後藤徹氏兄、兄嫁、妹による準備書面(1)─その2
後藤徹氏兄、兄嫁、妹による準備書面(1)─その2
最初にお詫びを述べておく。今回投稿時、「第3 1995(平成7)年9月11日の新潟への移動について」を見落としてしまい、この部分の掲載を逃してしまった。読者にはお詫びするとともに、新規掲載部分を青字で挿入しておく。さて、本論に入る。後藤徹さんの陳述書の中では「後藤徹氏陳述書(2)」および「後藤徹氏陳述書(3)」に当たる部分である。解説はまた後日書くので、まずはじっくり読み比べていただきたい。
最初にお詫びを述べておく。今回投稿時、「第3 1995(平成7)年9月11日の新潟への移動について」を見落としてしまい、この部分の掲載を逃してしまった。読者にはお詫びするとともに、新規掲載部分を青字で挿入しておく。さて、本論に入る。後藤徹さんの陳述書の中では「後藤徹氏陳述書(2)」および「後藤徹氏陳述書(3)」に当たる部分である。解説はまた後日書くので、まずはじっくり読み比べていただきたい。
後藤徹氏兄、兄嫁、妹による準備書面(1)の構成
第1 はじめに
第2 1987 (昭和62年)年10月─京王プラザホテルでの話し合いについて
第3 1995(平成7)年9月11日の新潟への移動について
第4 新潟での話し合いについて
第5 1997 (平成9)年6月からの荻窪プレイスでの話し合いについて
第6 1997 (平成9)年12月以降の荻窪フラワーホームでの話し合いについて
第7 原告の居座り
第8 原告の健康状態にっいて
第9 原告を外に出したことについて
第10 最後に
青印が今回アップしたもの
第3 1995(平成7)年9月11日の新潟への移動について
1 原告が荻窪栄光教会から立ち去った後も,故■<後藤氏の父>,■<後藤氏の母>,被告後藤らは,原告が相変わらず統一協会の信者としてその組織的指示に従って,反社会的活動に従事していることに,家族として心を痛めていた。
そして,故■<後藤氏の父>や被告後藤らは,もう一度原告と真剣にじっくりと話し合いたいと考えていた。
2 1995 (平成7)年9月11日,原告は突然統一協会のイベントに両親を誘うために実家に戻ってきた。そこで,故■<後藤氏の父>は,原告も含めて,家族会議を開き,原告に対して,統一協会に問題があると考えていることを話した上で,「もう一度,家族できちんと話し合わなければいけないし,話し合いに応じて欲しい。」旨を,真剣に論した。
故■<後藤氏の父>の真剣な態度に,原告も,自分自身そして家族の問題として,話し合いをしなければいけないと理解し納得した。そこで,故■<後藤氏の父>らは,原告とじっくり腰を据えて話し合うために,新潟にある親戚のマンションに移動しようと原告に提案したところ,原告がこれを了解したので,自宅から車に乗って,新潟のマンションに移動した。訴状では,このときの状況について「家の中から引きずり出され」などとあたかも原告の意思に反して無理矢理連れて行ったかのように記載されているが,そのような事実はない。原告は,自ら靴を履いて自動車に乗り込んでおり,移動することを承諾していたものである。
さらに,原告は,新潟への移動についで,四方八方を囲まれ,左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされ,家の中から引きずり出され,ワゴン車に監禁されたと述べているが,全く事実に反する。
原告の実家近辺は,閑静な住宅街であるから,真実原告の主張のような事実があれば,すぐに騒動になるはずであるが,当然のことではあるが,そのような騒動は全く起こらなかった。
なお,原告が実家を出るときに,原告に付き添っていたのは,原告の父母である。原告は細身とはいえ182cmを超える体格の持ち主であり,もし原告がこの母の付き添いをふりほどこうとして暴れたなら,体重40キロにも満たないか弱い母は,転倒して大怪我をするであろうし,立ち去ることを阻止することもできないことは明白である。
3 原告は,新潟に行くことに同意して自動車に乗っていた。新潟に向かう途中で,給油のためガソリンスタンドにも寄っているが,原告は,このときにはトイレに行かせて欲しいとは言わなかったし,いくらでもそのチャンスはあったのに,店員に助けを求めるようなこともなかった。
