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宮村峻氏の最終準備書面②ー水茎会は財政が苦しかった??

ツッコミどころ満載の宮村峻氏の最終準備書面の第二弾です。

先回の記事中の目次でいうと
第2 被告宮村が拉致監禁及び棄教強要行為の統括並びに指揮・命令をしていないこと
の部分が今回の掲載文になります。

後藤氏も原告側から陳述書を出した伊藤芳朗弁護士も宮村氏は、自身の支持母体である水茎会から収入を得ていたという主張をしていました。

ですが、ご本人はむしろ水茎会は財政難で自分も水茎会に援助をしていたという主張をしているのです。

大人の常識からいってもあり得ないことですが、こう主張せざるを得ない事情があるわけですね。

苦しい言い訳です。
第2 被告宮村が拉致監禁及び棄教強要行為の統括並びに指揮・命令をしていないこと

1.被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>らが新潟で話し合いを始めることに一切関与していないこと

(1)はじめに
  被告■<後藤徹氏の兄>、被告■<後藤徹氏の兄嫁>及び被告■<後藤徹氏の妹>らは、1995年9月1 1日から、原告との話し合いを始めたが、これについて、被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らに対して、拉致監禁及び棄教強要行為の事前指導・統括及び指揮・命令をした事実は一切存在しない。
  このことは被告宮村(被告宮村峻供述調書(以下、「被告宮村調書」という。)25,26頁)及び被告■<後藤徹氏の兄>ら(被告後藤■<後藤徹氏の兄>の第15回口頭弁論期日における供述調書(以下、「被告■<後藤徹氏の兄>15回調書」という。) 10,39頁)の供述からも明らかである。
  以下、この点について詳述する。

(2)新潟で話し合いを始めるまでの被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>らとの関わり

  被告■<後藤徹氏の兄>が脱会してから1995年9月11日に被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と話し合いを始めるまでの経緯についてはおおよそ以下のとおりである。

ア 被告■<後藤徹氏の兄>は、1987年、被告■<後藤徹氏の兄>の両親は水茎会とは関係のない神戸在住の尾嶋牧師<ママ>の協力のもと、被告■<後藤徹氏の兄>と統一協会の信仰の是非について話し合いを行った(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書64頁)。この際、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>と1回、1時間ほど話し合いを行った(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書1頁)が、それは被告宮村がたまたま神戸に来ていたところ、両親からの依頼もあって被告■<後藤徹氏の兄>の承諾のもと、被告■<後藤徹氏の兄>と話し合っただけのことであり、話し合いの当たっての被告宮村の態度は穏やかで紳士的で、被告■<後藤徹氏の兄>を罵倒したりすることは一切なかった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書32,33頁、16回調書6頁)。
  そして、被告■<後藤徹氏の兄>は、この神戸での両親及び尾嶋牧師<ママ>との話し合いで統―協会を脱会した。なお、詳細については、第2.3で述べる。
ここで後藤徹氏の兄の脱会説得をしたのは、尾嶋牧師だと述べていますが、正しくは青谷福音ルーテル教会執事の<嶋ではなく>淳義氏。牧師ではないです。宮村氏の盟友、神戸真教会の高澤守牧師とコンビを組んで脱会説得活動をしていた人物です。


イ 被告■<後藤徹氏の兄>の脱会後、被告■<後藤徹氏の兄>は、被告宮村の勧めもあり、自己の考え方等を見直すため統一協会に詳しい荻窪栄光教会の森山諭牧師(以下、「森山牧師」という。)のもとに通うようになった。
森山牧師
<向かって右側が故森山諭牧師>
この頃、第2.2で後述するとおり、被告宮村は森山牧師の手伝いを行う程度の立場であったため、被告■<後藤徹氏の兄>が森山牧師のもとを訪れた際に、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>と挨拶や話をすることはあったが、それ以上に、直接相談に乗ったりすることはなかった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書33頁)。

ウ その後、被告■<後藤徹氏の兄>の父後藤■<後藤徹氏の父>(以下、「■<後藤徹氏の父>」という。)は原告とも話し合いを行おうと思い、1987年10月に、原告を京王プラザホテルに呼んで原告と話し合いを始めた(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁)。これは■<後藤徹氏の父>が主導的に京王プラザホテルを借りて話し合いを行うことを決め、原告に統一協会の信仰について話し合おうと持ち掛けて行ったものであった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁)。この話し合いを始めるに当たって被告宮村が両親や被告■<後藤徹氏の兄>に話し合いの方法を事前に指導したこともなければ、話し合いに指示をしたこともない。
 被告宮村は、当時、前述のとおり森山牧師の手伝いをしている立場であり、■<後藤徹氏の父>からの森山牧師宛の電話を代わりに取り、被告■<後藤徹氏の兄>とその両親が原告と話し合いを始めていることを知り、■<後藤徹氏の父>から原告と話をして欲しいとの要請を受け、原告の同意のもと、京王プラザホテルに赴いて話し合いを行った(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁、被告宮村調書21頁)。被告宮村は終始平穏な口調で、統一原理と聖書の矛盾、統一協会の草創期の話などを原告にしていた(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁)。
 なお、被告宮村と原告との京王プラザホテルでの話し合いの経緯については、第2.1(5)で詳述する。

