後藤徹氏陳述書(3)
原告(後藤徹氏)陳述書(3)
監禁の舞台は東京へと移されます。東京での最初のマンションでの監禁と、次のマンションでの監禁の情景が描写されます。
(2)東京のマンション(1カ所目・荻窪プレイス605号室)での監禁
父の死後間もなく,私は「父と最後のお別れをするから」との理由で再度ワゴン車に監禁され東京の自宅に連行されました。私は再度新潟のマンションに戻されると思ったことから,財布,免許証,現金などの所持品は新潟のマンションに置いたままにしていました。妹と兄嫁に先導され玄関を出ると男性数人が待機していて,エレベーターに一緒に乗り,一階まで降りると,周りを取り囲まれたままワゴン車に乗せられました。ワゴン車に乗った後,分かったことですが,玄関前に待機していた男性の内の2人は,兄嫁の上の2人の兄弟でした。この時,新潟のマンションに脱会説得に来ていた元統一教会信者の男性(■という名であったと思います)がワゴン車を運転し,助手席には兄嫁が座りました。また,運転席の後ろの席には,兄嫁の2人の兄が中央及び右端に座り,左端には元信者女性が座りました。また最後列には,右端に妹,左端に(■と名乗る元信者男性が座り,私は,中央に座らされました。最後列中央に座らされたのは,私が脱出できないようにするためだと思います。
この時は,父親が亡くなったショックと悲しみ,また,偽装脱会がバレるのではないかといった緊張感,未だ監視と監禁を解こうとしない家族らに対する怒りと憤りなどがないまぜになり,心の平静を保つのに必死でした。この時も前述したように偽装脱会がバレぬように振舞うしかなく,私は,完全に逃走することができる瞬間が訪れるまで,ひたすら待ち続けるしかありませんでした。
父の亡骸が安置されている西東京市の自宅に着くと,そこには,母,及び兄が既に来ており,私はそこで父の亡骸と対面しました。私は決して父と仲が良かったとは言えませんが,会社の幹部として仕事に情熱をもって取り組んでいる父を尊敬しておりました。仏教徒であった父とは信仰や価値観の違いがあったとはいえ父と何とか理解し合えたらと念願していました。しかし,こういった形で今生の別れの時が来るとは,本当に無念の思いでいっぱいでした。父の亡骸と対面している間,周りを親族だけでなく,新潟から同じワゴン車に乗ってきた父とほとんど面識のない元信者までもがずらりと取り囲んでいました。
この後,再び周りを家族や元信者らに取り囲まれながらワゴン車に乗せられると,ワゴン車の中で初めて兄から,「もう新潟には戻らない」ということを聞かされました。私はワゴン車により,都内1カ所目の杉並区荻窪の荻窪プレイス(このマンション名は後に警察が捜査して特定し,教えてもらいました)に連行され,同マンションの605号室に監禁されました【図3】。
同室では,兄は昼間は仕事に出ていたものの,母,妹,兄嫁が常駐し監視を続けていました。玄関の手前にはカーテンが引いてあり,玄関の様子を直接見ることはできませんでした。私は,引き続き偽装脱会中であったため,カーテンをめくって玄関の様子を見るなどの軽率な行動は取れませんでした。
それでも,わずかな隙を見てさっとカーテンをめくり玄関を凝視すると,ドアのノブのあたりに数字を合わせるダイヤルロック式の鍵がはっきりと見えました。逃走の隙を窺っていた私は,その瞬間,「まだ監禁が解かれていないのか!」と心の中で叫び,憤りと絶望感にうちひしがれました。
また,6階のため窓から脱出できるような高さではありませんでした。また,新潟のマンションに置いたままにしていた財布,免許証,現金などの所持品は,ついに私の手元には返却されませんでした。
監禁が長期化していくにつれ,兄はだんだんいらついてきたようで,ある日,私が,何気なく玄関近くに行っただけで,兄は「向こうに行ってろ!不愉快だ!」と怒鳴りつけ,玄関に近づくことを許しませんでした。その時,私は,その兄の言動に言いようのない恐怖感を覚えました。
(3)東京のマンション(2カ所目・荻窪フラワーホーム804号室)での監禁
1997年12月末頃,母,兄夫婦,妹及び数人の見知らぬ男性らによって再度ワゴン車に監禁され,荻窪フラワーホームという名称のマンション(杉並区荻窪3-47-15)に連行され,同マンションの804号室に監禁されました【図4】。同室で私は一番奥のベランダに面した部屋(図のM)に連れて行かれ,普段はそこに居るように言われました。私は同室到着後間もなく,玄関から出ることが可能かどうか確認しようとして,玄関が見える位置まで行ってみました。すると,玄関は内側からクサリと南京錠で開かないようにされているのがはっきりと見えました【写真2】。この様子を見た兄は,「シッ,シッ」と言って手の甲を私の方に向けて振り,私を奥の部屋に追いやりました。
