしました。私と■<後藤氏の妹>さんとで、「なんで、一緒に食事をするのに断食するのよ!言ってることも、やることもおかしいんじやないの!?」と言いました。義母は特に、徹さんの体を心配し、「断食なんて体に悪いだろう。そんなことはやめてちゃんと食べなさいよ。」などいいましたが、「断食するので、食事は、私の分の食事は、いりませんから。」と言って用意したものには手をつけず、彼は、断食を決行しました。
私と■<後藤氏の妹>さんは、彼の発言を経験上「蕩減条件」だと思いました。また、そう思ったので、彼に気を使わずに奥の部屋で食事するべきと思いました。徹さんが食事をせず、こちらを見て話をしているので、私たちは、非常に辛く葛藤はありましたが、これにひるんではいけないと思い心を鬼にして食事を普通にしました。徹さんは、食事中、食事のメニューを見て、「おいしそうですね。」とか料理のことや統―協会以外の話を笑ったりしながら普通に話をしていたので、抗議抵抗というのではなく、いわゆる「蕩減条件」なのだな、と思いました。
このときは結局19日くらい断食をしました。徹さんは21日間断食したと陳述書に書いていますが、事実は19日だと思います。21数は「原理数」と言って統一協会にとって重要な意味があるとされている数字で、はっきり言って何日かは正確でない中、徹さんを祭り上げて拉致監禁キャンペーンをしたい統一協会の意向で、21日と主張することにしたのだと思います。これでまた、徹さんの断食には数に意味があるのだといって信者を欺す手段に使おうとしでいるのだと思います。
私も■<後藤氏の妹>さんも、徹さんが「蕩減条件」として断食しているものだとは思っていましたが、それでも体が心配だったので、食事をするように説得しました。しかし、何度言っても聞きませんでした。徹さんは、10日過ぎた頃から体がしんどくなり、風呂に入るのが大変だというので、義母が気を遣って、体を拭くためにお湯を汲んであげたりしていました。
19日過ぎるころ、徹さんが、「もう限界だ。」「もうやめるので断食明けの食事をお願いします。」と言って断食は終わりました。義母と■<後藤氏の妹>さんは、徹さんの断食明けの食事に気を遣い、重湯などを作って出していました。むしろ、徹さんが断食したために、義母や■<後藤氏の妹>さんは重湯など作ることになって手間がかかって大変だと思いました。断食後の食事は、無理すると体をこわすことになりかねませんから、義母や■<後藤氏の妹>さんがかなり気を使って作り、重湯やポカリスエットなどから始まってお粥など濃さを調整したりしながら時間をかけて少しずつ普通の食事に戻していきました。とはいえ、徹さんは、食事を出してもらう時は、義母や■<後藤氏の妹>さんに感謝しながら食べていました。
このころ、徹さんの生活のパターンとしては、朝、7時頃に起きて、7時半頃朝食、朝食後、掃除、洗濯をして、その間、徹さんは、黙って部屋の死角になる隅で座っていたり、新聞などを読んだりしていました。自分で何かしようとしないので、そのことを注意されて、自分で奥の部屋の掃除機をかけるようになったり、部屋の窓が結露していれば拭いたりするようになりました。掃除の後は、義母は買い物にでかけたり、私や■<後藤氏の妹>さんは、その時によって奥の部屋や手前の部屋で本など読んだり、時には、徹さんと話しをしたりもしていました。ひょっとしたらという思いこめて、徹さんに統一協会の話しを向けることもありましたが、徹さんは全く真剣に話そうとはしませんでした。
徹さんは、陳述書の中で(P.29)私が、激しく非難する中で興奮し半狂乱になって何度も平手打ちをしたとありますが、これは違います。徹さんは、統一協会以外の話は、普通に話すのですが、統一協会の問題に関わる話に触れると、まともなやり取りをしなくなり、私の話も最後まで聞かないで、話を遮って、自分勝手にめちゃくちゃな話を進めて、私や他の家族の言葉を故意に曲解したり、馬鹿にして、気持ちを無視した侮蔑した言葉を連発するので、あまりにひどい時にさすがに我慢できず「いい加減にしなさいよ!」と言って怒ったこともありましたが、徹さんを一方的に非難したり、あるいは興奮して半狂乱になったりしたことはありません。
また、徹さんは、義母や■<後藤氏の妹>さんに対して全く気遣いもなく、横柄な態度で壁にのけぞって笑いながらからかうように馬鹿にした発言をすることが度々ありました。義父も夫もいない中、私は、徹さんが偉そうな態度で、本気で徹さんのことを心配して自分の人生を犠牲にしている義母や義妹を見下している状況を見逃すことができず、目を覚ましなさい、という気持ちで、徹さんの顔を叩いたことはありましたが、1回目の断食のあとに、2回くらいでした。
また、私は、徹さんとの話し合いの中で、彼を茶化したり、いじめたりしたことは、まったくありません。徹さんが、何もせずにただ毎日を■<後藤氏の妹>さんや義母に世話をさせて過ごしているのに、二人に対して偉そうに馬鹿にした態度で接するをの<ママ>みて、私が呆れて怒っても、一向に態度を改めようとしないので、徹さんに自分がどんな表情をして、どんな態度をとっているか分かるように絵を書いて猛省を促したことはあります。
徹さんは、これらのことを殊更私に対して悪意をもって書いているとしか思えません。一緒に生活していて、お菓子を食べながら笑って話をすることもよくありましたし、徹さんが、体調が悪そうにしている時に、頭や体を指圧してあげたり、足や手のつぼの本を見ながら手当してあげたりもしていました。いじめぬくなどあり得ません。このように書かれて、とても心外です。
(2)2回目の断食(平成17年4月頃)
この頃も、生活の状況は、ほとんど変わりありませんでした。家族と話しをすることもありましたが、本質的な話し合いはできませんでした。徹さんは、一人になると祈ったり統一協会の勉強をしているようでした。夜もしばしば遅くまで、時には朝方まで、テレビをつけて見ていることもありました。ある日、徹さんが、義母に対し、媚びるように韓国語のテキストが欲しいと言ってきたことがありました。義母は、「何をのんきなこと言ってるんだ。そんなことより、もっとちゃんと考えなきゃけないことがあるだろう。韓国語のテキストどころの話をしてる場合じゃないだろう。」と呆れて話していました。
隣の部屋にいた■<後藤氏の妹>さんと私にも、このやり取りが聞こえたので、私は「韓国語のテキストが欲しかったら、外に出て自分で働いて稼いで勉強したらいい。ここで何をやっているのか。]など言って、韓国語のテキストを購入することを拒みました。すると、彼は、自分の要求が通らないことに腹を立てて、駄々をこね始め、また断食をすると言って断食を初めたのです。
私は、また徹さんが子供じみた態度をとったことに呆れました。と同時に、「勝手なことばかりやって!」と徹さんの体のことや家族がどんな気持ちでいるか考えるよういいましたが、どうにもできませんでした。徹さんはもともと痩せた体型でしたが、1回目に断食明け後、食事が普通に戻ってから食べ過ぎて少し太りました。
今回、20日過ぎた頃に痩せ細り、体力がなくなり時々横になっていることがありました。断食は、また徹さんが一方的にやめると宣言して終わりました。このときも、義母や■<後藤氏の妹>さんは、かなり食事には気遣い、30日くらいかけて重湯やポカリスエットから普通の食事に戻しました。復食には断食と同じかそれ以上の期間をかけるのが普通だと聞いています。
とはいえ、この2回目の断食の終了直後、徹さんは体重が気になったのか、体重計で測かりたいと言ってきました。量ると45、6キロくらいでした。
「こんなもんかあ。」といってあまり減っていない様子にがっかりしていました。
(3)3回目の断食(平成18年の4月頃)
3回目は、29日くらい断食をしていました。このときのきっかけは、徹さんがボールペンとノートが欲しいと言ってきたのを断ったことがきっかけでした。徹さんはいつもノートに統一協会の教義の図などを書いたりしていました。そのときはたまたまノートなどがなかったため、断ると徹さんは不機嫌になり、駄々をこね始めました。そしてまた、抗議抵抗の断食をすると言ってきました。3回目の断食になると私たちは腹が立ち、勝手にしなさいと言って止めませんでした。
2週間くらい経った頃から、ときどき横になっていることもありました。この断食が一番長かったと思います。
断食明けの食事は、重湯やポカリスエットなど胃に負担がかからないようなものから始めて、今まで一番長かったので2ヵ月くらいかけて食事を戻し、3回目の断食以降また断食するかもしれないと考えて、体に負担がかからないような食事を出すようにしていました。この頃のメニューはだいたい、朝は、雑穀入りの6枚切りの食パン1枚、きなこやはちみつ、黒ごまなど栄養のあるものを混ぜた青汁、昼は、男性用の大きめの茶碗1杯ご飯、具を増やした味噌汁、佃煮やおしんこなどの盛り合わせ、夜は、昼に納豆が加わったりしたようなものでした。
余分なカロリーは押えてますが、徹さんに食事を与えなかったり、空腹のままがまんさせたりしたことはありません。栄養を考えて青汁にはちみつやきなこをいれ、味噌汁には具をたくさん入れ、ご飯も胚芽米にして量も大盛りにしていました。何度も彼が、極端な断食を繰り返していたために、また断食を繰り返して体に負担がかかることを懸念して、体に負担のないメニューにしていました。徹さんを外に出した平成20年2月10日まで基本的にはほぼこのような食事でした。徹さんは顔色もよく、食事が粗末で体が弱るというようなことはなく、テーブルを持ち上げるたり、スクワットなどの運動をやってそこそこ筋力もついていました。確かに質素な食事でしたが、ちゃんとカロリーを考えて出していましたし、このころ甲1号証の写真のようにカリガリに痩せていたということはありません。