エ その後、1989年3月頃に、■<後藤徹氏の父>は、被告■<後藤徹氏の妹>と話し合いを行うため、自ら段取りを組んで被告■<後藤徹氏の妹>との話し合いを始め、被告宮村に対して、被告■<後藤徹氏の妹>と話し合いを行っているので、被告■<後藤徹氏の妹>と話し合いをして欲しいと要請した。そこで、被告宮村は、被告■<後藤徹氏の妹>が被告宮村と話し合いを行うことを承諾していたため、被告■<後藤徹氏の妹>と話をした。この際も被告宮村は被告■<後藤徹氏の妹>と穏やかに話し合いを行った(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁)。


オ 被告宮村が被告■<後藤徹氏の妹>と話し合いを行った1989年以降は、被告■<後藤徹氏の兄>が時々水茎会に参加していたが、被告■<後藤徹氏の妹>及びその両親は水茎会に通っていなかった(被告宮村調書25頁)。
 その後、1993年頃には、被告■<後藤徹氏の兄>、被告■<後藤徹氏の兄嫁>、被告■<後藤徹氏の妹>や被告■<後藤徹氏の兄>らの母親が水茎会に通うようにはなっていたが、月に2,3回程度であり、被告■<後藤徹氏の兄>らの父親については年に数回来る程度であった(被告宮村調書25頁)。この間、被告■<後藤徹氏の兄>らが、被告宮村に対して、原告との話し合いについて相談したことはなく、被告宮村に対して、原告との話し合いを行う場合に、原告と話をして欲しいと要請したこともなかった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書39頁)。

カ そして、1995年初夏に、被告■<後藤徹氏の兄>らは、原告が東京で統一協会の活動に従事していたので、統一協会の妨害を受けずに話し合いをするには東京を離れた方が良いと考えたこと、被告■<後藤徹氏の兄嫁>が家族と話し合いを行った際、被告松永から話をしてもらったことから、被告宮村の協力ではなく、被告松永に協力をお願いして新潟で原告と話し合いを行うことにした(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書10頁)。この時、被告■<後藤徹氏の兄>ら家族が被告松永の存在を知り、被告松永に協力を求めたのは被告■<後藤徹氏の兄嫁>が話をしてもらったことがあったからであり、被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らに被告松永を紹介したからではない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書44頁)。

 その後、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>ら家族から松永牧師のもとで話し合いをするとの報告を受けた。その時の被告■<後藤徹氏の兄>ら家族の報告の内容は、「家族で相談して、新潟で話し合いをして、松永先生にも加わっていただく」という内容であり(被告宮村調書26頁)、すでに被告■<後藤徹氏の兄>ら家族で新潟で話し合いを行うこと及び被告宮村ではなく被告松永に話し合いに加わってもらうことを決めていたのである。
 被告■<後藤徹氏の兄>ら家族が被告松永に話し合いに参加してもらうことにしたのは、被告宮村が被告松永を紹介したからではなく、被告■<後藤徹氏の兄>ら家族が自ら被告松永に協力を求めたからであり、被告宮村が被告松永に対して原告との話し合いについて報告や助言をしたことはない(被告宮村調書26頁)。
 被告宮村と被告松永の関係については、第2.3で詳述する。

キ このように1995年9月11日から被告■<後藤徹氏の兄>ら家族が原告と話し合いを始めるに際して、被告宮村は一切関与していないのである。

(3)被告■<後藤徹氏の兄>が株式会社タップの従業員であったことと原告との話し合いが全く関係ないこと

ア 1995年9月11日当時、被告■<後藤徹氏の兄>は被告宮村の経営する株式会社タップの従業員であった。しかし、被告■<後藤徹氏の兄>が株式会社タップの従業員であることと水茎会の活動または被告宮村の統一協会信者との話し合いは全く関係のないことである。

イ 被告■<後藤徹氏の兄>が株式会社タップに就職したのは、当時、被告■<後藤徹氏の兄>が仕事を探していたこと、被告■<後藤徹氏の兄>は大学で建築を専攻しており、株式会社タップの主な取引先が住宅関係、建築関係であり興味があったこと、広告代理店というクリエイティブな仕事に興味があったことが理由であり(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁)、水茎会の活動に従事することや被告宮村に早期に話し合いをしてもらうこととは何ら関係がない。