私は人間扱いされていない屈辱を感じ,「これじゃまるで犬扱いじゃないか。俺は人間だぞ!」と言って抗議しました。また,窓には施錠できるタイプのクレセント錠が取り付けられており,専用の鍵によって施錠されていて開けることができませんでした【写真3】。同室にて,母,兄,妹,兄嫁が,私が逃げないように監視し,しかも一番奥の部屋の襖を開放したままにするよう言われました。
新潟のマンションに監禁されて以来,監禁期間は2年3ヶ月間に及び,脱会の意思表明をしてから2年を超えたにもかかわらず,私は一向に監禁から解放されませんでした。偽装脱会での膠着状態が続く中,この時期の私の精神状態は,限界を迎えつつありました。憲法において基本的人権と信教の自由が保障されている日本にいながら,自分はなぜこんなことを続けなければならないのか。悪いのは監禁という手段を用いて脱会を強制する彼らの方であるのに,全く悪びれるそぶりもなく統一教会の批判をする彼らに対し,元信者の振りをして自分の心を偽り続け,調子を合わせることを強いられる日々。私はついに精神の安定を保つことが困難になり,このまま行くと自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖感に苛まれました。
加えて,本来,監禁されていなければ,今頃は婚約者と幸せな家庭生活を出発することができていたと思うと,募る焦燥感と虚しさと憤りで,いてもたってもいられなくなりました。そこで,私は,804号室に監禁されてより間もなく,意を決して覚悟を決め,兄を呼んで座らせ,偽装脱会をしていた旨を伝えました。そして,机を思いっきり叩き「こんな監禁なんてやり方をするあなた方が悪いんでしょう!」と糾弾し,長い間心の中に無理やり押し込んできた鬱屈した思いを一気にぶちまけました。
私が偽装脱会していたことを表明した結果,私は同室において,家族や後日同室に来訪した宮村等からあらゆる非難,中傷,罵倒を受けることとなり,徹底的な棄教強要を受けるようになりました。804号室にて信仰を維持していることを表明して間もない頃,私は脱出を試み玄関に向かって行きました。ところが,すぐに兄に捕まえられ,足技を掛けられて倒され,取り押さえられました。この時,私は自分で思っていた以上に体力が落ちていたことに驚きました。
玄関ドアに南京錠及びチェーンによる施錠があるだけでなく,力づくで脱出を拒まれたことから,私は同室からの脱出を断念させられ絶望感に襲われました。
監禁の舞台は東京へと移されます。東京での最初のマンションでの監禁と、次のマンションでの監禁の情景が描写されます。
後藤徹氏陳述書の構成
1.略歴
2.統一教会への入会
3.第1回目の監禁
4.第1回目の監禁から脱出後の経緯
5.第2回目の監禁
(1)新潟のマンション(パレスマンション多門607号室)での監禁
(2)東京のマンション(1カ所目・荻窪プレイス605号室)での監禁(今回)
(3)東京のマンション(2カ所目・荻窪フラワーホーム804号室)での監禁
(4)宮村等による脱会説得
(5)ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)
(6)ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)
(7)ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)
(8)監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に
青印が今回アップしたもの
(2)東京のマンション(1カ所目・荻窪プレイス605号室)での監禁
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父の死後間もなく,私は「父と最後のお別れをするから」との理由で再度ワゴン車に監禁され東京の自宅に連行されました。私は再度新潟のマンションに戻されると思ったことから,財布,免許証,現金などの所持品は新潟のマンションに置いたままにしていました。妹と兄嫁に先導され玄関を出ると男性数人が待機していて,エレベーターに一緒に乗り,一階まで降りると,周りを取り囲まれたままワゴン車に乗せられました。ワゴン車に乗った後,分かったことですが,玄関前に待機していた男性の内の2人は,兄嫁の上の2人の兄弟でした。この時,新潟のマンションに脱会説得に来ていた元統一教会信者の男性(■という名であったと思います)がワゴン車を運転し,助手席には兄嫁が座りました。また,運転席の後ろの席には,兄嫁の2人の兄が中央及び右端に座り,左端には元信者女性が座りました。また最後列には,右端に妹,左端に(■と名乗る元信者男性が座り,私は,中央に座らされました。最後列中央に座らされたのは,私が脱出できないようにするためだと思います。
