被告宮村峻陳述書(その3)-甲98号証の3(拉致監禁脱会マニュアル)の発言者を今更発表!被告宮村のピンポイント記憶喪失の謎!?
今回は、被告宮村峻の陳述書の最終回です。青字部分が今回UPした部分です。
<今回UP部分の解説>
今回掲載する部分を少し解説してみます。
一審判決では、1987年に荻窪栄光教会の森山諭牧師の呼びかけで行われた原理運動対策キリスト者全国連絡協議会(原対協)にて被告松永堡智牧師がメモした拉致監禁脱会マニュアル(甲98号証の3)の内容が認定され、被告松永及び被告宮村は、信者家族に対しこのマニュアルの方法を指導していたのであり、原告に対する不法行為もその指導の下で行われた旨認定された。
しかし、被告宮村は、「とんでもない間違い」と強弁する。そして、今ごろになって甲98号証の3のマニュアルは「原理運動被害者父母の会
の会長だった故本間テル子氏が自身の体験を語ったものだと分かったと言う!?・・・あれれ?確か一審では、甲98号証の3のマニュアルが原告側から提出された後、被告宮村側は、十分反論の機会があったにも関わらず、被告宮村は「『甲98号証の3』は、私(宮村)が発言したものではない」と強弁するのみで本間の「ほ」の字も言及していなかったはず。しかも、宮村さんは「自分の記憶には自信がある」と豪語し、16年も前の原告の会話のやり取りを自らの陳述書で詳細に再現して見せ、凡人にはとても真似できない特殊な記憶力を誇示していたのに・・・。どうして、本間さんだけが、宮村の卓越した記憶力からすっぽり抜けてしまったのでしょう・・・?被告宮村は、ピンポイントで記憶喪失にでもなったのでしょうか?摩訶不思議な現象ですね。

<同じ陳述書の中で自身の記憶力を誇示していた被告宮村だが・・・>
以下、陳述書本文です。
第1.はじめに
第2.徹氏と私との話し合いの実情
1.一審判決の認定と誤り
2.徹氏との話し合いの実情
3.「脱会しろ」と言うことはない
4.徹氏に言ってない事実を認定した一審判決
5.フラワーホームに行くのを止めたわけ
第3.南京錠のことなど
1.南京錠について
2.南京錠は必要ないと言った
3.なぜ12年になったか
第4.後藤家の方々と宮村・水茎会とのかかわり
1.一審判決の誤り
2.不十分だった話し合いの姿勢
3.後藤家は水茎会や私の指導、助言と無関係
4.後藤家は自己流で徹氏と話し合った
5.元信者の兄妹と信者の話し合いの難しさ
6.後藤家の家族間の話し合いの特殊性
第5.原対協と松永メモ
1.一審判決の誤り
2.昭和63年までの荻窪栄光教会での話合い
3.甲第98号証の3の松永メモと原対協での発言
<今回UP部分の解説>
今回掲載する部分を少し解説してみます。
一審判決では、1987年に荻窪栄光教会の森山諭牧師の呼びかけで行われた原理運動対策キリスト者全国連絡協議会(原対協)にて被告松永堡智牧師がメモした拉致監禁脱会マニュアル(甲98号証の3)の内容が認定され、被告松永及び被告宮村は、信者家族に対しこのマニュアルの方法を指導していたのであり、原告に対する不法行為もその指導の下で行われた旨認定された。
しかし、被告宮村は、「とんでもない間違い」と強弁する。そして、今ごろになって甲98号証の3のマニュアルは「原理運動被害者父母の会
の会長だった故本間テル子氏が自身の体験を語ったものだと分かったと言う!?・・・あれれ?確か一審では、甲98号証の3のマニュアルが原告側から提出された後、被告宮村側は、十分反論の機会があったにも関わらず、被告宮村は「『甲98号証の3』は、私(宮村)が発言したものではない」と強弁するのみで本間の「ほ」の字も言及していなかったはず。しかも、宮村さんは「自分の記憶には自信がある」と豪語し、16年も前の原告の会話のやり取りを自らの陳述書で詳細に再現して見せ、凡人にはとても真似できない特殊な記憶力を誇示していたのに・・・。どうして、本間さんだけが、宮村の卓越した記憶力からすっぽり抜けてしまったのでしょう・・・?被告宮村は、ピンポイントで記憶喪失にでもなったのでしょうか?摩訶不思議な現象ですね。

<同じ陳述書の中で自身の記憶力を誇示していた被告宮村だが・・・>
以下、陳述書本文です。
第5.原対協と松永メモ
1.一審判決の誤り
一審判決は、森山牧師を中心として、昭和62年にもたれた原対協の集まりやそこで話し合われたことを、甲第98号証の3の松永牧師のメモに基づいて、そのメモに書かれていることがあたかも松永牧師や私が信者の家族を指導していた内容であるかのように認定しています。そして、後藤家でとられた方法もその松永メモに即した方法であって、「逃走防止措置の実施、外出及び外部との連絡の制限等に重点が置かれたもの」だったと決めつけています(原判決57頁)。


<「甲98号証の3」一部 マニュアルには、確実に脱会させるための方法が詳細にメモされている>
しかし、前述したとおり、私は後藤家の方々にそのような方法を教えた事実はありません。話し合いのためにマンション内に生活して外部との連絡を遮断する方法が、信者本人の意思に反するのであれば、私はそのようなやり方に反対です。
後藤家の皆さんは、<被告後藤兄>氏をはじめとして、水茎会の方々の体験に学ぶ姿勢はなかったし、私に話し合いの場の設定方法について相談されることもありませんでした。
私はお父さんの懸命のお願いを受け、また、<被告後藤兄>氏から徹氏が私との話し合いを拒否していないと聞き、フラワーホームで会ってみると、実際徹氏は私との話し合いに応じたので、結局70回余通いましたが、話し合いの場の設定には全くかかわっていないのです。
本項では、私の責任を認める前提となったと思われる原対協や松永メモについて事実を述べさせていただきます。
2.昭和63年までの荻窪栄光教会での話合い
(1)昭和59(1984)年の夏ころ、私は統一協会のことや聖書について勉強する為に、荻窪栄光教会で聞かれていた、毎週水曜日午後7時からの「聖書研究会」と日曜日の礼拝に出席し、森山諭牧師の説教や聖書講義を聞いて学び、また統一協会信者やその家族と森山先生との話を横でお聞きして学んでいました。そのようなことをする契機は<Y・C>さんのお父さんから相談をうけたことにありました。森山先生の聖書講義はとても奥深く、また聖書の教えも新鮮でした。私は個人的にも森山先生と親しくなり、その高潔な人格に触れる幸運に恵まれ、充実した聖書勉強が出来ました。