ウ そして、被告宮村は、広告代理店業を営む株式会社タップと水茎会の活動を明確に分離していた。
 株式会社タップの従業員の中には統一協会とは全く関わりのない者もいるし、当然、同社の顧客と統一協会とは何の関わりがないので、被告宮村は、被告■<後藤徹氏の兄>ら、元統一協会信者の従業員らに、株式会社タップの業務中に統一協会関係の話をしないよう厳命していた(被告宮村調書20頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書38頁)。
 しかも、被告■<後藤徹氏の兄>をはじめとする従業員は個別に営業活動を行っているので、業務中に被告宮村と話をする機会はほとんどなかった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書38頁)。
 そのため、被告宮村は、被告■<後藤徹氏の兄>らから、前述のとおり、1995年初夏頃に新潟で話し合いをするつもりであることの報告を受けてはいたが、同年9月11日に話し合いを始めることについては一切聞かされていなかった(被告宮村調書27頁)。また、被告宮村は、1995年9月に被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と話し合いを始めてからも被告■<後藤徹氏の兄>から原告との話し合いについては基本的に報告を受けていなかった(被告宮村27頁)。

エ このように、被告■<後藤徹氏の兄>ら家族が原告と新潟での話し合いを始め、また、話し合いを行っていた時期、被告■<後藤徹氏の兄>は株式会社タップの従業員ではあったが、同社の従業員であったとしても、同社での業務と話し合いは完全に分離されており、また、同社で統一協会に関連する話をする時間もない上、そのような話をすることは禁じられていたことから、被告■<後藤徹氏の兄>は原告との話し合いについて、被告宮村に報告したことはほとんどなかったのである。
 したがって、株式会社タップの従業員であることと原告との話し合いは全く無関係であり、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>ら家族と原告との話し合いには一切関わっていなかったのである。

(4)話し合いを始めるにあたって被告宮村が株式会社タップの従業員に指示をしていないこと

 原告は、1995年9月11日当時、被告■<後藤徹氏の兄>らの家の庭に、被告宮村の経営する株式会社タップの従業員がいたと主張しており、被告■<後藤徹氏の兄>もそのように記憶している旨供述している(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書28,29頁)。しかし、株式会社タップの従業員が1995年9月11日に被告■<後藤徹氏の兄>らの家の庭にいたとしても、被告宮村はそのことを全く知らなかった(被告宮村調書27頁)のであり、被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らと原告との話し合いに関与していたことにはならない。そもそも被告■<後藤徹氏の兄>自身も同従業員が同日に自宅に来ることを知らなかったのである(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書28頁)。
タップ社員
<後藤氏の拉致が決行された日に後藤氏の実家の庭に潜んでいたなぞのタップ従業員。宮村氏も後藤氏の兄もこの人物が当日、後藤氏の実家に来ていたことを知らなかったと主張している。>

 被告宮村は株式会社タップの経営者であるが、前述のとおり、株式会社タップの経営と統一協会信者との話し合い等の活動は完全に分離されている。また、株式会社タップの従業員だからといって、被告宮村が勤務時間外の活動についてまで指示を出しうる立場にないことは明らかであるし、実際に、被告宮村が株式会社タップの従業員に水茎会の活動を手伝うよう指示したことはない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書38頁)。したがって、被告宮村が1995年9月11 日に指示を出したということはあり得ない。

 なお、そもそも原告は、当時、被告■<後藤徹氏の兄>らの家の庭にいた人物が甲124号証写真16の人物であると主張が、この写真の人物は株式会社タップの従業員ではなく、被告宮村と全く面識のない人物である(被告宮村調書25頁)。

(5)京王プラザホテルでの話し合いの状況及び京王プラザホテルでの話し合いと新潟での話し合いが無関係であること

ア 原告は京王プラザホテルでの話し合いに被告宮村か関与していたことから、1995年9月の話し合いに関しても被告宮村が関与していたと主張するが、京王プラザでの話し合いと1995年9月の話し合いは全く関係ない。被告宮村が京王プラザでの話し合いに関与したことから1995年9月の話し合いに被告宮村が関与していたなどという推認はおよそ成り立たない。
 また、原告は、被告宮村が原告の脱会に執念を燃やしていたとも主張するが、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>らから要請され、かつ、原告が承諾していたから話し合いの場に赴いたにすぎず、被告宮村自らが原告の脱会に執念を燃やすなどということはおよそあり得ない。
  以下、詳述する。