この時は,父親が亡くなったショックと悲しみ,また,偽装脱会がバレるのではないかといった緊張感,未だ監視と監禁を解こうとしない家族らに対する怒りと憤りなどがないまぜになり,心の平静を保つのに必死でした。この時も前述したように偽装脱会がバレぬように振舞うしかなく,私は,完全に逃走することができる瞬間が訪れるまで,ひたすら待ち続けるしかありませんでした。
父の亡骸が安置されている西東京市の自宅に着くと,そこには,母,及び兄が既に来ており,私はそこで父の亡骸と対面しました。私は決して父と仲が良かったとは言えませんが,会社の幹部として仕事に情熱をもって取り組んでいる父を尊敬しておりました。仏教徒であった父とは信仰や価値観の違いがあったとはいえ父と何とか理解し合えたらと念願していました。しかし,こういった形で今生の別れの時が来るとは,本当に無念の思いでいっぱいでした。父の亡骸と対面している間,周りを親族だけでなく,新潟から同じワゴン車に乗ってきた父とほとんど面識のない元信者までもがずらりと取り囲んでいました。
この後,再び周りを家族や元信者らに取り囲まれながらワゴン車に乗せられると,ワゴン車の中で初めて兄から,「もう新潟には戻らない」ということを聞かされました。私はワゴン車により,都内1カ所目の杉並区荻窪の荻窪プレイス(このマンション名は後に警察が捜査して特定し,教えてもらいました)に連行され,同マンションの605号室に監禁されました【図3】。
同室では,兄は昼間は仕事に出ていたものの,母,妹,兄嫁が常駐し監視を続けていました。玄関の手前にはカーテンが引いてあり,玄関の様子を直接見ることはできませんでした。私は,引き続き偽装脱会中であったため,カーテンをめくって玄関の様子を見るなどの軽率な行動は取れませんでした。
それでも,わずかな隙を見てさっとカーテンをめくり玄関を凝視すると,ドアのノブのあたりに数字を合わせるダイヤルロック式の鍵がはっきりと見えました。逃走の隙を窺っていた私は,その瞬間,「まだ監禁が解かれていないのか!」と心の中で叫び,憤りと絶望感にうちひしがれました。
また,6階のため窓から脱出できるような高さではありませんでした。また,新潟のマンションに置いたままにしていた財布,免許証,現金などの所持品は,ついに私の手元には返却されませんでした。
監禁が長期化していくにつれ,兄はだんだんいらついてきたようで,ある日,私が,何気なく玄関近くに行っただけで,兄は「向こうに行ってろ!不愉快だ!」と怒鳴りつけ,玄関に近づくことを許しませんでした。その時,私は,その兄の言動に言いようのない恐怖感を覚えました。
(3)東京のマンション(2カ所目・荻窪フラワーホーム804号室)での監禁
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1997年12月末頃,母,兄夫婦,妹及び数人の見知らぬ男性らによって再度ワゴン車に監禁され,荻窪フラワーホームという名称のマンション(杉並区荻窪3-47-15)に連行され,同マンションの804号室に監禁されました【図4】。同室で私は一番奥のベランダに面した部屋(図のM)に連れて行かれ,普段はそこに居るように言われました。私は同室到着後間もなく,玄関から出ることが可能かどうか確認しようとして,玄関が見える位置まで行ってみました。すると,玄関は内側からクサリと南京錠で開かないようにされているのがはっきりと見えました【写真2】。この様子を見た兄は,「シッ,シッ」と言って手の甲を私の方に向けて振り,私を奥の部屋に追いやりました。
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新潟のマンションに監禁されて以来,監禁期間は2年3ヶ月間に及び,脱会の意思表明をしてから2年を超えたにもかかわらず,私は一向に監禁から解放されませんでした。偽装脱会での膠着状態が続く中,この時期の私の精神状態は,限界を迎えつつありました。憲法において基本的人権と信教の自由が保障されている日本にいながら,自分はなぜこんなことを続けなければならないのか。悪いのは監禁という手段を用いて脱会を強制する彼らの方であるのに,全く悪びれるそぶりもなく統一教会の批判をする彼らに対し,元信者の振りをして自分の心を偽り続け,調子を合わせることを強いられる日々。私はついに精神の安定を保つことが困難になり,このまま行くと自分がどうにかなってしまうのではないかという恐怖感に苛まれました。