(4)統一協会信者にとっての断食
私も元信者なのでわかりますが、統一協会員が、断食をするのはめずらしいことではありません。統一協会の活動をする実践メンバーになる頃から、徐々にアべルから教育を受け、断食の条件を立てるようになります。「蕩減条件」の中では、固い決心も必要で、一番効果が高いと思われる蕩減条件が断食で、信者たちは日常的にもよく行わされていました。短いものでは、朝食断食から1目、3日、7日断食などありました。私も、「成約断食」と言って、「祝福を受けるための条件」(すなわち合同結婚式に参加するための条件)として7日間水以外飲んではいけない断食をさせられました。断食はやはり辛いことなので、これをやり遂げた人は、他の信者から、褒め称えられることになりますし、アベルからもよくやったと言ってもらえますし、自分の信仰基準も高まる気がしました(実際は、思いこみが深まっただけですが。)。
ですから、何かあるとすぐに自分で原理数にあたる1日、3日、4日、7日などに期間を決めて断食をして条件をたてる、と言うことをしていましたし、これだけ断食をした、ということが統一協会の中では、一つの武勇伝、あるいは信仰の証のようにとらえられていました。私が聞いた、統一協会の中で、一番長期間断食をした人は、40日間の断食でした。
時には、統一協会の中央本部から日本の経済の使命(その時の日本から韓国に献金する目標額のノルマ)達成のために所属部署に通達があり、何日間か各地区が、リレーで朝食断食をするなどの蕩減条件を組織全体で行うこともありました。
この断食の蕩減条件をしている時は、この条件を果たせば霊界が働いて目標を達成することができると望みをかけて決意して行います。しかし、ちょっと料理の味見をしただの、失敗したら大変なことで、3倍蕩減(立てた3倍の期間断食しないと、霊界に讒訴され大変なことになると考えています。)になってしまうので、失敗は恐怖ですし、それだけ、断食をすると宣言したらあとには引くに引けなくなります。ですから、信者にとっては、断食をより長い期間やることで、信仰的にも箔がつくことになるのです。徹さんの断食も同じことだったと思います。
6 徹さんを外に出す
宮村さんが来なくなってから、家族で話しをすることが難しい状況が続いていました。
私は、1999年から、新座の自宅マンションで生活することがほとんどで、たまにフラワーホームに寝泊まりする生活でした。2004年ころになって、フラワーホームで生活するようになりましたが、その後再び新座のマンションの戻りました。
宮村さんが来なくなってからも、家族はもしかしたら徹さんがふとした拍子に気付いて、対話がとり戻せるのではないかとの望みを持っていました。ですから、横柄な態度で自分勝手に振る舞う様子にも我慢し、徹さんとの生活を続けてきました。徹さんに対して、もう出て行って自立した生活をしたらどうか、と何度も話したりもしましたが、徹さんは出て行こうとはしませんでした。私たちも、まだ望みをもっていましたから、これを敢えて追い出そうとはしませんでした。
しかし徹さんの生活態度は改善しませんでした。家族と真面目に話し合うこともありませんでした。 2001年には、徹さんと夫が喧嘩をしてもみ合いになったこともあったそうです。その時から、徹さんは、奥の部屋から家族を追い出して、寝食を別にするようになり、会話もほとんどなくなりました。それでも、徹さんは、出て行こうとしませんでした。むしろ、このマンションに居続けようと決心しているように見えました。
徹さんは、自分から働くこともせず、家族から生活態度について文句を言われても全く意に介さないばかりか、不機嫌になることで自分の意思をとおし、ご飯は作ってもらったものを食べ、という生活を続けていました。、私から言わせれば、自分の都合で時に家族に媚びた態度をとったり、とても自分中心で甘ったれた生活をしていました。徹さんが真剣に話しあう気があるのであれば、私たちも自分かちの生活を犠牲にしてでも懸命に向き合って話し合いたいと思っていましたが、結局、徹さんは、何ひとつ家族を納得させるような話はできず、これから、どうしていきたいのか問うても、具体的な話にはならず、時間ばかりが過ぎて行き、このままの状況が続くことに進展はないと思うようになってきました。
私たち家族は、これからどうして行くことがいいか、徹さんとの話し合いをどのようにするかを話し合っていました。徹さんにマンションから出ていって自立しろ、と言っても一向に自分では出ていかなかったので、一度、本当に外に出せば、家族が真剣に徹さんの自発的行動を促しているのがわかり、家族に依存してきた現実を目の当たりに感じて、このマンションを放り出されたらまずいと思って、徹さんも真剣に考えるのではないかという話にまとまりました。
そこで、2008年2月10日の日に、もう一度だけ話し合いをしてみてまたいつもの調子でいい加減な態度だったら、徹さんが嫌だと言っても家族が真剣であることを示すために、一度部屋の外に出すことにしました。
その日の昼食後、しばらくして、家族みんなで奥の部屋で話をしました。夫が今までの総括的な話をしました。しかし、夫の今まで、統一協会の反社会的な活動と、教えの矛盾や嘘などの話に対し、徹さんは相変わらず中身のない返答しかせず、家族に責任をなすりつけるように、「そう言われましてもねえ。」「価値観がちがいますからねえ。」などと、いい加減な態度を示しました。そんな徹さんに対し、家族は、いつまでそんな態度を続けるつもりか、何年経ったと思っているのか、どれだけお金がかかったと思っているのか、自分の責任を果たしていると思っているのかなどと問いかけました。
家族の真摯な問いかけにも、徹さんは、「そう言われましても。」などと言って、正面から答えようともせず、いつもと変わらず曖昧でいい加減な態度を取るばかりでした。3時間ほど話して、夫が、「家族と真面目に話し合う気はないのか、ないなら出て行け。」と話し徹さんに、夫がきちんと話をするか、今すぐ出ていくか自分で決めるようにといいました。夫が、再度「そんなにいい加減なら即刻出て行け。」と真剣に言うと。徹さんは、今まで家族が、何度も「出て行け。」という言葉を口にしてはいるものの、本気で自分を外にだす行動に出るとは、予想していなかったようで、驚いた様子でしたが、態度はかわりませんでした。
そこで、私たちが本気であることを示すために一度玄関の外に出してみようと言うことで(もちろんその後マンションに戻ると思っていましたが)夫と私と■<後藤氏の妹>さんで徹さんを押し出すようにして、徹さんを部屋から出しました。事前に話し合ったこととはいえ、このときは家族が真剣口話しているにもかかわらず、いい加威か態度をとり続ける徹さんの様子に、やはり、今度は、本気さを示さないといけないと思い、私たちは引かずに、あえて厳しい態度で実行しました。
自分から出ようとはしない徹さんをドアの外に出し、履物を履いてなかったので私は徹さんの靴をドアの外に出してあげました。徹さんを外に残して、家族は部屋に入りドアのフックをしました。徹さんは、ドアを閉めたあとも3分間ぐらい、ドアを少し遠慮気味にドンドン叩いていました。夫は、「うるさい。」と一言いいましたが、そのうち叩く音がしなくなったので、夫がドアの外を見るといつの間にか徹さんはいなくなっていました。夫は、ドア越しに様子を見ていましたが、帰って来ないので心配になって追いかけましたが、徹さんを見つけることはできず、しばらくして戻ってきました。私たちは、初めから徹さんがいつもの調子で結論を出さず、はぐらかすようだったら、一旦外に出すだけのつもりだったし、出て行けとは言いましたが、遠くに行け、と言うつもりではありませんでした。真面目に話しを聞こうとしない子どもを外に出すくらいの感覚だったのです。
そうしても、徹さんのいままでの態度からすれば、家で甘ったれた生活をするのに慣れてしまっているようでしたから、家出のようなことはしないだろうと思っていました。むしろ、彼が我に返って、自分の甘さに気がついて真剣に話し合う気持ちになってくれることを期待していました。しかし、思いもかけず、徹さんはさっさと家から離れてしまったのです。この日は晴れて比較的暖かかく、結構厚着をしていましたが、着の身着のまま出て行った徹さんのことが心配になりました。とはいえ、徹さんも一応大人だし子どもと違って目が離せないというわけではありませんから、そのうち戻ってくるかも知れないと思っていました。
徹さんが出て行った時の服装は、紺色とえんじ色の横しま柄の毛糸のジャケットチャック付き、その下は、黒いスエットのズボンでした。(甲第17号証の写真の上下の服に厚手のニットのジャケットを着ていたと思います)靴は徹さんがもともと履いていた黒の皮靴でした。衣服は薄着ではなくジャケットの下にもスエットやセーターを着ており厚着をしていました。

家族は、徹さんが帰って来るだろうと思って待っていましたが、2日くらい経つと、さすがに統一協会に戻った可能性が高いと思いました。そこで、5日くらい経ったあとに、フラワーホーム804号室を引き払いました。引っ越し業者は頼まず、夫が友人の車を借りて家族だけでしました。徹さんはノートを80冊くらい持っていましたが、夫がゴミとして捨てたようです。徹さんが読んでいた原理講論や書籍類も捨てたと思います。マンションは夫が不動産屋と連絡を取って解約し、義母と■<後藤氏の妹>さんは、保谷の実家に、夫と私は新座の自宅に戻りました。
第10 最後に