<当時の荻窪栄光教会。現在は、新しい礼拝堂が建造されている。>
森山先生が、統一協会問題に詳しくて、統一協会の問題に取り組んでいらっしゃることから、信者やその家族の相談を受けておられたので、その親切な対応についても多くの学ぶべきことがありました。ある時雑談の最中に、統一協会の話になり、私の陳述書(乙ハ第2号証17、18頁)に書いた経緯で、統一協会信者との話し合いをお手伝いすることがあったりして、さらに個人的な親交が深まりました。
(2)森山先生はとてもお忙しい方で、平日でも教会にいらっしゃることは余りありませんでした。私も小さな会社を立ち上げて間もない頃でしたから、森山先生から声をかけられたときは仕事が終わった後、夕方から夜にかけて栄光教会に伺うことが度々ありました。
昭和59(1984)年当時は、日曜日は、いつも2組か3組の統一協会信者の家族がご相談に栄光教会にみえていました。日曜の礼拝が終わった後、午後1時ころから2時ころまで、教会1階の図書室でご家族の相談を受けたり、統一協会について説明をされていました。私はこの席に同席するように言われ、森山先生の話やご家族の話を一緒に聞いたり、森山先生が指示された資料のコピーなどをしました。相談に見える新しいご家族はひと月かふた月に1組くらいの数でした。
このころ、統一協会では、日本で集めた潤沢な資金を元にアメリカでの進出に力を入れ始めました。その結果、日本人の信者が次々とアメリカに渡り、アメリカ各地で、伝道や資金集めに従事させられました。勿論正式なビザなど発行される訳もなく、大半は観光ビザで入国し、現地で不法滞在を続け、アメリカでの正体かくしの伝道や花売りやカンパ集めなどの資金獲得活動をさせられていたのです。
統一協会に入っているというだけで心配し、説得をしてきた親たちに、嘘や辻棲の合わない言い訳をし、いろんな理由をつけて、家から金を持ち出していく子供が、今度は、「世界の為に、アメリカに行く」と言い出したのです。アメリカのどこにいくのか、住まいはどこか、生活費はどうするのか、ビザはどうなっているのか、親たちが何を聞いても、「全て統一協会が責任をもってやってくれる。とにかく世界平和の為だ。」の一点張り。そして家族が渡米に反対すると、突然家出してしまう。困り果てた親たちはこれは自分たちだけで解決することはできないと気づき、いろんな相談先を探し始めたのです。
その結果、森山先生の所にも問い合わせが増え始めました。森山先生は、キリスト教の世界ではかなり有名な牧師ですが、篤実なクリスチャンですから、一人一人の方々に誠実に、丁寧に話をされていて、その有様は、はたで見ていて感動するくらいでした。しかし森山先生は教会の仕事の他にも、いくつかの団体の責任者もなさり、その会合も頻繁にありました。また年間三回ほどの海外出張をこなしていました。しかもお年は80歳。それは激務すぎるのが明らかでした。

<キリスト教以外の信仰を一切認めない故・森山牧師が創価学会を批判した書籍>
親の相談が少しづつ増えていった、昭和60(1985)年4月5日に、渡米していた、統一協会の日本人女性信者<K・M>さん(22歳)が、カリフォルニア州で資金集めの最中に、現地の男性にレイプされ、殺されるという事件が起きました。これが週刊誌などで報道されると、子供が統一協会に入っている親たちはパニック状態になり、日本各地で相談を受けている牧師の方々の所に、相談が殺到する事態になりました。荻窪栄光教会も例外ではなく、まず相談の電話が殺到しました。こうなると森山先生一人で対処することはできず、元信者で荻窪栄光教会の信徒だった<I>さんや<A>さんという女性がこの電話の窓口となり、その週の土曜日に教会に来るように答えました。そして、毎週土曜日の午後一時から、初めてくるご家族の相談を受け付けることになりました。
私は、森山先生の要請を受けて、毎週土曜日、仕事が終わると、昼食もそこそこにして、午後一時までに栄光教会に駆けつけ、森山先生と私、それに元信者たちとで手分けしてご相談をうけました。毎週の土曜日にお越しになるご家族は、日本中から、少ない時でも5組か6組、多い時は20組を超えるくらいのご家族がお越しになりました。森山先生はどんなご家族でも心配事は同じだから、丁寧に親切に接するようにと、私や元信者たちに指示されました。私と他の人たち(このころはすでに統一協会を脱会した、元信者たちにも手伝ってもらうようになっていました)はそれぞれのご家族からその内容を聞き、それを報告書のようにメモして森山先生にお渡ししました。そういう作業が毎週土曜日に、栄光教会の一階の小ホールを使い、夕方まで、時には夜半まで続きました。そしてあくる日の日曜礼拝は、このご家族の送迎や昼食の心配までして、礼拝後の午後一時から夕方まで、相談を聞いたり、わからないことは森山先生に聞いてお答えしたりしていました。統一協会問題は、複雑で難しい内容を含んでいますし、それぞれのご家族は、一種のパニック状態ですから、「ご本人がアメリカに行くと決まったわけではないし、行ったからと言って全員が事件に巻き込まれるわけでもありません。とにかく落ち着いて冷静になって下さい。」と話して、冷静になって考えてもらうようにすることで精一杯でした。
増え続ける人数で、毎週の礼拝は、二階の礼拝堂だけでは入りきれなくなり、一階の和室、小ホール、図書室まで使うようになりました。
森山先生一人では、当然このご家族に対応することはできませんから、先生の知り合いで、この問題に精通している、各地の教会の牧師の方々を紹介して、そこに行ってもらうこともありました。