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加えて,本来,監禁されていなければ,今頃は婚約者と幸せな家庭生活を出発することができていたと思うと,募る焦燥感と虚しさと憤りで,いてもたってもいられなくなりました。そこで,私は,804号室に監禁されてより間もなく,意を決して覚悟を決め,兄を呼んで座らせ,偽装脱会をしていた旨を伝えました。そして,机を思いっきり叩き「こんな監禁なんてやり方をするあなた方が悪いんでしょう!」と糾弾し,長い間心の中に無理やり押し込んできた鬱屈した思いを一気にぶちまけました。
私が偽装脱会していたことを表明した結果,私は同室において,家族や後日同室に来訪した宮村等からあらゆる非難,中傷,罵倒を受けることとなり,徹底的な棄教強要を受けるようになりました。804号室にて信仰を維持していることを表明して間もない頃,私は脱出を試み玄関に向かって行きました。ところが,すぐに兄に捕まえられ,足技を掛けられて倒され,取り押さえられました。この時,私は自分で思っていた以上に体力が落ちていたことに驚きました。
玄関ドアに南京錠及びチェーンによる施錠があるだけでなく,力づくで脱出を拒まれたことから,私は同室からの脱出を断念させられ絶望感に襲われました。
2011-06-12(Sun)
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御苦労様です。
宮村の罪状を、世に公開し、拉致の根絶を勝ち取りましょう
宮村の罪状を、世に公開し、拉致の根絶を勝ち取りましょう
よう頑張っとるな
管理人さん、ツイッターでは多少ボヤキが入っとったようやが、よう頑張っとるな。まあ、3審まで行けば、7年はかかるやろ。あまり気を張らずに、肩の力を抜いて。コメント欄で楽しくつきおうてやるから。後藤さんも頑張れや。
鍵
<玄関ドアに南京錠及びチェーンによる施錠があるだけでなく,力づくで脱出を拒まれたことから,私は同室からの脱出を断念させられ絶望感に襲われました>
後藤さんの悔しさは計り知れませんが、本当に悔しいです。
悔しいですが、恐らく、鍵の話は「証拠がない」ということで一蹴されるのではないかと思います。
6階、6階、8階…。
話し合いをする場所がどうして、常に高い位置にあるマンションなのでしょうか。
これは明らかに不自然です。
統一教会が徹さんを奪い返しにくることを警戒して、鍵を付けた、という論法もあるようですが、この高い階のマンションを用意したことについてはどう説明するのでしょうか。
これは明らかに、脱出させないようにするためではないでしょうか。
後藤さんの悔しさが晴れる日が早く来ることを、心から祈っています。
後藤さんの悔しさは計り知れませんが、本当に悔しいです。
悔しいですが、恐らく、鍵の話は「証拠がない」ということで一蹴されるのではないかと思います。
6階、6階、8階…。
話し合いをする場所がどうして、常に高い位置にあるマンションなのでしょうか。
これは明らかに不自然です。
統一教会が徹さんを奪い返しにくることを警戒して、鍵を付けた、という論法もあるようですが、この高い階のマンションを用意したことについてはどう説明するのでしょうか。
これは明らかに、脱出させないようにするためではないでしょうか。
後藤さんの悔しさが晴れる日が早く来ることを、心から祈っています。
フラワーホームへようこそ
記事で一番興味深く、しげしげと眺めたのはフラワーホームの間取りです。
かなりの監禁体験者を取材してきましたが、必ず聞くのは間取りです。
その中でも、後藤さんが監禁されたフラワーホームは最高峰です。
再度、図面をご覧あれ。
後藤さんが逃げる場合(自分のこととして考えてほしい)、M部屋から忍び足でA部屋に入り、それに成功すればB部屋に入って、脱兎の如く、Dドアを開け、そして玄関に突き進む。
荻窪ブレイスの間取りと比較してみてください。
後藤さんから最初にフラワーホームの間取りをノートに書いてもらったとき、「これはすごいぜ」と思いました。
取材後、現場を確認しました。直接M部屋を見ることはできませんでしたが、周囲を観察するに、M部屋前のベランダ(8階)から下を眺めれば、街がはるかかなた下に見え、飛び下りれば数秒で脳座所、即死でしょう。
まさに監禁場所としてはこれ以上のところはありません。
ブラボー!