イ 1987年10月の被告■<後藤徹氏の兄>及び両親と原告との間の京王プラザホテルでの話し合いは、前述のとおり、■<後藤徹氏の父>が計画し、原告を「統一協会のことで話をしよう」と言って同ホテルに呼び出して行ったものである。
 そして、原告も■<後藤徹氏の父>及び被告■<後藤徹氏の兄>の真剣な態度にほだされ、話し合いをすることを承諾していた(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書3頁)。
 被告宮村は、■<後藤徹氏の父>から森山牧師宛の電話に代わりに出て、原告と京王プラザホテルで話し合いをしているので、話をしに来て欲しいと依頼され、京王プラザホテルに赴いたに過ぎない(被告宮村調書21、89頁)。
 被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>らから原告との話し合いについて事前に相談を受けていなかったが、すでに話し合いを始めていると聞かされたため、やむを得ず、原告の承諾のもとで京王プラザホテルに赴き、原告と話し合いを行うことにしたのである。
 このような経緯で、被告宮村は原告と話し合いを始めたのであり、被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らに対して原告との話し合いについて何らかの指示をしたことはない。
 そもそも、第2.2で後述するとおり、当時、水茎会で統一協会信者との話し合いを主に担当していたのは森山牧師であり、被告宮村は森山牧師の手伝いをしており、森山牧師の指示にしたがって、統一協会信者と話をしに行ったにすぎない(被告宮村調書21頁)。

ウ また、原告は、訴状においては、京王プラザホテルで被告宮村から非難・中傷・罵倒を浴びせられたと主張するが、法廷では、被告■<後藤徹氏の兄>ら代理人から「偽装脱会をしていたかどうかは別にして、準備書面(2)には、この京王プラザホテルの話合い自体は平穏になされていたということが書いてあるんですけど、それは間違いないですか。」と問われ、「はい、間違いないです。」と供述しており、被告宮村が原告を非難・中傷・罵倒していないことは明らかである。
 この点については、被告■<後藤徹氏の兄>も、被告宮村は、京王プラザホテルで、平穏に統一原理と聖書の矛盾や統一協会の草創期の話をしていたに過ぎず、原告を罵倒したり、統一協会を中傷したりしていなかったと供述している(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁)。

エ 荻窪に移った以降の経緯
 被告■<後藤徹氏の兄>らと原告は、話し合いを始めて1週間ほどで、一緒に、何事もなく京王プラザホテルを出て、荻窪のいわゆる犬猫マンションに移った(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書4,5頁)。京王プラザホテルから荻窪の犬猫マンションに移った原告は、自ら納得して、そこから20分弱歩いて荻窪栄光教会に通って、森山牧師の説教を聞いたり、礼拝に参加したりしていた(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書5頁)。
 犬猫マンションから荻窪栄光教会まで通う際には、両親が原告とともに歩きつつ監視している状況だったので逃走できなかったというのが原告の弁明である(原告調書71頁)が、全く信用できない。

 原告準備書面(4)の9頁の主張の破綻は原告本人が認めるところであるが、これは乙ハ第36号証のMF(以下、「MF」という。)の陳述書2、3頁から、より明白となった。すなわち、MFは、昭和62年11月当時、原告と同様にマンションに住んで栄光教会に通っていた元信者であったが、当時、すぐ近くのマンションに住んでいた原告が一人で歩いていたので、一緒にマンションに戻り、そこで原告に「お茶を出していただき、しばらく一緒に過ごしていた」と明言している(乙ハ36,3頁2行目)。このMFのことは原告自身も覚えていて、原告は、主尋問で「監禁下で糾弾されているMFさんを見て、何とか助けたい」と思った(原告調書7、8頁)などと供述している。また、被告■<後藤徹氏の兄>もMFの陳述が間違いない旨述べている(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書5頁)。

 原告は、MFは監禁されていたと強弁しているが、自ら統一協会に戻った後、そのことを警察に通報さえしなかったと言う(原告調書142頁)一方、MF自身の陳述では自ら納得の上で家族と話し合ったことを具体的かつ詳細に述べている。どちらが信用に値するか明白である。

オ 以上のとおり、被告宮村が京王プラザホテルで原告と話をしたのは、既に京王プラザホテルで原告と話し合いをしていた■<後藤徹氏の父>から森山牧師宛に要請があり、森山牧師から話し合いに行くように指示を受けたからであること、被告宮村が原告と平穏に話し合いをしただけであること、京王プラザホテルから出た後、原告が自らの意思で荻窪栄光教会に通っていたことからすると、原告が荻窪栄光教会に通わなくなってからも、被告宮村原告の脱会に執念を燃やし続けていたなどということがあり得ず、京王プラザホテルでの話し合いに関与したからと言って、1995年9月からの話し合いに関与したとは言えないことは明らかである。

