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後藤徹氏陳述書(控訴審)②-不当な原判決の認定 後藤氏が同行に同意した??

後藤徹氏の陳述書(控訴審)の第二回目です。

原判決ではしぶしぶながらも同行に同意したという認定がなされていることに対し、「同意」など、なかったということをいろいろな角度から反論しています。


今回は、青字部分をアップ致します。

第1 第1回目の拉致監禁について
 1 統一教会の対策講座について
 2 私が脱会したとの認定について
 3 退職の経緯

第2 第2回目の拉致監禁について
 1 実家での拉致
 2 偽装脱会の意図についての事実誤認
 3 保谷の実家において私が激しく抵抗できなかった理由
 4 監禁についての事実誤認

 5 荻窪フラワーホームでの監禁

第3 逸失利益及び慰謝料について 
 1 逸失利益及び慰謝料の不当性について
 2 慰謝料の不当性について
第2 第2回目の拉致監禁について

1.実家での拉致

 私が1995年9月11日に保谷市の実家に帰省した際の実家から新潟への移動に関して原判決は、「1時間程度話をした後に、渋々ではあったものの、自ら立ち上がり、靴を履き、亡■<後藤徹氏の父>らや亡■<後藤徹氏の父>宅において待機をしていたOに付き添われて、玄関から亡■<後藤徹氏の父>宅の外に停められていたワゴン車の方へと向かい、これに乗り込んだ」などと、あたかも私が同行することに同意し、自分の意思で家から出てワゴン車に乗車したごとく認定しています(判決文45頁10行~14行)。

しかし、実際には、私は自ら立ち上がったのではなく、■<後藤徹氏の兄>と父に左右両脇を抱えられ、力づくで持ち上げられたのです。また、Oに付き添われたのではなく、Oを含む家族らに四方八方を囲まれて抵抗できない状態にされたのです。さらに、玄関からワゴン車に向かい自ら乗り込んだのではなく、家の中から引きずり出されワゴン車に無理矢理押し込められ拉致されたのです(甲9号証7頁19行~23行、本人調書13頁1行~14頁6行)。1987年11月に私が荻窪栄光教会から逃走したことは両親や■<後藤徹氏の兄>らにとっては重大な教訓になっていたようで、絶対に逃がすまいとする強固な決意で強力に拘束してきました。このため私は抵抗しても逃げられず、遂にワゴン車に押し込められてしまったのです。

 原判決が認定するように私が両親等の説得に応じてワゴン車に乗ったというなら、ワゴン車にて新潟に向かう途中、私がトイレに行きたいと言ったとき、兄等はサービスエリアに入って私をトイレに行かせたはずです。何故ポータブルトイレで用を足すことを強要してまで私をトイレに行かせなかったかと言えば、とりもなおさず、私が自宅で抵抗したからであって、サービスエリアで私を外に出したら最後、山の中などに逃走する危険があると察したのは間違いありません。また、保谷市の実家と違って、付近にいるのは見知らぬ人ばかりですので、私が救出を求めた場合、第三者が両親等の肩を持つとは限らないことから、絶対に私を外に出すわけにはいかないと考えたのです。

2.偽装脱会の意図についての事実誤認

 原判決は、私が自分の意思で同行に応じたと認定したことの理由として、統一教会の教えに従い偽装脱会を企図していたからだと認定していますが(判決文45頁17行~20行)、とんでもない間違いです。対策講座は、1990年代以降も前記対策講座と基本的には同じ内容ですので、マンションについて行くようになどという指導は一切ありませんでしたし、私の認識においても、同行を求められたらついて行く、などという意識は全くありませんでした。

 私は第1回目の監禁から偽装脱会によって統一教会に戻った後、再び拉致監禁されることを極度に恐れ、名前を変え、居場所を隠して潜伏生活することを余儀なくされました(甲9号証5頁19行~24行)。1回目の監禁を経験した私のその後の切実な願いは「再び拉致監禁されないこと」でした。なぜなら、1回目の拉致監禁で経験した苦しみ、すなわち自由を奪われ一人に対し複数の人間で棄教を強要され、命よりも大切な信仰を奪われる危機に直面するなど、人生で二度と味わいたくない言語を絶する苦悩の経験だったからです。このため、私は自分で様々な対策関連の書籍を読んだり、対策修練会に参加したりして二度と拉致監禁されないように備えました。