宮村先生はこのマンションをこよなく愛したのです。
このブログの代表世話人、原田さんの婚約者がここに入れられたのはのは1988年頃、後藤さんがここに入ったのは1997年のこと。
そして、渦中の宇佐美さんの婚約者(工藤雅子さん)がここに入ったのは2009年頃。(第三回公判の工藤証言)
わが宮村先生は女(というより依存状態にあった脱会者の女性と、同じように依存渇望症にあった宮村氏とが共依存でくっついただけ)と同じように、このフラワーホームを20年間以上の長きにわたって愛し続けたのです。
ホームズじゃないけど、事件は現場から始まると思っています。
最近、2つの裁判が同時進行で始まっています。
宇佐美裁判と後藤裁判。
共通するワードは「宮村」「フラワーホーム」「拉致監禁」です。
かなりの監禁体験者を取材してきましたが、必ず聞くのは間取りです。
その中でも、後藤さんが監禁されたフラワーホームは最高峰です。
再度、図面をご覧あれ。
後藤さんが逃げる場合(自分のこととして考えてほしい)、M部屋から忍び足でA部屋に入り、それに成功すればB部屋に入って、脱兎の如く、Dドアを開け、そして玄関に突き進む。
荻窪ブレイスの間取りと比較してみてください。
後藤さんから最初にフラワーホームの間取りをノートに書いてもらったとき、「これはすごいぜ」と思いました。
取材後、現場を確認しました。直接M部屋を見ることはできませんでしたが、周囲を観察するに、M部屋前のベランダ(8階)から下を眺めれば、街がはるかかなた下に見え、飛び下りれば数秒で脳座所、即死でしょう。
まさに監禁場所としてはこれ以上のところはありません。
ブラボー!
宮村先生はこのマンションをこよなく愛したのです。
このブログの代表世話人、原田さんの婚約者がここに入れられたのはのは1988年頃、後藤さんがここに入ったのは1997年のこと。
そして、渦中の宇佐美さんの婚約者(工藤雅子さん)がここに入ったのは2009年頃。(第三回公判の工藤証言)
わが宮村先生は女(というより依存状態にあった脱会者の女性と、同じように依存渇望症にあった宮村氏とが共依存でくっついただけ)と同じように、このフラワーホームを20年間以上の長きにわたって愛し続けたのです。
ホームズじゃないけど、事件は現場から始まると思っています。
最近、2つの裁判が同時進行で始まっています。
宇佐美裁判と後藤裁判。
共通するワードは「宮村」「フラワーホーム」「拉致監禁」です。
兄じゃない、宮村だ
<私は,…(中略)…兄を呼んで座らせ,偽装脱会をしていた旨を伝えました。…(中略)…長い間心の中に無理やり押し込んできた鬱屈した思いを一気にぶちまけました>
後藤さんは拉致監禁を実行したお兄さんに対して、さらに監禁が延長される危険性を冒してまで、思いのたけをぶつけています。
私はこれまで、元信者のお兄さんが最も悪いのでは、と考えていましたが、よくよく考えて、そうじゃないのでは、と思うようになりました。
後藤さんは、それでも分かってもらえるはずだ、とばかりに、思いをぶつけています。やはり、それは血のつながった家族だからではないかと思います。
お兄さんたちは、12年にも及ぶ監禁を続ける中で、何度も、辞めようと考えたに違いありません。
たとえ、それが治療のためだとしても、ベットで家族が苦しんでいるのを見たら、退院させてやりたいと思うのが、家族の情だからです。
お兄さんたちは何度も、監禁をやめよう、と言い出したのではないでしょうか。それを宮村たちが、ダメだ、と認めなかったのではないでしょうか。そう思えてなりません。
米本さんもコメントに書かれているように、キーマンは「宮村」ということではないかと思います。