1 徹さんは、統一協会に利用され、その指示で訴えてきていることは明らかです。統一協会が信者を利用して、家族を訴えるような裁判を起こしてくる悪質さにあらためて憤りを感じています。家族は、悪意や偏見で徹さんとの話し合いに取り組んだわけではありません。統一協会に騙され、教祖である文鮮明一族や一部の幹部の私利私欲のために人を騙し社会に悪影響を及ぼす人間にされてしまっており、尚且つ、彼自身が本来持っている能力も自分の意思で開かれた将来も、統一協会で情報をコントロールされ利用され、本当の自由を奪われている状況であることに、本当に気づいて欲しいと思って取り組んだのです。徹さんは、統一協会の教え込みにより、自分で正しく判断できず、また、統一協会を肯定する情報しか受け入れられない精神状態になっているため、家族ともまともに向き合い、話し合うことがとても難しくなっていたことを、今改めて痛感しています。
話し合いのさなかに体調に不安のあった義父が亡くなり、それでも徹さんに本当の人生を取り戻してほしいと思い話し合いを続けてきました。義父母は、夫から始まって、統一協会に入信した子供たちのことを心配し、息の詰まる重たい日々を長く過ごし、義父は、徹さんのことを最後まで心配し続けて亡くなってしまい本当に無念であったと思います。その後も、家族として本来の気持ちが通じ合わず、統一協会の教え込みのせいで話し合いも困難で、義母や義妹、夫の3人と共に言いつくせないほどの忍耐と苦労をしてきました。義妹もほとんど大切な20代後半から30代の大切な時を徹さんのために費やしてきました。内心自分自身の人生を考えさまざまに葛藤しつつ、兄のことを思って取り組んで来たことを私は知っています。家族皆が、徹さんとの長い生活の中で、犠牲を払い、忍耐し、幾度涙を流したかわかりません。
2 徹さんは、今、統一協会で、長期にわたる話し合いに勝利して凱旋してきたヒーローと持ち上げられて、彼なりには達成感や使命感を持って生活しているかも知れません。しかし、統一協会の生き方には真の自由も平安もなく、常にノルマに追われた、切迫感と恐怖とに追いまくられた生活とならざるをえないのです。徹さんが、統一協会に戻ってしまい、家族の願いとは裏腹に家族を犯罪者扱いして、警察や検察に訴えたり、この度の民事裁判を起こすなど、とんでもないことだと思います。刑事告訴されたときなど、義母は年をとって疲れて弱った体に鞭打って、■<後藤氏の妹>さんに付き添われながら幾度検察や警察の取り調べに通ったことか。このことを思うと正直、腹立たしい思いです。家族が、このような状況であることは、非常な傷みを感じており残念でなりません。また、家族以外に、家族が徹さんとの話し合いに協力をお願いした松永先生や宮村さんをも、同じように訴えました。私もお世話になったお二人に多大なご迷惑をおかけしてしまっていることに本当に申し訳のない気持ちでいます。統一協会の元信者の立場で、考えた時、統一協会の中での情報として、松永先生や宮村さんは、「サタン」とか「脱会改宗屋」など言われるような立場に仕立てあげられてしまっています。統一協会の信者を持つご家族との関わりを持ってこられた中で、幾度となく、いたずら電話やメガホーンなどで陰湿な嫌がらせを受け、大変な思いをしてこられたことも聞いています。今回のことでも、根も葉もない中傷ビラを捲かれたり、後を付けられたり、嫌がらせは一層ひどくなっています。統一協会からすれば、統一協会の客観的情報を知り、統一協会の教えや聖書の知識のある人の存在は、脅威であって邪魔な存在であるからこそ、統一協会の信者に予め、悪いイメージを植え付け簡単に話を聞くことができないようにしていることは、私の経験からも明らかです。また、そのように偏った教育を受けていなければ、冷静に客観的に話を聞くことも考えることもできたはずです。家族の絆を断ち、巧みに信者を操作する統一協会の教え込みに憤りを覚えます。徹さんとの話し合いに元信者の方々も嘘偽りなく徹さんのことを心配して来ていただいたりしましたが、徹さんは、しっかりと向き合って話をすることもできず、理解し合うことができませんでした。これらの方々の親切な思いとは裏腹に、悪者扱いし、敵対するような形になって、申し訳のない気持ちと残念な思いで仕方ありません。
今、このような状況になり、私たち家族が、徹さんと話し合うことも難しく、彼にとっで真実を知ることは容易ではないかも知れませんが、なんらかのきっかけで徹さんが、統一協会の悪や矛盾に気がついて真実を知り、家族とも本当の意味で向き合って関係を回復して欲しいと思っています。
私は、統一協会とその活動は大きな社会問題と思っています。信者もその家族も被害者であり、社会にとって非常に問題がある団体だと思います。このことが、社会的に明らかになり、統一協会の人を騙しての勧誘や金集め、社会悪の活動、人権を無視した合同結婚式などがなくなり、徹さんと同じように統一協会に取り込まれている多くの信者の人たちが、一日も早くその呪縛から解放されるようにと願ってやみません。
以 上
1 義父の病気
それから間もなくして、義父が新潟のマンションで心筋梗塞を起こして救急車で運ばれました。命に別状はなくほっとしましたが、義父も心労やストレスも溜まって我慢していたのだと思いました。新潟市民病院に1ヶ月くらい入院し義母も義父の看病でバスを使って小一時間くらいのところにある病院に通っていました。退院後、なかなか気持ちが通じない徹さんとの生活が義父にも相当のストレスだったのだろうということで、義父は体調も考えて東京の自宅でひとり療養することになりました。
というのも、徹さんは、脱会を表明していましたが、まだ心の整理がつききっていないようでしたし、ましてや私たちの本当の目的である徹さんと家族との信頼関係が充分に回復できていない状況でした。私たち家族が本当の家族に戻るには、まだ話し合いが必要でした。しかし、このような徹さんとの生活は、やはり神経を遣い、病み上がりの義父には負担になると考え、義父は東京の自宅で療養した方がよいのでは、ということになりました。
そこで、義父だけ東京の自宅に帰り、私たちは新潟に残って、徹さんと、家族の関係を回復するための話し合いを続けることにしました。義父が東京に戻ってから、義母は、義父の様子を見に上京して実家に帰ることもありましたし、義母や■<後藤氏の妹>さんどちらかが、買い物をしに出かけたりして、徹さんと二人だけになることももちろんありました。ですからいつでも出て行こうと思えばできたと思いますが、そういうことはありませんでした。この間私も徹さんと話をすることはありましたが、徹さんに変化はありませんでした。
義父も、そんな徹さんの様子を気にかけて心配していたので、東京から新潟のマンションに何回か来たこともありました。1997年5月頃、義父の具合を見に上京した義母が、義父の顔色など様子がおかしいというので、母の勧めで、義父は保谷厚生病院に検査入院することにしました。その結果、肝臓がんが見つかりました。余命は3ヶ月から半年ということでした。保谷厚生病院では本人に願<ママ>を告知するなら退院してくださいといわれたとのことで、母と夫が受け入れてくれる病院を探しまわり、5月26日、川越の帯津三敬病院に入院させてもらいました。
そして、義母は義父の看病のために上京しました。■<後藤氏の妹>さんだけで徹さんの面倒をみるのは大変だということで、私は、パレスマンション多聞に戻って、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと一緒に生活することにしました。
2 東京へ
同じ年の6月22日、夫から連絡かおり、義父が危篤なので、急いで皆上京するように言われました。急いで準備していましたが、その最中に、義父が亡くなったとの連絡が入りました。私も■<後藤氏の妹>さんも突然の連絡に動揺しましたが、■<後藤氏の妹>さんから徹さんに状況を話して、とりあえず支度して車で東京まで行こうと話したと思います。徹さんは、訃報を聞いて少し驚いた様子でしたが、その後、部屋の隅に行って一瞬「わあっ!」と泣き声を発しました。
そのあとは、取り乱すこともなく、落ち着いていました。その様子を見た時は、なんとなく不自然で、純粋に父を亡くした悲しみよりも、統一協会の信仰を持った人の発想で、救われてない者に対する憐れみや救いのために自分が力不足であったと後悔しているような感じを受けました。そのあと、車をどのように手配したか覚えていません。このときは義父が死去した直後で私も■<後藤氏の妹>さんも本当に精神的に動揺していました。徹の陳述書(甲9の14頁)には、私たちの他にTさんがいて、Tさんが運転していたとされていますが、良く覚えていません。
日が沈まないうちに保谷の実家に着き、義父と対面しました。しばらくして夫が、義父が、病床でも徹さんのことをずっと心配しており、脱会したといっても、徹さんの気持ちの整理がついていないだけでなく、徹さんと家族との間で本当の信頼関係を築いてはいないことを心配しており、家族と一緒に暮らす中で、話し合いを重ねて、信頼関係を取りもどしてもらいたいと考えて、自分の体調が戻れば東京で再び義父も一緒に話し合いたいと考えていたということを話しました。夫が、もう新潟にいても仕方ないので、これから生活の拠点を東京に移したい、そのために義父が借りたマンションがあるので、そこに行こうと告げました。義父のガンがわかった頃、義父が徹さんと話し合いをしたいと考えているという話は夫から聞いていましたが、私も■<後藤氏の妹>さんもこの時まで、義父らが東京でマンションを用意していることは知りませんでした。そこで、義母を実家に残し、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと私とで夫の乗用車に乗って、東京都杉並区の荻窪プレイス605号室に移動しました。
