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後藤徹氏陳述書(5)

原告(後藤徹氏)陳述書(5)
2001年9月以降、脱会説得は行われなくなるが、何事もなく無為に流れていく時間はまた、それ自体が精神的拷問の道具となるであろう。流れゆく時間、世の中から取り残され、人生の脂の乗り切った時期が奪われていく自分。後藤徹さんの心中で、何かをしなければ、どうにかして脱出しなければ、このまま老いを迎えてしまうかもしれないという不安がだんだんと大きくなっていったことであろう。ついにハンガーストライキを決断する時が来る。

後藤徹氏陳述書の構成
1.略歴
2.統一教会への入会
3.第1回目の監禁
4.第1回目の監禁から脱出後の経緯
5.第2回目の監禁
(1)新潟のマンション(パレスマンション多門607号室)での監禁
(2)東京のマンション(1カ所目・荻窪プレイス605号室)での監禁
(4)宮村等による脱会説得
(5)ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)(今回)
(6)ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)(今回)
(7)ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)(今回)

(8)監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に
青印が今回アップしたもの


ハンガーストライキ
解放直後の後藤さん。ハンガーストライキ終了後はさらに激やせ状態だったと推測される

(5)ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)

2004年4月,私は,いよいよこのままでは一生監禁されたままで終わるのではないかとの抑えがたい不安感と恐怖心に襲われました。しかし,2001年2月にはどんなに私が脱出しようとしても取り押さえられた経緯があったことから,今度は方法を変え,遂に私は21日間のハンガーストライキを決行し,長期監禁に抗議しました。

私は家族に対して,「もう8年だぞ!当時生まれた人間はもう8歳だ。こんなに閉じこめて人権侵害だ!」「30代というのは人生で最も気力体力が充実している時だ。それを社会から隔絶された所に閉じこめられてまるまる奪われたんだぞ。どうしてくれるんだ」「一体何回選挙権を奪ったと思っているんだ!」「これを人権侵害と認識できないというのは,あんたらの考え方がよほど狂っている。何でそれがわからないのか。それこそ非常識じゃないか」「これは拷問だ!」などと言って抗議しましたが,家族等は「全く人の話を聞こうとしない」「自分の頭でよく考えろ」などと言って私を糾弾し,私に棄教を強要しました。

兄嫁は私を激しく非難する中で興奮して半狂乱になると,畳の上に座っていた私の目の前に正座して座り,全身の力を振り絞って平手打ちで思いっきり私の顔を叩きました。そして興奮して私を非難し続け,しばらくすると再度同じように思いっきり私の顔を平手打ちで叩きました。多いときはこうして4~5回は平手打ちで私の顔を力一杯叩きました。兄嫁は水泳をしていたことがあり,筋肉質で体格が良く,私は叩かれる度に上体が大きく揺れました。このため私は顔面が常に痛みました。ある時,兄嫁も手のひらを痛めたらしく,長期間に亘って右手親指の付け根に湿布を貼っていました。このような暴行が,私がハンガーストライキを始めた4月から始まり,9月に至るまで頻繁に繰り返されました。

また兄嫁は,私をいじめ抜きました。兄嫁はある時,「いい加減に目を覚ましなさいよ!」と興奮して叫びながら私の襟首を引っ張り,背中に氷水を流し込みました。また,兄嫁は,私がハンガーストライキを終えて食事をしている最中に,私の目の前に電気スタンドを置き,そこに私を茶化す絵を貼りつけて,「これを見ながら食べろ!」と言って私を愚弄し続けました。その紙には,私が座禅している姿が描かれ,その下に「真理を追求する男,私の名は徹」との注釈が書き加えられていました。兄嫁による,このような逃げ場のない監禁下での暴行や虐待は,私にとり極めて耐えがたく,兄嫁の気配を感じただけで,恐怖を覚え,動悸が激しくなり,体が硬直するようになりました。これに加えて兄嫁は,「性根の腐った人間に人権などない」と暴言を吐き,虐待を正当化しました。

ハンガーストライキも後半になると体はフラフラになり,歩くのも身動きするのも大変になったため,横になることが多くなりました。トイレに行くのも大変で,トイレで何度か倒れそうになり,立って用を足すことができなくなりました。