1993年になると『監禁250日証言「脱会屋」の全て』(甲18号証)の著者で甲50号証の陳述書の作成者でもあるT・Y氏が「拉致・監禁による強制改宗被害者の会」の事務局長として精力的に対策講座などを行うようになりました。T・Y氏は監禁中に、兄■<後藤徹氏の兄>や妹■<後藤徹氏の妹>とも会っていたので、修練会などでT・Y氏に会ったときには積極的に情報交換しました(原告調書11頁13行~23行)。

  また、私は様々な出版物に掲載された監禁体験者の体験記もよく読みました。それらの内容は、拉致監禁されると鎖でつながれたり、薬を無理矢理服用させられたり、殴られたりと本当に悲惨な体験ばかりでした。また、監禁から逃れるために洗剤を飲んで救急車で運ばれた末にようやく逃げることができた信者や2階から飛び降りて脱出した信者の体験記もありました。特に前記T・Y氏の著書は壮絶を極め、偽装脱会しても監禁からは解放されず、合同結婚式で結ばれ入籍した夫人との婚姻解消のための裁判をすることや統一教会を被告として裁判を起こすことなど様々な要求を受け、これにある程度前向きに応じなければ脱会を信じて貰えないし監視も緩まなかったという驚くべき内容が記されていました。しかもT・Y氏の親族と共謀してT・Y氏を拉致監禁し、これらの要求を次から次へとしてきたのは宮村でした。実際、兄■<後藤徹氏の兄>をはじめ宮村の元で脱会した大勢の元統一教会信者が統一教会を被告として「青春を返せ」訴訟を提起していました。自分の場合、仮に監禁されて偽装脱会したとしても、統一教会を相手とする裁判など絶対に起こしたいとは思いませんし、他の信者の脱会説得に加担したいとも思いませんので、宮村に監禁されたら最後、二度と解放されることはないのではないかと絶望的になりました。

  1994年2月14日、私は世界日報という、統一運動の一環で発行されている日刊紙の記事を読んで愕然としました。そこには、神戸真教会の高澤守牧師主導下で拉致監禁されていたO・Kさん(当時25歳)という統一教会信者が、マンション6階から脱出をはかって落下し、意識不明の重体に陥った事件が報じられていたからです(甲175号証)。この事件は、全国の統一教会信者に衝撃を与えましたが、私も恐怖と怒りで身が震える思いでした。なお、このように悲惨な事件が実際に起きたことは、高澤牧師も神戸地裁で行われた証人尋問の中で認めています(甲20号証の1、50頁~51頁)。
甲175

<後藤徹氏が恐怖と怒りで身が震える思いで読んだという世界日報の記事。この記事の内容は当事者である高澤牧師も神戸地裁の証人尋問で認めている。>


  こうした悲惨な事件が起きていたことからも、対策講座の中で、「マンションについて行くように」などという指導がなされるはずはなく、実際にも一切なされませんでした。また私は、このような悲惨な事件を知れば知るほど、再び拉致監禁されることに対するいい知れない恐怖心が募りました。

  こうした情報を踏まえ、私は今度監禁されるとしたら、一度目のように簡単には監禁から脱出できず、たとえ偽装脱会を試みても、偽装を疑われ簡単には信じてもらえず、その上、本当に信仰を棄てたかを見極めるための上述のような数々の踏み絵を踏まされるに違いなく、それを拒めば最終的にはマンションの一室で廃人にされるのではないかと恐れました。