4 なお,東京第四検察審査会の2010 (平成22)年10月6日付の議決文では,3 (1)ア「■<後藤氏の父>宅からパレスマンション多門607号室までについて」という項において,検討した結果として,「申立人(原告)は,家から引きずられて家を出る際,靴を履いたか否か記憶がないと述べている。■<後藤氏の父>宅からワゴン車までの距離は10メートル弱で,この間を引きずられるようにして裸足同然の状態で歩いたとなれば,当然記憶として残るものと考えるが,記憶がないということは靴を履いたものと考えられる。そうであれば同行を拒否し,引きずられてという主張には疑問がある。■<後藤氏の父>宅は,閉静な住宅街にあり,公道から10メートル弱の私道を奥に入った袋小路の突き当たりにあり,私道の両脇には,後藤宅の他に3軒の住宅がある。公道に出ると公道に面した家々が建ち並んでいる。■<後藤氏の父>宅を出た時聞は午後9時前後ころであるから,申立人が大声を出し(救助を求めることは容易にできたのに,行っていない。ワゴン車で待機していたA及び■<後藤氏の父>宅にいたBも申立人は普通に一人で歩いて来て車に乗り,降車してからも同様だったと述べている。」,「ワゴン車がパレスマンション多門に着いたのは午前2時半前後と,静寂な時間帯であり,申立人が大声を出しで助けを求めれば,多くの人達が異変に気付くことができたと思われるが,申立人は助けを求める行動を取っていない。」と認定されている。
第4 新潟での話し合いについて
1 新潟のパレスマンション多門では,原告は家族らとの話し合いに応じていたし, 1996 (平成8)年3月には統一協会への脱会届を自ら実筆で書いて出すなど,平穏な態度を取り,特に外に出たいという要求をすることもなかった。マンションへの出入りは制約されている状況ではなく,原告が立ち去ろうと思えば,何時でも出ていくことは出来た。
2 新潟のパレスマンション多門に原告と一緒にいたのは, 1995 (平成7)年9月から暫くの間は,故■<後藤氏の父>,訴外■<後藤氏の母>,被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>(■<後藤氏の兄嫁>は同年1月まで)であった。被告■<後藤氏の兄>は原告を統一協会に勧誘した「霊の親」という立場であったため,原告との話し合いにはなるべく関わらない方がいいであろうと考え,原告が脱会届けを出すまでは,新潟に移動した時の外,ほとんどパレスマンションには行っておらず,脱会届けを出してからも,パレスマンションにはせいぜい月に1,2回行く程度であった。
その後,被告■<後藤氏の兄嫁>は1996 (平成8)年1月に体調を崩し,パレスマンション近くの実家で生活をし,アルバイトの仕事に就いていたため,ときどきパレスマンションに行く程度であったし,故■<後藤氏の父>は平成8年3月に心臓病で倒れて東京で入院し,以後,退院後は東京の実家に戻った。■<後藤氏の母>は平成8年3月以降,■<後藤氏の父>の看病等のために不在にすることが多かった。
3 したがって, 1996 (平成8)年3月以降は,原告と一緒にいたのは被告■<後藤氏の妹>だけという状態が殆どであった。
原告と被告■<後藤氏の妹>の体力差を考えれば,原告が,新潟のマンションから出ようと考えていたのであれば,いつでも容易にマンションから抜け出ることが可能であったことは 明らかである。
4 このとき,故■<後藤氏の父>は,原告との話し合いのために,統一協会問題に詳しい被告松永にも来てもらった。家族と原告との話し合いに,被告松永に参加してもらうことを原告が同意したからである。
そして,被告松永と原告は,統一協会の問題について話し合ったが,被告松永は原告に対し話し合いを強制するようなことはなかった。両者の話し合いは平穏なものであり,原告が被告松永と話しをすることを拒絶することもなかった。
5 なお,東京第四検察審査会の2010 (平成22)年10月6日付の議決文では, 3 (1)イ「パレスマンション多門607号室について」との項で,検討した結果として,「このマンションには,平成7年9月12日から■<後藤氏の父>が亡くなる平成9年6月22日まで住んでいた。申立人の供述調書には「窓が内側から開けられない状態であったので,玄関も内側から開けられないような鍵が付いているのかと思った。」と述べており,玄関の鍵の状態がどのようになっているのか見ていない。単なる推測による主張に過ぎない。このマンションで申立人と一緒に生活していたのは,■<後藤氏の父>,被疑者■<後藤氏の母>(以下「■<後藤氏の母>」)という。),被疑者■<後藤氏の兄嫁>(以下「■<後藤氏の兄嫁>」という。),被疑者■<後藤氏の妹>(以下「■<後藤氏の妹>」という。)