義母と夫は、1ヶ月ほど、父の死後のさまざまな手続きもあって、義母は、保谷の実家におり、夫は、自宅と実家を行き来して仕事もしながら生活していました。ですので、最初の1ヶ月くらいは、荻窪プレイスでは、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと私が生活をしていました。この頃も、■<後藤氏の妹>さんが買い物に出たり、徹さんと■<後藤氏の妹>さんか私のどちらかが二人きりになる機会もありました。
そのうち、夫も義母も一緒に生活するようになりましたが、荻窪プレイスでの徹さんの様子は、新潟にいるときとあまり変わりませんでした。普通に話をすることももちろんありましたが、奥の部屋にいる時は、無愛想で、話しかけても無反応なことも多く、部屋に一人でいたがりました。義父が亡くなった悲しみもあったのでしょうが、どこか他人行儀な態度が目立ちました。まるで人目に触れたくないかのように、部屋の死角になるような場所を選んで座り、一人で部屋にいたがって、■<後藤氏の妹>さんや私か部屋に入ると嫌そうなぞぶりをしました。
そんなこともあって、脱会すると言ったのは嘘だったのではないかと思い始めました。他の家族も皆同じように感じていたようでしたが、徹さんにはそのような話はせずにいました。もし、徹さんが私達に嘘をついているのなら、そのことを本人に確認したところで、本当のことを言ってくれるはずもないし、それよりも彼が自発的に自分の考えなどを家族に話してくるようになることの方が大事なことと思い、自分から話しをしてくるまで見守って様子をみることにしていました。
1997年11月末頃、荻窪プレイス605号室の部屋から出なければならなくなったと夫から聞かされました。そこで私たちは引っ越しの準備をすることになりました。12月の何日だったか忘れましたが、引っ越しの当日は夫の高校の同級生が3人ほど手伝いに来てくれました。徹さんは、普通に歩いて玄関を出てエレベーターに乗って下までおり、夫の友人の車に義母と■<後藤氏の妹>さんと夫が乗って、荻窪フラワーホーム804号室に移ったと思います。私は、荷物もあったので他の車で移動したと思います。
第9 荻窪フラワーホーム804号室に移ってから
1荻窪フラワーホームで
荻窪フラワーホームについてから、皆とりあえず荷物を整理したり、部屋の様子を見たりしていました。徹さんは、部屋のあちこちを見て回って、何か落ち着かない様子でした。そのあとしばらくして、奥の部屋に、義母と徹さんと■<後藤氏の妹>さん、手前の部屋で、夫と私で休みました。
2偽装脱会の告白
荻窪フラワーホームに移ってしばらくたった頃のことでした。徹さんと家族で話しをしていた時、徹さんが統一協会の信仰を失っていないこと、教祖も教理も統一協会の活動も全て信じていると言ってきました。私たち家族は、悪びれた様子もなく偽装脱会を告白した徹さんに、なんとも虚しさを感じ、また義父の無念さを思うと憤りすら感じました。
夫は亡くなった義父が徹さんのことをずっと心配しており、亡くなる寸前まで徹さんのことが気がかりで、義母や夫に対して徹さんのことをよろしく頼むと言っていたことなど話しました。私は、徹さんに対し、新潟にいるころから、徹さんの様子がどこかよそよそしい感じで、すっきりしていないと感じていたことを話しました。さらに、私達家族が自分かちの生活を犠牲にし、家族も真剣に徹さんの人生のことを思い忍耐しながら、徹さんと向き合って話し合いをし、徹さんのことも気遣ってきたことなど話したり、そういう嘘をつくことが人の信頼関係を壊すことで、とても残念に思う気持ちを話しました。
そして、長い間、徹さんに嘘をつかれてきたことや、徹さんが心を開いてくれないことが、家族にとってどれほど辛いことか、家族がそのような関係になってしまうような教育をする統一協会の指導は、おかしいと思うことなどを話しました。徹さんは、黙って聞いていましたが、偽装脱会していたことを、私たちに「嘘をついていてすみませんでした。」と言って謝って、「自分は、統一協会の教えが真理だと思っています。」と、言っていました。徹さんは、統一協会の精神的呪縛から抜け切れておらず、私たちの心配を本気のものとして受け止めず、あいかわらず私たちがサタンに支配されている可哀想な者たちと考えており、そんな中ではやはり家族の信頼関係など戻りようもなかったのだと思いました。
それでも、徹さんが、偽装脱会だと告白し、本当のことをいってくれたことで、これがもう一度家族として本当に話し合えるきっかけになるかもしれない、と思いました。
それから、何日か、統一協会の社会的に問題となる活動や教育について話し合いました。私たちは家族の対話を取りもどしたいと思っていました。徹さんが、私たちのことをサタンと考えて、家族が本気で心配していることすら真面目に受け止めない状態を何とかしたいと思っていました。
家族で、徹さんと2週間くらいいろいろ話しをしました。その中で、以前、宮村さんから聞いたことが嘘だと思うなら、もう一度会って話をしてみて欲しいと話しました。すると、徹さんが宮村さんの話を聞いてみてもいいと言ったため、夫が、宮村さんに連絡をとり、都合がいい時に話しに来てくれることになりました。
3 宮村さんの来訪
1998年1月に入って、宮村さんが、フラワーホーム804号室に話に来てくれるようになりました。
義母と夫、■<後藤氏の妹>さん、私も同席していました。最初、徹さんは、緊張した面持ちで横柄な態度で足を投げだし、壁に寄りかかるようにして座っていました。宮村さんは、このような徹さんの様子をみて、以前話し合いをした時からずいぶんと態度が悪くなって変わってしまったと驚いていました。
宮村さんは統一協会の、人を騙して勧誘したり、物を売りつけたりする活動などの問題や、信者が平気で嘘をついたり、社会的に問題となる活動を平気でやっていくようになることなどについて、徹さんに質問したり、宮村さんの考えを話したりしました。彼は、こういう事実があるよね、と宮村さんに指摘されたことに対して否定することができず、バツの悪い思いをしているようでした。徐々に話を聞く態度はよくなったように思いました。
しかし、話の内容がよく理解できなかったり、質問の返事に困ると、開き直って「それは、難しいですね・・・。」とか「新しい真理ですからねえ~」という回答しかしませんでした。教理や常識に照らしてどう思うのか、どう正しいと言えるのかなど質問しても、抽象的で具体性のない答えばかりで、自分の矛盾した答えにときどき苦笑いしたり、教理や活動の矛盾が露わになってくるとだんだんとテンションが下がってきて下を向いて、「うーん・・・。」とうな垂れて悩んだ様子をしたりしていました。
宮村さんの他にも統一教会をやめた元信者の人も話に来てくれました。宮村さんと一緒に来ることもあれば、1人や2、3人で来で話をすることもありました。統一協会にいた時の体験談など話したり、徹さんの体験や考えを聞いて意見を話したりしていました。徹さんは、元信者の人になぜ統一協会をやめたのか聞いたり、一方的に原理の話をしたりはするのですが、逆に、元信者から、統一協会に関わる経験や教えに関することなどを質問されても。真面目に答えずいい加減で無責任なことを言ったりすることがしばしばあったので、話をしている人は、呆れたり、怒って帰ることもありました。
宮村さんは、最初1ヶ月くらいの間は週3回程度、だいたい平日の夕方6時くらいから8時の間、2時間前後話し合いをしていました。それ以降は、週1、2回だんだんと来る頻度が減って4、5ヶ月した頃、最後は2週間に1度来るか来ないかだったと思います。
5、6月頃の徹さんは、宮村さんや元信者の人たちと話し合う中で、統一協会や教えの矛盾に悩んだり考え込むこともしばしばあり、真剣に人の話を聞いているように思いました。しかし、その後すぐに気持ちを切り替えるのか、再び目つきがきつくなり、態度も横柄になって、さっきまで悩んでたことなどなかったかのような言動を繰り返しました。
まるで二重人格のような状態で、態度や話のしかたが度々変わったりしていました。宮村さんは、統一協会の教えや活動は本当に正しいと言えるのか、冷静に客観的によく考えるようにと話しをしていました。しかし、その年(1998年)の9月頃だったと思いますが、家族や宮村さんの必死の問いかけにもかかわらず、徹さんは、開き直って意固地に統一協会やその教えに対して正しいと他の人の話を遮るような感じで言い張るようになり、まともなやり取りができなくなりました。宮村さんは、「統一協会の教義の誤りも、文鮮明がメシアでないこともわかっているというのであれば、これ以上話し合いのしようもない」と言っていました。
家族はそれでも、徹さんが表面的にそういっているだけで、実際には統一協会を客観的に見ることなど出来ておらず何も理解していないし、理解しようともしていないのではないかと思っていたので、いつか徹さんとの間で本気の話し合いができる状態になったら、また宮村さんと話し合いをしてもらいたいと思って、その場を取りなしたと思います。しかし、徹さんの様子は変わらず、このため宮村さんは来なくなりました。
それでも、夫も■<後藤氏の妹>さんも私も、なにかのきっかけやふとした拍子に、統一協会の呪縛から離れる瞬間があることを経験上わかっていましたから、もしかしたら徹さんにもその瞬間があるのではないかと思って期待してきました。宮村さんが来なくなってからしばらく経って、私たち家族も、だんだん、徹さんとまともに話し合うのはもう難しいのではないかと思い始めていました。