 このような認識は、当時多くの統一教会信者が共通に持っていた認識であり、誰もマンション等に素直について行こうとはしませんでした。そうであればこそ、監禁する側の拉致の手法も残虐を極め、悪質な事件が多発するようになりました。1995年11月にはS・Aさんという統一教会信者が、早稲田通りで拉致され、S・Aさんを助けようとした信者と監禁する側とが大乱闘になり、警察沙汰にまでなりました。しかし結局警察はS・Aさんを拉致しようとした親族の見方となり、S・Aさんが解放されることはありませんでした。なお、S・Aさんは監禁中のストレスが原因でアトピー性皮膚炎を発症し、塗炭の苦しみを味わいました。監禁の結果、S・Aさんは脱会したものの、監禁による後遺症はその後も続き、S・Aさんのご両親は監禁をとても悔やむようになりました。こうした一連の出来事については講談社発行の月刊現代2004年11月号に掲載された『書かれざる「宗教監禁」の恐怖と悲劇』に記されています(甲106号証の2米本和広陳述書の資料)。なお、監禁の後遺症に苛まされた挙げ句に、S・Aさんは2012年10月、享年48歳で他界しています。

  1997年1月には夜レストランの駐車場で夫婦が襲撃を受け、夫人が拉致監禁されるという事件が起きています(I・R事件)。同年3月には韓国に嫁入りしたF・Tさんが愛媛県の実家に帰省した際に拉致監禁され、7月に監禁場所で自殺するに至っています。同年6月には鳥取教会が20人近くによって襲撃され、T・Hさんが拉致監禁されるという鳥取教会襲撃事件が起きています(甲53号証の1)。
鳥取襲撃
<上記鳥取襲撃事件の際、襲撃を受けた統一教会員。鉄パイプ等の武器等による襲撃を受け血まみれになったことを証言している様子>


  以上見てきたように、拉致する側が手荒な手法を用いるのは、教会内では「マンションについて行くように」などという指導は一切なされておらず、逆に「ついて行かないように」という指導が行われているからに他なりません。また、監禁中に悲惨な事件が起きるのは、偽装脱会など簡単には奏功しないからです。原判決が事実誤認を犯したのはこうした拉致監禁の凄惨な実情を知らなかったために他なりません。

3.保谷の実家において私が激しく抵抗できなかった理由

 1995年9月11日、私が保谷の実家で家族のただならぬ言動によって再び拉致監禁されると直感した際、大声で叫び声を上げ助けを求めるなどのことをしなかったのには理由がありました。それは、1回目の監禁後、私と家族の関係が徐々に変化していたからです。そのあらましは原告陳述書甲9号証6頁23行~30行や本人調書10頁24行~11頁12行で述べている通りですが、簡潔に述べますと、1回目の監禁後の数年間、私は再度の拉致監禁を恐れ家族と絶縁状態でした。しかし、そのまま一生絶縁状態のままというわけにもいかないと思い、私は家族と少しずつ交流を持つようになりました。そして、1992年ころ父が電話で「もうあんなこと(拉致監禁)はしない」と言ってくれたこともあって、その後、こちらの連絡先と居場所を告げ1995年頃になると月に1度ほど保谷の実家に帰って家族と和気あいあいと交流できるまでに家族との関係が回復していました。その頃になると私は拉致監禁を全く警戒していなかったわけではありませんが、1回目の拉致監禁から8年もの期間が経過していたので私は「さすがにもう家族もあきらめただろう」という思いがありました。また、家族に対しても、もう犯罪まがいの方法は採らないと信じたい気持ちもありました。

 そのような状況下で1995年9月11日の夜を迎えました。その時の状況は、既に原告陳述書甲9号証7頁13行~36行や本人調書12頁2行~15頁20行で詳しく述べたとおりですが、私はそれまで和気あいあいと話していた家族が突然豹変した様を見て、信じていた家族に裏切られたショックや、また家族以外の人間が突然現れたことによる恐怖心で身がすくみ、大声を出す気力が抜けてしまったのです。この「家族に裏切られたショック」ということも裁判官の方々にはなかなかご理解頂けないかも知れないですが、要するに何年間もかけて家族との信頼関係を回復し、やっと和気あいあいとした関係を取り戻せたと思っていたのに、その家族の姿は実は第三者によって仕組まれたものであり、再度の拉致監禁に向けて表向き家族関係が回復したような装いをしていただけだと気づいたことによるショックです。「家族だと思っていた人が実は北朝鮮の工作員に操られていて、自分はこれから家族が密かに信奉していた金正恩第一書記の元に拉致される」というくらいの衝撃だと言ったらご理解頂けるかも知れません。
金正恩
<金正恩>