であり,■<後藤氏の兄>は月に数回来ていた程度である。■<後藤氏の兄嫁>は平成8年1月に体調を崩し,マンション近くの実家で生活をし,アルバイトの仕事に就いていた。■<後藤氏の父>は平成8年3月に心臓病で倒れて入院し,以後,退院後はこのマンションに戻らず,東京の実家に戻っている。■<後藤氏の母>は平成9年3月,■<後藤氏の父>の入院に伴い,看病のため帰郷した(それ以前の平成8年3月以降,■<後藤氏の父>の看病等のために不在にすることが多かった。)。■<後藤氏の兄嫁>はときどき来ていたが,平成8年3月以降は申立人と■<後藤氏の妹>だけという状態が多かった。このことは申立入自身も認めている。申立人は手足を縛られていたわけではなく,行動は自由であったこと,申立人の身長は182センチメートル,体重約65から70キログラム前後であり,それに対して■<後藤氏の母>は身長148センチメートル,体重36キログラム,■<後藤氏の兄>は身長173センチメートル,体重63キログラム,■<後藤氏の兄嫁>は身長158センチメートル,体重50キログラム,■<後藤氏の妹>は153センチメートル,体重39キログラムである。3人の女性と比較して申立人が体力的に圧倒的に勝っており,真実,脱出する意思があれば困難なことではない。女性らは食料品等の買い物等もあり,常時,部屋にいるわけではないし,部屋にいても掃除,洗濯等もしなけれぱならないことから,その隙をみて脱出することも困難とは思えない。」と認定されている。
第5 1997 (平成9)年6月からの荻窪プレイスでの話し合いについて
1 ■<後藤氏の父>は, 1996 (平成8)年6月22日に肝臓癌のために危篤状態になった。
被告■<後藤氏の兄>から故■<後藤氏の父>が危篤状態であるとの連絡を受けた被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>は,原告とともに■<後藤氏の父>と会うために東京に赴くことにした。
そこで,被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>は,■<後藤氏の父>に会いに東京へ行くと,原告に話をしたところ,原告も父親に会いに一緒に東京に行くことになり,急いで新潟を出発した。しかし,■<後藤氏の父>は危篤の知らせがあって間もなくの6月22日午後に死去し,残念ながら,原告,被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>は,■<後藤氏の父>の死に目に会うことは出来なかった。
原告は,一旦保谷の実家に寄って■<後藤氏の父>の遺体と対面した。このとき原告と一緒に行動したのは被告■<後藤氏の兄嫁>の二人の兄■<後藤氏の兄嫁の兄>と■<同じく後藤氏の兄嫁の兄>だけである。その後,被告後藤ら,■<後藤氏の母>は,原告の同意を得た上で,故■<後藤氏の父>と■<後藤氏の母>とが予め手配していた「荻窪プレイス」というマンションに入居した。故■<後藤氏の父>は,自身の体調が回復するという望みを捨てず,少しでも体調がよくなれば原告と話し会いをしたいと考え,東京にマンションを準備していたものである。
新潟から東京へ移動して父親と最後の別れをし,「荻窪プレイス」ヘ移動するまでの間,原告はずっと穏やかな態度であったし,「荻窪プレイス」に入居することになったときも,マンションまでは車で移動しているが,自ら車に乗り,そこから下りて,誰からも強制されることなく自ら歩いて行っている。
また,荻窪プレイスの出入りに制約はなかった。
2 なお,東京第四検察審査会の2010(平成22)年10月6日付の議決文では, 3 (1)ウ「パレスマンション多門から荻窪プレイスマンションへの移動について」の項において,検討した結果として,「■<後藤氏の父>と最後の対面をするためにパレスマンション多門を出る際,申立人は自分で身支度をし,自分で車に乗っていること。パレスマンション多門に戻るつもりだったので財布,自動車運転免許証を置いてきたと述べていること。これらの事実を考慮すると,父との最後の別れの日に逃げるという考えを持っていたということには疑問がある。」と認定されている。