(6)被告■<後藤徹氏の兄>らが水茎会で被告宮村から拉致監禁方法の事前指導を受けていないこと

ア 原告は、「親は何を知るべきか」の書籍を引用して被告宮村が事前カウンセリングの必要性を強調していることをもって、被告宮村が統一協会信者の家族に対して拉致監禁の事前指導をしているかのように主張するが、これも完全に誤りである。被告宮村は、家族が統一協会に入信することによって家族の中に強い軋轢ができるが、それを解決するためには、統一協会を頭ごなしに批判したりするのではなく、家族がどのような経緯で統一協会に入信させられたのか、統一協会において、どのような教えを受け、どのような思考をするようにさせられるのかについて知る必要があり(被告宮村調書16,17頁)、事前にそのことについて学ぶように指導しているのであって、同書にあるとおり、拉致監禁方法を指導したなどとは一言も書いていないし、そのように指導した事実も全くない。

イ この点について、証人OBは、家族は統一協会のことを知らないがために過度の恐怖心、不安感を抱き、かつ、家族が統一協会に入信したことによって豹変してしまったことへの驚愕から、つい強引に統一協会信者に脱会を迫ってしまうことがあることから、統一協会信者が何を考えているのか、どうして統一協会に入信することになったのか、家族側に本人との関係を気づけなかった原因がなかったかなどを考え、家族との関係を再構築するための心構えを理解する必要があり、事前のカウンセリングによって、これができるようになると述べているのである(O調書24-26頁)。

ウ 原告は同書を自己の都合の良いように解釈して主張しているだけであって、原告の主張には甚だしい論理の飛躍がある。

(7)原告の供述の信用性(原告の供述は信用できないものであること)

ア 1995年9月11日に、被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と話し合いを始めるにあたって被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らの拉致監禁及び棄教強要行為を統括し、同人らを指揮・命令したとする原告の主張については、これを直接認めるに足る証拠は一切存在せず、あくまでも原告そして統一協会信者らの推測にすぎない。
 以下、原告の供述の変遷や誤りを明らかにして、この点に関する原告の供述が信用できないものであることについて詳述する。

イ まず、1987年10月に京王プラザホテルで話し合いを始めたいきさつについての原告の主張は全く信用できない。
 この点について、原告は主尋問では「父から■<後藤徹氏の兄>が会いたがっているということで連絡がありました」(3頁)ので、京王プラザホテルに行ったと述べ、甲第9号証の3、4頁でも同旨の陳述をしている。
 ところが、訴状4頁では「■<後藤徹氏の兄>から『教会のことで話をしたい』と言われて新宿に呼び出された」と主張している。また、原告自身が作成したものと認めた(原告調書58頁)乙イ第31号証の米本和広のブログに掲載された原告陳述書でも全く同旨の陳述をしている。
 しかし、真実は、父親が「統一教会のことで話をしようと言って」ホテルに呼び出したのである(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書3頁)。
 ことほど左様に、一番初めの話し合いのいきさつから原告の記憶が曖昧であることが明確になった。
また、ホテルの部屋で誰が待っていたのかについても原告の記憶は極めて曖昧であった(原告調書65頁)。

ウ 原告は甲第9号証3頁や調書2頁で、何ら根拠もないまま、ありもしない水茎会の順番待ちの名簿があるかの如き主張をし、甲第9号証3頁では「聞くところによると、順番待ちの父兄の最後尾は数百番台になるとのことでした」などと統一協会の組織内で聞いたことを陳述している。
 しかし、実際に存在するのは甲第126号証の1ないし9の如き相談者の受付票にすぎないのである。相談を受け付けた者のうちのわずかしか相談後も水茎会に来ず、水茎会に継続的に通う者はさらに少ないのが実態である(被告宮村調書9頁)。したがって、受付票の番号は、水茎会で相談を受けた順番以外の意味は全くないのである。
 それにもかかわらず、原告は、その受付番号が甲第126号証の9は「771」となっているので数百人が水茎会において被告宮村の説得を待っていると誤って主張し、その旨陳述しているのである。
 前述のとおり、水茎会の順番待ちの名簿なるものは実在せず、原告や統一協会の全くの作り話である。

 このような原告ら統一協会側の誤解もしくは事実の歪曲は、MK調書(以下、「MK調書」という。)55頁でより明白になる。
 MKも、甲第126号証の1ないし9の右上の番号を受付順番であり、被告宮村による「拉致監禁・強制改宗」の順番待ちの番号だと決めつけている。
 この原告ら主張の誤りは、被告宮村調書8から10頁で被告宮村が明確に述べているとおりである。