  そのような訳で、近所中に聞こえるように大声で叫ぶなどという力は出ませんでした。しかしだからといって、自分の意思で歩いたわけではなく、あくまでも行くまいとして抵抗しましたし、ワゴン車にも乗せられるまいとしましたが、多勢に無勢なので押し込められたというのが実情です。なお、気が動転していたのではっきりとは覚えていませんが、もし、靴を履いたとすれば、引っかけるようにしてかろうじて履いたのだと思います。

 原判決では、家族が被控訴人宮村と松永の指導に則って脱会説得の準備をしていた旨認めていますが、宮村と松永の指導とは、原判決で認定されているマニュアルのように「家か親戚の家で一論争し、ひとあばれさせる。そして、逃げられないという自覚をさせる。そのためには6人位の大人が必要である。」(32頁3行~6行)という極めて用意周到な指導であり、事実、当日は拉致要員として家族の他に叔父のO、タップの社員の男、■<後藤徹氏の兄嫁>の兄のH・Tと3人を手配し、配置して、家族を含む8人体制で私の逃走を阻んだのです。そのような状況下で私はマニュアル通りに「逃げられないという自覚をさせられ」たため、しかもその時に受けた精神的な衝撃のため声を出すこともできずに引きずられていったのです。
松永メモ1
<松永牧師直筆による用意周到な監禁指導のメモ>


4.監禁についての事実誤認
パレスマンション多門
<パレスマンション多門>

  原判決は、亡■<後藤徹氏の父>宅からパレスマンション多門への移動及びパレスマンション多門における滞在、パレスマンション多門から荻窪プレイスへの移動及び荻窪プレイスにおける滞在、並びに荻窪プレイスから荻窪フラワーホームへの移動に関しては、私が偽装脱会を企図して話合いに応じる姿勢を示していたとか、兄■<後藤徹氏の兄>らに対して自分を解放するよう求めたり、脱出を試みたり、移動の際に抵抗を試みたりしていないと認定した上で、「原告が自身の置かれた状況を一応容認していたことが窺われる」などとして兄■<後藤徹氏の兄>らの行為の違法性を否定していますが(判決文56頁11行~57頁8行)、これはとんでもない誤りです。

  私は実際には保谷市の実家で拉致され、パレスマンション多門と荻窪プレイスの2カ所のマンション(移動時も含め)でも監禁されていました。

  まず原判決は上記認定の根拠として対策講座を挙げていますが、対策講座における指導が「マンションについて行くように」というものではなく、「逃げるように」というものであったことは既に述べた通りです。

(1)保谷の実家からパレスマンション多門への移動

 原判決は、保谷の実家からパレスマンション多門への移動に関し、脱出・抵抗を試みていないと認定していますが、ワゴン車に乗せられて以降は、ワゴン車の最後部座席に両脇を固められているという四囲の状況からして、到底脱出は不可能だと思ったので抵抗しませんでした。


 新潟パレスマンション多門に着いてワゴン車から下ろされたときは、「やはり監禁場所を用意していたのか」という衝撃で愕然とし、声を出す気力も失せてしまったため、大声で助けを求めることなどできませんでした。この時も兄と父とから両腕を掴まれ、四囲を親族等に囲まれ到底逃走できない状況で部屋に連れて行かれました。仮に僅かでも逃走できる状況があったなら、1987年11月に荻窪栄光教会から逃走したときと同様、逃走したことは間違いありません。

(2)新潟パレスマンション多門に監禁された当初の抵抗

 原審で提出した陳述書(甲9号証8頁28行~31行)にも書きましたが、新潟パレスマンション多門にて監禁された当初、私は気力を振り絞って家族に対して「もうこんなことはしないと言っていただろう」「(窓の施錠を指して)この鍵はなんだ。こんな人権侵害が許されると思っているのか!」「こんなのは犯罪だ!」と糾弾しました。従って、私は監禁に対して明確に抵抗を示しており、自分が置かれた状況を容認してなどいません。

