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後藤徹氏陳述書(6)

原告(後藤徹氏)陳述書(6)
後藤徹さんの拉致監禁も、家族の経済的負担の厳しさ等により、終息を迎える。マンションの賃貸料金、妹の婚期、兄夫婦の長期間の別居生活など、拉致監禁をしてしまったつけが、加害者側にも回ってきたことによる。しかし、12年5カ月物青春を奪っておきながら、最後は自分たちの都合により後藤氏を放り出すという所業は、到底許されるものではない。

後藤徹氏陳述書の構成
1.略歴
2.統一教会への入会
3.第1回目の監禁
4.第1回目の監禁から脱出後の経緯
5.第2回目の監禁
(1)新潟のマンション(パレスマンション多門607号室)での監禁
(2)東京のマンション(1カ所目・荻窪プレイス605号室)での監禁
(4)宮村等による脱会説得
(5)ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)
(6)ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)
(7)ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)
(8)監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に

青印が今回アップしたもの


入院直後の後藤さんの激やせ状態
入院直後の後藤さんの激やせ状態

(8)監禁からの解放

2007年11月頃になると,兄嫁は私に対して,「あんたこの部屋を維持するのにどれだけお金が掛かっていると思っているの」と言って私を非難し,2001年2月に私が約1ヶ月間に亘って804号室からの脱出を試みては家族らから取り押さえられるということを繰り返した際,台所の棚やアコーディオンカーテンが壊れたことに関しても,「あんたどれだけこの部屋を壊したら気が済むの?部屋を出るとき,全部リフォームしないといけないのよ」と言って私を非難しました。もはや家族等は,804号室での監禁を継続することが経済的にかなり苦しくなりつつあるようでした。また,万一私が再度ハンガーストライキをして死ぬようなことにでもなれば,もっと面倒なことになるという危機感が,彼等を襲っていたと思いますが,この頃から,私を監禁している家族の間でも,監禁をこれ以上継続するか否かで意見が分かれ始めたようです。

2008年1月頃,私は自分の髪を切るため鏡を貸すよう要求し,妹がいた玄関前の部屋の近くまで行きました。すると妹が,「入ってこないでよ」と激しい口調で言い,両手で私の胸辺りを強く押して突き飛ばしました。このため私は身体がよろけて数歩後退し,背中から食器棚にぶつかりました。当時の私の体力はこの程度のものでしたが,それでも私を監禁中の殆どの期間,家族は,何か用事があっても最低2人は804号室に残るようにし,私に対する監視を怠りませんでした。例えば,2006年4月3日か4日のことだったと思いますが,母方の祖母が亡くなったため,常時監視をしていた母と妹が山形県米沢市の祖母の家に葬儀に出かけたことがありました。この時は,兄嫁に加え,兄がわざわざ会社を休んで私の監視に当たりました。これは,監視が兄嫁一人になってしまうため,それを補充するための行動であったと思われます。

同年2月10日午後4時頃,兄夫婦,母,妹の4人が私に対して「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」と言って804号室からの退去をいきなり命令してきました。当時の私は,断食後の1年10カ月に亘る食事制裁と運動不足,また,監禁が長くなるにつれての絶望感,虚無感,そしてあらゆるものを失った喪失感のため,心身とも著しく衰弱し,また,12年以上も社会との断絶を余儀なくされたため,行くあてもなく,監禁から解放されたとしても,路頭に迷いホームレスにでもなりかねない,そんな状況でありました。そのため私は,家族に対し「それなら少しでもお金をください。そうでないと電車にも乗れないでしょう」と言って家族に頼みました。それに対し,兄は「ダメだ」と拒否しました。

長年に亘る拉致監禁により,貴重な時間とあらゆる機会を奪っておいて,その上,自分たちの意にそぐわなければ一文無しで出て行けという,そのあまりにも理不尽な扱いに私は大変憤り,「12年間も監禁しておいて無一文で追い出すなんて酷いじゃないか!」と言って激しく抗議しました。すると揉み合いになり,家族等は力づくで私を追い出そうとしました。そこで私は,台所の棚やアコーディオンカーテンなど至る所にしがみついて抵抗しましたが全く歯が立たず,担ぎ上げられ,普段着に靴下のまま玄関から無理矢理外に押し出され,玄関前のコンクリートの廊下部分に背中から押し倒されました。