エ 次に、この京王プラザホテルから荻窪の犬猫マンションに移った原告は、そこから荻窪栄光教会に20分ほどかけて歩いて通うようになった。この頃、原告は、水茎会の集会に参加させられ、被告宮村が統一協会信者の親を指導しているのを目撃したと虚偽の主張をしている。乙イ第31号証の②P3では、原告は、「宮村が父兄らを指導している場面を目撃したこともあります」と書いている。

 ところが、訴状5頁4、5行目では、「被告宮村が被告後藤■<後藤徹氏の兄>らを指導している場面を目撃している」と全く別の「目撃」状況を主張している。
 そして、甲第9号証5頁8行目では、「宮村が父母らを拉致監禁による脱会指導している場面を目撃したこともあります」と陳述するに至った。実際にありもしない場面を、真実水茎会の会合に出た事実もないのにあったかの如く主張するから、このような変遷が出るのである。

 ちなみに公判では(原告調書8頁)、被告宮村が「保護するためには絶対に統一教会に連絡させては駄目だと」、「泣こうが喚こうが、私か良いと言うまでは外出させてはいけないと、そのようなことを言っておりました。」などと、さらにありもしない目撃談を統一協会の主張に即してするのである。
 このような指導をしていなかったことを被告宮村は明確に述べている(被告宮村調書92頁)し、被告■<後藤徹氏の兄>も同様に供述している(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書35頁)。
 なお、荻窪栄光教会に原告は犬猫マンションから一人で歩いて通っていたこともあることはMF陳述(乙ハ第36号証3頁)からも明白であり、当時の原告が全く監禁と言える状況になかったことは前述のとおりである。原告は反対尋問で「私はあのときは宮村の話を聞いて、あるいは森山牧師の話を聞いて、もうどっちか分からなくなりました。どっちが本物か分からない。」と述べた(原告調書120頁)。原告はそのような状況で自ら荻窪のマンションと荻窪栄光教会を往き来していたのであって、原告主張の如き「一ヶ月監禁された」という状況ではなかったのである(同旨原告調書151、152頁)。

オ 原告は、甲第9号証6頁で、「今度は妹が両親、及び兄等によって拉致され、脱会してしまいました。」と述べ、末行では、被告■<後藤徹氏の兄嫁>「兄嫁も、親族によって拉致監禁され、宮村‥・らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した」と述べている。
 ところが、実際に両被告の脱会に至る経過は聞いたわけではないと認めざるを得なかった(原告調書106、107頁)。

カ 原告は、甲第9号証18頁以下では、「宮村、家族、元信者等、合計7~12、3人が私が・・・いた一番奥の部屋に集まり・・・あらゆる非難、中傷、罵倒を私に浴びせかけました」と主張し、さらに「私を愚弄し」「私を侮辱し続けました」などと述べている。
 ところが、実際は73回、午後6時から8時の間に第3.2で後述するとおり、原告自身納得の上で話し合ったことを認めている。原告白身も「硬軟織り交ぜといいますか・・・確かに私は会話はあったと思いますね。あれが誹誇中傷かと言われればそうではないように一見思います」(原告調書93頁)と認めているのである。

 そして、被告宮村の陳述書乙ハ第2号証27-35頁に記載された原告との会話内容についての陳述について、「あれは録音したとしか思えません。あれだけの昔の話をあんな詳細に出すということは」と述べて、「宮村が蒟蒻問答なんて言ってますけど、ああいうふうにならざるを得ない」とも述べている(原告調書135頁)。
 原告は被告宮村と話し合うことについて、事前に承諾し、床に座って机を挟んで話し合いをしたことを認めてもいる(原告調書144頁)。

キ このように原告の主張、陳述、供述は重要な事項について重大な変遷をしているし、反対尋問で虚偽を認めざるを得なくなっている。
 他の客観性の高い証拠と明らかに矛盾していることも多い。
 かかる事実に鑑みて、原告の本件訴訟における主張、供述全体が信用性の乏しいものであることは明白である。

(8)小括
 以上述べてきたとおり、1995年9月11日 に、被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と新潟で話し合いを始めたのは、被告■<後藤徹氏の兄>ら家族が自ら判断して決めたことであって、被告宮村はそれに一切関与していない。被告■<後藤徹氏の兄>が被告宮村の経営する株式会社タップの従業員であったことは、被告■<後藤徹氏の兄>らの話し合いへの被告宮村の関与を意味するものではないし、話し合いを始める際に被告■<後藤徹氏の兄>らの自宅に株式会社タップの従業員がいたことについても、被告宮村は全く関与していない。当然、被告宮村が水茎会の場において、被告■<後藤徹氏の兄>らに拉致監禁方法を事前指導したこともない。さらに、被告宮村が1987年10月に原告と京王プラザホテルで話し合いを行ったことと新潟での話し合いは約8年間も離れた話であり、しかも、京王プラザホテルでの話し合いは、■<後藤徹氏の父>の要請を受け、森山牧師の指示で原告との話し合いに赴いたに過ぎないものであって、新潟での話し合いを始めるに当たって被告宮村が関与したことの根拠となり得ないことは明らかである。また、被告宮村は被告■<後藤徹氏の妹>との話し合いについても、被告■<後藤徹氏の兄>やその両親から要請を受けて話し合いの場に赴いていたにすぎないのであり、原告との京王プラザホテルでの話し合いの後も自ら原告に対する拉致監禁・脱会強要の機会を窺っていたなどということはおよそあり得ない。

