後藤徹氏の訴状(2)
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後藤徹氏 |
3 本件不法行為に至る経緯及び状況
(1) 第1回目の監禁
原告は、昭和62年10月、被告後藤Bから「教会のことで話をしたい」と言われて新宿に呼び出された。被告後藤Bに言われるまま京王プラザホテルの一室に入ると、部屋の中には既に両親(故後藤A及び訴外後藤C)が待機しており、原告は被告後藤B等から脱会説得を受けた。気がつくと、部屋の入り口のドアは何らかの細工により中から開かないように固定され、部屋から出られない状態になっていた。原告は一方的に監禁されたことに憤慨して「出せ!」と叫んだところ、両親及び被告後藤Bと取っ組み合いになったが、取り押さえられた。その後、被告宮村峻が元統一教会信者を数人連れて同室に来るようになり、脱会説得を受け、棄教を強要された。
約3日後、原告は「信仰を持ったままでは部屋から出られない」と判断し、意に反して脱会した振りをしたところ(偽装脱会)、約1週間後、京王プラザホテルから杉並区荻窪のマンションの一室に連れて行かれ、同室にて1ヶ月弱監禁された。原告は常に両親及び被告後藤Bによって監視される中、同室から前記荻窪栄光教会の礼拝等の集会に参加させられ、同教会近隣のマンションの一室で監禁されている統一教会信者の脱会説得に同席させられた。荻窪栄光教会の集会には、被告宮村や森山によって脱会させられた元統一教会信者等が多数来ていたが、その中の一部は、被告後藤Bのように被告宮村らの脱会説得活動に積極的に加担していた。また、原告は、同教会のほぼ向かいにある一軒家で水茎会の集会が開催された際、これに参加させられ、被告宮村が被告後藤Bらを指導している場面を目撃している。
監禁・監視されている間、原告は会社にも連絡を取ることは許されず、欠勤を強いられた。
11月下旬頃、原告は、荻窪栄光教会の日曜礼拝に参加させられた際、トイレに行く振りをして教会建物から脱出し、統一教会のホームに逃げ帰った。
(2) 第1回目の監禁から脱出後の経緯
原告は、ホームに帰ってから後は、職場に戻ると再度家族等から拉致されるかも知れないという恐怖心があったため、戻ることができず、大成建設を退社するを余儀なくされた。その後は、信徒組織において献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになった。
昭和63年末頃には、妹の被告Dが両親、及び被告後藤B等によって拉致され、脱会した。
被告後藤Bは、脱会後、被告宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになった。
平成4年8月、原告は、F<注1>と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加したが、日本に帰国後、同女は家族らによって脱会説得を受けて信仰を失ったため、同女と結婚生活を開始することはできなかった。
平成5年頃、被告後藤Bは〓〓E(以下、「被告後藤E」と言う)と結婚した。被告後藤Eも、親族に拉致監禁され、被告宮村、及び被告松永らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者である。
平成7年8月、原告はG<2>と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加したが、同年9月に原告が後記の通り2回目の拉致監禁の被害に遭ったため、同女と結婚生活を始めることがでなかった。
(3) 第2回目の監禁(本件)
ア 新潟のマンションでの監禁
原告は、平成7年9月11日夜、東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中、両親、被告後藤B及び庭に潜んでいた見知らぬ男性(被告宮村が経営する株式会社タップの従業員)らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされ、家の中から引きずり出され、ワゴン車に監禁された。
ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り込んで原告を取り囲み、見知らぬ男性が運転し、原告は、彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行された。