私が仰向けになったまま起き上がれずにいると,兄が玄関の中で「靴,靴」と言い,その後,家族の誰かが私の革靴を投げつけてきました。この後玄関ドアが閉められ,鍵が掛けられました。この時の揉み合いで,私は手の甲や手首から出血し,セーターは破かれました。余りの仕打ちに玄関ドアを叩きつけ大声を張り上げてしばらく抗議したところ,兄が玄関の内側から「うるさい」と叫びました。

私はやむなくエレベーターで下に降りました。1階に下りると集合ポストがあり,804号室のポストには名札入れのところに,GOTOとローマ字で書いた紙片が貼ってありました。また,1階玄関から外に出た際,同マンションが杉並区荻窪3-47-15の荻窪フラワーホームであることを確認しました。

ようやく自由の身になれたとはいうものの,体力的に衰弱した中,所持品も着替えもなく,仕事も生活の宛ても無く,かつての知り合いがどこにいるかも分からない中で,一体これからどうやって生きていったらいいのかという不安が襲ってきました。そして,荻窪近辺の統一教会の場所が分からなかったため,私は歩いて渋谷にある統一教会本部に向かいました。

青梅街道を東にしばらく歩くと交番(成宗交番杉並区阿佐谷南3-12-2)が見えたので,そこに入り,「この近くの荻窪フラワーホームというマンションに監禁されていて,先ほど解放されました」と言って,つい先ほどまで監禁されていたことを訴えました。

私の言葉に,警察官は最初驚いた様子でしたが,私が,統一教会の信仰を棄教させるために家族が拉致し監禁したという事の顛末を話すと,警察官の態度が急に変わり,訝しげにものを見る目になっていきました。いくら説明しても「親が一緒だったんでしょ」「食べ物も食べてたんでしょ」と,まともに対応されない中で,私は,「これはダメだ。まるで話にならない」と思わざるを得ませんでした。そこで,せめて電車賃ぐらいは借りたいと思い「とにかく一文無しなので,お金を貸してくださいませんか」と頼みました。すると,東京に知り合いはいないのか,などと聞かれ,私は,「いや,だから12年もマンションに監禁されていて,そこから出てきたのだから,頼るところはないし,・・・」と言うしかありませんでした。結局,身元不詳ということで,それも拒否され,仕方なく目指すことにした渋谷方面への行き方を略図で書いてもらい,それを握って再び歩き始めました。

荻窪フラワーホーム804号室では,食事制裁を受ける中,常に空腹状態で苦しいながらも,運動不足を解消するため,一日15分は簡単な運動をしていましたが,このことが幸いしてか,しばらくは歩くことができました。途中のラーメン屋やドーナツ屋の横を通るたび,その匂いがたまらなく,そこに入って,腹いっぱい食べたい衝動に駆られましたが,一文無しではどうしようもなく,先を急ぐしかありませんでした。青梅街道から中野坂上の交差点を右折して山手通りに入ると,遠くに久しぶりに見る新宿の高層ビル街が目に入り「ああ,ようやく自由になれたんだ!」,と解放された実感がわいてきました。

しかし,長年歩いていなかったせいで,渋谷区に入った辺りから,両膝の下が急に痛くなり始め,更に初台の辺りまで来ると,膝ががくがくしてきたため,前屈みになり膝に手を添えて歩くようにしました。しばらく進むと道端に木の棒が落ちていたのでこれを杖の代わりにし,非常にゆっくりとしたペースで少しづつ前進しました。

「本部が閉まってしまわないうちに行かなければ」と焦りながらマンションを出て4時間くらいかけて漸く渋谷区松濤2丁目の交差点まで来ましたが,遂に膝の激痛のため一歩も歩けなくなってしまいました。しかも夜になりこれ以上どちら進んだらいいのか,道も分かりませんでした。その時の私の姿は,上は,もみ合いの時に破れたセーターに下は着古したジャージ,靴は皮靴,髪は自分で刈っていたので,ざんぎり頭でした。その上,杖をついて歩いていたので,一見ホームレスにしか見えず,また,一年の内で一番寒い時期だったので「このままだと,ここで凍死するかもしれない」とふと頭をよぎり,この時,私は殉教も覚悟しました。

しかし,「最後まで,這ってでも行けるところまで行こう。」と決意し,思い切って通行人に統一教会本部への道順を尋ねました。すると,2人目に声を掛けた通行人の女性がたまたま帰宅途中の統一教会信者でした。
私は,この奇跡的な出会いに驚き,偶然であったとはいえ,天の助けを感じ,感動でうち震えました。その女性に事情を説明すると,親切にも道順を教えて下さいましたが,私がもはや歩行困難であることを告げると,タクシーを拾って下さり,タクシー代として千円を出して下さいました。

