SK氏の陳述書―「松永牧師にひと財産とられた。」 監禁した父の後悔
遅くなりましたが、先回ご紹介したAS氏の父、SK氏の陳述書です。
SK氏は、娘であるAS氏をなんと3回も監禁し、貯金も使い果たしたということです。
子どもを監禁し、脱会に失敗した親が、その後どのような生活をしているのかははっきりとはわかりませんが、お金を使い果たした上に、目的を果たせなかったわけですから、おそらく親子は絶縁状態のまま、虚無感にさいなまれながら老後を送っているというパターンが多いのではないでしょうか?
説得者をうらみ、監禁したことを後悔する人も多いでしょう。
ですが、たとえ、説得者をうらんだとしても、SK氏のように、反旗を翻す人はほぼいないと思われます。
さらに、今回のように原告側から陳述書を提出するというのは、非常に驚くべきことです。
1 略歴
1929年12月15日,私は岡山県で父●,母●の間に生まれました。
15歳のとき予科練に入りました。半年間神戸で訓練を受けた後,1944年に飯野海運に就職しました。シンガポールで終戦を迎え,1949年頃日本に引き揚げました。1953年頃,神戸の商船大学(旧高等商船学校)に入学し,卒業後,再度飯野海運に就職しました。飯野海運は1963年頃,川崎汽船と合併しました。私は商船に乗って世界を回りました。
1955年2月,26歳のとき,私は妻●と結婚し,妻●の籍に入りました。妻●には前夫との間に生まれた長男●がいましたので,長男●も引き取ることにし,養子縁組しました。
1960年9月5日,長女S子が生まれました。
1984年頃,川崎汽船を退職し,1年後くらいから印刷会社や問屋,肉屋,パン屋,材木屋などで働き,最後はアクテオという重機レンタル会社で13年ほど働き,73歳まで勤めました。アクテオを辞めるときには1500万円以上預金がありましたので,老後は安定した生活ができると思っていましたが,S子の脱会説得のためその大部分を費やしてしまいました。
2 1回目の脱会説得(拉致監禁)
1981年頃,妻から「S子が変な宗教に入っている」と聞きました。私は妻と共にS子を家の2階に監禁して脱会説得することを計画し,家を建てた大工に頼んで家の2階を改造しました。2階には部屋が2部屋ありますが,2階から1階に降りる階段の手前にドアを設け,外側から鍵を掛けて内側からは開けられないようにし,2階から階段に出られないようにしました。また,2階の4カ所の窓全てに窓を固定するための器具を設置し,特殊な鍵がなければ窓を開閉できないようにしました。更に,2階には持ち運びできるトイレを設置しました。
当時S子は教会関係の寮に泊まり込んでいましたが,自宅近くのカワイ音楽教室に通ってきてピアノを教えていました。そこで,S子がカワイ音楽教室から出てくるところを私と妻とで捕まえて無理矢理自宅の2階に連れて行き,同室に監禁しました。監禁中,食事は妻が1階で作って2階に運びました。また,妻がS子に対して脱会説得をしましたが,S子が「教会を辞める」と言ったので,監禁から1週間後くらいに解放しました。
3.2回目の脱会説得(拉致監禁)
1992年8月,S子は統一教会が主催した3万双の国際合同結婚式に参加しました。
その後,S子の昔からの友人のAさんやBさんが,「S子を統一教会から辞めさせた方がいい」と私達に言ってくるようになり,Bさんからは田口民也氏を紹介されました。田口氏は宮城県仙台市☓☓在住の元統一教会信者で,宮城県内で統一教会信者に対する脱会説得を専門的に行っている人でした。私は家内と共に3~4回田口さん宅を訪問し,話を聞きました。田口さんにS子を脱会させる方法について相談すると,田口さんは「マンションを用意してありますからそこにお嬢さんを監禁してください。私の方で脱会させる人(元統一教会信者)を用意しますから」と話しました。後日,田口さんの夫人から場所を案内してもらいましたが,そのマンションは太白区長町1丁目7-28にあるライオンズマンション長町一丁目の3階の一室でした。

<ライオンズマンション長町一丁目外観>
間取りは2DKで全ての窓には窓を固定するための特殊な器具が設置されていました。田口夫人は器具を指して,「窓は開かないようになっていますから」と私たちに説明しました。玄関ドアのところには,鎖と南京錠など,玄関ドアを固定するための器具が用意されていました。別の機会に田口氏が「3階だから飛び降りても死ぬようなことはないだろう」と言っていました。