21日間に亘るハンガーストライキ後,約1ヶ月かけて重湯からお粥,お粥から普通のご飯へと戻していき,普通食に戻しました。この間も,最初は体がフラフラでした。ハンガーストライキ中,一番痩せていたときは,飢餓状態の人のようになりましたが,約1年かけて元の体重に戻りました。

(6)ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)

2005年4月,私が韓国語を勉強するための教材を持ってくるよう家族に要求したところ,兄嫁及び妹がこれを拒否し,激しい言い合いになりました。私は調理用の金属製ボール2つを叩き合わせたり,ボールで冷蔵庫等を叩き回って抗議しましたが,家族は頑として私の要求を聞き入れませんでした。そこで私はこの言い争いをきっかけに,長期監禁に抗議して第2回目のハンガーストライキを21日間決行しました。

すると家族等は,ハンガーストライキが終わっても粗末な食事しか出さず,食事制裁によって私を虐待し,棄教を強要しました。私が兄嫁に,「1回目のときは1ヶ月で普通食に戻したのに今回は何でこんなに長いのか?兵糧攻めか?制裁のつもりか?」と言って抗議し,「いつ普通食に戻すんだ?」と聞くと,兄嫁は「それは分からない」と言ってとぼけました。結局,粗末な食事しか出さないことによる虐待は7ヶ月間続きました。このため,体が思うように動かずフラフラの状態が長く続きました。

水虫菌で変形した後藤さんの足の爪
薬も与えられず水虫菌で変形した足の爪。
私は荻窪フラワーホーム804号室に監禁されていた最中,右足の親指に水虫を発症しました。私が薬を要求したところ,最初は家族は薬を支給してくれましたが,2006年頃からは要求しても薬を支給してくれなくなりました。このため,右足親指の爪が解放後も約一年間変形したままとなりました(写真1) 。同室では何故か家族全員,目が疲れ易くなり,私も含め皆が目薬を投与しましたが,私に水虫薬が支給されなくなったのと同じ頃から私にだけは目薬が支給されなくなりました。このため,私は目がとても疲れやすくなりました。

2005年終わりか2006年の初頭頃,私が使用していた電気スタンドの電球が切れました。私が家族に対し,新しい電球と取り替えるよう要求しても,家族は新しい電球を支給してくれませんでした。

(7)ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)

2006年4月,私が家族にノートを持ってくるよう要求したところ,兄嫁及び妹がこれを拒否し,またしても激しい言い争いになりました。そこで私は,今度は以前にもまして長期のハンガーストライキを決行しない限り監禁から解放されることはないと思い,3回目は,監禁から解放するまでの無期限のハンガーストライキを決意しました。

断食を始めてから2週間を過ぎる頃には,立ち上がることも難儀になり,本を読んだり,ものを考えることすら困難なって,日中もぐったりと体を横たえることが多くなりました。すでに2回経験した21日を過ぎると,いよいよ体が衰弱してきて,このまま続けると危ないということが感覚的に分かってきました。私は命の危険を感じ取り30日を区切りに,「これで断食を終わる」と家族に伝えました。ところが,家族は私の反抗的な態度に激怒し,私がハンガーストライキの終了を宣言しても丸一日,重湯等の食事を出しませんでした。

私は飢餓状態で体がフラフラであったため,「殺す気か!」と言って抗議しましたが,家族は「お前は何を言っているんだ。そっちで勝手に断食しておいて勝手に食事を出せとは何事だ!」「馬鹿じゃないのか!」「死ぬまでヤレ!」と言って頑として食事を出しませんでした。このため私は,「このままでは本当に殺される」と思い,大変な恐怖心に襲われました。

そこでしかたなく,平身低頭して食事を出すよう頼まざるを得ませんでした。私が頼み込んだ末,家族はようやく翌日から,直径7センチ深さ5センチほどの丸い小鉢に7分ぐらいの分量の重湯を一日3回とポカリスエットを薄めたものを出すようになりました。但し,ポカリスエットは1日に500CCを2回のみでした。しかも妹は,機嫌が悪いときは,ポカリスエットを支給する時間を数十分遅らせました。わずか数十分の遅れですが,この仕打ちは飢餓状態だった私の身体にはとてもきつく,私は家族のいいなりになりました。