 以上から、被告宮村が、1995年9月11日に被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と話し合いを始めるにあたって、拉致監禁を統括し、指揮・命令していないことは明らかである。

2.水茎会の運営と活動の実情(水茎会が拉致監禁を指導する組織ではないこと)

(1)はじめに
 原告は、被告■<後藤徹氏の兄>らが水茎会に通っていたことから、被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>らの間で原告に対する拉致監禁及び棄教強要行為の共謀があったかのように主張する。しかし、原告の主張する共謀など一切ない。原告のこのような主張は何ら客観的な証拠に基づかない憶測にすぎない。
 原告の主張は、水茎会において、被告宮村による統一協会信者家族に対する拉致監禁の指導がなされていることを前提とするが、後述のとおり、この前提事実も原告の証拠に基づかない憶測に過ぎず、完全に誤りである。

(2)水茎会は被告宮村が主催する団体ではないこと

ア 森山牧師のもとで設立されたこと
 水茎会は、当初、1985年頃に、荻窪栄光教会の森山牧師のもとに相談に来ていた統一協会信者の家族によって自主的に結成された団体である(被告宮村調書3頁)。この水茎会の結成はあくまでも家族によって自主的になされたのであり、当時、荻窪栄光教会の森山牧師もとに聖書の勉強のために通っていたにすぎない被告宮村が水茎会を自ら結成することはないし、結成に関与したこともない(被告宮村調書3頁)。

イ 被告宮村と水茎会が荻窪栄光教会と分かれて新たに設立されたこと
 1988年7月頃、荻窪栄光教会の森山牧師が脳出血で倒れ、水茎会の活動に関与することができなくなった。そして、被告宮村も同年10月頃から水茎会に関与することがほとんどなくなった。被告宮村は、信仰観や聖書観について荻窪栄光教会の役員との間で意見の対立があり、荻窪栄光教会にも通わなくなった(被告宮村調書5,6頁)。

 その後、荻窪栄光教会のもとで設立された水茎会に通っていた家族の何名かが自主的に荻窪栄光教会から離れて新たに水茎会を結成した。そして、これらの家族が聖書や統一協会に詳しい被告宮村の協力を求めた。当初は、被告宮村はこの要請を断っていたが、新たに結成された水茎会に参加している家族から強く協力を要請されたことから、水茎会に顔を出して、家族から求められれば、統一協会に関する情報を提供したり、統一協会信者と話し合いを行うようになった(被告宮村調書6,7頁)。

(3)水茎会の活動の実態

ア 前述のとおり、荻窪栄光教会から離れた後に新たに結成された水茎会は、被告宮村が自ら結成した団体ではなく、統一協会信者の家族が自主的に結成した団体である(被告宮村調書6頁)。

イ 水茎会には、明確に会員となるための要件等は存在せず、そもそも誰が会員であるかという明確な定めはない。水茎会に相談に訪れ、その後、同会の勉強会に参加するようになった者が構成員となっているにすぎない。被告宮村が水茎会への入会に当たって面接をしたり、許可するか否かの判断をすることは一切ない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書34頁、16回調書21頁)。
 時期にもよるが、水茎会に参加していた家族はおおよそ40から50家族で、人数にして約100人であった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書34頁)。

ウ 水茎会の会合では、主に、参加者がグループに分かれて、それぞれのご家族の情報交換をしたり、また、元信者やその家族の体験談を聞いたり、聖書の話を聞いたりするという活動が行われていた(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書34頁、被告■<後藤徹氏の妹>調書26頁)。原告は水茎会で拉致監禁の指導がなされていると主張するが、そのような事実は全く存在しない。

エ 水茎会の運営は家族が自主的に行っており、水茎会においては、いつ、どのような会合を開くか、会費としていくら集めるかといったことについては家族が自主的に決めていた(被告宮村10頁)。このような水茎会の運営に被告宮村は関わっていない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書34頁)。
 また、水茎会の経理は水茎会に通っていた家族が行っており、これについても被告宮村は関わっていない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書36頁)。