その後田口夫妻からは,「救出」(拉致監禁・脱会説得のこと)には親族をできるだけ大勢集めてくださいと言われました。また,本人の近くには両親が横について行くようにと言われました。本人が騒いでも車の中に入れば周りには聞こえないだろうとも言っていました。私達夫婦は長男●および甥の●に事情を話し,S子に対する拉致監禁への協力を求めました。AさんともS子の件で連絡を取り合っていたところ,Aさんから,「S子が腰を痛め治療院に通い始めた」との連絡がありました。そこで,S子が次回治療院に来たところで拉致監禁する計画を立て,長男●がワゴン車を運転し,私達夫婦が同乗して,何度か治療院からライオンズマンション長町一丁目までの道を車で実際に走行して本番に備えました。
1993年2月中旬,決行日当日,Aさんから連絡が入り,S子が治療院に向けて「今行きました」とのことでした。それを受けて,私達夫婦と長男●,甥の●とで治療院に向かい,治療院近くの垣根の陰に隠れてS子が出て来るのを待ち伏せました。やがてS子が治療院から出てきましたので,皆でS子を取り囲み,ワゴン車に乗せました。長男●の運転でライオンズマンション長町一丁目に向かい,計画通りS子を同マンションの一室に閉じ込めました。S子が入室すると,私は玄関ドアをチェーンと南京錠とで施錠し,南京錠の鍵がない限り中から開閉できないようにして,S子を監禁しました。長男●と甥の●とはすぐに帰りましたが,帰る直前,家内から2人に日当を渡しました。後は私達夫婦でS子を監視しました。玄関ドアを入ると台所があり,台所の奥の部屋にS子が常時いるようにしましたが,夜休むときは,妻がその部屋から台所に向かうためのドアの手前に布団を敷いて休み,S子が台所に行けないようにしました。私達夫婦は,S子が統一教会を辞めるまでS子を同室に監禁し続けるつもりでした。
部屋には若い元統一教会信者と田口夫人とが来て脱会説得をしました。田口氏も1週間に1度くらい来ました。私は少し離れたところにいたので,この人達がどんな話をしていたかは聞いていません。
監禁を始めて1ヶ月くらい経った頃,S子が夜中に部屋から脱出しました。どのようにして脱出できたのか謎でしたが,最近になって,私がこの日,玄関ドアの鍵を掛け忘れていたのだとS子から聞きました。翌朝S子の脱出に気づいた私は,すぐに田口氏に連絡しましたが,どこに逃げたかもわからず,打つ手立てはありませんでした。
4 3回目の脱会説得(拉致監禁)
S子の脱出後,私達夫婦は東京都内のキリスト教会で開催していた「反対父母の会」の集会に3回ほど参加しました。同会は,統一教会に反対する父兄等の集会でしたが,毎回満員で,私達は末席の方で聞いていました。このため同会にて,日本同盟基督教団新津福音キリスト教会(新潟県新津市)の主任牧師である松永堡智牧師を紹介されました。私達が同教会を訪れ,松永牧師に挨拶すると,「うちにも大勢いますので,ちょっと時間がかかるかも知れませんけど,ここに勉強に来てください」と言われました。以後,私達夫婦は,毎週末,高速道路で片道4時間かけて同教会に通い,勉強するようになりました。日曜日の午前中は礼拝の説教で,午後からは勉強会が行われ,子供を拉致監禁して統一教会から脱会させること(彼らは「救出」と呼んでいました)に成功した親達が,集まってきた父兄に対して,拉致監禁の方法を指導していました。勉強会には,統一教会信者を子供に持つ父兄が通常は約50人,多い時は80人ほど参加していました。勉強会では,拉致する際には親戚など大勢の協力が必要になるので普通の乗用車では間に合わない,両親など本人に近い人が本人の両脇に座るように,ワゴン車には飲料やポータブルトイレを用意した方がいい,などの指導がありました。また,拉致監禁には親族の全面的な協力が必要であり,人数はできるだけ多い方がいいが,最低でも4人くらいの親族の協力がないと難しいなどと指導していました。他人が実行すると犯罪になるので親族がするようにとの趣旨でした。その他,「救出に際しては松永牧師の指導に必ず従ってください」「牧師の指導に従わないのであれば救出はできません」「子供が出して欲しいと言っても絶対に出してはいけない」「いつ子供を部屋から出すかについても全て松永牧師の判断に従って欲しい」といった指導がありました。

