宮村峻氏の最終準備書面④-1998年10月以降は原告との話し合いにまったく関与していない?
ご無沙汰しております。
久しぶりのブログ更新です。
今回は
第4 1998年10月以降被告宮村が原告との話し合いに全く関与していないこと
をご紹介します。
この1998年10月以降とわざわざ年月を限定しているところが気になりますね。
これは宮村氏が家族の背後にあって指示していたことを否定するためと思われます。
後藤徹氏の陳述書にも書いてありますが、2001年2月に後藤氏が逃走をしようとしてそれを阻止する家族ともみ合いになった際に、家族は携帯で宮村氏に連絡して、宮村がすぐにフラワーホームを訪れ、原告の様子を見に来ています。宮村が原告を風呂場から引きずり出したのは、同2001年2月です。風呂場で騒いでいた後藤氏に手を焼いた家族から連絡を受けて宮村氏がやってきた以外考えられません。このように、事実は、監禁をしていた家族は常に宮村氏と連絡を取り、指示を受けていたと見られるわけです。宮村氏としては、この事実を否定して、家族が勝手にやっていたと言いたいのでしょう。
なので宮村氏は後藤氏が風呂場で騒いでいたのは1998年夏頃と主張しています。
あくまでも、後藤氏の同意を得て上で家族の求めに応じて、後藤氏とお話し合いをしていた。その時期は1998年9月まででそれ以降は後藤氏の元に訪れたことはないという主張のようです。
久しぶりのブログ更新です。
今回は
第4 1998年10月以降被告宮村が原告との話し合いに全く関与していないこと
をご紹介します。
この1998年10月以降とわざわざ年月を限定しているところが気になりますね。
これは宮村氏が家族の背後にあって指示していたことを否定するためと思われます。
後藤徹氏の陳述書にも書いてありますが、2001年2月に後藤氏が逃走をしようとしてそれを阻止する家族ともみ合いになった際に、家族は携帯で宮村氏に連絡して、宮村がすぐにフラワーホームを訪れ、原告の様子を見に来ています。宮村が原告を風呂場から引きずり出したのは、同2001年2月です。風呂場で騒いでいた後藤氏に手を焼いた家族から連絡を受けて宮村氏がやってきた以外考えられません。このように、事実は、監禁をしていた家族は常に宮村氏と連絡を取り、指示を受けていたと見られるわけです。宮村氏としては、この事実を否定して、家族が勝手にやっていたと言いたいのでしょう。
なので宮村氏は後藤氏が風呂場で騒いでいたのは1998年夏頃と主張しています。
あくまでも、後藤氏の同意を得て上で家族の求めに応じて、後藤氏とお話し合いをしていた。その時期は1998年9月まででそれ以降は後藤氏の元に訪れたことはないという主張のようです。
第4 1998年10月以降被告宮村が原告との話し合いに全<関与していないこと
1. 1998年10月以降被告■<後藤徹氏の兄>らと原告の話し合いに関与していないこと
(1)被告宮村は、前述のとおり、あくまでも原告及び被告■<後藤徹氏の兄>ら家族の求めに応じて原告との話し合いを行っていたのであるから、原告が被告宮村とこれ以上の話し合いを望まず、被告■<後藤徹氏の兄>が家族で話し合いをすると言われたことから、被告宮村は原告と話し合いを行うことをやめた。そして、それ以降は、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>らと原告との話し合いには一切関与していない(被告宮村34頁、被告■<後藤徹氏の妹>28、29頁)。

<宮村峻氏本人調書34ページ一部>
原告は、被告宮村が原告の元を訪れなくなってからも、原告が被告■<後藤徹氏の兄>らをして原告を監禁させ続けたと主張する。しかし、このような事実は全くなく、当然、これを裏付ける証拠は一切ない。このような原告の主張は、何ら証拠に基づかない単なる推測に過ぎない。
(2)原告は何かあった時には被告宮村を呼ぶことがシステム化されていたと主張するが、そのような事実は存在しない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書6,7頁、OB調書67,68頁)。

<後藤徹氏兄の本人調書6,7ページ一部>
これまで繰り返し述べてきたとおり、被告宮村は統一協会について詳しいことから、統一協会信者に統一協会の教え等を再検討するように話をするため必要なのであって、話し合い自体は、家族と統一協会信者との話し合いなので、基本的に、家族で判断していたのである(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書7頁)。