4 その後の徹さんとの生活
宮村さんが、来られなくなってからもしばらくの間は、義母、夫、■<後藤氏の妹>さんと私は、徹さんと話し合いをするようにしました。家族は、とにかく統一協会の活勤は、この世的には社会悪だし、徹さんの言い張っていることは理由がない、きちんと説明して欲しいと話しました。しかし、徹さんは、意固地になって「間違っていようと、人に迷惑がかかろうと何だろうと私は、やるんだ!」などと言って、私たちの話をまともに聞くこともせず、開き直った態度は変わりませんでした。
私も、いつまでも人の話を聞こうとしない徹さんに呆れて、「家族の心配や気持ちもわからず、人の意見も冷静に聞けないなら、ここから出て行って、そのおかしな考え方で生きていってみなさいよ。」などと言ってみたりもしましたが、彼は出て行こうとはしませんでした。こうは言っていましたが、家族として、また同じく統一協会に欺された元信者として、徹さんを見捨てることは出来ないとも思っていました。しかし、何とか家族の対話が取り戻せないか、徹さんがふとした瞬間に家族が本気で徹さんの心配をしていることを分かってくれるのではないかと期待していました。
しかし、徹さんがあまりにも家族の気持ちを踏みにじる態度を取り続けるので、これ以上家族で話し合いをしても、徹さんに家族の気持をわかってもらうことは、もう無理ではないかと思うようになりました。それからは、私は、「マンションをでて、自力で生活していくことを考えたら?」と促したりするようになりました。それでも徹さんは一向に出て行こうとしませんでした。私たち家族も、もう徹さんに家族の思いを分かってもらうのは無理だ、と思いつつも、ひょっとしたら、という期待も捨て切れなくて、徹さんを無理やりマンションから出す、ということはしませんでした。
5 徹さんの断食
(1)1回目の断食(平成16年4月頃)
このころ私は、体調を崩したりしてしばらく新座の自宅マンションに帰っており、徹さんともしばらく顔を合わせていませんでした。徹さんは、2年程家族と食事を共にせず、必要な時以外は、話も顔も合わせることがないような状況でした。
ある日、しばらくぶりにフラワーホームの台所に立って昼食の準備をし始めた時、徹さんがドスドスと大きな音を立てて運動を始めたので、もう少し静かに運動するように注意したところ、横柄な態度でうるさいなどと言い返してきたので言い合いになりました。■<後藤氏の妹>さんと義母もやってきて、一緒に生活しているのに食事は別々で顔も合わせないなんてこんな生活はおかしいという話になり、■<後藤氏の妹>さんがこれから一緒に食事をしようと言って奥の部屋で以前のように食事をすることになりました。それを機に徹さんは再び家族と会話をするようになりました。しばらくぶりに奥の部屋を開けると、あまりに部屋が汚く散らかっていました。
そこでまず、■<後藤氏の妹>さんと私で掃除をし、たまってた新聞や要らないものを徹さんに確認しながら片づけ、その日の夕食から奥の部屋で以前のように家族そろって食事をすることにしました。
徹さんは、最初は家族で食事をすることに反発していましたが、とにかく食事くらいは一緒にしようと義母と■<後藤氏の妹>さんと私で必死に説得しました。最初は、ぶつぶつ文句を言っていましたが、しばらくすると徹さんもあんまり意地を張ってもいけないと思ったのか、徹さんから、世間話をしてきたり、夫の仕事のことや、山形の祖母の話を聞いてきたりして、表情も和らいで笑ったり普通の感じで話したりもしていました。
しかし 2、3日経った頃、何か心境の変化があったのか、昼食を奥の部屋に運んでいくと、彼はまた、一緒に食事をすることを拒みました。私が、「家族として一緒に食事をするのは当然のことでしょ。」と言うと、いきなり、「今日から断食をします。」と言って断食の宣言をしました。私と■<後藤氏の妹>さんとで、「なんで、一緒に食事をするのに断食するのよ!言ってることも、やることもおかしいんじやないの!?」と言いました。義母は特に、徹さんの体を心配し、「断食なんて体に悪いだろう。そんなことはやめてちゃんと食べなさいよ。」などいいましたが、「断食するので、食事は、私の分の食事は、いりませんから。」と言って用意したものには手をつけず、彼は、断食を決行しました。
私と■<後藤氏の妹>さんは、彼の発言を経験上「蕩減条件」だと思いました。また、そう思ったので、彼に気を使わずに奥の部屋で食事するべきと思いました。徹さんが食事をせず、こちらを見て話をしているので、私たちは、非常に辛く葛藤はありましたが、これにひるんではいけないと思い心を鬼にして食事を普通にしました。徹さんは、食事中、食事のメニューを見て、「おいしそうですね。」とか料理のことや統―協会以外の話を笑ったりしながら普通に話をしていたので、抗議抵抗というのではなく、いわゆる「蕩減条件」なのだな、と思いました。
このときは結局19日くらい断食をしました。徹さんは21日間断食したと陳述書に書いていますが、事実は19日だと思います。21数は「原理数」と言って統一協会にとって重要な意味があるとされている数字で、はっきり言って何日かは正確でない中、徹さんを祭り上げて拉致監禁キャンペーンをしたい統一協会の意向で、21日と主張することにしたのだと思います。これでまた、徹さんの断食には数に意味があるのだといって信者を欺す手段に使おうとしでいるのだと思います。
私も■<後藤氏の妹>さんも、徹さんが「蕩減条件」として断食しているものだとは思っていましたが、それでも体が心配だったので、食事をするように説得しました。しかし、何度言っても聞きませんでした。徹さんは、10日過ぎた頃から体がしんどくなり、風呂に入るのが大変だというので、義母が気を遣って、体を拭くためにお湯を汲んであげたりしていました。
19日過ぎるころ、徹さんが、「もう限界だ。」「もうやめるので断食明けの食事をお願いします。」と言って断食は終わりました。義母と■<後藤氏の妹>さんは、徹さんの断食明けの食事に気を遣い、重湯などを作って出していました。むしろ、徹さんが断食したために、義母や■<後藤氏の妹>さんは重湯など作ることになって手間がかかって大変だと思いました。断食後の食事は、無理すると体をこわすことになりかねませんから、義母や■<後藤氏の妹>さんがかなり気を使って作り、重湯やポカリスエットなどから始まってお粥など濃さを調整したりしながら時間をかけて少しずつ普通の食事に戻していきました。とはいえ、徹さんは、食事を出してもらう時は、義母や■<後藤氏の妹>さんに感謝しながら食べていました。
このころ、徹さんの生活のパターンとしては、朝、7時頃に起きて、7時半頃朝食、朝食後、掃除、洗濯をして、その間、徹さんは、黙って部屋の死角になる隅で座っていたり、新聞などを読んだりしていました。自分で何かしようとしないので、そのことを注意されて、自分で奥の部屋の掃除機をかけるようになったり、部屋の窓が結露していれば拭いたりするようになりました。掃除の後は、義母は買い物にでかけたり、私や■<後藤氏の妹>さんは、その時によって奥の部屋や手前の部屋で本など読んだり、時には、徹さんと話しをしたりもしていました。ひょっとしたらという思いこめて、徹さんに統一協会の話しを向けることもありましたが、徹さんは全く真剣に話そうとはしませんでした。
徹さんは、陳述書の中で(P.29)私が、激しく非難する中で興奮し半狂乱になって何度も平手打ちをしたとありますが、これは違います。徹さんは、統一協会以外の話は、普通に話すのですが、統一協会の問題に関わる話に触れると、まともなやり取りをしなくなり、私の話も最後まで聞かないで、話を遮って、自分勝手にめちゃくちゃな話を進めて、私や他の家族の言葉を故意に曲解したり、馬鹿にして、気持ちを無視した侮蔑した言葉を連発するので、あまりにひどい時にさすがに我慢できず「いい加減にしなさいよ!」と言って怒ったこともありましたが、徹さんを一方的に非難したり、あるいは興奮して半狂乱になったりしたことはありません。
また、徹さんは、義母や■<後藤氏の妹>さんに対して全く気遣いもなく、横柄な態度で壁にのけぞって笑いながらからかうように馬鹿にした発言をすることが度々ありました。義父も夫もいない中、私は、徹さんが偉そうな態度で、本気で徹さんのことを心配して自分の人生を犠牲にしている義母や義妹を見下している状況を見逃すことができず、目を覚ましなさい、という気持ちで、徹さんの顔を叩いたことはありましたが、1回目の断食のあとに、2回くらいでした。
また、私は、徹さんとの話し合いの中で、彼を茶化したり、いじめたりしたことは、まったくありません。徹さんが、何もせずにただ毎日を■<後藤氏の妹>さんや義母に世話をさせて過ごしているのに、二人に対して偉そうに馬鹿にした態度で接するをの<ママ>みて、私が呆れて怒っても、一向に態度を改めようとしないので、徹さんに自分がどんな表情をして、どんな態度をとっているか分かるように絵を書いて猛省を促したことはあります。
徹さんは、これらのことを殊更私に対して悪意をもって書いているとしか思えません。一緒に生活していて、お菓子を食べながら笑って話をすることもよくありましたし、徹さんが、体調が悪そうにしている時に、頭や体を指圧してあげたり、足や手のつぼの本を見ながら手当してあげたりもしていました。いじめぬくなどあり得ません。このように書かれて、とても心外です。
(2)2回目の断食(平成17年4月頃)