(2)昭和59(1984)年ころの統一協会信者との話し合いは、それぞれの家族が、個々に森山先生にお願いし、森山先生のご都合などに合わせて、平日に信者本人とご家族が一緒に栄光教会を訪問し、教会の一階の図書室で話し合いがもたれました。この話し合いに、できるだけ私も参加するように言われました。
そのうち、森山先生がお忙しい時には、「○月○日の○○時にAさん家族が見えるのだが、私は急な用事で出かけなければならない。夜9時ころに帰宅するので、それまでは、あなたが話していて下さい。」といった要請がされるようになりました。こうして、私が森山先生のかわりに直接話し合いに参加するようになりました。このころは、栄光教会の一階にある、玄関前の図書室で、信者本人と家族と森山先生や私とで話し合いをしていました。夜遅くに教会に来るご家族もいて、そんな時は、教会一階の和室にお泊りいただくこともありました。この時代の話し合いは、ほとんどが、4,5時間で解決していました。
まれに、3,4年の信仰歴の信者さんが、最初は「統一原理」の正しさを、滔々と述べ、それを一つ一つ反論をすると、今度は、「それは価値観が違う。」とか「聖書の解釈の違いだ。」とか「この世では間違っていても霊界では正しい。」などと、屁理屈を述べる人がいると、その屁理屈にいちいち付き合うには、やはり時間が必要なこともありました。話し合いが成立しない信者やご家族には、申し訳ないのですがお引き取りいただくこともありました。それでも、長い場合で2,3日間位、議論をしていくと解決することが殆どでした。
こうして統一協会を一人が脱会すると、統一協会の中で親しかった友人もやめてほしいと思い、その友人や、その親に連絡をする。その繰り返しで、相談に来る家族が増えるという状況が続きました。当時、荻窪栄光教会以外のキリスト教牧師の方々がどんなカウンセリングをしているかなど森山先生も私も知る由もありません。とにかく次々と来られる家族に対応するのに精一杯の日々がつづいていました。
(3)その結果、次々と各地で信者が止めてしまう事態にあせった統一協会では、これを放置できなくなったようで、いわゆる「反対牧師対策講座」とか、反対する親などに対する通称「免疫講座」などの教えこみを強化して牧師との話し合いによる脱会を防ごうとしました。
その内容はこのようなものです。
「親は反対派に洗脳されて法外な金をとられる。反対派のところにいくと鎖で縛られる。注射を打たれる。精神病院に入れられる。殴る蹴るの暴行を受ける。強姦される。」このような到底信じられない話を信者に教え込みます。また「もし統一協会を止めると、親兄弟に不幸が起きる。先祖が地獄で苦しみ続ける。あなたの子孫が、あなたの墓を掘り起こして、あなたの骨に向かってあらゆる憎しみや呪いをかける。それどころか、止めた人は、悲惨な死に方をする。親の情に負けて統一協会をやめた○○さんは、その後正体不明の病気にかかって7日間苦しみ続けて死んだ。」
このような教え込みが、「対策講座」で延々となされたのです。その結果、森山先生や私と信者や家族の話し合いに要する時間が徐々に長くなっていきました。今までのように、本人と家族に教会に来てもらい、図書室で話し合い、長くても2,3日で終わっていた話し合いが、3,4日かかることも増えました。まず本論にはいる前に、「反対対策講座」で教えられたようなことはない。ということをわかってもらうために沢山の時間がかかります。そのためにも3食しっかり食べて、十分に休んでもらう時間が必要でした。
そこで森山先生は、教会の裏にある、牧師館の一階、教会の事務室の奥にある、8畳間の和室を使って話をするようになりました。この部屋には、お風呂も洗面も台所もなく、食事は店屋物をとったり、教会の台所を使わせてもらって簡単な料理を自分たちで作っていただいたりしていました。朝の洗顔は、外の水道を使っていました。お風呂は教会から歩いて15分位の、銭湯に行っていました。稀に、二階の牧師室のお風呂を、森山先生のお嬢さんの、森山<N>先生が支度して、使わせてもらうこともありました。
話し合いの時間が、少しずつ長くなっていったのですから、その点では、統一協会の「対策」は効果があったのでしょう。しかし「対策」で教えることは、所詮「嘘」ですから、誠意をもって話し合えば、嘘だということがわかり、やっぱり次々と止めていきました。

<原告側から提出された対策講座スライドの一部 統一教会の対策講座は、嘘なのか?!>
(4)相談に来る親たちが増えるにしたがって、話し合いの現場は非常に混乱してきました。森山先生のご都合も聞かずに、本人とご家族が昼夜を問わず勝手に栄光教会に来ることが増えていきました。それでも森山先生は、「せっかく来だのだから、無下に追い返すわけにはいきません。なんとかしましょう。」と言ってお引き受けになりました。多い時には、図書室に1組、礼拝堂の下の和室に1組、牧師館の下の和室に1組といった状況も生じるようになりました。その上、近所にマンションを借りて栄光教会に森山先生のお話を聞きに通ってくるような家族も出はじめました。それでも短い人で3時間くらい。長い人で3,4日で森山先生や私と家族と信者との話し合いは終わっていました。
話し合いによって次々と止めていく信者が増えるのに従って、今度は統一協会が栄光教会の様子を見るために、周辺で見張りをしたり、礼拝に潜り込もうとしたり、元統一協会員の自宅に押しかけたりしました。私の家にも、何度か押しかけてきたことがありました。統一協会系の新聞の「世界日報」(社員はほとんどが統一協会員)の記者が突然訪ねてきて「こんな事をしていると、副島のようになるぞ。」「前の道路は交通量が多いから、子供の交通事故に気を付けろ。」などと脅かしたりしました。副島という世界日報の責任者だった幹部信者は、あまりにひどい統一協会の霊感商法などを告発する論文を文藷春秋に発表したところ間もなく刃物で斬りつけられて大けがをしたのです。
そのうちに今度は、話し合いの最中に、何人も若者を引き連れて、直接教会に乗り込んできて騒いで、本人や家族との話し合いを妨害するような事態を起こすようになりました。
荻窪栄光教会は、当時夜中でも教会の戸は開いていましたから、夜中に、無断で入ってきて、教会の建物内を探し回ったりしました。日曜日の礼拝中にも何人もの統一協会員が押し寄せ、前の道路で、スピーカーの音量を上げて、「宗教迫害を許すな。」などと抗議のデモのようなことをしたり、もしその時に話し合いの最中の者がいると、強引に栄光教会の建物内から連れ出そうとする統一協会の信者グループと家族との間で騒ぎが起き、近所の人が110番に通報するようなことも度々おこりました。昼夜問わずこんな警察沙汰が続きました。
信者とその家族が荻窪栄光教会の和室に滞在して話し合いをするようなことは、昭和63(1988)年年末ころまで続きました。しかし、親たちの中には、栄光教会で話し合いをしていると、統一協会が押し寄せて、話し合いが目茶目茶になることを恐れて、自分たちでマンションを借りる人もいました。栄光教会の部屋が一杯で家族と本人のいるところがないため、近くのマンションやホテルから栄光教会に通ってくる人も増えてきました。栄光教会内で話し合いをしていたのは、昭和63(1988)年の年末まででした。
(5)それは昭和63(1988)年5月ころだったと思います。森山先生と私が、荻窪警察署に呼ばれました。話の内容は、「こんな騒ぎを頻繁に起こしてもらっては困ります。ご近所からも苦情が殺到して、警察としても手を焼いています。森山先生がおやりになっているご活動は大変なことで、警察としてもご立派なことだと評価していますが、何とかして騒ぎを起こすことだけでも止める方法はありませんか。」というものでした。