また,同議決文の3(1)エ「荻窪プレイスマンション605号室について」の項において,検討した結果として,「申立人の供述調書には,「トイレに行った際に家族の隙を見てカーテンを払って玄関を見たところ,番号の付いた鍵が見えた感じがした。」と述べており,玄関の鍵の状態がどのようになっているのか確認しておらず,推測による主張に過ぎない。このマンションには9月22日から12月末までの期間住んでおり,申立人と一緒に住んでいた家族は,■<後藤氏の母>,■<後藤氏の兄>,■<後藤氏の兄嫁>,■<後藤氏の妹>であるが,■<後藤氏の母>は最初の1ヵ月間は葬儀等の後始末等で実家にいた。■<後藤氏の兄>は昼間の時間は仕事で不在で,かつ埼玉の自宅との生活が半々の割合であった。昼間の時間,■<後藤氏の兄>が不在であるということ,3人の女性のうち買い物等で誰かが外出すれば残る女性は2人だけであること,申立人は部屋の中を自由に動き回ることができたこと,これらの事実を考慮すると,これで監禁されていたと言えるか疑問である。」と認定されでいる。
1 原告が荻窪栄光教会から立ち去った後も,故■<後藤氏の父>,■<後藤氏の母>,被告後藤らは,原告が相変わらず統一協会の信者としてその組織的指示に従って,反社会的活動に従事していることに,家族として心を痛めていた。
そして,故■<後藤氏の父>や被告後藤らは,もう一度原告と真剣にじっくりと話し合いたいと考えていた。
2 1995 (平成7)年9月11日,原告は突然統一協会のイベントに両親を誘うために実家に戻ってきた。そこで,故■<後藤氏の父>は,原告も含めて,家族会議を開き,原告に対して,統一協会に問題があると考えていることを話した上で,「もう一度,家族できちんと話し合わなければいけないし,話し合いに応じて欲しい。」旨を,真剣に論した。
故■<後藤氏の父>の真剣な態度に,原告も,自分自身そして家族の問題として,話し合いをしなければいけないと理解し納得した。そこで,故■<後藤氏の父>らは,原告とじっくり腰を据えて話し合うために,新潟にある親戚のマンションに移動しようと原告に提案したところ,原告がこれを了解したので,自宅から車に乗って,新潟のマンションに移動した。訴状では,このときの状況について「家の中から引きずり出され」などとあたかも原告の意思に反して無理矢理連れて行ったかのように記載されているが,そのような事実はない。原告は,自ら靴を履いて自動車に乗り込んでおり,移動することを承諾していたものである。
さらに,原告は,新潟への移動についで,四方八方を囲まれ,左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされ,家の中から引きずり出され,ワゴン車に監禁されたと述べているが,全く事実に反する。
原告の実家近辺は,閑静な住宅街であるから,真実原告の主張のような事実があれば,すぐに騒動になるはずであるが,当然のことではあるが,そのような騒動は全く起こらなかった。
なお,原告が実家を出るときに,原告に付き添っていたのは,原告の父母である。原告は細身とはいえ182cmを超える体格の持ち主であり,もし原告がこの母の付き添いをふりほどこうとして暴れたなら,体重40キロにも満たないか弱い母は,転倒して大怪我をするであろうし,立ち去ることを阻止することもできないことは明白である。
3 原告は,新潟に行くことに同意して自動車に乗っていた。新潟に向かう途中で,給油のためガソリンスタンドにも寄っているが,原告は,このときにはトイレに行かせて欲しいとは言わなかったし,いくらでもそのチャンスはあったのに,店員に助けを求めるようなこともなかった。
4 なお,東京第四検察審査会の2010 (平成22)年10月6日付の議決文では,3 (1)ア「■<後藤氏の父>宅からパレスマンション多門607号室までについて」という項において,検討した結果として,「申立人(原告)は,家から引きずられて家を出る際,靴を履いたか否か記憶がないと述べている。■<後藤氏の父>宅からワゴン車までの距離は10メートル弱で,この間を引きずられるようにして裸足同然の状態で歩いたとなれば,当然記憶として残るものと考えるが,記憶がないということは靴を履いたものと考えられる。そうであれば同行を拒否し,引きずられてという主張には疑問がある。■<後藤氏の父>宅は,閉静な住宅街にあり,公道から10メートル弱の私道を奥に入った袋小路の突き当たりにあり,私道の両脇には,後藤宅の他に3軒の住宅がある。公道に出ると公道に面した家々が建ち並んでいる。■<後藤氏の父>宅を出た時聞は午後9時前後ころであるから,申立人が大声を出し(救助を求めることは容易にできたのに,行っていない。ワゴン車で待機していたA及び■<後藤氏の父>宅にいたBも申立人は普通に一人で歩いて来て車に乗り,降車してからも同様だったと述べている。」,「ワゴン車がパレスマンション多門に着いたのは午前2時半前後と,静寂な時間帯であり,申立人が大声を出しで助けを求めれば,多くの人達が異変に気付くことができたと思われるが,申立人は助けを求める行動を取っていない。」と認定されている。
