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AS氏の陳述書-脱会の経費請求はどんぶり勘定だ

皆様
ご無沙汰しております。
ブログの更新が途絶えてからだいぶたちました。
ついに、スポンサー広告まで出るようになってしまいました・・・・。

久々の更新です。
といっても控訴理由書ではなく、いままで掲載してなかった原告側の陳述書です。

AS氏は、被告の一人松永牧師から監禁説得を受けた経験を持つ女性です。
文章はさほど長くはありません。

このAS氏を監禁した父SK氏は後に娘を監禁したことをたいへん後悔し、なんと原告側から陳述書まで提出しました。
監禁した側の親族が監禁を後悔し、しかも原告側から陳述書を提出するケースは本件ではMK氏の弟に続き、二人目です。
今回は娘のAS氏、次回は父SK氏の陳述書をご紹介します。



陳 述 書


2011年8月6日
                    
A・S



1.略歴

 1960年9月5日,私は宮城県塩釜市で父SK,母●の間に生まれました。兄弟は,13才上の腹違いの兄●がいます。父は川崎汽船に勤務していましたが,55歳の年に退職し,その後複数の仕事をして現在は無職です。母は2008年4月に他界しました。
 私は地元の小,中,高等学校を卒業後,1979年4月に宮城学院女子大学学芸学部音楽科(ピアノ専攻)に入学し,1983年3月に同大学を卒業しました。
 卒業後は,カワイ音楽教室にて講師の仕事をし,現在は自宅で個人でピアノ教室を開いています。
 父は商船に乗って世界を回り,1年のうち10カ月は家を不在にしました。また兄は,22歳頃から東京で所帯を持ちました。このため私は,小学校の頃から母娘で暮らすようになりました。

2.統一教会に入会した経緯

 1975年頃,当時私は高校1年生であったと思いますが,仙台市一番町のアーケード街で伝道活動をしていた統一教会信者のTKさんから統一教会を紹介して頂き,仙台市花京院にあった伝道所に通うようになりました。
 1977年,19才の時,7日間の修練会に参加して私は統一教会の教理である統一原理を真理と確信し,統一教会に入会しました。

3.親族が反対するようになった経緯

 1975年頃,私が統一原理を学び始めた当初より,私の信仰をめぐって母との間で言い争いがありました。
 また当時,テレビや新聞で統一教会に批判的な報道をしていたこと,マルクス・レーニン主義思想をもっていた私の家庭教師からも統一教会に対して否定的な情報が両親に入ったこと,及び近所の人達からの批判情報により,両親は私の信仰に対して不安に陥り反対するようになりました。

4.1回目の脱会説得(拉致監禁)

 1980年頃より,私は統一教会信徒が共同生活を営む花京院の「ホーム」にて生活するようになり,ホームを拠点に大学に通ったり,伝道活動に従事するようになりました。
 1983年,大学を卒業して間もない23才の時,私が実家近くのカワイ音楽教室にピアノを教えに行った帰りに両親は私を拉致し,実家2階に監禁しました。2階から1階に降りる階段の手前に特別のドアが設置され,外側から施錠され内側からは開かないようにされました。また,全ての窓には特別の細工が設けられ,開けられないようにされました。
 母は2階に私を監禁すると,教会の悪口を言って教会には行かないようにと私に対して説得しました。
 当時私は仕事を辞めて教会活動に専念しようとしていましたが,「仕事を続ける」と言ったため,監禁から1週間後くらいに解放されました。

 1984年頃,父は川崎汽船を退職しました。
 その後私は両親に内緒で教会の人達と交流し続けました。
 1989年頃,私は家を出て仙台市桜ヶ丘のアパートに下宿し1人暮らしを始め,翌年頃,再度教会に通い始めました。

 
5.2回目の脱会説得(拉致監禁)


 1992年8月,私は韓国のソウルで開催された3万双の国際合同結婚式に参加し,夫●と結婚しました。結婚式前に実家に帰り,母に結婚の報告をしました。すると母は「そうか」と言ってワンピースを買ってくれました。母は娘の結婚を容認する気持ちになっていたようです。
 合同結婚式から半年過ぎた頃,両親のもとに様々な人から統一教会に批判的な情報が寄せられるようになりました。かつて私と一緒にピアノ教室に通っていた友人のAさんやBさんも,「統一教会をやめさせた方がいい」と私の両親に言ってきました。