<原告後藤徹氏も事情聴取を受けた荻窪警察署>
森山先生と私で、事細かに事情を説明し、「統一協会の人たちが、勝手に来るのであって、私たちも迷惑しています。統一協会側に、騒ぎを起こさないように指導してくれませんか。」とお願いしました。 しかし、警察は、「家族と宗教の問題には介入できません。とにかく騒ぎは困ります。」と言われるだけで、話がかみあいませんでした。しばらくして、警察のほうから、「だったら、統一協会にわからないように、教会でなく、外のマンションを借りてやったらどうですか。」という提案がありました。森山先生と私は、検討するということにして警察署を出ました。
このころは、前述したように、統一協会の中では荻窪栄光教会は有名でしたから、統一協会の人達が押しかけるのを恐れて、荻窪栄光教会を使わずに、統一協会に見つからないように、近くのマンションを借りて、そこで話し合いを行ないたいという家族が増えつつありました。そして、昭和63(1988)年の年末を最後に、栄光教会内での話し合いは原則としてしないようになりました。
3.甲第98号証の3の松永メモと原対協での発言
(1)昭和59年から63年当時の荻窪栄光教会の教会と牧師館の内部の構造と敷地図を私の記憶に基づいて作成しましたので本書面に添付致します。

<当時の荻窪栄光教会の平面図(宮村陳述書添付)>
前述したように、信者本人や家族との話し合いは教会1階の図書室や牧師館の1階の和室で行っていました。牧師館2階は森山諭牧師とそのご家族が住んでおられたところでした。その和室の1つか2つも森山先生やご家族のご配慮で信者や家族が滞在して森山先生との話し合いに用いられることもあったのです。
トイレや洗面、食事などのために牧師館や教会内はもとより、その外に出ることも度々あるので、統一協会が主張するような監禁的状況はありえませんでした。
この栄光教会や牧師館での話し合いをもっぱらしていた森山先生や私にとって、甲第98号証の3の松永牧師が書きとめたという原対協の会議での発言のメモの内容は、森山先生や私の行っていたことと全く合致しないものであることは明白です。
およそ私が考える余地もないような「場所の移動の無理強い」の場面について、何人かがどんな方法で強制的に移動させるか、などということがメモされていますが、私は当時そんな局面は考えてもいなかったし、今でも多人数で取り囲んで移動させるなどといったことをするべきではないとご家族には助言をしているのです。
一審判決はこの松永メモに書かれたような方法を「実践的・実効的な方法」と決めつけて、私や松永牧師もそんな方法を家族に指導していたと認定しているようですが、とんでもない間違いです。
私はこの松永メモに書いてあるような方法に、反対する部分も多くあるし、こんな方法をやることが実践的で実効的であるとは考えていません。
(2)そもそも原対協はキリスト者(牧師やクリスチャンである人)の会でしたから、クリスチャンでもない私は傍聴はさせてもらいましたが発言資格はなく、正式な参加資格もありませんでした。甲第95号証と甲第96号証の2に昭和63年9月3日の準備会の出席者がリストアップされていますが、私の名が書かれていないのはそのためです。
(3)一審判決の30頁から34頁まで延々と甲第98号証の3の松永メモを前提とした認定がされ、これがまるで松永牧師や私が指導した「実践的・実効的な方法」であったかのような書きぶりになっていますが、全く違います。これは明らかに、原告側の推測と予断、偏見に基づく主張に引きずられて誤った認定をしています。
改めて、当時この会合に出席していた方々にこの甲第98号証の3のメモのような発言があったか、誰が言ったことかと聞いてみました。その結果、この発言は甲第95号証と甲第96号証の2のとおり、9月3日の準備会に出席したことが明記されており、10月16日の発足会にも出席された「原理運動被害者父母の会の会長本間テル子」さんが、その体験を語ったものだと判りました。
(4)本間テル子さんは牧師ではなく、娘さんが統一協会信者になってしまい、その娘を脱会させる活動をされるうちに他の信者の家族からも相談をうけるようになり、自分の娘さんのことをさておき、他の信者の家族のために全国を精力的に飛び回って脱会させるために活動をされてきた方でした。本間さんはクリスチャンなので、この原対協にも参加されましたし、発言もよくなさっていました。

<本間テル子氏の書籍 熱心に反統一教会活動を行っていた故・本間テル子氏だが・・・>
ただ、本間テル子さんのとられた方法は、とにかくわが子を脱会させるためには手段を問わないような傾向もあったようです。ですから、牧師さんの中には、本間テル子さんの活動や発言をたしなめるような発言をなさる方もおられました。ただ、長年活動され、少なからず信者の脱会を実現して全国の元信者やその家族に感謝されていたので、その発言は一目置かれるような雰囲気もありました。
(5)実際、甲第98号証の3に書かれている方法というか手法は本間さんのような信者の家族の立場の方が話した内容だと想って読むと合点がいくことが多いのです。例えば、甲第98号証の3、1枚目の「2.家か親戚の家で論争し一場所を変えて話し合おう」ともちかけて、「逃げられないという(?)自覚をさせる」とメモされていますが、前述したとおり、森山先生や私は栄光教会に来た信者本人やご家族とそのまま話し合いをしていたので、当時こんなことを考えたり論じたりすることは関係ありませんでした。
ですから2枚目の、「車に乗せる前の話し合い」とか「場所を変えて~、移動」という記載なども私には無関係です。
3枚目に「1晩ないし2晩は家族で話し合う」とメモされていますが、森山先生も私も荻窪栄光教会に来られた信者とはその日のうちから話し合いをしていました。話し合いの為に滞在できる部屋数も少なかったので、1,2日を無駄にできないと思っていました。 4枚目に、「説得者の許可なく外出はしない」とか「最初の一週間は4人を準備」等のメモもありますが、そもそも一週間以上滞在してもらうようなことはめったにありませんでしたし、森山先生や私の「許可」など関係なしに家族も本人も外出したり建物の外で洗顔や入浴に行ったし、統一協会信者が押しかけてくることも度々あったのです。5枚目の「親の権威をもって…外に出してとか…制止する」という発想は、そもそもありませんでした。