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パレス多門(小川寿夫世話人提供) |
1 新潟のパレスマンション多門では,原告は家族らとの話し合いに応じていたし, 1996 (平成8)年3月には統一協会への脱会届を自ら実筆で書いて出すなど,平穏な態度を取り,特に外に出たいという要求をすることもなかった。マンションへの出入りは制約されている状況ではなく,原告が立ち去ろうと思えば,何時でも出ていくことは出来た。
2 新潟のパレスマンション多門に原告と一緒にいたのは, 1995 (平成7)年9月から暫くの間は,故■<後藤氏の父>,訴外■<後藤氏の母>,被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>(■<後藤氏の兄嫁>は同年1月まで)であった。被告■<後藤氏の兄>は原告を統一協会に勧誘した「霊の親」という立場であったため,原告との話し合いにはなるべく関わらない方がいいであろうと考え,原告が脱会届けを出すまでは,新潟に移動した時の外,ほとんどパレスマンションには行っておらず,脱会届けを出してからも,パレスマンションにはせいぜい月に1,2回行く程度であった。
その後,被告■<後藤氏の兄嫁>は1996 (平成8)年1月に体調を崩し,パレスマンション近くの実家で生活をし,アルバイトの仕事に就いていたため,ときどきパレスマンションに行く程度であったし,故■<後藤氏の父>は平成8年3月に心臓病で倒れて東京で入院し,以後,退院後は東京の実家に戻った。■<後藤氏の母>は平成8年3月以降,■<後藤氏の父>の看病等のために不在にすることが多かった。
3 したがって, 1996 (平成8)年3月以降は,原告と一緒にいたのは被告■<後藤氏の妹>だけという状態が殆どであった。
原告と被告■<後藤氏の妹>の体力差を考えれば,原告が,新潟のマンションから出ようと考えていたのであれば,いつでも容易にマンションから抜け出ることが可能であったことは 明らかである。
4 このとき,故■<後藤氏の父>は,原告との話し合いのために,統一協会問題に詳しい被告松永にも来てもらった。家族と原告との話し合いに,被告松永に参加してもらうことを原告が同意したからである。
そして,被告松永と原告は,統一協会の問題について話し合ったが,被告松永は原告に対し話し合いを強制するようなことはなかった。両者の話し合いは平穏なものであり,原告が被告松永と話しをすることを拒絶することもなかった。
5 なお,東京第四検察審査会の2010 (平成22)年10月6日付の議決文では, 3 (1)イ「パレスマンション多門607号室について」との項で,検討した結果として,「このマンションには,平成7年9月12日から■<後藤氏の父>が亡くなる平成9年6月22日まで住んでいた。申立人の供述調書には「窓が内側から開けられない状態であったので,玄関も内側から開けられないような鍵が付いているのかと思った。」と述べており,玄関の鍵の状態がどのようになっているのか見ていない。単なる推測による主張に過ぎない。このマンションで申立人と一緒に生活していたのは,■<後藤氏の父>,被疑者■<後藤氏の母>(以下「■<後藤氏の母>」)という。),被疑者■<後藤氏の兄嫁>(以下「■<後藤氏の兄嫁>」という。),被疑者■<後藤氏の妹>(以下「■<後藤氏の妹>」という。)であり,■<後藤氏の兄>は月に数回来ていた程度である。■<後藤氏の兄嫁>は平成8年1月に体調を崩し,マンション近くの実家で生活をし,アルバイトの仕事に就いていた。■<後藤氏の父>は平成8年3月に心臓病で倒れて入院し,以後,退院後はこのマンションに戻らず,東京の実家に戻っている。■<後藤氏の母>は平成9年3月,■<後藤氏の父>の入院に伴い,看病のため帰郷した(それ以前の平成8年3月以降,■<後藤氏の父>の看病等のために不在にすることが多かった。)。■<後藤氏の兄嫁>はときどき来ていたが,平成8年3月以降は申立人と■<後藤氏の妹>だけという状態が多かった。このことは申立入自身も認めている。申立人は手足を縛られていたわけではなく,行動は自由であったこと,申立人の身長は182センチメートル,体重約65から70キログラム前後であり,それに対して■<後藤氏の母>は身長148センチメートル,体重36キログラム,■<後藤氏の兄>は身長173センチメートル,体重63キログラム,■<後藤氏の兄嫁>は身長158センチメートル,体重50キログラム,■<後藤氏の妹>は153センチメートル,体重39キログラムである。3人の女性と比較して申立人が体力的に圧倒的に勝っており,真実,脱出する意思があれば困難なことではない。女性らは食料品等の買い物等もあり,常時,部屋にいるわけではないし,部屋にいても掃除,洗濯等もしなけれぱならないことから,その隙をみて脱出することも困難とは思えない。」と認定されている。