<後藤徹氏兄の本人調書7ページ一部>
しかも、被告宮村は普段は株式会社タップの社長として多忙であり、直ぐに話し合いをしている家族のもとを訪れることなど不可能である。
MMの陳述書(甲43)にも、マンション内で何かあった時はすぐに被告宮村が駆け付けていたと主張するが、第5.2 (2)で後述するとおり、MMの陳述書は信用できないものであり、この点のMMの供述も全く信用できない。
なお、OBが荻窪フラワーホームを訪れているが、これは被告■<後藤徹氏の兄>がOBに電話して来てもらったものである。被告■<後藤徹氏の兄>が被告宮村に電話して、被告宮村が株式会社タップの従業員であるOBに指示して、荻窪フラワーホームに向かわせたものではない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書51頁、OB調書44頁)。
2.原告の主張する1998年9月以降の被告宮村の来訪が存在しないこと
(1)この点、原告は、被告宮村か1998年9月以降も2回に亘って、荻窪フラワーホームを訪れたと主張し、このような事実から1998年9月以降も被告宮村が原告の拉致監禁を統括していたと主張するようである。しかし、このような事実は一切ない(被告宮村調書34頁)。被告■<後藤徹氏の兄>らから原告との話し合いの状況について報告を受けていないし、相談も受けていない(被告宮村調書35頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書42頁)。
(2)まず、原告は、2001年2月頃に、原告が暴れ始めたところ、被告■<後藤徹氏の兄>が被告宮村を携帯電話で呼んだと主張しているが、このような事実そもそも存在しない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書22頁)。
(3)次に、原告は、自身が風呂場の浴槽によじ登って助けを求めて叫んでいた際に、被告宮村が来たと主張するが、原告が風呂場で叫んでいたのは1998年夏頃の出来事であり、まだ被告宮村が原告のもとに話し合いのために訪れていた時期のことである(被告宮村調書34、35頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書23頁)。
この出来事に関する原告の主張は、原告が1メートルほどある風呂場の縁のぼっていたところを被告宮村が首根っこをつかんで引きずり落とし、さらに、風呂場から引きずり出したというものであるが、身長168センチの被告宮村が風呂場の縁にのぼった身長182センチもある大柄の原告の首根っこをつかんで引きずり落とすことは物理的に不可能であるし、抵抗する大柄の原告を力づくで風呂場から引きずり出すということもおよそ考えられないこと、また、前述のとおり、原告が被告宮村との話し合いの状況について被告宮村を陥れるために虚偽の供述をしていたことからすれば、この点に関する原告の主張及び供述は信用できないものであることは明らかである。

3.小括
以上のとおり、被告宮村は、荻窪フラワーホームで原告と話し合いを行っていた1998年10月以降、被告■<後藤徹氏の兄>らと原告との話し合いに一切関与しておらず、この点について、何らかの責任を負うことはありえない。
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1. 1998年10月以降被告■<後藤徹氏の兄>らと原告の話し合いに関与していないこと
(1)被告宮村は、前述のとおり、あくまでも原告及び被告■<後藤徹氏の兄>ら家族の求めに応じて原告との話し合いを行っていたのであるから、原告が被告宮村とこれ以上の話し合いを望まず、被告■<後藤徹氏の兄>が家族で話し合いをすると言われたことから、被告宮村は原告と話し合いを行うことをやめた。そして、それ以降は、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>らと原告との話し合いには一切関与していない(被告宮村34頁、被告■<後藤徹氏の妹>28、29頁)。

<宮村峻氏本人調書34ページ一部>
原告は、被告宮村が原告の元を訪れなくなってからも、原告が被告■<後藤徹氏の兄>らをして原告を監禁させ続けたと主張する。しかし、このような事実は全くなく、当然、これを裏付ける証拠は一切ない。このような原告の主張は、何ら証拠に基づかない単なる推測に過ぎない。
(2)原告は何かあった時には被告宮村を呼ぶことがシステム化されていたと主張するが、そのような事実は存在しない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書6,7頁、OB調書67,68頁)。

<後藤徹氏兄の本人調書6,7ページ一部>
これまで繰り返し述べてきたとおり、被告宮村は統一協会について詳しいことから、統一協会信者に統一協会の教え等を再検討するように話をするため必要なのであって、話し合い自体は、家族と統一協会信者との話し合いなので、基本的に、家族で判断していたのである(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書7頁)。