<松永牧師直筆監禁マニュアルの一部 >
勉強会では,松永牧師が自分の体験談を語ったりもしました。また,勉強会に行くたびに拉致監禁の方法を指導するビデオを見せられました。

<SK氏が勉強会に行くたびに見たという松永牧師の指導ビデオの映像>

<松永牧師自身はビデオを誰にもみせてないと証人尋問で否定>
時には,土日以外に2日間のツーデイズセミナーという,一泊二日の研修会に参加させられもしました。

<とある統一教会員家族が2DAYSに参加した際に講義内容を記したノートの一部>
拉致監禁に向けて大勢の父兄がすでに順番待ちをしており,私達の番号は180番台でした。他の父兄とは毎週会うものの,お互いに名前は名乗りませんでした。拉致監禁にはかなりの金額がかかるとわかって,順番待ちから離脱する父兄も多くいました。このため私達の順番は,思ったよりも早く巡ってきました。
順番が迫ってくると松永牧師は,同じ状況の父兄を集めてテーブルに座らせ,いよいよこれから統一教会信者の子弟をマンションの一室等に連れて行く際,どういう風に話すのかについての予行演習をさせました。その話し方が松永牧師の満足のいくものでないと,松永から「あなたはまだ勉強不足だ」と言われました。また松永牧師からは「救出に際してはお子さんの状況などについて私との連絡を密にとって下さい」「救出に際しては私の言葉に従って下さい。従って頂けないのなら,救出を引き受けることはできません」といった指導が強くなされました。
私達夫婦は,S子が仙台のマンションから脱出して間もなく,私立探偵を合計3社雇ってS子の居場所を調査させました。調査費用は合計約100万円以上支払いました。最後に頼んだ探偵社がS子の居場所を見つけました。S子は当時福島県に住んでおり,近くの小学校(☓☓小学校)で勤務していました。探偵の話を聞いて私達夫婦は,S子が勤務先の学校から出てきたところを拉致するのが一番いいとの結論に到達しました。
S子の居場所がわかった旨松永牧師に伝えると,松永牧師は,新潟県新潟市(現在の新潟市中央区)古町通11番地1696にあったシャルム五菜堀というマンションの301号室を私に紹介しました。松永牧師によると,同室にて現在信者を一人脱会説得中だが間もなく完了するので,部屋が空くであろうとのことでした。

<シャルム五菜堀301号室の玄関ドア前>
2~3日すると松永牧師から連絡があり,同室が空いたとのことでした。松永牧師は拉致監禁について,「親戚の方々にちゃんと連絡をとってぬかりのないように準備周到に用意するように」との注意がありました。その後私達夫婦は,長男●,姪のC夫妻,及び姪のDに連絡を入れ,協力を要請しました。こうして,1995年11月上旬のある日を,拉致監禁の決行日として決定しました。
決行日の2~3日前,私達夫婦は家にあった布団や食器類,食料,炊飯器等を運び込むため車で新潟に向かいました。松永の教会に行くと,シャルム五菜堀301号室のオーナーのO氏が来ており,松永牧師は私達夫婦にO氏を紹介しました。私達はO氏の案内で車で同室に向かい,O氏から同室の鍵を預かり,同室に荷物を運び入れました。同室は2DKで全ての窓は,窓を固定するための器具が設置してありました。O氏からは,「窓が開かないようになっている」との説明がありました。玄関ドアには内側にも施錠用の鍵穴があり,玄関ドアを外側から開施錠する際に使用するのと同一の鍵で,内側からも施錠できるようになっていました。即ち,鍵で内側から施錠すると,玄関ドアは同鍵がない限り内側からも開かない仕組みとなっていました。
拉致監禁決行日当日,私達夫婦は,長男●,姪のC夫妻,及び姪のDと共にレンタカーのワゴン車で松永牧師の教会を訪れ,松永牧師に対し,「これからこのメンバーで決行しますので宜しくお願いします」と挨拶しました。松永牧師には既に計画を全て伝えてあったので,同牧師は「わかりました」とだけ答えました。このあと私達は,福島県のS子の勤務先の小学校に向かいました。同小学校には職員及び来客用の駐車場があり,私達はS子の車を見つけると,その近くにワゴン車を駐車しました。私達は全員ワゴン車から降りて車の陰に隠れ,S子が勤務を終えて駐車場に来るのを待ち伏せました。やがてS子が駐車場に来て車に乗ろうとしたので,私達は一斉に飛び出してS子を取り囲み,長男●とCとでS子の両脇をつかみ,ワゴン車に乗せました。車内ではS子を後部座席に乗せ,私と妻とがS子の両隣に座りました。こうしてワゴン車で約4時間かけてシャルム五菜堀まで無理矢理連れて行き,S子を301号室に監禁しました。