監禁下で人間扱いされなかった私は,久しぶりに人の温かさに触れ,とめどなく涙が流れてきました。こうして私は,何とか生きて本部教会に辿り着くことができました。

本部教会で夜間受付の男性に事情を説明したところ,12年間監禁されていたという話をにわかに信じて貰うことができず,最初は不審者と間違われ相手にして貰えませんでした。しかしその人が,拉致監禁問題に詳しい人に電話で連絡をとったところ,確かに「後藤」という男性信者が長期監禁されているという情報を高澤牧師の監禁から逃げ帰った信者が伝えてくれたことがあるということで,信じて貰うことができ,建物の中に入れて貰うことができました。

本部で夕食を出して貰い,この日は1階の奥にある和室で泊めて貰うことになりました。ところが,就寝する頃,トイレに行こうとしても這ってしか行けず,トイレまで行っても用を足せない状態になっていました。このため,「何かあったらいけない」ということで,夜中の0時頃に教会本部からタクシーで豊島区北大塚の一心病院まで送って貰いました。一心病院で夜間診療を受けたところ,栄養失調と診断されました。また,歩行不能であったため,私は同病院に緊急入院しました。

その後の診察,検査により栄養失調の他,全身筋力低下,廃用性筋萎縮(筋肉を使わないために筋肉組織が退化して小さく弱くなった状態),貧血と診断されました。

6.入院後の経緯

2月11日(午前2時頃)に一心病院に入院した頃は,立とうとすると膝の骨に激痛が走るため,独力での歩行ができない状態が続き,2月下旬頃まで車椅子を利用しました。その後,歩行器を利用するようになり,3月4日頃から松葉杖と歩行器を併用するようになりました。3月10日頃になると,杖を使用するようになりましたが,階段を自由に上り下りできるまでには回復しませんでした。

3月20日頃になると杖を使わずに歩けるようになり,ゆっくりであれば階段を上り下りできるようになりましたが,長時間の歩行はまだできない状態でした。このためリハビリを継続し,3月31日に退院しましたが,その後しばらくは走ることもできず,早歩きをしようとしてもしずらい状態でした。また,徒歩で30分くらい買い物に出ただけで膝や足首に痛みを感じ,翌日は,ももやふくらはぎに筋肉痛が残りました。

座るときは,あぐらはかけましたが,足首に痛みがあるため正座はできませんでしたし,監禁解放から3年以上たった今も正座をすると足に違和感を感じます。また,退院後しばらくは,あぐらの状態で立ち上がろうとしても,手を床につくなどして体を支えないと足の力だけでは立ち上がることができませんでした。12年間に亘る長期監禁と,2月10日の脱出時に膝を痛めたこととが,退院後も,身体に重大な影響を及ぼしていることを強く感じました。

一心病院に入院して2~3日後,胃腸炎を起こし,しばらく下痢が続きました。これも,長期監禁により内臓の抵抗力が弱っていたためだと思います。12年5ヶ月に亘る監禁中,外の景色を見る機会が殆どなかったこと,2006年初頭頃からは,電気スタンドの電球が切れたまま,新しい物を支給されない中で活字を読んだこと,目が疲れても目薬を支給されなくなったことなどが影響してか,監禁前には1.5あった視力が,0.2に落ちていました。このため,監禁前には裸眼で運転免許をとることができたのに,今は眼鏡がなくては車も運転できません。もっとも,運転免許証の書き換えには行けなかったので免許が失効してしまい,最初から免許を取り直さなければならなくなりました。

入院から2日後の2月13日,ジャーナリストの米本和広さんが見舞いに来てくれました。私は米本さんに監禁中のいきさつを話し,また,取材に協力するため写真撮影に応じました。なお,その翌日,米本さんが荻窪フラワーホームや宮村の家を取材に行ったところ,宮村が出てきて暫く話し,私に対し脱会説得をするためフラワーホームに来たことを認めたとのことでした。また,宮村は私が長期監禁され家族から虐待されたために痩せ細ったことについて,「後藤が断食なんかするからだ」と言ったとのことです(2008年3月5日付米本和広陳述書)。私がハンガーストライキを始めたのは2004年4月のことであり,宮村は2001年2月に最後に804号室に来て以降も,私の家族等と連絡を取り続け,私に対する監禁を共謀し続けていたことが上記発言で明らかとなりました。