最初に重湯が出された日の朝,私が他の家族の食事が見えない位置に座って重湯を飲もうとすると,兄嫁はテーブルの上をバンと叩き,私に対し「ここに座りなさい!」と言って食卓全体が良く見える位置に座るよう強要しました。私は,再度重湯を出さないことによる虐待を受けることを恐れ,兄嫁の横暴な要求にもかかわらず,指示された位置に座らざるを得ませんでした。こうして兄嫁は,ただでさえ飢餓状態にある私に彼らの食事を見せつけ,更なる精神的苦痛を与えました。この時の屈辱は,忘れることができません。

このような流動食のみの食事は,その後70日間にも亘って続けられ,固形食は出されませんでした。このような流動食では何も食べていないのと同じで,30日間ハンガーストライキをした後,引き続き70日間に亘って断食を強要されたのと同じことになりました。このため体は痩せこけ,餓死寸前の人のようになりました。私はこの間,餓死する恐怖に直面し,体力的には最もきつい状態が続きました。

この70日間は,家族と食卓を共にしながらも,私の食事だけは毎食,重湯の小鉢だけがぽつんと目の前に出されるだけでした。その小鉢を手に取り,一気に飲むと数秒で終わってしまうので,家族が食事する様子を眺めながら,少しずつそれをすすると,それでも3分ほどであっけなく食事は終わってしまいました。

この間,「このままでは死ぬかもしれない,もう危ない」と危機感を抱いた私は,家族の目を盗んで,半ば衝動的に台所の冷蔵庫の扉を見つからぬようにそっと開け,そこからマヨネーズや調味料を抜き取りむさぼるようになめていました。ところが,ある日,同じように冷蔵庫を開けて見ると,なんと,調味料があとかたもなくすべてどこかに隠されてしまっていました。

私は,餓死の恐怖に駆られ,その後,捨てた生ゴミの中から,ニンジンの皮やリンゴの皮をそっと抜いて,隠れて食べました。リンゴの皮に少し残った実の部分をかじり,そのリンゴの甘さが口の中に広がると,あまりの嬉しさに涙が流れてきました。しかし,それもいつ見つかったのか分りませんが,生ゴミまでも隠されてしまいました。

この間,私は空腹の余り意識は時に朦朧となり,どこからともなくきれいな音楽らしきものが聞こえてきて,それが,幻聴であることがしばらくして分かりました。私は,「あの世からの迎えが来ているのかもしれない。このままではもう本当に危ない」と思い,今度は炊飯前の水に浸した生米に目を付けました。そして,見つかるのではないかとひやひやしながら,生米だけを少し抜き取って,それを隠れてかじりました。

家族は元々の米の量にちょうど合った計量の水で米を炊くため,相対的に水の量が,少し多めになりました。そうすると,炊きあがったご飯の水気が多くなり,これが,毎日続くので,家族は炊き上がったご飯を食べながら,「なんか最近,水気が多いなあ」と怪訝な顔を見せました。私は,平静を装いながらも,心の中で「ああ神様!なんとかばれないようにしてください!」と必死に祈っていました。もし見つかれば,この上,どんな制裁が待っているかと思うと気が気ではありませんでした。

炊き上がりの水っぽいご飯が連日続く中,結局,家族は「この炊飯器は壊れた」と言って炊飯器を取り換えました。こうして,米を抜き取って食していることは奇跡的に見つかることがなかったので,私は何とか餓死を免れました。私も家族等がここまでやるとは本当に予想外でした。

私は,監禁中に読んだ新聞のコラムで,かつて1980年代にアイルランドの反政府勢力(IRA)の20代の若者達が,40日間ないし70日間のハンガーストライキによって複数死んだことが取り上げられていたのを読んだことがあったため,自分も,30日間のハンガーストライキ後,わずかな流動食しか出されないまま,いつばれるかもしれない米を抜き取って食している状態がこのまま続いたのでは生命の危機に瀕するのではないかと危惧し,同年7月上旬頃,家族に対し,食事を戻すよう頼み込みました。

これに対し,兄は,このまま私が死んだ場合,殺人罪に問われることを恐れたのか,他の家族に対し,「もうそろそろ食事を元に戻してもいいのではないか」と提言しました。これを聞いた兄嫁は,「えー,信じられない!」と言って憮然とした表情でいかにも残念そうに言いました。このやり取りを見て,兄嫁が私が棄教するまで,場合によっては死に至りかねない非道な食事制裁を続けるつもりであったことが分り恐ろしくなりました。頑強に棄教を拒否し続ける私へのヒステリックな憎しみを兄嫁が持っていることは常々感じていましたが,そのヒステリーが高じて私の命をも軽視するその冷酷さには背筋が凍る思いがしました。