<後藤徹氏兄の本人調書7ページ一部>
しかも、被告宮村は普段は株式会社タップの社長として多忙であり、直ぐに話し合いをしている家族のもとを訪れることなど不可能である。
MMの陳述書(甲43)にも、マンション内で何かあった時はすぐに被告宮村が駆け付けていたと主張するが、第5.2 (2)で後述するとおり、MMの陳述書は信用できないものであり、この点のMMの供述も全く信用できない。
なお、OBが荻窪フラワーホームを訪れているが、これは被告■<後藤徹氏の兄>がOBに電話して来てもらったものである。被告■<後藤徹氏の兄>が被告宮村に電話して、被告宮村が株式会社タップの従業員であるOBに指示して、荻窪フラワーホームに向かわせたものではない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書51頁、OB調書44頁)。
2.原告の主張する1998年9月以降の被告宮村の来訪が存在しないこと
(1)この点、原告は、被告宮村か1998年9月以降も2回に亘って、荻窪フラワーホームを訪れたと主張し、このような事実から1998年9月以降も被告宮村が原告の拉致監禁を統括していたと主張するようである。しかし、このような事実は一切ない(被告宮村調書34頁)。被告■<後藤徹氏の兄>らから原告との話し合いの状況について報告を受けていないし、相談も受けていない(被告宮村調書35頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書42頁)。
(2)まず、原告は、2001年2月頃に、原告が暴れ始めたところ、被告■<後藤徹氏の兄>が被告宮村を携帯電話で呼んだと主張しているが、このような事実そもそも存在しない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書22頁)。
(3)次に、原告は、自身が風呂場の浴槽によじ登って助けを求めて叫んでいた際に、被告宮村が来たと主張するが、原告が風呂場で叫んでいたのは1998年夏頃の出来事であり、まだ被告宮村が原告のもとに話し合いのために訪れていた時期のことである(被告宮村調書34、35頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書23頁)。
この出来事に関する原告の主張は、原告が1メートルほどある風呂場の縁のぼっていたところを被告宮村が首根っこをつかんで引きずり落とし、さらに、風呂場から引きずり出したというものであるが、身長168センチの被告宮村が風呂場の縁にのぼった身長182センチもある大柄の原告の首根っこをつかんで引きずり落とすことは物理的に不可能であるし、抵抗する大柄の原告を力づくで風呂場から引きずり出すということもおよそ考えられないこと、また、前述のとおり、原告が被告宮村との話し合いの状況について被告宮村を陥れるために虚偽の供述をしていたことからすれば、この点に関する原告の主張及び供述は信用できないものであることは明らかである。

3.小括
以上のとおり、被告宮村は、荻窪フラワーホームで原告と話し合いを行っていた1998年10月以降、被告■<後藤徹氏の兄>らと原告との話し合いに一切関与しておらず、この点について、何らかの責任を負うことはありえない。
これからも後藤徹氏を応援してくださいね!!
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2014-01-11(Sat)
宮村峻氏の最終準備書面⑤-偽装脱会をするのは、監禁から逃れるためではなく家族との話し合いを中断させるため? « ホーム
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反証
<これを裏付ける証拠は一切ない>
そりゃそうだ。
被告らがグルになって一人の原告を監禁し、12年5ヶ月も、外出させず、外部との連絡を完全遮断していたんだから。
原告を外に突き出す時だって、紙切れ一枚渡さなかったんだから、
証拠など残るわけがない。
でも、12年5ヶ月もの長きにわたって、原告が自由意思でその狭い一室に閉じこもっていた、など100人中100人とも信じることはできない。
だから、被告らがすべきことは、監禁していなかったという反証だ。
第三者がマンションに入ることなく、原告を見ることも話すこともしていない。
つまり、原告が監禁されていなかったという証拠(反証の証拠)もないのだ。
山貴がいくら大声で叫ぼうが、「そうだ、そうだ」とはならないんだよね~、これが。
残念。
そりゃそうだ。
被告らがグルになって一人の原告を監禁し、12年5ヶ月も、外出させず、外部との連絡を完全遮断していたんだから。
原告を外に突き出す時だって、紙切れ一枚渡さなかったんだから、
証拠など残るわけがない。
でも、12年5ヶ月もの長きにわたって、原告が自由意思でその狭い一室に閉じこもっていた、など100人中100人とも信じることはできない。
だから、被告らがすべきことは、監禁していなかったという反証だ。
第三者がマンションに入ることなく、原告を見ることも話すこともしていない。
つまり、原告が監禁されていなかったという証拠(反証の証拠)もないのだ。
山貴がいくら大声で叫ぼうが、「そうだ、そうだ」とはならないんだよね~、これが。
残念。
借りていたのは何のため
監禁がなかったなら
マンションはなんの為に借りたの?
マンションはなんの為に借りたの?
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