新潟のマンションの部屋は、窓が全てストッパーで固定され開かないようにされ、玄関は内側から施錠できる玄関で、原告が部屋に入れられた後に施錠された。同室では両親、被告D、被告後藤Eが監禁場所に常駐して原告を監視し、棄教を強要した。原告が同室で監禁されていた最中、被告後藤Bは東京で働いていたため、時々顔を見せる程度だったが、来る度に原告に棄教を強要した。特に原告を監禁して間もない頃、被告後藤Bは、原告に対し、「言っておくが、この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは、覚悟しておけ」などと申し向け、原告が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨告知して、原告に棄教を強要した。また、同室には被告松永らが来て監禁中の原告に対し脱会説得を行い、棄教を強要した。
平成7年12月末、原告は、このままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し、意に反して脱会した振りをし、意に反して脱会届を書いたが、先の1回目の監禁時、原告が偽装脱会をしていたため、信用されず、原告が脱会を表明した後も、被告らは原告の監禁を継続した。
イ 都内マンション(1カ所目)での監禁
平成9年6月22日、父後藤Aが癌で死去し、父の死後間もなく、原告は東京に移送され、マンションの一室(杉並区荻窪5-19-1「荻窪プレイス605号室」)に監禁された。同室の玄関ドアは内側から特殊な鍵がかけられており、脱出は不能であった。
ウ 都内マンション(2カ所目)での監禁
原告は、平成9年12月末頃、訴外後藤C、被告後藤B、同後藤E、同D及び多くの氏名不詳の男によって再度ワゴン車に監禁され、「荻窪フラワーホーム804号室」(杉並区荻窪3-47-15)に連行され、同マンションに監禁された。原告は同室奥のベランダに面した部屋に連れて行かれ、普段は同所に居るよう言い渡された。原告は同室到着後間もなく、玄関から脱出が可能かどうかを確認しようと、玄関が見える位置まで行って見たところ、玄関は鎖と南京錠で内側から開かないようにされ、窓は全て錠付きクレセント錠が取り付けられており、専用の鍵によって施錠されていた。同室においては、訴外後藤C、被告後藤B、同D及び同後藤Eが、原告が逃げないように監視し続けた。
原告が脱会の意思表明をしてから2年を過ぎたにもかかわらず、一向に監禁から解放されず、膠着状態が続く中、原告はいつまでも信仰を失った振りをし続けることに我慢ができなくなり、荻窪フラワーホーム804号室に監禁されてより間もなく、信仰を失っていないことを家族等に対して表明した。
原告が偽装脱会していた事実を表明した結果、原告は同室にて、家族や後日同室に来訪した被告宮村等からあらゆる非難、中傷、罵倒を受けることとなり、徹底的な棄教強要を受けるようになった。
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宮村峻被告 |
エ 被告宮村等による脱会説得
平成10年1月初旬から同年9月頃にかけて、被告宮村峻が元信者等を引き連れて804号室に来訪し、棄教強要を行うようになった。被告宮村等が同室に滞在する時間帯は午後6時頃から午後8時頃までで、当初被告宮村は毎日来訪し、同行した元信者は、H<注3>、I<注4>、被告宮村の会社の従業員の男、J夫婦<注5>、K<注6>、L、M(女性)といった者達であった。この被告宮村の会社従業員こそは、原告が平成7年9月11日に自宅から新潟に連行された際、自宅の庭に潜んでいて、原告に対する逮捕監禁に加担した人物である。
被告宮村及びHを始めとする元信者等は、同室に来訪する度、あらゆる非難、中傷、罵倒を原告に浴びせかけた。
原告は被告宮村等に対し、「ここから出せ!」、「あんたら、統一教会は人権侵害をしていると言うが、統一教会は人を監禁したりしないぞ!あんたらの方が人権侵害をしているじゃないか!」、「信教の自由を何だと思っているんだ!」と言って激しく抗議したが、被告宮村は、「えらそうなことを言うな。お前に人権を主張する資格などない。」、「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出して貰いたければ家族に言え。」、「お前は全然人の話を聞いていない。」、「頭を使え。自分の頭で良く考えろ。」、「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ。」、「もし自分の子供が統一教会を辞めなければ、家に座敷牢を作って死ぬまで閉じこめておく。」などと述べて原告に棄教を強要した。