食事を元に戻すといっても,最初の4ヶ月間は,重湯が三部粥に,三部粥が七部粥にと徐々に変化し,普通のご飯等が出るようになったのは4ヶ月経ってからでした。しかもその後も,朝はパン1枚に飲物1杯,昼はご飯1杯,味噌汁1杯,のり4枚,漬け物と小魚少々,梅干し等,夜は,ご飯1杯,味噌汁杯,漬け物,小エビ,納豆といった、おかずらしいおかずがない粗末な食事しか出されず,このような食事が最後まで続き,その精神的・肉体的苦痛は過酷を極めました。他の家族は通常通り普通食を食べていましたが,私は,家族と同じテーブルを囲みながらも毎日,直径10センチほどの小皿に乗った,上に記した漬物など同じものしか食べることができず,目の前で家族が食べている普通のおかずをのどから手が出るほど食べたい思いでした。

しかも兄嫁は,私にだけ出されている粗末な食事を指して,「ものすごく豪華な食事だ」などとあべこべなことを言い,私を人間扱いしませんでした。食事が終わった後も,家族だけは玄関に近い部屋で,デザートにフルーツやお菓子を食べていて,食事の量が少なかったため,食事をした直後も空腹であった私は,その匂いにとても敏感になっていて,とても耐えがたく,時々,残飯からリンゴの皮を抜き取って食していました。

夜,床に就くと,カレー,かつ丼,餃子,ラーメンなど,食べたくても食べられないメニューが次々と思い浮かび,空腹のため,なかなか寝付くことができませんでした。

同年9月,安倍政権誕生がニュースで報じられていた頃,部屋の掃除をしていた妹が,私がビデオデッキで使用していたビデオテープをいきなり取り上げて持って行こうとしました。私がこれを奪い返そうとしたところ,妹と揉み合いになり,ビデオテープは妹によって破壊されてしまいました。また,妹との揉み合いの最中,兄嫁が部屋に入ってきて,テレビのアンテナケーブルを取り上げてしまいました。私は体力的に妹1人に対しても全く太刀打ちできなかったため,兄嫁がテレビのアンテナケーブルを持って行くことに対しては,これを阻止する気力すら湧いてきませんでした。この日以来,再度私はテレビもビデオも見ることができなくなってしまい更なる精神的苦痛を受けました。妹は,804号室での監禁年数がかさむに連れて,私をぞんざいに扱うようになって
いましたが,兄嫁と妹は,私がテレビを見ているのがとても気に入らなかったようです。

また,ある日,兄嫁が私の書籍を勝手に部屋から持ち出そうとしました。そこで,返して貰おうとして玄関前の部屋まで行ったところ,兄嫁から「こっちに来ないでよ」と激しい口調で言われ,アコーディオンのカーテンを越えて玄関前の部屋に入ることを禁止されました。当時は更に貧しい食事による食事制裁を加えられることに対する恐怖感があったため,兄嫁の言いなりになるしかありませんでした。

3度目のハンガーストライキを行った後だったと思いますが,家族は何度か,「もう出て行ってもいい」といった意味のことを言ったことがありました。しかし,私は,そのような言葉を聞いても,それまで家族が私の脱出を阻止するために行ってきた暴力や食事制裁などの虐待の経験から,家族が本気で言っているとは到底思えませんでした。むしろ,後日私が家族を訴えた際,監禁との非難を免れるためのアリバイ作りとして,わざとそのようなことを言っていたとしか思えませんでした。

同室には,外部の業者(エアコンの修理など)が訪れた時が何度かありました。私は,それらの人々に助けを求めることも考えましたが,以下の理由により,助けを求めることができませんでした。第一に,外部の業者が訪れる時には,必ず兄が業者の作業の見える位置にいて,常に私を監視していました。兄が凝視している中で,業者に助けを求めることは,私にとり極めて困難でありました。

第二に,2000年の夏にエアコンの修理をしに来た男性いましたが,その男性が兄と会話している中で,宮村の知り合いであり,宮村や家族と通じている業者であることが分りました。そのような業者に助けを求めることはできず,また,他の業者も宮村や家族と通じている可能性を思うと,助けを求めることができませんでした。