同室には複数の元統一教会信者(女性)と松永牧師とが来て,S子に対し脱会説得をしました。私は脱会説得の場には立ち会わなかったので,どのような話が行われていたかわかりませんでした。松永牧師はS子との話が終わると,毎回私と打ち合わせの場を持ちました。松永牧師からは,「S子さんはあまり統一教会の信仰に深入りしていないので,今はどっちともつかずの状態です」との話が毎回続きました。
監禁から約2ヶ月後,S子が統一教会に深入りしていないとの判断から,松永牧師は「S子さんを解放してもいいのではないか」と判断し,解放の許可を出しました。このため私達はS子を解放しました。
S子を解放後,私達夫婦はS子と一緒にO氏のところに部屋代の支払い及び挨拶に行きました。O氏はマンション使用量の請求書を私達に示しましたが,それを見ると,当時は真冬で冷房は一切使っていなかったにもかかわらず,冷房機の買取代金が請求されていました。私が「冷房は使っていないのにこれは何ですか。消して下さい」と言うと,O氏は「わかりました」と言って請求から外してくれました。しかし,このときのやりとりで,私はO氏に多大な不信感を持ちました。
松永牧師への支払いは妻がしていたので,私は何にいくら支払ったのかわかりませんが,妻は「随分支払った」と言っていました。松永牧師の元での脱会説得後,七十七銀行高砂支店の普通預金口座にあるはずだった私の預金は全てなくなっていました。今では,松永牧師に「ひと財産とられた」気がしています。
5 後藤徹さんの事件について
後藤徹さんは1995年9月11日に東京の実家で拉致され,翌日より1997年6月まで新潟のマンションに監禁され,松永牧師等の脱会説得を受けたということですが,私達がS子をシャルム五菜堀301号室に監禁したのは1995年11月上旬から同年12月末までの約2ヶ月でしたので,時期的には完全に重なっています。
後藤さんの事件では,被告等は後藤さんに対する拉致監禁の事実を否定していると聞きました。確かに,彼らは「拉致監禁」という言葉は使わず,「保護」「救出」といった言葉を使いますが,松永牧師や,新津福音キリスト教会の勉強会で父兄等が指導していたのは,統一教会信者を意思に反して連行し,マンション等の一室に閉じ込めて脱会説得を行うことですので,拉致監禁に違いありません。また,脱会説得に成功した父兄からも松永牧師からも「救出」に際しては必ず松永牧師の指示に従うようにとの注意が,ありましたし,松永牧師は「従って頂けないのなら,救出を引き受けることはできません」とまで直接指導していましたので,後藤さんに対する拉致監禁のときだけ松永牧師が何も始動していないなどと言うことは考えられません。
拉致監禁から脱出した統一教会信者が監禁に関与した父兄や牧師を訴えた場合,牧師は全て父兄がやったことと主張し,父兄も牧師の肩を持ち,牧師は一切,信者の拘束に関与していないといった証言をすると聞きましたが,言語道断だと思います。牧師等は,自ら父兄等を指導して拉致監禁をさせている以上,法廷でも正直に事実を話すべきだし,自ら行った行為の責任はとるべきだと思います。また,父兄も,牧師をかばって法廷で嘘をつくなどすべきではないと思います。
これからも後藤徹氏の応援をよろしくお願いいたします。
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SK氏は、娘であるAS氏をなんと3回も監禁し、貯金も使い果たしたということです。
子どもを監禁し、脱会に失敗した親が、その後どのような生活をしているのかははっきりとはわかりませんが、お金を使い果たした上に、目的を果たせなかったわけですから、おそらく親子は絶縁状態のまま、虚無感にさいなまれながら老後を送っているというパターンが多いのではないでしょうか?