この頃も、生活の状況は、ほとんど変わりありませんでした。家族と話しをすることもありましたが、本質的な話し合いはできませんでした。徹さんは、一人になると祈ったり統一協会の勉強をしているようでした。夜もしばしば遅くまで、時には朝方まで、テレビをつけて見ていることもありました。ある日、徹さんが、義母に対し、媚びるように韓国語のテキストが欲しいと言ってきたことがありました。義母は、「何をのんきなこと言ってるんだ。そんなことより、もっとちゃんと考えなきゃけないことがあるだろう。韓国語のテキストどころの話をしてる場合じゃないだろう。」と呆れて話していました。
隣の部屋にいた■<後藤氏の妹>さんと私にも、このやり取りが聞こえたので、私は「韓国語のテキストが欲しかったら、外に出て自分で働いて稼いで勉強したらいい。ここで何をやっているのか。]など言って、韓国語のテキストを購入することを拒みました。すると、彼は、自分の要求が通らないことに腹を立てて、駄々をこね始め、また断食をすると言って断食を初めたのです。
私は、また徹さんが子供じみた態度をとったことに呆れました。と同時に、「勝手なことばかりやって!」と徹さんの体のことや家族がどんな気持ちでいるか考えるよういいましたが、どうにもできませんでした。徹さんはもともと痩せた体型でしたが、1回目に断食明け後、食事が普通に戻ってから食べ過ぎて少し太りました。
今回、20日過ぎた頃に痩せ細り、体力がなくなり時々横になっていることがありました。断食は、また徹さんが一方的にやめると宣言して終わりました。このときも、義母や■<後藤氏の妹>さんは、かなり食事には気遣い、30日くらいかけて重湯やポカリスエットから普通の食事に戻しました。復食には断食と同じかそれ以上の期間をかけるのが普通だと聞いています。
とはいえ、この2回目の断食の終了直後、徹さんは体重が気になったのか、体重計で測かりたいと言ってきました。量ると45、6キロくらいでした。
「こんなもんかあ。」といってあまり減っていない様子にがっかりしていました。
(3)3回目の断食(平成18年の4月頃)
3回目は、29日くらい断食をしていました。このときのきっかけは、徹さんがボールペンとノートが欲しいと言ってきたのを断ったことがきっかけでした。徹さんはいつもノートに統一協会の教義の図などを書いたりしていました。そのときはたまたまノートなどがなかったため、断ると徹さんは不機嫌になり、駄々をこね始めました。そしてまた、抗議抵抗の断食をすると言ってきました。3回目の断食になると私たちは腹が立ち、勝手にしなさいと言って止めませんでした。
2週間くらい経った頃から、ときどき横になっていることもありました。この断食が一番長かったと思います。
断食明けの食事は、重湯やポカリスエットなど胃に負担がかからないようなものから始めて、今まで一番長かったので2ヵ月くらいかけて食事を戻し、3回目の断食以降また断食するかもしれないと考えて、体に負担がかからないような食事を出すようにしていました。この頃のメニューはだいたい、朝は、雑穀入りの6枚切りの食パン1枚、きなこやはちみつ、黒ごまなど栄養のあるものを混ぜた青汁、昼は、男性用の大きめの茶碗1杯ご飯、具を増やした味噌汁、佃煮やおしんこなどの盛り合わせ、夜は、昼に納豆が加わったりしたようなものでした。
余分なカロリーは押えてますが、徹さんに食事を与えなかったり、空腹のままがまんさせたりしたことはありません。栄養を考えて青汁にはちみつやきなこをいれ、味噌汁には具をたくさん入れ、ご飯も胚芽米にして量も大盛りにしていました。何度も彼が、極端な断食を繰り返していたために、また断食を繰り返して体に負担がかかることを懸念して、体に負担のないメニューにしていました。徹さんを外に出した平成20年2月10日まで基本的にはほぼこのような食事でした。徹さんは顔色もよく、食事が粗末で体が弱るというようなことはなく、テーブルを持ち上げるたり、スクワットなどの運動をやってそこそこ筋力もついていました。確かに質素な食事でしたが、ちゃんとカロリーを考えて出していましたし、このころ甲1号証の写真のようにカリガリに痩せていたということはありません。
(4)統一協会信者にとっての断食
私も元信者なのでわかりますが、統一協会員が、断食をするのはめずらしいことではありません。統一協会の活動をする実践メンバーになる頃から、徐々にアべルから教育を受け、断食の条件を立てるようになります。「蕩減条件」の中では、固い決心も必要で、一番効果が高いと思われる蕩減条件が断食で、信者たちは日常的にもよく行わされていました。短いものでは、朝食断食から1目、3日、7日断食などありました。私も、「成約断食」と言って、「祝福を受けるための条件」(すなわち合同結婚式に参加するための条件)として7日間水以外飲んではいけない断食をさせられました。断食はやはり辛いことなので、これをやり遂げた人は、他の信者から、褒め称えられることになりますし、アベルからもよくやったと言ってもらえますし、自分の信仰基準も高まる気がしました(実際は、思いこみが深まっただけですが。)。
ですから、何かあるとすぐに自分で原理数にあたる1日、3日、4日、7日などに期間を決めて断食をして条件をたてる、と言うことをしていましたし、これだけ断食をした、ということが統一協会の中では、一つの武勇伝、あるいは信仰の証のようにとらえられていました。私が聞いた、統一協会の中で、一番長期間断食をした人は、40日間の断食でした。
時には、統一協会の中央本部から日本の経済の使命(その時の日本から韓国に献金する目標額のノルマ)達成のために所属部署に通達があり、何日間か各地区が、リレーで朝食断食をするなどの蕩減条件を組織全体で行うこともありました。
この断食の蕩減条件をしている時は、この条件を果たせば霊界が働いて目標を達成することができると望みをかけて決意して行います。しかし、ちょっと料理の味見をしただの、失敗したら大変なことで、3倍蕩減(立てた3倍の期間断食しないと、霊界に讒訴され大変なことになると考えています。)になってしまうので、失敗は恐怖ですし、それだけ、断食をすると宣言したらあとには引くに引けなくなります。ですから、信者にとっては、断食をより長い期間やることで、信仰的にも箔がつくことになるのです。徹さんの断食も同じことだったと思います。
6 徹さんを外に出す
宮村さんが来なくなってから、家族で話しをすることが難しい状況が続いていました。
私は、1999年から、新座の自宅マンションで生活することがほとんどで、たまにフラワーホームに寝泊まりする生活でした。2004年ころになって、フラワーホームで生活するようになりましたが、その後再び新座のマンションの戻りました。
宮村さんが来なくなってからも、家族はもしかしたら徹さんがふとした拍子に気付いて、対話がとり戻せるのではないかとの望みを持っていました。ですから、横柄な態度で自分勝手に振る舞う様子にも我慢し、徹さんとの生活を続けてきました。徹さんに対して、もう出て行って自立した生活をしたらどうか、と何度も話したりもしましたが、徹さんは出て行こうとはしませんでした。私たちも、まだ望みをもっていましたから、これを敢えて追い出そうとはしませんでした。
しかし徹さんの生活態度は改善しませんでした。家族と真面目に話し合うこともありませんでした。 2001年には、徹さんと夫が喧嘩をしてもみ合いになったこともあったそうです。その時から、徹さんは、奥の部屋から家族を追い出して、寝食を別にするようになり、会話もほとんどなくなりました。それでも、徹さんは、出て行こうとしませんでした。むしろ、このマンションに居続けようと決心しているように見えました。
徹さんは、自分から働くこともせず、家族から生活態度について文句を言われても全く意に介さないばかりか、不機嫌になることで自分の意思をとおし、ご飯は作ってもらったものを食べ、という生活を続けていました。、私から言わせれば、自分の都合で時に家族に媚びた態度をとったり、とても自分中心で甘ったれた生活をしていました。徹さんが真剣に話しあう気があるのであれば、私たちも自分かちの生活を犠牲にしてでも懸命に向き合って話し合いたいと思っていましたが、結局、徹さんは、何ひとつ家族を納得させるような話はできず、これから、どうしていきたいのか問うても、具体的な話にはならず、時間ばかりが過ぎて行き、このままの状況が続くことに進展はないと思うようになってきました。
私たち家族は、これからどうして行くことがいいか、徹さんとの話し合いをどのようにするかを話し合っていました。徹さんにマンションから出ていって自立しろ、と言っても一向に自分では出ていかなかったので、一度、本当に外に出せば、家族が真剣に徹さんの自発的行動を促しているのがわかり、家族に依存してきた現実を目の当たりに感じて、このマンションを放り出されたらまずいと思って、徹さんも真剣に考えるのではないかという話にまとまりました。
そこで、2008年2月10日の日に、もう一度だけ話し合いをしてみてまたいつもの調子でいい加減な態度だったら、徹さんが嫌だと言っても家族が真剣であることを示すために、一度部屋の外に出すことにしました。
その日の昼食後、しばらくして、家族みんなで奥の部屋で話をしました。夫が今までの総括的な話をしました。しかし、夫の今まで、統一協会の反社会的な活動と、教えの矛盾や嘘などの話に対し、徹さんは相変わらず中身のない返答しかせず、家族に責任をなすりつけるように、「そう言われましてもねえ。」「価値観がちがいますからねえ。」などと、いい加減な態度を示しました。そんな徹さんに対し、家族は、いつまでそんな態度を続けるつもりか、何年経ったと思っているのか、どれだけお金がかかったと思っているのか、自分の責任を果たしていると思っているのかなどと問いかけました。