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荻窪プレイス |
1 ■<後藤氏の父>は, 1996 (平成8)年6月22日に肝臓癌のために危篤状態になった。
被告■<後藤氏の兄>から故■<後藤氏の父>が危篤状態であるとの連絡を受けた被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>は,原告とともに■<後藤氏の父>と会うために東京に赴くことにした。
そこで,被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>は,■<後藤氏の父>に会いに東京へ行くと,原告に話をしたところ,原告も父親に会いに一緒に東京に行くことになり,急いで新潟を出発した。しかし,■<後藤氏の父>は危篤の知らせがあって間もなくの6月22日午後に死去し,残念ながら,原告,被告■<後藤氏の妹>,被告■<後藤氏の兄嫁>は,■<後藤氏の父>の死に目に会うことは出来なかった。
原告は,一旦保谷の実家に寄って■<後藤氏の父>の遺体と対面した。このとき原告と一緒に行動したのは被告■<後藤氏の兄嫁>の二人の兄■<後藤氏の兄嫁の兄>と■<同じく後藤氏の兄嫁の兄>だけである。その後,被告後藤ら,■<後藤氏の母>は,原告の同意を得た上で,故■<後藤氏の父>と■<後藤氏の母>とが予め手配していた「荻窪プレイス」というマンションに入居した。故■<後藤氏の父>は,自身の体調が回復するという望みを捨てず,少しでも体調がよくなれば原告と話し会いをしたいと考え,東京にマンションを準備していたものである。
新潟から東京へ移動して父親と最後の別れをし,「荻窪プレイス」ヘ移動するまでの間,原告はずっと穏やかな態度であったし,「荻窪プレイス」に入居することになったときも,マンションまでは車で移動しているが,自ら車に乗り,そこから下りて,誰からも強制されることなく自ら歩いて行っている。
また,荻窪プレイスの出入りに制約はなかった。
2 なお,東京第四検察審査会の2010(平成22)年10月6日付の議決文では, 3 (1)ウ「パレスマンション多門から荻窪プレイスマンションへの移動について」の項において,検討した結果として,「■<後藤氏の父>と最後の対面をするためにパレスマンション多門を出る際,申立人は自分で身支度をし,自分で車に乗っていること。パレスマンション多門に戻るつもりだったので財布,自動車運転免許証を置いてきたと述べていること。これらの事実を考慮すると,父との最後の別れの日に逃げるという考えを持っていたということには疑問がある。」と認定されている。
また,同議決文の3(1)エ「荻窪プレイスマンション605号室について」の項において,検討した結果として,「申立人の供述調書には,「トイレに行った際に家族の隙を見てカーテンを払って玄関を見たところ,番号の付いた鍵が見えた感じがした。」と述べており,玄関の鍵の状態がどのようになっているのか確認しておらず,推測による主張に過ぎない。このマンションには9月22日から12月末までの期間住んでおり,申立人と一緒に住んでいた家族は,■<後藤氏の母>,■<後藤氏の兄>,■<後藤氏の兄嫁>,■<後藤氏の妹>であるが,■<後藤氏の母>は最初の1ヵ月間は葬儀等の後始末等で実家にいた。■<後藤氏の兄>は昼間の時間は仕事で不在で,かつ埼玉の自宅との生活が半々の割合であった。昼間の時間,■<後藤氏の兄>が不在であるということ,3人の女性のうち買い物等で誰かが外出すれば残る女性は2人だけであること,申立人は部屋の中を自由に動き回ることができたこと,これらの事実を考慮すると,これで監禁されていたと言えるか疑問である。」と認定されでいる。
2011-07-27(Wed)
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窓は何年間も施錠?