説得者をうらみ、監禁したことを後悔する人も多いでしょう。
ですが、たとえ、説得者をうらんだとしても、SK氏のように、反旗を翻す人はほぼいないと思われます。
さらに、今回のように原告側から陳述書を提出するというのは、非常に驚くべきことです。
陳 述 書
2011年8月6日
S・K
S・K
1 略歴
1929年12月15日,私は岡山県で父●,母●の間に生まれました。
15歳のとき予科練に入りました。半年間神戸で訓練を受けた後,1944年に飯野海運に就職しました。シンガポールで終戦を迎え,1949年頃日本に引き揚げました。1953年頃,神戸の商船大学(旧高等商船学校)に入学し,卒業後,再度飯野海運に就職しました。飯野海運は1963年頃,川崎汽船と合併しました。私は商船に乗って世界を回りました。
1955年2月,26歳のとき,私は妻●と結婚し,妻●の籍に入りました。妻●には前夫との間に生まれた長男●がいましたので,長男●も引き取ることにし,養子縁組しました。
1960年9月5日,長女S子が生まれました。
1984年頃,川崎汽船を退職し,1年後くらいから印刷会社や問屋,肉屋,パン屋,材木屋などで働き,最後はアクテオという重機レンタル会社で13年ほど働き,73歳まで勤めました。アクテオを辞めるときには1500万円以上預金がありましたので,老後は安定した生活ができると思っていましたが,S子の脱会説得のためその大部分を費やしてしまいました。
2 1回目の脱会説得(拉致監禁)
1981年頃,妻から「S子が変な宗教に入っている」と聞きました。私は妻と共にS子を家の2階に監禁して脱会説得することを計画し,家を建てた大工に頼んで家の2階を改造しました。2階には部屋が2部屋ありますが,2階から1階に降りる階段の手前にドアを設け,外側から鍵を掛けて内側からは開けられないようにし,2階から階段に出られないようにしました。また,2階の4カ所の窓全てに窓を固定するための器具を設置し,特殊な鍵がなければ窓を開閉できないようにしました。更に,2階には持ち運びできるトイレを設置しました。
当時S子は教会関係の寮に泊まり込んでいましたが,自宅近くのカワイ音楽教室に通ってきてピアノを教えていました。そこで,S子がカワイ音楽教室から出てくるところを私と妻とで捕まえて無理矢理自宅の2階に連れて行き,同室に監禁しました。監禁中,食事は妻が1階で作って2階に運びました。また,妻がS子に対して脱会説得をしましたが,S子が「教会を辞める」と言ったので,監禁から1週間後くらいに解放しました。
3.2回目の脱会説得(拉致監禁)
1992年8月,S子は統一教会が主催した3万双の国際合同結婚式に参加しました。
その後,S子の昔からの友人のAさんやBさんが,「S子を統一教会から辞めさせた方がいい」と私達に言ってくるようになり,Bさんからは田口民也氏を紹介されました。田口氏は宮城県仙台市☓☓在住の元統一教会信者で,宮城県内で統一教会信者に対する脱会説得を専門的に行っている人でした。私は家内と共に3~4回田口さん宅を訪問し,話を聞きました。田口さんにS子を脱会させる方法について相談すると,田口さんは「マンションを用意してありますからそこにお嬢さんを監禁してください。私の方で脱会させる人(元統一教会信者)を用意しますから」と話しました。後日,田口さんの夫人から場所を案内してもらいましたが,そのマンションは太白区長町1丁目7-28にあるライオンズマンション長町一丁目の3階の一室でした。

<ライオンズマンション長町一丁目外観>
間取りは2DKで全ての窓には窓を固定するための特殊な器具が設置されていました。田口夫人は器具を指して,「窓は開かないようになっていますから」と私たちに説明しました。玄関ドアのところには,鎖と南京錠など,玄関ドアを固定するための器具が用意されていました。別の機会に田口氏が「3階だから飛び降りても死ぬようなことはないだろう」と言っていました。
その後田口夫妻からは,「救出」(拉致監禁・脱会説得のこと)には親族をできるだけ大勢集めてくださいと言われました。また,本人の近くには両親が横について行くようにと言われました。本人が騒いでも車の中に入れば周りには聞こえないだろうとも言っていました。私達夫婦は長男●および甥の●に事情を話し,S子に対する拉致監禁への協力を求めました。AさんともS子の件で連絡を取り合っていたところ,Aさんから,「S子が腰を痛め治療院に通い始めた」との連絡がありました。そこで,S子が次回治療院に来たところで拉致監禁する計画を立て,長男●がワゴン車を運転し,私達夫婦が同乗して,何度か治療院からライオンズマンション長町一丁目までの道を車で実際に走行して本番に備えました。