しかし、原告が頑として棄教しないため、被告宮村が同室に来る回数は徐々に減り、平成10年9月を過ぎるとしばらく来なくなり、同被告配下の元信者だけが同室に来るようになった。
オ ハンガーストライキの決行
原告は、平成16年4月、このままでは一生監禁されたままで終わるのではないかとの恐怖心に襲われたが、平成13年2月にはどんなに原告が脱出しようとしても取り押さえられた経緯があったことから、遂に原告は21日間のハンガーストライキ(以下、「ハンスト」という。)を決行し、長期監禁・棄教強要に抗議した。
平成17年4月、長期監禁・棄教強要に抗議して再度ハンストを21日間決行した。
被告らは、ハンストが終わっても粗末な食事しか出さず、食事制裁によって原告を虐待し続け、棄教を強要した。原告が被告後藤Eに、「1回目のときは1ヶ月で普通食に戻したのに今回は何でこんなに長いのか?兵糧攻めか?制裁のつもりか?」と言って抗議し、「いつ普通食に戻すんだ?」と聞くと、被告後藤Eは「それは分からない。」と言ってとぼけ、結局、食事制裁の虐待は7ヶ月間続いた。
平成18年4月、原告は、今度は以前にもまして長期のハンストを決行しない限り監禁から解放されることはないと思い、3回目のハンストを30日間決行した。
これら原告の度重なるハンストによる抗議も空しく、被告らは、監禁を解こうとせず、ハンスト後も原告に粗末な食事しか与えない食事制裁を加えて虐待し、原告の体重は激減し、運動不足もあって体力は著しく低下した。
<注1>後藤徹氏の最初の婚約者。脱会説得者は川崎経子牧師。性格は大変真面目。川崎牧師からは信頼され、一人での外出も許可され、専用の机も割り当てられ、私物も所有が許されていた。脱会説得を受けた当時の愛読書は「Y氏の隣人」という漫画。
<注2>後藤徹氏の2番目の婚約者。後藤氏の失踪後、後藤の実家を訪問するなど方々捜しまわり婚約者の帰りを待っていたが、3年後、後ろ髪をひかれるような思いで意を決し統一教会の合同結婚式に再度参加、韓国人の男性と結婚。今は2児の母として夫と韓国で幸せに暮らしている。
<注3>>全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)の事務職員。小出浩久氏の『人さらいから~』、また鳥海豊氏の『脱会屋の~』にも登場する元女性信者。宮村俊氏の強制説得によって脱会したあと、宮村氏と一緒に方々の監禁場所を訪問し、強制説得に従事してきた。東京の「青春返せ裁判」の原告の一人。
<注4>3回ほど拉致監禁された元女性信者。3回目の拉致監禁で、宮村氏の強制説得を受けて脱会。東京の「青春を返せ裁判」の原告の一人。教会員にはピアノがうまいことで知られていた。
<注5>夫の方は1989年11月監禁された。後藤氏の脱会説得のほか、「脱会屋のすべて」の著者鳥海豊氏の脱会説得にも関与。江戸川区で書店経営。鳥海氏の脱会説得当時、辛島美登里のサイレントイブを好む。簿記一級を当時取得。妹二人は1995年8月の36万双祝福合同結婚式で韓国人と結ばれた。すぐ下の妹は献身者(統一教会関連の専従職員)だったため、すぐに渡韓し、拉致監禁説得の魔の手を逃れた。その下の妹は同年9月監禁、長期間にわたる脱会説得により脱会。妻は宮村氏が経営する㈱タップの元社員。
<注6>宮村氏の強制説得を受けて脱会した元男性信者。東京の「青春を返せ裁判」の原告の一人。いのちのことば社の『親は何を知るべきか』の175頁で、彼の妹が脱会時の模様をけっこう生々しく書いている。
※なお、A~Eについては、前回脚注で説明していますが、改めて再掲すると
A=父親
B=兄
C=母親
D=妹
E=兄嫁
となる。
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宮村陣営に偏向した『やや日刊カルト新聞』
内容は、後藤さんの拉致監禁裁判を宮村氏サイドの視点から見たものでした。到底中立公正の社会の公器「新聞」に書かれたものとは認められなかったので、宮村氏サイド広報ブログと認定し、論評しました。
「やや監禁擁護新聞」にご改名を
お暇なときに、一読を。
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