裁判中ではありますが、お兄さんが家族の情に立ち返って、兄弟の情関係を取り戻す方策を考えてくださることを祈ってやみません。裁判で真実を話すことが、その一歩ではないかと思います。
後藤さんは拉致監禁を実行したお兄さんに対して、さらに監禁が延長される危険性を冒してまで、思いのたけをぶつけています。
私はこれまで、元信者のお兄さんが最も悪いのでは、と考えていましたが、よくよく考えて、そうじゃないのでは、と思うようになりました。
後藤さんは、それでも分かってもらえるはずだ、とばかりに、思いをぶつけています。やはり、それは血のつながった家族だからではないかと思います。
お兄さんたちは、12年にも及ぶ監禁を続ける中で、何度も、辞めようと考えたに違いありません。
たとえ、それが治療のためだとしても、ベットで家族が苦しんでいるのを見たら、退院させてやりたいと思うのが、家族の情だからです。
お兄さんたちは何度も、監禁をやめよう、と言い出したのではないでしょうか。それを宮村たちが、ダメだ、と認めなかったのではないでしょうか。そう思えてなりません。
米本さんもコメントに書かれているように、キーマンは「宮村」ということではないかと思います。
裁判中ではありますが、お兄さんが家族の情に立ち返って、兄弟の情関係を取り戻す方策を考えてくださることを祈ってやみません。裁判で真実を話すことが、その一歩ではないかと思います。
まさに無間地獄
間取りをあらためてじっくりと見て、各部屋のふすま・アコーディオンカーテン・玄関ドアと普段なら何気ないものがどれほど大きな壁となって立ちはだかっていたか想像すると絶望の淵に追いやられる監禁経験者の方々の気持ちが・・・。
真実を
みんなさんの意見同様、私も後藤さんのお兄さんには真実を語って欲しいと思います。
拉致監禁してない、自らもされてない、後藤さんは自ら引きこもっていたと言い続けるなら、後藤さんのお兄さん自身の12年5ヶ月も無駄になってしまうのです。後藤さんへの救出の思い、愛情もなかったことにされてしまうのです。
何故、拉致監禁してまで、自らの12年5ヶ月を犠牲にしてまで、後藤さんを脱会させたかったか、自分の頭で考えて自分の言葉で話して欲しいと思います。
そうすれば、統一教会側も自らの問題点を見つめ直すと思います。
12年5ヶ月・・後藤さんも家族もみんな辛かったですよね。だけど、それを無駄にしないためにも、真実を明らかにして欲しいです。
拉致監禁してない、自らもされてない、後藤さんは自ら引きこもっていたと言い続けるなら、後藤さんのお兄さん自身の12年5ヶ月も無駄になってしまうのです。後藤さんへの救出の思い、愛情もなかったことにされてしまうのです。
何故、拉致監禁してまで、自らの12年5ヶ月を犠牲にしてまで、後藤さんを脱会させたかったか、自分の頭で考えて自分の言葉で話して欲しいと思います。
そうすれば、統一教会側も自らの問題点を見つめ直すと思います。
12年5ヶ月・・後藤さんも家族もみんな辛かったですよね。だけど、それを無駄にしないためにも、真実を明らかにして欲しいです。
よく生きて出てきたね。
ごとうさん
よく頑張って生きていてくれました。
お兄さんや兄嫁さん、妹さん、
曲がらない後藤さんに対して
相当悔しかったのでは。
愛情の上で行ったこととは
あり得ない。
よく頑張って生きていてくれました。
お兄さんや兄嫁さん、妹さん、
曲がらない後藤さんに対して
相当悔しかったのでは。
愛情の上で行ったこととは
あり得ない。
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