家族の真摯な問いかけにも、徹さんは、「そう言われましても。」などと言って、正面から答えようともせず、いつもと変わらず曖昧でいい加減な態度を取るばかりでした。3時間ほど話して、夫が、「家族と真面目に話し合う気はないのか、ないなら出て行け。」と話し徹さんに、夫がきちんと話をするか、今すぐ出ていくか自分で決めるようにといいました。夫が、再度「そんなにいい加減なら即刻出て行け。」と真剣に言うと。徹さんは、今まで家族が、何度も「出て行け。」という言葉を口にしてはいるものの、本気で自分を外にだす行動に出るとは、予想していなかったようで、驚いた様子でしたが、態度はかわりませんでした。
そこで、私たちが本気であることを示すために一度玄関の外に出してみようと言うことで(もちろんその後マンションに戻ると思っていましたが)夫と私と■<後藤氏の妹>さんで徹さんを押し出すようにして、徹さんを部屋から出しました。事前に話し合ったこととはいえ、このときは家族が真剣口話しているにもかかわらず、いい加威か態度をとり続ける徹さんの様子に、やはり、今度は、本気さを示さないといけないと思い、私たちは引かずに、あえて厳しい態度で実行しました。
自分から出ようとはしない徹さんをドアの外に出し、履物を履いてなかったので私は徹さんの靴をドアの外に出してあげました。徹さんを外に残して、家族は部屋に入りドアのフックをしました。徹さんは、ドアを閉めたあとも3分間ぐらい、ドアを少し遠慮気味にドンドン叩いていました。夫は、「うるさい。」と一言いいましたが、そのうち叩く音がしなくなったので、夫がドアの外を見るといつの間にか徹さんはいなくなっていました。夫は、ドア越しに様子を見ていましたが、帰って来ないので心配になって追いかけましたが、徹さんを見つけることはできず、しばらくして戻ってきました。私たちは、初めから徹さんがいつもの調子で結論を出さず、はぐらかすようだったら、一旦外に出すだけのつもりだったし、出て行けとは言いましたが、遠くに行け、と言うつもりではありませんでした。真面目に話しを聞こうとしない子どもを外に出すくらいの感覚だったのです。
そうしても、徹さんのいままでの態度からすれば、家で甘ったれた生活をするのに慣れてしまっているようでしたから、家出のようなことはしないだろうと思っていました。むしろ、彼が我に返って、自分の甘さに気がついて真剣に話し合う気持ちになってくれることを期待していました。しかし、思いもかけず、徹さんはさっさと家から離れてしまったのです。この日は晴れて比較的暖かかく、結構厚着をしていましたが、着の身着のまま出て行った徹さんのことが心配になりました。とはいえ、徹さんも一応大人だし子どもと違って目が離せないというわけではありませんから、そのうち戻ってくるかも知れないと思っていました。
徹さんが出て行った時の服装は、紺色とえんじ色の横しま柄の毛糸のジャケットチャック付き、その下は、黒いスエットのズボンでした。(甲第17号証の写真の上下の服に厚手のニットのジャケットを着ていたと思います)靴は徹さんがもともと履いていた黒の皮靴でした。衣服は薄着ではなくジャケットの下にもスエットやセーターを着ており厚着をしていました。

家族は、徹さんが帰って来るだろうと思って待っていましたが、2日くらい経つと、さすがに統一協会に戻った可能性が高いと思いました。そこで、5日くらい経ったあとに、フラワーホーム804号室を引き払いました。引っ越し業者は頼まず、夫が友人の車を借りて家族だけでしました。徹さんはノートを80冊くらい持っていましたが、夫がゴミとして捨てたようです。徹さんが読んでいた原理講論や書籍類も捨てたと思います。マンションは夫が不動産屋と連絡を取って解約し、義母と■<後藤氏の妹>さんは、保谷の実家に、夫と私は新座の自宅に戻りました。
第10 最後に
1 徹さんは、統一協会に利用され、その指示で訴えてきていることは明らかです。統一協会が信者を利用して、家族を訴えるような裁判を起こしてくる悪質さにあらためて憤りを感じています。家族は、悪意や偏見で徹さんとの話し合いに取り組んだわけではありません。統一協会に騙され、教祖である文鮮明一族や一部の幹部の私利私欲のために人を騙し社会に悪影響を及ぼす人間にされてしまっており、尚且つ、彼自身が本来持っている能力も自分の意思で開かれた将来も、統一協会で情報をコントロールされ利用され、本当の自由を奪われている状況であることに、本当に気づいて欲しいと思って取り組んだのです。徹さんは、統一協会の教え込みにより、自分で正しく判断できず、また、統一協会を肯定する情報しか受け入れられない精神状態になっているため、家族ともまともに向き合い、話し合うことがとても難しくなっていたことを、今改めて痛感しています。
話し合いのさなかに体調に不安のあった義父が亡くなり、それでも徹さんに本当の人生を取り戻してほしいと思い話し合いを続けてきました。義父母は、夫から始まって、統一協会に入信した子供たちのことを心配し、息の詰まる重たい日々を長く過ごし、義父は、徹さんのことを最後まで心配し続けて亡くなってしまい本当に無念であったと思います。その後も、家族として本来の気持ちが通じ合わず、統一協会の教え込みのせいで話し合いも困難で、義母や義妹、夫の3人と共に言いつくせないほどの忍耐と苦労をしてきました。義妹もほとんど大切な20代後半から30代の大切な時を徹さんのために費やしてきました。内心自分自身の人生を考えさまざまに葛藤しつつ、兄のことを思って取り組んで来たことを私は知っています。家族皆が、徹さんとの長い生活の中で、犠牲を払い、忍耐し、幾度涙を流したかわかりません。
2 徹さんは、今、統一協会で、長期にわたる話し合いに勝利して凱旋してきたヒーローと持ち上げられて、彼なりには達成感や使命感を持って生活しているかも知れません。しかし、統一協会の生き方には真の自由も平安もなく、常にノルマに追われた、切迫感と恐怖とに追いまくられた生活とならざるをえないのです。徹さんが、統一協会に戻ってしまい、家族の願いとは裏腹に家族を犯罪者扱いして、警察や検察に訴えたり、この度の民事裁判を起こすなど、とんでもないことだと思います。刑事告訴されたときなど、義母は年をとって疲れて弱った体に鞭打って、■<後藤氏の妹>さんに付き添われながら幾度検察や警察の取り調べに通ったことか。このことを思うと正直、腹立たしい思いです。家族が、このような状況であることは、非常な傷みを感じており残念でなりません。また、家族以外に、家族が徹さんとの話し合いに協力をお願いした松永先生や宮村さんをも、同じように訴えました。私もお世話になったお二人に多大なご迷惑をおかけしてしまっていることに本当に申し訳のない気持ちでいます。統一協会の元信者の立場で、考えた時、統一協会の中での情報として、松永先生や宮村さんは、「サタン」とか「脱会改宗屋」など言われるような立場に仕立てあげられてしまっています。統一協会の信者を持つご家族との関わりを持ってこられた中で、幾度となく、いたずら電話やメガホーンなどで陰湿な嫌がらせを受け、大変な思いをしてこられたことも聞いています。今回のことでも、根も葉もない中傷ビラを捲かれたり、後を付けられたり、嫌がらせは一層ひどくなっています。統一協会からすれば、統一協会の客観的情報を知り、統一協会の教えや聖書の知識のある人の存在は、脅威であって邪魔な存在であるからこそ、統一協会の信者に予め、悪いイメージを植え付け簡単に話を聞くことができないようにしていることは、私の経験からも明らかです。また、そのように偏った教育を受けていなければ、冷静に客観的に話を聞くことも考えることもできたはずです。家族の絆を断ち、巧みに信者を操作する統一協会の教え込みに憤りを覚えます。徹さんとの話し合いに元信者の方々も嘘偽りなく徹さんのことを心配して来ていただいたりしましたが、徹さんは、しっかりと向き合って話をすることもできず、理解し合うことができませんでした。これらの方々の親切な思いとは裏腹に、悪者扱いし、敵対するような形になって、申し訳のない気持ちと残念な思いで仕方ありません。
今、このような状況になり、私たち家族が、徹さんと話し合うことも難しく、彼にとっで真実を知ることは容易ではないかも知れませんが、なんらかのきっかけで徹さんが、統一協会の悪や矛盾に気がついて真実を知り、家族とも本当の意味で向き合って関係を回復して欲しいと思っています。
私は、統一協会とその活動は大きな社会問題と思っています。信者もその家族も被害者であり、社会にとって非常に問題がある団体だと思います。このことが、社会的に明らかになり、統一協会の人を騙しての勧誘や金集め、社会悪の活動、人権を無視した合同結婚式などがなくなり、徹さんと同じように統一協会に取り込まれている多くの信者の人たちが、一日も早くその呪縛から解放されるようにと願ってやみません。
2012-01-24(Tue)
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高齢の親を介護している立場から。
父さん(義父さん)が病気になった。
そうなった場合、私だったら、そりゃあ、大変だということになって、義弟が邪悪な組織が正しいと思い込んでいようが、父様(ととさま)のところに駆け付けるでしょうね。
それがまっとうな肉親の愛!というものです。
陳述書を読めば、父上を一人だけにした時間も多いよう。もっ、信じられないなあ。
後藤さんの兄嫁さんは「死にかけている義父」よりも、義弟を「助ける」ことが大事だったのか。
まさにビョウキそのもの。宮村の教育のせいなのか。
そうだとしても、信じられない話。
自分の父さんが死にかけているのに!