第三に,私は,フラワーホーム804号室に移って以来,閉ざされた空間の中で,宮村や元信者,家族から多くの精神的,肉体的虐待を受けてきました。それは,今まで述べてきたことですが,例えば,一人に対し大勢で行われる悪口,中傷罵倒,非難による,死にたくなるほどの精神的苦痛,実力で脱出を試みる時,暴力によって取り押さえられることによる肉体的苦痛,監禁に対する抗議のハンスト(21日間2回と30日間)の後の過酷な食事制裁などです。これらの過酷な虐待の経験から虐待に対する恐怖心がつのっており,助けを求め,失敗した時のことを思うと,業者に対してもヘタに声を掛けることができませんでした。
2011-06-27(Mon)
 

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兄嫁ならぬ鬼嫁 

後藤さんの監禁中の証言で、一番印象に残りかつ、言葉を失うのが、この兄嫁の仕打ちです。なぜここまで彼女を駆り立てるのかここまで鬼嫁になれるのか。後藤さんもきついけれど、監禁している家族のストレスも半端ではありません。12年5ヶ月どこにも好きなとこに行けないし、かなりヤバイことをしているへたすれば、刑務所行きなんだから。自分が、その立場なら、とっくに発狂してますよ。絶えられません。兄嫁は、後藤さんを廃人(言葉が悪くてごめんなさい)にしようとしたのでは?背筋がぞっとします。後藤さんは、抗議の意味で21日間の断食ハンガーストライキを3回も決行されたけど、自分も、統一教会にいたころ、7日間の断食(成約断食)の体験はありました。たった7日間の断食でもきつかったです。その9倍の断食。自分のような大食いには無理です。しかし、そこまで後藤さんを追い込む家族は、狂気のさたです。でも後藤さんよくぞご無事で頭がさがります。
2011-06-28 11:09 | 小川寿夫 | URL   [ 編集 ]

恐るべし犯罪 

選挙権の剥奪
虐待
ネグレクト
棄教の強要 …

人知れぬ監禁下での、よってたかっての犯罪行為。これを放置したら、監禁したもの勝ちの世の中になってしまう。

証拠が消し去られ、監禁一味が口裏を合わせて「監禁はなかった」と言っている今、ガリガリにやせた後藤さんの写真だけが、陳述を裏付ける証拠なのかもしれません。

裁判官の皆様には、どちらが嘘を言っているのか、職業的カンと良心で正しい判断をしてもらいたいと心から願います。

半死半生の辛い目に遇った後藤さんがバカを見るような不条理だけは、絶対許してはなりません。
2011-06-29 08:29 | みんな | URL   [ 編集 ]

心の叫び 

確かに監禁行為は許されるものではないし、兄嫁さんの後藤さんへの仕打ちは、鬼と言われても仕方ないです。
だけど、兄嫁さんのの言動に心の叫びを感じて、痛いです。
あの時、後藤さんだけでなく、家族全員が極限状態。そこにプラスして、過去自分が監禁による強制説得を受けたことを思い出して、その悔しさを後藤さんにぶつけたかもしれません。(虐待の連鎖のように)
宮村氏側の誰かが「もう十分頑張ったから、もういいよ。」と家族の苦しみを丸ごと受け入れ、解放していたら、ここまでにはならなかったと思います。
一体、宮村氏は説得に行かなくなっての数年間、何を思っていたのでしょう?
人として、無責任過ぎました。
2011-06-29 20:24 | koyomi | URL   [ 編集 ]

とても難しいです。 

 後藤陳述書で、一番難解なのは、この部分だと思います。

 鬼嫁、確かにそうです。

小川さん
>後藤さんもきついけれど、監禁している家族のストレスも半端ではありません。

 ぼくもそう思いました。後藤さんと同様に、ひどいストレスだと。
 なぜなら、兄夫婦は結婚したばかりなのに(正確にはたぶん3年後から)、後藤さんを監禁してからの12年間、一度として夫婦生活がなかったわけですから。

 また、生活はだんだんと困窮してくる。後藤陳述書を読めば、そのことが微かだかリアルに読める。

 しかし、教団にマインドコントロールされている徹の兆候はよくはならない。
 家族はある種、ヒステリック状態だったと思います。

 何なの、この病気と思ってしまいます。

 
2011-06-29 23:04 | 米本 | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

連絡先:gotosaiban-contactus@yahoo.co.jp

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