<申立人の供述調書には「窓が内側から開けられない状態であったので,玄関も内側から開けられないような鍵が付いているのかと思った。」と述べており,玄関の鍵の状態がどのようになっているのか見ていない>
被告はとにかく、玄関には鍵はかかっていなかった、と言いたいのだろう。
出入りに制限はなかった、と繰り返し述べているが、窓の施錠については説明していない。
自由意思で話し合いの場に臨んだ原告は、何年間も1度も窓を開けることなく、空気の入れ換えもせず、外の景色も見ることなく、日常生活をしたというのでしょうか。
一緒にいた妹(一般的にレディーは臭いに敏感なものですが)も、窓を開けなかったのでしょうか。
なんとも不思議です(不思議というより異常?)。
原告の、窓は内側から開けられなかった、玄関には行くことすらできなかった、という説明のほうが、よほど説得力があります。
<1996 (平成8)年3月以降は,原告と一緒にいたのは被告■<後藤氏の妹>だけという状態が殆どであった>
妹は原告を相手にせず、放っておくこともできたのに、なぜ、ずっとそのマンションに居続けたのでしょうか。
不思議です。
原告が自分の意思で家族の伝道のためにそのマンションに居座っているのなら、家族がそこに行かなければいいだけの話。妹は、わざわざ、伝道されるためにマンションに住み着いた、ということになります。
しかも、原告は脱会届けを出しています(伝道をあきらめて信仰を棄てても、脱会届など出す必要はさらさらない)。
不思議です。不自然です。
妹の同居はミステリー以外の何ものでもありませんね。
苦しい。実に苦しい作り話としか読めませんね。
被告はとにかく、玄関には鍵はかかっていなかった、と言いたいのだろう。
出入りに制限はなかった、と繰り返し述べているが、窓の施錠については説明していない。
自由意思で話し合いの場に臨んだ原告は、何年間も1度も窓を開けることなく、空気の入れ換えもせず、外の景色も見ることなく、日常生活をしたというのでしょうか。
一緒にいた妹(一般的にレディーは臭いに敏感なものですが)も、窓を開けなかったのでしょうか。
なんとも不思議です(不思議というより異常?)。
原告の、窓は内側から開けられなかった、玄関には行くことすらできなかった、という説明のほうが、よほど説得力があります。
<1996 (平成8)年3月以降は,原告と一緒にいたのは被告■<後藤氏の妹>だけという状態が殆どであった>
妹は原告を相手にせず、放っておくこともできたのに、なぜ、ずっとそのマンションに居続けたのでしょうか。
不思議です。
原告が自分の意思で家族の伝道のためにそのマンションに居座っているのなら、家族がそこに行かなければいいだけの話。妹は、わざわざ、伝道されるためにマンションに住み着いた、ということになります。
しかも、原告は脱会届けを出しています(伝道をあきらめて信仰を棄てても、脱会届など出す必要はさらさらない)。
不思議です。不自然です。
妹の同居はミステリー以外の何ものでもありませんね。
苦しい。実に苦しい作り話としか読めませんね。
不可解ないい訳
みんなさんのコメントは、いつも的確で、納得させられます。
この準備書面は、あまりにも不可解な点が多すぎます。
①後藤さんは1996年3月に脱会届を出しています。何故、脱会届を出した人に対して、話し合いの場としてわざわざ東京のマンションを用意したのか?
②後藤さんのお父さんはH8年3月に入院、一度自宅に退院し、H9年3月に再入院してます。お母さんは看病のため帰郷してます。妹さんは、何故後藤さんと一緒に新潟のマンションに残ったのでしょう?
お父さんのことは、妹さんも心配で本当はお母さんと一緒に看病したかったと思います。
また、お母さんの心労のことも考えたら、お兄さんも兄嫁さんも妹さんに東京に帰って、一緒に看病することを勧めると思います。何故、そうしなかったのでしょうか?
③後藤さんは、新潟に戻るつもりでいたので、財布と免許証をマンションに置いてきました。結局は戻らずに荻窪のマンションに移ったので、財布と免許証は手元に戻らないままでしたが・・・後藤さんの財布と免許証はどこにいったのでしょう?何故、本人に渡さなかったのでしょうか?
監禁でない自由な話し合いの場だったら、新潟のマンションを引き払った人が財布と免許証を本人に渡すべきだし、でなければ、後藤さん本人に取りに行くよう話すでしょう。
本人に渡せない理由があったのでしょうか?
この準備書面は、あまりにも不可解な点が多すぎます。
①後藤さんは1996年3月に脱会届を出しています。何故、脱会届を出した人に対して、話し合いの場としてわざわざ東京のマンションを用意したのか?