この陳述書には葛藤がない!
宮村のバカに唆されて、また昔のクセでトウゲンをやっているのではと疑ってしまうほどに、人間性が感じられない。
悪いのだけど、義姉さんには勝っても負けても、暗い人生しか待っていない。寒々しいこと、このうえもなし。
どうして宮村という破滅型の人間のいいなりになるのか。
まだ若いんだろうから、頭を冷やせと言いたいのだけど。そういえばまた反発するだろうし。処方なし。
総括。病的な陳述書だと思いましたとさ。
そうなった場合、私だったら、そりゃあ、大変だということになって、義弟が邪悪な組織が正しいと思い込んでいようが、父様(ととさま)のところに駆け付けるでしょうね。
それがまっとうな肉親の愛!というものです。
陳述書を読めば、父上を一人だけにした時間も多いよう。もっ、信じられないなあ。
後藤さんの兄嫁さんは「死にかけている義父」よりも、義弟を「助ける」ことが大事だったのか。
まさにビョウキそのもの。宮村の教育のせいなのか。
そうだとしても、信じられない話。
自分の父さんが死にかけているのに!
この陳述書には葛藤がない!
宮村のバカに唆されて、また昔のクセでトウゲンをやっているのではと疑ってしまうほどに、人間性が感じられない。
悪いのだけど、義姉さんには勝っても負けても、暗い人生しか待っていない。寒々しいこと、このうえもなし。
どうして宮村という破滅型の人間のいいなりになるのか。
まだ若いんだろうから、頭を冷やせと言いたいのだけど。そういえばまた反発するだろうし。処方なし。
総括。病的な陳述書だと思いましたとさ。
ボールペンのために29日間の断食?!
<徹さんは、最初は家族で食事をすることに反発していました>
→それでも、徹さんは外食しようとしなかった?!
<徹さんの顔を叩いたことはありました>
→それでも、徹さんは部屋から出なかった?!
<韓国語のテキストを購入することを拒みました。すると、彼は、自分の要求が通らないことに腹を立てて、駄々をこね始め、また断食をすると言って断食を初めたのです>
→徹さんは自分でテキストを買いに行かないで、抗議の断食?!
<3回目は、29日くらい断食をしていました。このときのきっかけは、徹さんがボールペンとノートが欲しいと言ってきたのを断ったことがきっかけでした>
→徹さんは、ボールペンとノートを自ら買いに行くことよりも、29日間の断食を選択?!
<断食はやはり辛いことなので、これをやり遂げた人は、他の信者から、褒め称えられることになりますし、アベルからもよくやったと言ってもらえます>
→なのに、徹さんは断食を始めることも、やり遂げたことも、上司(アベル)に報告に行かなかった?!
ボールペンなんか、近くのコンビニに行けば手に入りますよ。
自分の足で、靴を履いて、自分の財布を持って行けば、5分ほどで済むことです。それと引き換えに、29日間の断食なんかしますかいなあ。
これこそ、徹さんが外出をさせてもらえなかった、外出の自由を奪われていた、まぎれもない証拠ですよ。
宮村教の信者になると、論理力を喪失してしまうんですかねぇ。話の持って行き方が無茶苦茶、乱暴すぎますね。説得力ゼロですね。
→それでも、徹さんは外食しようとしなかった?!
<徹さんの顔を叩いたことはありました>
→それでも、徹さんは部屋から出なかった?!
<韓国語のテキストを購入することを拒みました。すると、彼は、自分の要求が通らないことに腹を立てて、駄々をこね始め、また断食をすると言って断食を初めたのです>
→徹さんは自分でテキストを買いに行かないで、抗議の断食?!
<3回目は、29日くらい断食をしていました。このときのきっかけは、徹さんがボールペンとノートが欲しいと言ってきたのを断ったことがきっかけでした>
→徹さんは、ボールペンとノートを自ら買いに行くことよりも、29日間の断食を選択?!
<断食はやはり辛いことなので、これをやり遂げた人は、他の信者から、褒め称えられることになりますし、アベルからもよくやったと言ってもらえます>
→なのに、徹さんは断食を始めることも、やり遂げたことも、上司(アベル)に報告に行かなかった?!
ボールペンなんか、近くのコンビニに行けば手に入りますよ。
自分の足で、靴を履いて、自分の財布を持って行けば、5分ほどで済むことです。それと引き換えに、29日間の断食なんかしますかいなあ。
これこそ、徹さんが外出をさせてもらえなかった、外出の自由を奪われていた、まぎれもない証拠ですよ。
宮村教の信者になると、論理力を喪失してしまうんですかねぇ。話の持って行き方が無茶苦茶、乱暴すぎますね。説得力ゼロですね。
No title
<後藤氏の妹>さんだけで徹さんの面倒をみるのは大変だということで、私は、パレスマンション多聞に戻って、徹さんと■<後藤氏の妹>さんと一緒に生活することにしました。
家族の”話し合い”のはずなのに、面倒をみるのが大変だというのは、どういうことか。相手が病人とかペットとかなら筋が通るが、徹さんは成人の大人。
>あまりにひどい時にさすがに我慢できず「いい加減にしなさいよ!」と言って怒ったこともありましたが、徹さんを一方的に非 難したり、あるいは興奮して半狂乱になったりしたことはありません。
>いじめぬくなどあり得ません。このように書かれて、とても心外です。
徹さん側の陳述書に対して、あり得ません、ありませんというのは、事実に反しているが。宮村氏、松永牧師も ”知りません”、”覚えありません”を並べていた。徹さんのお母さんが勇気を出して証言すればいいと思うが、、、
>徹さんに自分がどんな表情をして、どんな態度をとっているか分かるように絵を書いて猛省を促したことはあります。
家族の”話し合い”なのに猛省とは、一体どんな話し合いがなされているのか。無理強いするような、強制をしているということ。家族だったらこんなことは、しないだろう。
宮村氏が来なくなってから、徹さんが断食を決行するまで6年間、断食をしはじめてから4年間、Yさんの闘いも相当なものだと思った。興奮したり、半狂乱になるというのは、納得できる。Yさんも夫も人間がここまで、酷なことをするだろうか。背後でコントロールするものがいるからだろう。
家族の”話し合い”のはずなのに、面倒をみるのが大変だというのは、どういうことか。相手が病人とかペットとかなら筋が通るが、徹さんは成人の大人。
>あまりにひどい時にさすがに我慢できず「いい加減にしなさいよ!」と言って怒ったこともありましたが、徹さんを一方的に非 難したり、あるいは興奮して半狂乱になったりしたことはありません。
>いじめぬくなどあり得ません。このように書かれて、とても心外です。
徹さん側の陳述書に対して、あり得ません、ありませんというのは、事実に反しているが。宮村氏、松永牧師も ”知りません”、”覚えありません”を並べていた。徹さんのお母さんが勇気を出して証言すればいいと思うが、、、
>徹さんに自分がどんな表情をして、どんな態度をとっているか分かるように絵を書いて猛省を促したことはあります。
家族の”話し合い”なのに猛省とは、一体どんな話し合いがなされているのか。無理強いするような、強制をしているということ。家族だったらこんなことは、しないだろう。
宮村氏が来なくなってから、徹さんが断食を決行するまで6年間、断食をしはじめてから4年間、Yさんの闘いも相当なものだと思った。興奮したり、半狂乱になるというのは、納得できる。Yさんも夫も人間がここまで、酷なことをするだろうか。背後でコントロールするものがいるからだろう。
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