<甲98号証の3の3枚目>
(6)このように、甲第98号証の3のメモは、昭和62年にこの会合がもたれた当時の森山先生や私が行っていたこととかけ離れていましたし、私たちが考えていることとも全く違うことが多いのです。
松永牧師がそんな発言をどうしてメモされたのかは判りませんが、何かの参考になるかもと思ったのでしょうか。しかし、森山先生も私も、本間さんの言うようなやり方は適切でないことが多いと考えておりました。松永牧師も本間さんの言う方法をそのまま採用するはずがないのです。
(7)甲第98号証の2の1枚目「確認事項」のメモに「救出活動(は)福音にふさわしいしかたで」とあり、2枚日にも「3.活動」の末尾に「但し、救出活動は、福音に恥じない」と書かれています。これは右翼にお金を払ってわが子を取り戻そうとする親がいたので、そのような人権侵害的なやり方をしないよう注意するというのが主眼でした。このような取引を是認するような統一協会側に対しても、強い批判がありました。ですから、そのような非難に耐えうるようにという配慮が語り合われたことを覚えています。
なお、本間テル子さんは、今から2、3年前に死去されたと聞いています。生涯を統一協会による家庭崩壊とのたたかいに捧げた方でした。
*次回は、11月13日の判決日に控訴審判決速報を掲載する予定です。
1.一審判決の誤り
一審判決は、森山牧師を中心として、昭和62年にもたれた原対協の集まりやそこで話し合われたことを、甲第98号証の3の松永牧師のメモに基づいて、そのメモに書かれていることがあたかも松永牧師や私が信者の家族を指導していた内容であるかのように認定しています。そして、後藤家でとられた方法もその松永メモに即した方法であって、「逃走防止措置の実施、外出及び外部との連絡の制限等に重点が置かれたもの」だったと決めつけています(原判決57頁)。


<「甲98号証の3」一部 マニュアルには、確実に脱会させるための方法が詳細にメモされている>
しかし、前述したとおり、私は後藤家の方々にそのような方法を教えた事実はありません。話し合いのためにマンション内に生活して外部との連絡を遮断する方法が、信者本人の意思に反するのであれば、私はそのようなやり方に反対です。
後藤家の皆さんは、<被告後藤兄>氏をはじめとして、水茎会の方々の体験に学ぶ姿勢はなかったし、私に話し合いの場の設定方法について相談されることもありませんでした。
私はお父さんの懸命のお願いを受け、また、<被告後藤兄>氏から徹氏が私との話し合いを拒否していないと聞き、フラワーホームで会ってみると、実際徹氏は私との話し合いに応じたので、結局70回余通いましたが、話し合いの場の設定には全くかかわっていないのです。
本項では、私の責任を認める前提となったと思われる原対協や松永メモについて事実を述べさせていただきます。
2.昭和63年までの荻窪栄光教会での話合い
(1)昭和59(1984)年の夏ころ、私は統一協会のことや聖書について勉強する為に、荻窪栄光教会で聞かれていた、毎週水曜日午後7時からの「聖書研究会」と日曜日の礼拝に出席し、森山諭牧師の説教や聖書講義を聞いて学び、また統一協会信者やその家族と森山先生との話を横でお聞きして学んでいました。そのようなことをする契機は<Y・C>さんのお父さんから相談をうけたことにありました。森山先生の聖書講義はとても奥深く、また聖書の教えも新鮮でした。私は個人的にも森山先生と親しくなり、その高潔な人格に触れる幸運に恵まれ、充実した聖書勉強が出来ました。

<当時の荻窪栄光教会。現在は、新しい礼拝堂が建造されている。>
森山先生が、統一協会問題に詳しくて、統一協会の問題に取り組んでいらっしゃることから、信者やその家族の相談を受けておられたので、その親切な対応についても多くの学ぶべきことがありました。ある時雑談の最中に、統一協会の話になり、私の陳述書(乙ハ第2号証17、18頁)に書いた経緯で、統一協会信者との話し合いをお手伝いすることがあったりして、さらに個人的な親交が深まりました。
(2)森山先生はとてもお忙しい方で、平日でも教会にいらっしゃることは余りありませんでした。私も小さな会社を立ち上げて間もない頃でしたから、森山先生から声をかけられたときは仕事が終わった後、夕方から夜にかけて栄光教会に伺うことが度々ありました。
昭和59(1984)年当時は、日曜日は、いつも2組か3組の統一協会信者の家族がご相談に栄光教会にみえていました。日曜の礼拝が終わった後、午後1時ころから2時ころまで、教会1階の図書室でご家族の相談を受けたり、統一協会について説明をされていました。私はこの席に同席するように言われ、森山先生の話やご家族の話を一緒に聞いたり、森山先生が指示された資料のコピーなどをしました。相談に見える新しいご家族はひと月かふた月に1組くらいの数でした。
このころ、統一協会では、日本で集めた潤沢な資金を元にアメリカでの進出に力を入れ始めました。その結果、日本人の信者が次々とアメリカに渡り、アメリカ各地で、伝道や資金集めに従事させられました。勿論正式なビザなど発行される訳もなく、大半は観光ビザで入国し、現地で不法滞在を続け、アメリカでの正体かくしの伝道や花売りやカンパ集めなどの資金獲得活動をさせられていたのです。
統一協会に入っているというだけで心配し、説得をしてきた親たちに、嘘や辻棲の合わない言い訳をし、いろんな理由をつけて、家から金を持ち出していく子供が、今度は、「世界の為に、アメリカに行く」と言い出したのです。アメリカのどこにいくのか、住まいはどこか、生活費はどうするのか、ビザはどうなっているのか、親たちが何を聞いても、「全て統一協会が責任をもってやってくれる。とにかく世界平和の為だ。」の一点張り。そして家族が渡米に反対すると、突然家出してしまう。困り果てた親たちはこれは自分たちだけで解決することはできないと気づき、いろんな相談先を探し始めたのです。
その結果、森山先生の所にも問い合わせが増え始めました。森山先生は、キリスト教の世界ではかなり有名な牧師ですが、篤実なクリスチャンですから、一人一人の方々に誠実に、丁寧に話をされていて、その有様は、はたで見ていて感動するくらいでした。しかし森山先生は教会の仕事の他にも、いくつかの団体の責任者もなさり、その会合も頻繁にありました。また年間三回ほどの海外出張をこなしていました。しかもお年は80歳。それは激務すぎるのが明らかでした。