 その後、両親及び兄等との話し合いに応じたのは、そうしなければ解放されないからであり、監禁という環境に置かれ話し合いを強要されたからにほかなりません。監禁されていなければ、当然このような不毛な話し合いには応じていません。監禁下でやむを得ずにとった行動を自由意思の裏付けとして認定するのだとしたら、余りにも加害者本位の認定に他ならず、本末転倒も甚だしいと言えます。

 それに、松永が来るようになった時にも、私は松永に抗議の意思表明をしました。原判決は、パレスマンション多門における松永とのやりとりにおいて、「被告松永は、週に2、3回の頻度で、パレスマンション多門を訪れ、原告に対し、家族が何を心配しているのかについて問うとともに、原理講論の教えについて検証を行うよう勧め、原告は、被告松永に対し、聖書の内容を質問するなどしていた。」(判決文46頁23行~26行)と認定し、単に松永と私が問題なく対話していたかの如く認定しています。しかし、実際には私はその不当な脱会説得のやり方に対して憤慨し松永に対して抗議しました。

 既に陳述書甲9号証9頁32行~10頁29行、本人調書21頁14行~22頁6行等で述べましたように、松永は、合計20回~30回パレスマンション多門を訪れ教理や教祖の批判を行いました。監禁下での話し合いを強要する松永に対し私は「こんな所に閉じ込めておいて話し合いなどあり得ないでしょう。卑怯だ!あなた方が批判している統一教会でも、人を監禁して信者にするようなことなど絶対にありえないでしょう。」等、激しく抗議しました(甲9号証10頁14行~16行)。松永は興奮すると時に大声を張り上げ、「統一教会は、犯罪集団だ!」「こんなに金、金と言うのが、メシアのはずがない。イエス様と全く違うじゃないか!」等と喚き立て、棄教を強要したのです(甲9号証10頁27行~29行)。私は誰にも連絡をとることもできず、自由を奪われた中で、松永や元信者から聞きたくもない話を聞かされつづけました。私にとりその苦しみは耐えがたく精神が破綻する恐怖に苛まれたほどでした(甲9号証11頁1行~6行)。 

  さらに、原判決は、「被告松永は、原告が脱会の意向を表明した後において、原告に対して手記を書くことを勧めたものであって、本件証拠上、そのことについて何ら強制的な要素は窺われない」(判決文61頁12行~14行)と松永が私に手記を書かせたことを強制でないと認定していますが、これは全く事実誤認です。私としては監禁されていなければ、松永から言われても手記など書くはずがなかったのであり、監禁から解放されるために松永の指示に従うしかなかったのです。従って、このような手記を書くことを監禁下で指示すること自体が強要以外のなにものでもありません。

(3)偽装脱会開始後

 偽装脱会を決意したのは、偽装脱会以外に解放されることはないことがよく分かったからです。なお、原判決は統一教会の教えに従って偽装脱会したような認定をしていますが、統一教会ないし信徒会においては、上述の通り偽装脱会の具体的な方法など一切指導してはいません。従って、どのようなタイミングでどのように偽装脱会するかなど自分で考えざるを得ないわけですが、信仰を失ってもいないのに失った振りをするなど決して簡単なことではなく、偽装脱会など安易にできるものではありません。

 偽装脱会していた期間については、家族に退出を求めたり退出や逃走を試みたり、抵抗を試みたりしていないのは事実ですが、これは私が自分の置かれた状況を容認したからではありません。一旦偽装脱会を始めた後にもし偽装脱会がばれれば、一層監禁が厳重になり再び執拗な脱会説得が始まるという恐怖といつも隣り合わせなので、偽装脱会を始めたら最後、絶対に逃げられるという状況になるまでは、退出や逃走を試みるなど下手なことは一切できなくなるのです。被控訴人等も、当時、私が意に反して滞在していることが分かっているからこそ、私を外に出られない環境においていたわけで、私が自分の置かれた状況を容認していなかった事実は、監禁を継続した被控訴人らの行動からも明らかです。