1993年2月中旬,決行日当日,Aさんから連絡が入り,S子が治療院に向けて「今行きました」とのことでした。それを受けて,私達夫婦と長男●,甥の●とで治療院に向かい,治療院近くの垣根の陰に隠れてS子が出て来るのを待ち伏せました。やがてS子が治療院から出てきましたので,皆でS子を取り囲み,ワゴン車に乗せました。長男●の運転でライオンズマンション長町一丁目に向かい,計画通りS子を同マンションの一室に閉じ込めました。S子が入室すると,私は玄関ドアをチェーンと南京錠とで施錠し,南京錠の鍵がない限り中から開閉できないようにして,S子を監禁しました。長男●と甥の●とはすぐに帰りましたが,帰る直前,家内から2人に日当を渡しました。後は私達夫婦でS子を監視しました。玄関ドアを入ると台所があり,台所の奥の部屋にS子が常時いるようにしましたが,夜休むときは,妻がその部屋から台所に向かうためのドアの手前に布団を敷いて休み,S子が台所に行けないようにしました。私達夫婦は,S子が統一教会を辞めるまでS子を同室に監禁し続けるつもりでした。
部屋には若い元統一教会信者と田口夫人とが来て脱会説得をしました。田口氏も1週間に1度くらい来ました。私は少し離れたところにいたので,この人達がどんな話をしていたかは聞いていません。
監禁を始めて1ヶ月くらい経った頃,S子が夜中に部屋から脱出しました。どのようにして脱出できたのか謎でしたが,最近になって,私がこの日,玄関ドアの鍵を掛け忘れていたのだとS子から聞きました。翌朝S子の脱出に気づいた私は,すぐに田口氏に連絡しましたが,どこに逃げたかもわからず,打つ手立てはありませんでした。
4 3回目の脱会説得(拉致監禁)
S子の脱出後,私達夫婦は東京都内のキリスト教会で開催していた「反対父母の会」の集会に3回ほど参加しました。同会は,統一教会に反対する父兄等の集会でしたが,毎回満員で,私達は末席の方で聞いていました。このため同会にて,日本同盟基督教団新津福音キリスト教会(新潟県新津市)の主任牧師である松永堡智牧師を紹介されました。私達が同教会を訪れ,松永牧師に挨拶すると,「うちにも大勢いますので,ちょっと時間がかかるかも知れませんけど,ここに勉強に来てください」と言われました。以後,私達夫婦は,毎週末,高速道路で片道4時間かけて同教会に通い,勉強するようになりました。日曜日の午前中は礼拝の説教で,午後からは勉強会が行われ,子供を拉致監禁して統一教会から脱会させること(彼らは「救出」と呼んでいました)に成功した親達が,集まってきた父兄に対して,拉致監禁の方法を指導していました。勉強会には,統一教会信者を子供に持つ父兄が通常は約50人,多い時は80人ほど参加していました。勉強会では,拉致する際には親戚など大勢の協力が必要になるので普通の乗用車では間に合わない,両親など本人に近い人が本人の両脇に座るように,ワゴン車には飲料やポータブルトイレを用意した方がいい,などの指導がありました。また,拉致監禁には親族の全面的な協力が必要であり,人数はできるだけ多い方がいいが,最低でも4人くらいの親族の協力がないと難しいなどと指導していました。他人が実行すると犯罪になるので親族がするようにとの趣旨でした。その他,「救出に際しては松永牧師の指導に必ず従ってください」「牧師の指導に従わないのであれば救出はできません」「子供が出して欲しいと言っても絶対に出してはいけない」「いつ子供を部屋から出すかについても全て松永牧師の判断に従って欲しい」といった指導がありました。

<松永牧師直筆監禁マニュアルの一部 >
勉強会では,松永牧師が自分の体験談を語ったりもしました。また,勉強会に行くたびに拉致監禁の方法を指導するビデオを見せられました。

<SK氏が勉強会に行くたびに見たという松永牧師の指導ビデオの映像>

<松永牧師自身はビデオを誰にもみせてないと証人尋問で否定>
時には,土日以外に2日間のツーデイズセミナーという,一泊二日の研修会に参加させられもしました。

<とある統一教会員家族が2DAYSに参加した際に講義内容を記したノートの一部>
拉致監禁に向けて大勢の父兄がすでに順番待ちをしており,私達の番号は180番台でした。他の父兄とは毎週会うものの,お互いに名前は名乗りませんでした。拉致監禁にはかなりの金額がかかるとわかって,順番待ちから離脱する父兄も多くいました。このため私達の順番は,思ったよりも早く巡ってきました。
順番が迫ってくると松永牧師は,同じ状況の父兄を集めてテーブルに座らせ,いよいよこれから統一教会信者の子弟をマンションの一室等に連れて行く際,どういう風に話すのかについての予行演習をさせました。その話し方が松永牧師の満足のいくものでないと,松永から「あなたはまだ勉強不足だ」と言われました。また松永牧師からは「救出に際してはお子さんの状況などについて私との連絡を密にとって下さい」「救出に際しては私の言葉に従って下さい。従って頂けないのなら,救出を引き受けることはできません」といった指導が強くなされました。