<キリスト教以外の信仰を一切認めない故・森山牧師が創価学会を批判した書籍>
親の相談が少しづつ増えていった、昭和60(1985)年4月5日に、渡米していた、統一協会の日本人女性信者<K・M>さん(22歳)が、カリフォルニア州で資金集めの最中に、現地の男性にレイプされ、殺されるという事件が起きました。これが週刊誌などで報道されると、子供が統一協会に入っている親たちはパニック状態になり、日本各地で相談を受けている牧師の方々の所に、相談が殺到する事態になりました。荻窪栄光教会も例外ではなく、まず相談の電話が殺到しました。こうなると森山先生一人で対処することはできず、元信者で荻窪栄光教会の信徒だった<I>さんや<A>さんという女性がこの電話の窓口となり、その週の土曜日に教会に来るように答えました。そして、毎週土曜日の午後一時から、初めてくるご家族の相談を受け付けることになりました。
私は、森山先生の要請を受けて、毎週土曜日、仕事が終わると、昼食もそこそこにして、午後一時までに栄光教会に駆けつけ、森山先生と私、それに元信者たちとで手分けしてご相談をうけました。毎週の土曜日にお越しになるご家族は、日本中から、少ない時でも5組か6組、多い時は20組を超えるくらいのご家族がお越しになりました。森山先生はどんなご家族でも心配事は同じだから、丁寧に親切に接するようにと、私や元信者たちに指示されました。私と他の人たち(このころはすでに統一協会を脱会した、元信者たちにも手伝ってもらうようになっていました)はそれぞれのご家族からその内容を聞き、それを報告書のようにメモして森山先生にお渡ししました。そういう作業が毎週土曜日に、栄光教会の一階の小ホールを使い、夕方まで、時には夜半まで続きました。そしてあくる日の日曜礼拝は、このご家族の送迎や昼食の心配までして、礼拝後の午後一時から夕方まで、相談を聞いたり、わからないことは森山先生に聞いてお答えしたりしていました。統一協会問題は、複雑で難しい内容を含んでいますし、それぞれのご家族は、一種のパニック状態ですから、「ご本人がアメリカに行くと決まったわけではないし、行ったからと言って全員が事件に巻き込まれるわけでもありません。とにかく落ち着いて冷静になって下さい。」と話して、冷静になって考えてもらうようにすることで精一杯でした。
増え続ける人数で、毎週の礼拝は、二階の礼拝堂だけでは入りきれなくなり、一階の和室、小ホール、図書室まで使うようになりました。
森山先生一人では、当然このご家族に対応することはできませんから、先生の知り合いで、この問題に精通している、各地の教会の牧師の方々を紹介して、そこに行ってもらうこともありました。

(2)昭和59(1984)年ころの統一協会信者との話し合いは、それぞれの家族が、個々に森山先生にお願いし、森山先生のご都合などに合わせて、平日に信者本人とご家族が一緒に栄光教会を訪問し、教会の一階の図書室で話し合いがもたれました。この話し合いに、できるだけ私も参加するように言われました。
そのうち、森山先生がお忙しい時には、「○月○日の○○時にAさん家族が見えるのだが、私は急な用事で出かけなければならない。夜9時ころに帰宅するので、それまでは、あなたが話していて下さい。」といった要請がされるようになりました。こうして、私が森山先生のかわりに直接話し合いに参加するようになりました。このころは、栄光教会の一階にある、玄関前の図書室で、信者本人と家族と森山先生や私とで話し合いをしていました。夜遅くに教会に来るご家族もいて、そんな時は、教会一階の和室にお泊りいただくこともありました。この時代の話し合いは、ほとんどが、4,5時間で解決していました。
まれに、3,4年の信仰歴の信者さんが、最初は「統一原理」の正しさを、滔々と述べ、それを一つ一つ反論をすると、今度は、「それは価値観が違う。」とか「聖書の解釈の違いだ。」とか「この世では間違っていても霊界では正しい。」などと、屁理屈を述べる人がいると、その屁理屈にいちいち付き合うには、やはり時間が必要なこともありました。話し合いが成立しない信者やご家族には、申し訳ないのですがお引き取りいただくこともありました。それでも、長い場合で2,3日間位、議論をしていくと解決することが殆どでした。
こうして統一協会を一人が脱会すると、統一協会の中で親しかった友人もやめてほしいと思い、その友人や、その親に連絡をする。その繰り返しで、相談に来る家族が増えるという状況が続きました。当時、荻窪栄光教会以外のキリスト教牧師の方々がどんなカウンセリングをしているかなど森山先生も私も知る由もありません。とにかく次々と来られる家族に対応するのに精一杯の日々がつづいていました。
(3)その結果、次々と各地で信者が止めてしまう事態にあせった統一協会では、これを放置できなくなったようで、いわゆる「反対牧師対策講座」とか、反対する親などに対する通称「免疫講座」などの教えこみを強化して牧師との話し合いによる脱会を防ごうとしました。
その内容はこのようなものです。
「親は反対派に洗脳されて法外な金をとられる。反対派のところにいくと鎖で縛られる。注射を打たれる。精神病院に入れられる。殴る蹴るの暴行を受ける。強姦される。」このような到底信じられない話を信者に教え込みます。また「もし統一協会を止めると、親兄弟に不幸が起きる。先祖が地獄で苦しみ続ける。あなたの子孫が、あなたの墓を掘り起こして、あなたの骨に向かってあらゆる憎しみや呪いをかける。それどころか、止めた人は、悲惨な死に方をする。親の情に負けて統一協会をやめた○○さんは、その後正体不明の病気にかかって7日間苦しみ続けて死んだ。」
このような教え込みが、「対策講座」で延々となされたのです。その結果、森山先生や私と信者や家族の話し合いに要する時間が徐々に長くなっていきました。今までのように、本人と家族に教会に来てもらい、図書室で話し合い、長くても2,3日で終わっていた話し合いが、3,4日かかることも増えました。まず本論にはいる前に、「反対対策講座」で教えられたようなことはない。ということをわかってもらうために沢山の時間がかかります。そのためにも3食しっかり食べて、十分に休んでもらう時間が必要でした。
そこで森山先生は、教会の裏にある、牧師館の一階、教会の事務室の奥にある、8畳間の和室を使って話をするようになりました。この部屋には、お風呂も洗面も台所もなく、食事は店屋物をとったり、教会の台所を使わせてもらって簡単な料理を自分たちで作っていただいたりしていました。朝の洗顔は、外の水道を使っていました。お風呂は教会から歩いて15分位の、銭湯に行っていました。稀に、二階の牧師室のお風呂を、森山先生のお嬢さんの、森山<N>先生が支度して、使わせてもらうこともありました。
話し合いの時間が、少しずつ長くなっていったのですから、その点では、統一協会の「対策」は効果があったのでしょう。しかし「対策」で教えることは、所詮「嘘」ですから、誠意をもって話し合えば、嘘だということがわかり、やっぱり次々と止めていきました。