 やがてBさんは両親に,宮城県で統一教会信者の脱会説得を行っていた元信者・田口民也氏(故人)を紹介しました。
<田口民也氏は『統一協会 救出とリハビリテーション』の著者。この本は、統一教会員を脱会させる具体的な手法についてかなり踏み込んで書かれていることで知られている。>

 私は合同結婚式に参加後,約半年経ったころ,腰痛に見舞われました。このため,休みを利用してAさん宅近くの治療院に通うことにしました。ところが,そのことがAさんから私の両親に伝えられました。こうして,1993年2月中旬,私が2度目に治療院を訪れた際,待ち伏せていた両親,兄及び従兄弟の●らによって拉致されました。治療院の玄関先で突然出てきた両親らによって猿ぐつわと目隠しをされ,兄●の運転するワゴン車に乗せられ,仙台市太白区長町のマンションの一室に監禁されてしまいました。同室の玄関ドアはチェーンと南京錠で,特別の鍵がなければ開けられないようにされ,窓は全て開かないように細工がされていました。
ライオンズマンション長町一丁目
<AS氏が監禁されていたライオンズマンション長町一丁目の外観>


 両親は,娘が教会を辞めるまで監禁を続けるという覚悟のようでした。マンションは,監禁専用に繰り返し利用されている部屋だったようです。部屋の中に入ると,玄関ドア及び全ての窓が,開かないような仕掛けが施されていました。私はマンションに入れられた時,両親から「警察沙汰にならないように,周りの住民には説得中だと言ってある。どんなに叫んでも警察は来ない」と言われました。監禁が始まった最初の1週間ほどは,東北大生などの元教会員が次々とやって来て私を説得しました。この人達は,田口氏によって脱会させられた人達でした。私は何か見せ物にされているように感じました。また脱会した人達は,田口氏のところにたむろしているように見えました。

 やがて田口氏の妻で,やはり元統一教会員の田口和子さん(故人)が脱会説得に加わるようになりました。さらにその1週間後,田口氏自身も脱会説得のためにマンションに来るようになり,統一教会の教理批判を繰り返しました。私は,田口氏と理論戦をしても監禁が長引くだけだと考え,とにかく早く解放されるために,脱会した振りをすること(偽装脱会)に決めました。拉致監禁されたその日に夫が入籍してくれたことを監禁中に知り,なんとしても早く部屋から出たいという思いをいっそう強く持ちました。

 私は「丁度,教会の活動に疲れていたところだった。実際背中もパンパンに凝っていた。自分でも教会におかしいという思いがあったので辞める」と話し,田口氏らの話に同調するようしました。すると本当に脱会しているのかを確かめる審査が始まりました。毎日毎日,元信者がやって来て私の表情を見ながら「これに対してはどう思うか?」などと質問してきました。私は信仰を失ったならどう答えるかを考えながら必死で回答しましたが,毎回自分が言ったことが元信者からどのような評価を受けているか気になり,頭がおかしくなりそうでした。最後に現場に来たのが田口氏の中学生くらいの娘でした。田口氏らによると,その娘さんは霊的にとても敏感なのだそうで,監禁中の信者が統一教会の信仰を失ったか失っていないかを大体当てるのだそうです。娘さんは私を見て,「五分五分だ」と言い,とても警戒しているようでした。その娘さんから私は「能面のような顔だ」とも言われました。

 審問が続く中,監禁から脱出するチャンスが訪れました。監禁から約2カ月過ぎた1993年4月下旬のことでした。父が私を信頼してくれていたのか,父が玄関の鍵を開けたままにしていた日がありました。その日の夜,私は部屋から裸足で脱出しました。近くのお店に入り,トイレから教会に連絡し,教会から人が迎えに来るまでトイレに隠れていました。しばらくすると,教会員の方達がトイレまで迎えに来てくれて,無事生還することができました。

 なお,監禁中に田口夫人や元信者らから聞いたところでは,経費や日当を含め,脱会説得には1回40~50万円かかるとのことでした。


6.3回目の脱会説得(拉致監禁)