私達夫婦は,S子が仙台のマンションから脱出して間もなく,私立探偵を合計3社雇ってS子の居場所を調査させました。調査費用は合計約100万円以上支払いました。最後に頼んだ探偵社がS子の居場所を見つけました。S子は当時福島県に住んでおり,近くの小学校(☓☓小学校)で勤務していました。探偵の話を聞いて私達夫婦は,S子が勤務先の学校から出てきたところを拉致するのが一番いいとの結論に到達しました。
S子の居場所がわかった旨松永牧師に伝えると,松永牧師は,新潟県新潟市(現在の新潟市中央区)古町通11番地1696にあったシャルム五菜堀というマンションの301号室を私に紹介しました。松永牧師によると,同室にて現在信者を一人脱会説得中だが間もなく完了するので,部屋が空くであろうとのことでした。

<シャルム五菜堀301号室の玄関ドア前>
2~3日すると松永牧師から連絡があり,同室が空いたとのことでした。松永牧師は拉致監禁について,「親戚の方々にちゃんと連絡をとってぬかりのないように準備周到に用意するように」との注意がありました。その後私達夫婦は,長男●,姪のC夫妻,及び姪のDに連絡を入れ,協力を要請しました。こうして,1995年11月上旬のある日を,拉致監禁の決行日として決定しました。
決行日の2~3日前,私達夫婦は家にあった布団や食器類,食料,炊飯器等を運び込むため車で新潟に向かいました。松永の教会に行くと,シャルム五菜堀301号室のオーナーのO氏が来ており,松永牧師は私達夫婦にO氏を紹介しました。私達はO氏の案内で車で同室に向かい,O氏から同室の鍵を預かり,同室に荷物を運び入れました。同室は2DKで全ての窓は,窓を固定するための器具が設置してありました。O氏からは,「窓が開かないようになっている」との説明がありました。玄関ドアには内側にも施錠用の鍵穴があり,玄関ドアを外側から開施錠する際に使用するのと同一の鍵で,内側からも施錠できるようになっていました。即ち,鍵で内側から施錠すると,玄関ドアは同鍵がない限り内側からも開かない仕組みとなっていました。
拉致監禁決行日当日,私達夫婦は,長男●,姪のC夫妻,及び姪のDと共にレンタカーのワゴン車で松永牧師の教会を訪れ,松永牧師に対し,「これからこのメンバーで決行しますので宜しくお願いします」と挨拶しました。松永牧師には既に計画を全て伝えてあったので,同牧師は「わかりました」とだけ答えました。このあと私達は,福島県のS子の勤務先の小学校に向かいました。同小学校には職員及び来客用の駐車場があり,私達はS子の車を見つけると,その近くにワゴン車を駐車しました。私達は全員ワゴン車から降りて車の陰に隠れ,S子が勤務を終えて駐車場に来るのを待ち伏せました。やがてS子が駐車場に来て車に乗ろうとしたので,私達は一斉に飛び出してS子を取り囲み,長男●とCとでS子の両脇をつかみ,ワゴン車に乗せました。車内ではS子を後部座席に乗せ,私と妻とがS子の両隣に座りました。こうしてワゴン車で約4時間かけてシャルム五菜堀まで無理矢理連れて行き,S子を301号室に監禁しました。
同室には複数の元統一教会信者(女性)と松永牧師とが来て,S子に対し脱会説得をしました。私は脱会説得の場には立ち会わなかったので,どのような話が行われていたかわかりませんでした。松永牧師はS子との話が終わると,毎回私と打ち合わせの場を持ちました。松永牧師からは,「S子さんはあまり統一教会の信仰に深入りしていないので,今はどっちともつかずの状態です」との話が毎回続きました。
監禁から約2ヶ月後,S子が統一教会に深入りしていないとの判断から,松永牧師は「S子さんを解放してもいいのではないか」と判断し,解放の許可を出しました。このため私達はS子を解放しました。
S子を解放後,私達夫婦はS子と一緒にO氏のところに部屋代の支払い及び挨拶に行きました。O氏はマンション使用量の請求書を私達に示しましたが,それを見ると,当時は真冬で冷房は一切使っていなかったにもかかわらず,冷房機の買取代金が請求されていました。私が「冷房は使っていないのにこれは何ですか。消して下さい」と言うと,O氏は「わかりました」と言って請求から外してくれました。しかし,このときのやりとりで,私はO氏に多大な不信感を持ちました。
松永牧師への支払いは妻がしていたので,私は何にいくら支払ったのかわかりませんが,妻は「随分支払った」と言っていました。松永牧師の元での脱会説得後,七十七銀行高砂支店の普通預金口座にあるはずだった私の預金は全てなくなっていました。今では,松永牧師に「ひと財産とられた」気がしています。