<原告側から提出された対策講座スライドの一部 統一教会の対策講座は、嘘なのか?!>
(4)相談に来る親たちが増えるにしたがって、話し合いの現場は非常に混乱してきました。森山先生のご都合も聞かずに、本人とご家族が昼夜を問わず勝手に栄光教会に来ることが増えていきました。それでも森山先生は、「せっかく来だのだから、無下に追い返すわけにはいきません。なんとかしましょう。」と言ってお引き受けになりました。多い時には、図書室に1組、礼拝堂の下の和室に1組、牧師館の下の和室に1組といった状況も生じるようになりました。その上、近所にマンションを借りて栄光教会に森山先生のお話を聞きに通ってくるような家族も出はじめました。それでも短い人で3時間くらい。長い人で3,4日で森山先生や私と家族と信者との話し合いは終わっていました。
話し合いによって次々と止めていく信者が増えるのに従って、今度は統一協会が栄光教会の様子を見るために、周辺で見張りをしたり、礼拝に潜り込もうとしたり、元統一協会員の自宅に押しかけたりしました。私の家にも、何度か押しかけてきたことがありました。統一協会系の新聞の「世界日報」(社員はほとんどが統一協会員)の記者が突然訪ねてきて「こんな事をしていると、副島のようになるぞ。」「前の道路は交通量が多いから、子供の交通事故に気を付けろ。」などと脅かしたりしました。副島という世界日報の責任者だった幹部信者は、あまりにひどい統一協会の霊感商法などを告発する論文を文藷春秋に発表したところ間もなく刃物で斬りつけられて大けがをしたのです。
そのうちに今度は、話し合いの最中に、何人も若者を引き連れて、直接教会に乗り込んできて騒いで、本人や家族との話し合いを妨害するような事態を起こすようになりました。
荻窪栄光教会は、当時夜中でも教会の戸は開いていましたから、夜中に、無断で入ってきて、教会の建物内を探し回ったりしました。日曜日の礼拝中にも何人もの統一協会員が押し寄せ、前の道路で、スピーカーの音量を上げて、「宗教迫害を許すな。」などと抗議のデモのようなことをしたり、もしその時に話し合いの最中の者がいると、強引に栄光教会の建物内から連れ出そうとする統一協会の信者グループと家族との間で騒ぎが起き、近所の人が110番に通報するようなことも度々おこりました。昼夜問わずこんな警察沙汰が続きました。
信者とその家族が荻窪栄光教会の和室に滞在して話し合いをするようなことは、昭和63(1988)年年末ころまで続きました。しかし、親たちの中には、栄光教会で話し合いをしていると、統一協会が押し寄せて、話し合いが目茶目茶になることを恐れて、自分たちでマンションを借りる人もいました。栄光教会の部屋が一杯で家族と本人のいるところがないため、近くのマンションやホテルから栄光教会に通ってくる人も増えてきました。栄光教会内で話し合いをしていたのは、昭和63(1988)年の年末まででした。
(5)それは昭和63(1988)年5月ころだったと思います。森山先生と私が、荻窪警察署に呼ばれました。話の内容は、「こんな騒ぎを頻繁に起こしてもらっては困ります。ご近所からも苦情が殺到して、警察としても手を焼いています。森山先生がおやりになっているご活動は大変なことで、警察としてもご立派なことだと評価していますが、何とかして騒ぎを起こすことだけでも止める方法はありませんか。」というものでした。

<原告後藤徹氏も事情聴取を受けた荻窪警察署>
森山先生と私で、事細かに事情を説明し、「統一協会の人たちが、勝手に来るのであって、私たちも迷惑しています。統一協会側に、騒ぎを起こさないように指導してくれませんか。」とお願いしました。 しかし、警察は、「家族と宗教の問題には介入できません。とにかく騒ぎは困ります。」と言われるだけで、話がかみあいませんでした。しばらくして、警察のほうから、「だったら、統一協会にわからないように、教会でなく、外のマンションを借りてやったらどうですか。」という提案がありました。森山先生と私は、検討するということにして警察署を出ました。
このころは、前述したように、統一協会の中では荻窪栄光教会は有名でしたから、統一協会の人達が押しかけるのを恐れて、荻窪栄光教会を使わずに、統一協会に見つからないように、近くのマンションを借りて、そこで話し合いを行ないたいという家族が増えつつありました。そして、昭和63(1988)年の年末を最後に、栄光教会内での話し合いは原則としてしないようになりました。
3.甲第98号証の3の松永メモと原対協での発言
(1)昭和59年から63年当時の荻窪栄光教会の教会と牧師館の内部の構造と敷地図を私の記憶に基づいて作成しましたので本書面に添付致します。

<当時の荻窪栄光教会の平面図(宮村陳述書添付)>
前述したように、信者本人や家族との話し合いは教会1階の図書室や牧師館の1階の和室で行っていました。牧師館2階は森山諭牧師とそのご家族が住んでおられたところでした。その和室の1つか2つも森山先生やご家族のご配慮で信者や家族が滞在して森山先生との話し合いに用いられることもあったのです。
トイレや洗面、食事などのために牧師館や教会内はもとより、その外に出ることも度々あるので、統一協会が主張するような監禁的状況はありえませんでした。
この栄光教会や牧師館での話し合いをもっぱらしていた森山先生や私にとって、甲第98号証の3の松永牧師が書きとめたという原対協の会議での発言のメモの内容は、森山先生や私の行っていたことと全く合致しないものであることは明白です。
およそ私が考える余地もないような「場所の移動の無理強い」の場面について、何人かがどんな方法で強制的に移動させるか、などということがメモされていますが、私は当時そんな局面は考えてもいなかったし、今でも多人数で取り囲んで移動させるなどといったことをするべきではないとご家族には助言をしているのです。
一審判決はこの松永メモに書かれたような方法を「実践的・実効的な方法」と決めつけて、私や松永牧師もそんな方法を家族に指導していたと認定しているようですが、とんでもない間違いです。
私はこの松永メモに書いてあるような方法に、反対する部分も多くあるし、こんな方法をやることが実践的で実効的であるとは考えていません。
(2)そもそも原対協はキリスト者(牧師やクリスチャンである人)の会でしたから、クリスチャンでもない私は傍聴はさせてもらいましたが発言資格はなく、正式な参加資格もありませんでした。甲第95号証と甲第96号証の2に昭和63年9月3日の準備会の出席者がリストアップされていますが、私の名が書かれていないのはそのためです。
(3)一審判決の30頁から34頁まで延々と甲第98号証の3の松永メモを前提とした認定がされ、これがまるで松永牧師や私が指導した「実践的・実効的な方法」であったかのような書きぶりになっていますが、全く違います。これは明らかに、原告側の推測と予断、偏見に基づく主張に引きずられて誤った認定をしています。
改めて、当時この会合に出席していた方々にこの甲第98号証の3のメモのような発言があったか、誰が言ったことかと聞いてみました。その結果、この発言は甲第95号証と甲第96号証の2のとおり、9月3日の準備会に出席したことが明記されており、10月16日の発足会にも出席された「原理運動被害者父母の会の会長本間テル子」さんが、その体験を語ったものだと判りました。
(4)本間テル子さんは牧師ではなく、娘さんが統一協会信者になってしまい、その娘を脱会させる活動をされるうちに他の信者の家族からも相談をうけるようになり、自分の娘さんのことをさておき、他の信者の家族のために全国を精力的に飛び回って脱会させるために活動をされてきた方でした。本間さんはクリスチャンなので、この原対協にも参加されましたし、発言もよくなさっていました。