 1991年4月から同年12月までの間、宮村によって監禁されたT・Y氏は、監禁から脱出するために偽装脱会を行い逃走を図りましたが、それが失敗し、その後大変な苦悩を通過したことがT・Y氏の書籍に記されています(甲18号証121頁~126頁)。私は前述の通り1995年9月以前にこの書籍を読んでいたので、偽装脱会には様々な苦悩が伴うこと、また、偽装脱会している時に逃走を試みるのも簡単ではないことを学んでいました。このように、偽装脱会は簡単にできるものではなく、相当の決意と覚悟が必要であり、また、一旦偽装脱会を始めれば、偽装であることがばれないように常に緊張を強いられ、様々な踏み絵に耐え抜かなければならないのです。

  なお、裁判官には脱会強要の恐怖についてなかなかご理解頂けないかも知れません。もしそうだとしたら、警察・検察による取り調べを想起して頂けると分かりやすいかと思います。『公安検察』(緒方重威著2009年7月発行)には、元高検検事長まで務めた著者が検察の激しい取り調べによって2度も虚偽の自供に追い込まれた状況が克明に記されていますが、脱会強要にも似た側面があります。しかも検察の取り調べなら期間は限定されているかも知れませんが、脱会強要には期間制限がありません。落ちる(脱会する)まで続けられるのですから、それがいかに苛烈な人権侵害か、またなぜ故に私が偽装脱会がばれて再度脱会強要が始まることを恐れたのか、ご理解頂けると思います。
公安検察表紙

 パレスマンション多門から荻窪プレイスへの移動及び荻窪プレイスにおける滞在並びに荻窪プレイスから荻窪フラワーホームへの移動に関しては、偽装脱会中でしたので、状況は同じです。家族に退出を求めたり、脱出・抵抗を試みたりしていないのは、偽装脱会がばれないようにするために他なりません。脱会を装っている以上、恭順の意を表すしかなく、抵抗や不審な挙動など一切許されないのです。少しでも不審行動を行えば、その状況がたちまち背後で指導している松永等に伝えられ対応を強化してくることは間違いないからです。しかも、偽装脱会期間が長引けば長引くほど、それまでの偽装脱会期間を無駄にしたくないという思いから、益々慎重にならざるを得ないのです。

 また、原判決は「前記1(1)ナ(イ)の原告の供述内容からして、原告がパレスマンション多門及び荻窪プレイスに滞在している間、各監禁場所の出入口の施錠の状況に強い関心を寄せてなかったことが窺われる」(判決文57頁1行~4行)と認定しています。「前記1(1)ナ(イ)」とは、「上記告訴に係る各被疑事件の捜査段階において、原告は、取調官に対し、パレスマンション多門については、窓が内側から開けられない状態であったので、玄関も内側から開けられないような鍵が付いているのかと思っていた旨を供述し、また、荻窪プレイスについては、トイレに行った際に家族の隙を見てカーテンを払って玄関を見たところ、番号の付いた鍵が見えた感じがした旨を供述した」(判決文54頁24行~55頁3行)との認定を指します。

 しかし、実際には、パレスマンション多門の玄関ドアが何らかの形で内側から施錠されていたことは間違いありません(甲9号証陳述書8頁23行~27行、本人調書18頁15行~21行)。私は父が解錠するための鍵を握って松永牧師と元信者を迎えに玄関に向かって行ったのを間違いなく目撃していますし、刑事事件の際に私はそのことを捜査官に話しました(本人調書79頁21行~24行)。また、荻窪プレイスの玄関ドアの鍵に関しても、実際には数字を合わせるダイヤルロック式の鍵がはっきりと見えましたし(甲9号証15頁21行~23行)、私は刑事事件の際にそのことを捜査官に話しました(本人調書166頁7行~15行)。もし、調書にする段階で以上の事実が微妙に歪められていて、私が気づかずに署名捺印していたとすれば甚だ遺憾ですが、当時私は警察や検察というのは被害者の味方になってくれるものと信じて疑いませんでしたので、まさか調書が自分の不利に歪められていたなど思いもよりませんでした。


 なお、確かに玄関ドアの施錠状況等について何度も確認するなどしなかったのは事実です。しかし、監禁中は激しいストレスで精神的に極端に消耗するため、私はできるだけ精神的ストレスのかかることは避けたかったのです。玄関ドアを何度も確認したからといって監禁から解放されるわけではなく、それどころか、絶望感を深めるだけなのです。だとしたら、少しでもストレスを和らげ精神の健全を維持するには、逆に見ない方がいいという結論になるのです。また、偽装脱会を開始して以降については、不審行動は一切とれないこともあって、施錠状況を何度も確認するようなことはできませんでした。