私が部屋から脱出した後,両親はすぐ次の拉致監禁のために準備を始めたようです。両親は東京都麻布にあったキリスト教会で開催していた,「反対父母の会」の集会に参加するようになりました。やがて同会にて,新潟県新津市の新津福音キリスト教会(日本同盟基督教団)の主任牧師である松永堡智牧師を紹介され,毎週末,両親が同牧師の教会に通うようになりました。車で片道4時間をかけて通う生活が約2年間続いたそうです。
新津福音キリスト教会
<ASさんの両親が片道4時間をかけて2年間通った新津福音キリスト教会と、松永堡智牧師>

 1995年11月上旬,当時私は夫の実家がある福島県で小学校の事務のアルバイトをしていました。ある日,午後6時半頃,仕事が終わって学校の駐車場に行ったところ,両親,兄夫婦らにより突然拉致され兄●が運転するワゴン車に乗せられて新潟県新潟市のマンションに約4時間かけて連れて行かれました。同所では,12月末まで監禁されました。
シャルム五菜堀
<AS氏が監禁された新潟市内のマンション シャルム五菜堀の外観>

同室で監禁が始まると,毎日5人ぐらいの元信者が入れ替わり立ち替わりやって来て,「(監禁されて)大変ですね」「私たちもこうだったんだよ」などと話しかけてきました。

 松永牧師は監禁後,1週間ぐらい経ってから説得にやってきました。私は祝福による結婚を全うすることだけを考えていました。理論で反抗していくと監禁が長引くだけなので,「教会を辞め,私達は普通に暮らしている」と話しました。田口さんの時も「辞めた」と言って逃げ出したので,今回はもっと大変だろうと覚悟していました。両親に対しては,「夫はものすごくいい人で,幸せになれると思ったから結婚した」と話しました。父はそれを受け入れてくれたところがあったと思います。ところが松永牧師との面談の時間はまさに「命懸け」でした。松永牧師は私の語った内容を後で全部調べるような感じだったので“この一言を言ったことによってどうなるか?”と思うと内臓が口から飛び出してくるような感じでした。

  松永牧師は面談後,必ず父に状況を説明し,「今の段階では嘘がないと思うけれども,あれはちょっと嘘かもしれない」などと言うのでした。それは私にとっては,刃物を突きつけられるような感覚で,毎日毎日が戦いの連続でした。松永牧師の直接の審査に加えて,2回目の監禁時と同様に,元信者による審査がありました。“リハビリ”と称して,私と脱会した人々だけで外に食事に行って個人的な話をしたりしました。ただそうした場でも,トイレに立つ時には,1人が私の前に立って,後ろにも別の1人が付いて来るのです。“リハビリ”は監禁の最終段階で行われました。そうしたいくつかの審査を経た上で,松永牧師が,私が“脱会した”と判断したため,私は解放されました。こうして1995年12月29日,約2カ月ぶりに夫のもとに帰ることができました。
判定基準
<松永牧師直筆の判定基準>


 解放後,私は両親と一緒に部屋の持ち主のO氏のところに挨拶に行きました。O氏は監禁中のマンションの請求書を見せてきました。それを見ると,当時は真冬で冷房は一切使っていなかったにもかかわらず,エアコンの買い取り代金が請求されていました。父が異論を唱えるとO氏は請求から外してくれました。この瞬間,「この人は松永牧師と結託しているな」と直感で感じました。脱会説得にかかった費用は母が全部支払ったので,額はわかりませんが,母は「実は随分取られた」と言っていました。父は監禁が終わって以降,松永牧師の教会に足を運ぶことはありませんでした。関係者がグルになっていると思ったからです。それ以降も松永牧師の教会から寄付金などを求める郵便物が自宅に送られてきましたし,つい最近まで反対父母の会から月額3千円の振込み用紙が送られてきましたが,父は今は全く関与していません。
以上


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2014-04-19(Sat)
 

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やはり金が絡む 

 世話人のみなさん、陳述書のアップ、ありがとうございました。

 拉致監禁のパターンはみんな同じということが再確認できました。お金が絡むことも。

2014-04-20 17:12 | 米本 | URL   [ 編集 ]

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プロフィール
拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

連絡先:gotosaiban-contactus@yahoo.co.jp

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