<本間テル子氏の書籍 熱心に反統一教会活動を行っていた故・本間テル子氏だが・・・>
ただ、本間テル子さんのとられた方法は、とにかくわが子を脱会させるためには手段を問わないような傾向もあったようです。ですから、牧師さんの中には、本間テル子さんの活動や発言をたしなめるような発言をなさる方もおられました。ただ、長年活動され、少なからず信者の脱会を実現して全国の元信者やその家族に感謝されていたので、その発言は一目置かれるような雰囲気もありました。
(5)実際、甲第98号証の3に書かれている方法というか手法は本間さんのような信者の家族の立場の方が話した内容だと想って読むと合点がいくことが多いのです。例えば、甲第98号証の3、1枚目の「2.家か親戚の家で論争し一場所を変えて話し合おう」ともちかけて、「逃げられないという(?)自覚をさせる」とメモされていますが、前述したとおり、森山先生や私は栄光教会に来た信者本人やご家族とそのまま話し合いをしていたので、当時こんなことを考えたり論じたりすることは関係ありませんでした。
ですから2枚目の、「車に乗せる前の話し合い」とか「場所を変えて~、移動」という記載なども私には無関係です。
3枚目に「1晩ないし2晩は家族で話し合う」とメモされていますが、森山先生も私も荻窪栄光教会に来られた信者とはその日のうちから話し合いをしていました。話し合いの為に滞在できる部屋数も少なかったので、1,2日を無駄にできないと思っていました。 4枚目に、「説得者の許可なく外出はしない」とか「最初の一週間は4人を準備」等のメモもありますが、そもそも一週間以上滞在してもらうようなことはめったにありませんでしたし、森山先生や私の「許可」など関係なしに家族も本人も外出したり建物の外で洗顔や入浴に行ったし、統一協会信者が押しかけてくることも度々あったのです。5枚目の「親の権威をもって…外に出してとか…制止する」という発想は、そもそもありませんでした。

<甲98号証の3の3枚目>
(6)このように、甲第98号証の3のメモは、昭和62年にこの会合がもたれた当時の森山先生や私が行っていたこととかけ離れていましたし、私たちが考えていることとも全く違うことが多いのです。
松永牧師がそんな発言をどうしてメモされたのかは判りませんが、何かの参考になるかもと思ったのでしょうか。しかし、森山先生も私も、本間さんの言うようなやり方は適切でないことが多いと考えておりました。松永牧師も本間さんの言う方法をそのまま採用するはずがないのです。
(7)甲第98号証の2の1枚目「確認事項」のメモに「救出活動(は)福音にふさわしいしかたで」とあり、2枚日にも「3.活動」の末尾に「但し、救出活動は、福音に恥じない」と書かれています。これは右翼にお金を払ってわが子を取り戻そうとする親がいたので、そのような人権侵害的なやり方をしないよう注意するというのが主眼でした。このような取引を是認するような統一協会側に対しても、強い批判がありました。ですから、そのような非難に耐えうるようにという配慮が語り合われたことを覚えています。
なお、本間テル子さんは、今から2、3年前に死去されたと聞いています。生涯を統一協会による家庭崩壊とのたたかいに捧げた方でした。
以 上
*次回は、11月13日の判決日に控訴審判決速報を掲載する予定です。
2014-11-09(Sun)
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回りくど~い
<警察のほうから、「だったら、統一協会にわからないように、教会でなく、外のマンションを借りてやったらどうですか。」という提案がありました>
これが本当だとしたら、えらいことです。
まあ、どうせウソでしょうけど…。
<統一協会の人達が押しかけるのを恐れて、荻窪栄光教会を使わずに、統一協会に見つからないように、近くのマンションを借りて、そこで話し合いを行ないたいという家族が増えつつありました>
話し合いを行いたい、というのはあくまで信者本人ではなく、脱会させたい親や反対牧師や宮村たちなわけでしょ。
信者本人がそこに缶詰にされることを望んだのかどうか、そして、親たちがマンションを借りたのを知って宮村がどうしたか、それが問題でしょう。
話をはぐらかされても、困りますね。
最終弁論当日のギリギリまで、つらつらと回りくどい言い訳を書き募ってきたわけですが、いよいよ明日13日が判決。
さてさて、宮村の苦労は報われるでしょうか?
請うご期待、ですね~。
これが本当だとしたら、えらいことです。
まあ、どうせウソでしょうけど…。
<統一協会の人達が押しかけるのを恐れて、荻窪栄光教会を使わずに、統一協会に見つからないように、近くのマンションを借りて、そこで話し合いを行ないたいという家族が増えつつありました>
話し合いを行いたい、というのはあくまで信者本人ではなく、脱会させたい親や反対牧師や宮村たちなわけでしょ。
信者本人がそこに缶詰にされることを望んだのかどうか、そして、親たちがマンションを借りたのを知って宮村がどうしたか、それが問題でしょう。
話をはぐらかされても、困りますね。
最終弁論当日のギリギリまで、つらつらと回りくどい言い訳を書き募ってきたわけですが、いよいよ明日13日が判決。
さてさて、宮村の苦労は報われるでしょうか?
請うご期待、ですね~。
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