(4)原判決の違法性判断の不当性

 パレスマンション多門と荻窪プレイスにおいて私が置かれていた状況に関し、原判決は「自由に外出することを許されず」「誰に対しても連絡をとることができない状態にあった」と認定しています(判決文47頁18行~23行、49頁3行~5行)。自由に外出することを許されず、誰に対しても連絡をとることができない状態とは、不当に心身を拘束されている状態に他なりません。合同結婚式で結ばれたS・Kさんに対して私がこのまま連絡をとらなければ、婚約解消は時間の問題であり、私がそのような状況を容認するはずなどないのです。ある意味では、監禁継続を容認していなかったからこそ、脱会を偽装してでも解放されようとしたのであり、容認していたなら、偽装脱会せずそのまま滞在しようとしたはずです。原判決の認定は理論的にも矛盾していると思います。また、兄等も私が偽装脱会していた事実、即ち、私が意に反して滞在を強いられていた事実を認識していた事実は争いがありません。即ち、人を意に反して拘束していた事実が厳然と存在するのに、なぜ原判決がこの期間の不法行為を認めないのか理解に苦しみます。

つづく


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2014-07-04(Fri)
 

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裁判官はバカですね 

「各監禁場所の出入口の施錠の状況に強い関心を寄せてなかったことが窺われる」(原判決)。だから、原告は自分の意志でマンションにとどまっていたのだろう―。

「玄関ドアを何度も確認したからといって監禁から解放されるわけではなく、それどころか、絶望感を深めるだけなのです」(徹さん)

脱出の意思を行動に表してしまうと、ますます監禁が長引く。だから、ドアには近づかない。こんなことは、素人だって容易に想像がつく。
裁判官は本当に推理力が無いんですね。


「被告松永は、原告が脱会の意向を表明した後において、原告に対して手記を書くことを勧めたものであって、本件証拠上、そのことについて何ら強制的な要素は窺われない」(原判決)

徹さんの手記が裁判で採用されたのかどうかよく覚えていませんが、その手記をもって、自分で脱会した、自分で外に出なかった、というストーリーを演出しているのなら、正に凶悪犯のレベルですね
のど元にナイフを突きつけて遺書にサインをさせ、遺産をぶんどろうとする推理小説の世界だ。

「監禁から解放されるために松永の指示に従うしかなかった」(徹さん)。
こんな当たり前なことも想像できない裁判官って、バカそのものだ。


裁判官がこのレベルだから、警察に正しい人権意識など育つわけがない。

「結局警察はS・Aさんを拉致しようとした親族の見方となり」
「当時私は警察や検察というのは被害者の味方になってくれるものと信じて疑いませんでしたので、まさか調書が自分の不利に歪められていたなど思いもよりませんでした」

改めて、国全体の意識が変わらないと、拉致監禁事件は終わらないという思いを強くします。
2014-07-05 10:52 | みんな | URL   [ 編集 ]

物証がない 

<裁判をおこすことも考えたが、物証がない。
結局、この不快な環境から脱するため、私は失われた生活基盤、つまり、経済的自立、独立を優先させる選択をした>

秀さんがブログ(http://hydenoshikou.kakuren-bo.com/Entry/47/)でこう書かれています。

ここですよね、問題は。
警察が公平ならまだしも、警察が監禁加害者側に立っている現状では、物証なしで闘わなければなりません。
完全に不利な闘いです。

徹さんの裁判闘争が今日まで継続できていること自体、すごいことだと思います。

ここまで来たら、あとは気力の勝負だと思います。
秀さんはブログで監禁後の生活苦、婚活の苦労も語られていて、監禁被害者が並々ならぬ苦悩をされて今日に至っているが分かります。
徹さんや秀さんたちの執念が必ずや勝利をもたらすことと確信いたします。
2014-07-08 08:35 | みんな | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

連絡先:gotosaiban-contactus@yahoo.co.jp

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