ところで,ハンガーストライキ自体,監禁から解放されるためやむなく行ったことであり,2004年に21日間,2005年に21日間,2006年に30日間と3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ,解放されることはなかったと思います。また,こうしたハンガーストライキをしたとしても,普通の食事さえ出してくれていたならば,2006年4月のハンガーストライキが終わってから1年11ヶ月も経っていた2008年2月10日の監禁解放当時,体重が元に戻らないなどということはあり得ません。

なお,監禁解放後の2008年9月,私は,統一教会の合同結婚式に参加し,その後入籍,今の岩本姓となった次第です(妻の家には男兄弟がおらず,跡取りがいないため,私が岩本家に入ることにしました。)。40代半ばにしてようやく結婚することができ,家庭を持つことができた今,遅まきながらささやかな幸せをかみしめています。

7.最後に

信教の自由が保障されている日本にあって,信仰を棄教させるために12年5ヶ月間もの長期に亘って監禁し,集団で非難を浴びせ,精神的・肉体的に虐待して苦痛を与え,脱会を強要するこのような行いは,拷問以外の何ものでもなく,絶対に許すことができません。一体私がどのような罪を犯したために,12年5ヶ月もの期間,留置されなければならなかったのでしょうか。兄や兄嫁は,元々自由意志で信仰心に燃えて統一教会の信仰をしていたにも拘わらず,脱会した後になって,意に反して伝道され活動に従事させられたなどと嘘の主張をして,「青春を返せ裁判」を起こし,統一教会から賠償金を得ています。

それに比べ,私は31歳から44歳までの12年5ヶ月間,狭いマンションの一室に拘束され続け,信教の自由,結婚の自由,職業選択の自由,居住移転の自由,投票の自由を奪われたことは元より,人間の尊厳を根底から否定し尽くされ,貴重な人生を台無しにさせられました。しかも,監禁中は人間性を無視した非難,罵倒,中傷と,監禁を継続するための暴行傷害,そして食事制裁による拷問を受け棄教を強要され続けました。

しかも健康診断などが受けられなかったことは元より,40度近い高熱が出ても病院にすら行くことを許されず,餓死寸前になっても解放されませんでした。このような犯罪は前代未聞です。ところが,監禁に関与してきた家族や宮村等には一切の反省もなく,それどころか,宮村は荻窪フラワーホームの玄関ドアが南京錠などで施錠されていたことを知らなかったなどと言って責任逃れをする構えを見せているのです。

私が12年5ヶ月にも亘る監禁と精神的・肉体的虐待にも拘わらず統一教会の信仰を失わなかった理由の一つは,監禁している側の残虐な行いを目の当たりにすればする程,統一教会に反対している宮村や家族等こそが悪の権化であって,自分は死んでもあのような悪の一味には属したくないという思いを強く抱いたことと,不当な監禁現場からいつの日か必ず自由の身となって,この悪質な人権侵害を万人に訴えていかなければならないという使命感を強く持ったためです。

裁判所におかれましては,どうか公正な判断を下し,単に私個人の救済というだけでなく,松永,宮村をはじめ今でも統一教会信者を拉致監禁して強制棄教を迫る活動を続けている強制改宗屋らによる人権侵害を撲滅する上で,大いなる警鐘を鳴らしていただきたいと念願しています。
以上
2011-07-05(Tue)
 

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魂は奪えない 

<兄夫婦,母,妹の4人が私に対して「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」と言って804号室からの退去をいきなり命令してきました>

衰弱しきった人間を、一銭も渡さず、寒風吹きすさぶ屋外に放り出す―。
どうしてこんなことができるのでしょうかね。
兄や母たちは家族の情を一体、どこに捨ててしまったのでしょうか。

これを読んで、この兄夫婦、母、妹に対する「騙されていたのだから、被害者かもしれない」といった同情心がすっかり消えてしまいましたね。

彼らはすでに、宮村らに洗脳され、魂を悪魔に明け渡してしまったように思います。

それにしても、後藤さんの信仰はここまでの迫害に耐えて勝ったのですから、すごいですね。聖書に登場するヨブに匹敵する義人だと思います。

命の危険、虐待、屈辱、孤独…。
12年5ヶ月という長きにわたり、あらゆる苦難にめげなかった後藤さんのこの話は、何人といえども(たとえ悪魔でも)魂は奪えない、ということを示す貴重な実話だと思います。
こんなに勇気づけられる話はなかなかありません。

裁判に勝つということもさることながら、それ以上に、この、魂が悪魔に勝った実話を、後世に語り継ぎたいと強く思います。
2011-07-06 18:58 | みんな | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

連絡先:gotosaiban-contactus@yahoo.co.jp

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