5 後藤徹さんの事件について
後藤徹さんは1995年9月11日に東京の実家で拉致され,翌日より1997年6月まで新潟のマンションに監禁され,松永牧師等の脱会説得を受けたということですが,私達がS子をシャルム五菜堀301号室に監禁したのは1995年11月上旬から同年12月末までの約2ヶ月でしたので,時期的には完全に重なっています。
後藤さんの事件では,被告等は後藤さんに対する拉致監禁の事実を否定していると聞きました。確かに,彼らは「拉致監禁」という言葉は使わず,「保護」「救出」といった言葉を使いますが,松永牧師や,新津福音キリスト教会の勉強会で父兄等が指導していたのは,統一教会信者を意思に反して連行し,マンション等の一室に閉じ込めて脱会説得を行うことですので,拉致監禁に違いありません。また,脱会説得に成功した父兄からも松永牧師からも「救出」に際しては必ず松永牧師の指示に従うようにとの注意が,ありましたし,松永牧師は「従って頂けないのなら,救出を引き受けることはできません」とまで直接指導していましたので,後藤さんに対する拉致監禁のときだけ松永牧師が何も始動していないなどと言うことは考えられません。
拉致監禁から脱出した統一教会信者が監禁に関与した父兄や牧師を訴えた場合,牧師は全て父兄がやったことと主張し,父兄も牧師の肩を持ち,牧師は一切,信者の拘束に関与していないといった証言をすると聞きましたが,言語道断だと思います。牧師等は,自ら父兄等を指導して拉致監禁をさせている以上,法廷でも正直に事実を話すべきだし,自ら行った行為の責任はとるべきだと思います。また,父兄も,牧師をかばって法廷で嘘をつくなどすべきではないと思います。
以上
これからも後藤徹氏の応援をよろしくお願いいたします。
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2014-04-29(Tue)
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後藤徹さんの主張通りの、松永牧師の指導方法
松永牧師の指示にもとづいて、娘さんを拉致監禁したお父さんの証言だけあり、非常にリアリティーがあります。松永牧師の指導方法は、後藤裁判で徹さんが主張していることと一致しています。
逃げられないな
すごい証言が出てきましたね。
<「救出に際しては松永牧師の指導に必ず従ってください」「牧師の指導に従わないのであれば救出はできません」「子供が出して欲しいと言っても絶対に出してはいけない」「いつ子供を部屋から出すかについても全て松永牧師の判断に従って欲しい」といった指導がありました>
<監禁から約2ヶ月後,S子が統一教会に深入りしていないとの判断から,松永牧師は「S子さんを解放してもいいのではないか」と判断し,解放の許可を出しました。このため私達はS子を解放しました>
あらら~、松永はばっちり拉致監禁を指導してたんじゃないの~。
東京地裁では何とか逃げ切ったけど、こんな証言が出てきたんじゃあ、松永も終わりだな。
どういう経緯でS・Kさんが証言してくださることになったのか分かりませんが、勇気を振り絞って証言してくださったS・Kさんに心から感謝します。
そして、S・Kさんと娘のASさんが仲睦まじい幸せな親子関係を続けて行かれるよう、神様のご加護をお祈り申し上げます。
松永よ、神様の手から逃げられるなどと思うなよ!。今からでも遅くない、観念せい!
<「救出に際しては松永牧師の指導に必ず従ってください」「牧師の指導に従わないのであれば救出はできません」「子供が出して欲しいと言っても絶対に出してはいけない」「いつ子供を部屋から出すかについても全て松永牧師の判断に従って欲しい」といった指導がありました>
<監禁から約2ヶ月後,S子が統一教会に深入りしていないとの判断から,松永牧師は「S子さんを解放してもいいのではないか」と判断し,解放の許可を出しました。このため私達はS子を解放しました>
あらら~、松永はばっちり拉致監禁を指導してたんじゃないの~。
東京地裁では何とか逃げ切ったけど、こんな証言が出てきたんじゃあ、松永も終わりだな。
どういう経緯でS・Kさんが証言してくださることになったのか分かりませんが、勇気を振り絞って証言してくださったS・Kさんに心から感謝します。
そして、S・Kさんと娘のASさんが仲睦まじい幸せな親子関係を続けて行かれるよう、神様のご加護をお祈り申し上げます。
松永よ、神様の手から逃げられるなどと思うなよ!。今からでも遅くない、観念せい!
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