②後藤さんのお父さんはH8年3月に入院、一度自宅に退院し、H9年3月に再入院してます。お母さんは看病のため帰郷してます。妹さんは、何故後藤さんと一緒に新潟のマンションに残ったのでしょう?
お父さんのことは、妹さんも心配で本当はお母さんと一緒に看病したかったと思います。
また、お母さんの心労のことも考えたら、お兄さんも兄嫁さんも妹さんに東京に帰って、一緒に看病することを勧めると思います。何故、そうしなかったのでしょうか?
③後藤さんは、新潟に戻るつもりでいたので、財布と免許証をマンションに置いてきました。結局は戻らずに荻窪のマンションに移ったので、財布と免許証は手元に戻らないままでしたが・・・後藤さんの財布と免許証はどこにいったのでしょう?何故、本人に渡さなかったのでしょうか?
監禁でない自由な話し合いの場だったら、新潟のマンションを引き払った人が財布と免許証を本人に渡すべきだし、でなければ、後藤さん本人に取りに行くよう話すでしょう。
本人に渡せない理由があったのでしょうか?
なぜ、新潟なのか?
みんなさんとkoyomiさんの指摘に加え、私が不可解というか被告たちが説明できていないと思うのは、次のことです。
>新潟にある親戚のマンションに移動しようと原告に提案したところ,原告がこれを了解したので,自宅から車に乗って,新潟のマンションに移動した。
「親戚のマンション」の意味が明確ではないけど、素直に受け取るなら「親戚が所有するマンション」ということでしょう。
ならば、新潟のパレスマンション(607号室)は親戚が所有していたマンションということになる。
しかし、後藤さんの陳述書にはそんなことは書かれていませんし、私が彼から話を聞いたときにも、そんな話は出てこなかった。
後藤さんの陳述書(2)には次のような記載があります。
「パレスマンション多門」(このマンション名は後に警察が捜査して特定し,教えてもらいました)
これについては、後日提出されるであろう後藤さん側の反論準備書面を楽しみに待つことにします。
もし「パレスマンション多門」が親戚とは関係のないマンションであることが立証されれば、被告たちの準備書面には虚偽の事実が記載されているということになり、信用性は大きく損なわれます。
また被告たちが説明できていないのは、なぜ、家族の話し合いを西東京市から遠く離れた新潟の地で行なったのか-ということについてです。
「親戚が所有するマンションが新潟にあったから」と暗示的な弁明をしていますが、家族の話し合いの場(かつ統一教会に邪魔をされない所)なら、新潟よりはるかに近いところ、例えば高尾山の民宿などたくさんあります。
なぜ、家族の話し合いを新潟でやられなければならなかったのか。
別に後藤さんの味方をしない人であっても(例えば裁判官)、松永牧師が新潟にいたから新潟に行ったのだろうと解釈するのが自然です。
このことについて、被告人たちはどう弁明するのか、これも今後のお楽しみです。
>新潟にある親戚のマンションに移動しようと原告に提案したところ,原告がこれを了解したので,自宅から車に乗って,新潟のマンションに移動した。
「親戚のマンション」の意味が明確ではないけど、素直に受け取るなら「親戚が所有するマンション」ということでしょう。
ならば、新潟のパレスマンション(607号室)は親戚が所有していたマンションということになる。
しかし、後藤さんの陳述書にはそんなことは書かれていませんし、私が彼から話を聞いたときにも、そんな話は出てこなかった。
後藤さんの陳述書(2)には次のような記載があります。
「パレスマンション多門」(このマンション名は後に警察が捜査して特定し,教えてもらいました)
これについては、後日提出されるであろう後藤さん側の反論準備書面を楽しみに待つことにします。
もし「パレスマンション多門」が親戚とは関係のないマンションであることが立証されれば、被告たちの準備書面には虚偽の事実が記載されているということになり、信用性は大きく損なわれます。
また被告たちが説明できていないのは、なぜ、家族の話し合いを西東京市から遠く離れた新潟の地で行なったのか-ということについてです。
「親戚が所有するマンションが新潟にあったから」と暗示的な弁明をしていますが、家族の話し合いの場(かつ統一教会に邪魔をされない所)なら、新潟よりはるかに近いところ、例えば高尾山の民宿などたくさんあります。
なぜ、家族の話し合いを新潟でやられなければならなかったのか。
別に後藤さんの味方をしない人であっても(例えば裁判官)、松永牧師が新潟にいたから新潟に行ったのだろうと解釈するのが自然です。
このことについて、被告人たちはどう弁明するのか、これも今後のお楽しみです。
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