(4)水茎会における被告宮村の役割

ア 森山牧師健在の頃
 森山牧師が健在だった頃の水茎会では、被告宮村は、森山牧師の手伝いをしていたに過ぎず、その具体的な内容は、相談に来た家族の世話や、駐車場、車の手配、運転、名簿受付等であった(被告宮村調書4頁)。
 また、水茎会では、家族の相談を森山牧師が受け、信者との話し合いについても、基本的に森山牧師が行っていた。被告宮村は森山牧師の指示で、話し合いの場に同席したり、自ら話をしに行ったりしていた。被告宮村が1人で信者と話をしに行くことは少なかった(被告宮村調書4,5頁)。

イ 荻窪栄光教会から離れた以降の水茎会での役割
 1988年に、荻窪栄光教会から離れて水茎会が新たに結成されたが、それ以降の水茎会における被告宮村の立場は、いわばカウンセラーという立場で、統一協会の実情や統一協会信者と家族との話し合いについて、質問されれば答えていた。被告宮村は家族からの求めに応じて、統一協会の実態や教義、聖書の内容等について話をしていたにすぎないのである(被告宮村調書7頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書34頁)。

 被告宮村は、水茎会の会合で参加者みんなの前で講義を行うということはなく、統一協会の実情について報告するということがある程度であった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書35頁、被告■<後藤徹氏の妹>27頁)。
 したがって、水茎会において、被告宮村が自ら家族らに対して拉致監禁及び強制棄教の方法を指導することなどあり得ない(被告宮村調書8頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書35頁、被告■<後藤徹氏の妹>27頁)。

(5)信者との話し合いの設定は家族の判断によるものであること

ア そもそも水茎会は、統一協会信者の家族が情報交換をするために自主的に結成した団体であって、その主たる活動は、互いに悩みを相談し合い、また、統一協会に入信した家族との関係をどのように築いていくべきか相談し合うことである。 したがって、水茎会で被告宮村の話を聞くのは家族が求めた時に限られるのであり、被告宮村の主導で物事が決められることはない。
 そのため、被告宮村は、いつ、どこで、どのようにして統一協会信者と話し合いを持つべきかについては、家族が主体的に決めるべき事柄であるため、自ら家族に対して自分の考えを説明することはしていない(被告宮村調書8頁)。
 被告宮村は、家族から、いつから話し合いを始めるべきかについて相談を受けたことはあったが、その時も、話し合いを始めるにあたって家族で意見を統一してから話し合いを始めて欲しいという回答をしていた(被告宮村調書10頁)にすぎず、自らいつ話し合いを始めるよう家族に指示したことはない。
 このように被告宮村は、家族に対して統一協会信者との話し合いの設定の時期や場所を指示したことは一切ない。

イ SR作成のメモについて
 原告は、甲第146号証の1及び2の陳述書並びにメモの写真を証拠として提出し、水茎会において、拉致監禁の指導が行われていると主張する。
甲146-2写真5
<SR氏が作成したメモの一部>
 しかし、そもそも甲第146号証の2のメモを作成したSRは被告宮村と直接話をしたことはほとんどなく、拉致監禁の指導を受けたことはないと明言している(乙ハ第48号証)。また、「○○さんが大丈夫というまで・・・」という記載をもとに、被告宮村か許可をするまで統一協会信者をマンションから外に出さないよう指導を受けていたと主張するようであるが、この記載は水茎会で聞いたものではなく(乙ハ第48、49号証)、被告宮村が指導したものではないし、被告宮村の許可がない限り統一協会信者をマンションの外に出すことができないことを意味するものでは全くない。

 したがって、甲146号証の1及び2が、水茎会で拉致監禁の指導がなされていることを意味しないことは明らかである。

ウ 拉致監禁の指導がなされていたとする原告の供述が信用できないこと
 前述のとおり、原告は、1987年に京王プラザホテルで被告宮村と話し合いをした後、水茎会に通う中で、被告宮村が拉致監禁方法の講義をしていたと供述する。
 しかし、このような事実は前述のとおり一切なく、このような原告の供述はおよそ信用できないものである。すなわち、原告は京王プラザホテルでの自身の話し合いについて拉致監禁であったと供述しているところ、被告宮村が水茎会で拉致監禁の指導をしているところを目撃したのであれば、被告宮村が組織的にかつ反復継続して逮捕監禁罪に該当する重大な犯罪を行っていた事になるのであるから、水茎会に通うのを辞めて統一協会のホームに戻った後、直ちに警察に通報するなり、拉致監禁罪で刑事告訴するなり、何らかの対応をとるのが自然であるが、原告はこのような行為を一切とっていない(原告調書141, 142頁)。
 また、そもそも原告は、実際には、被告宮村から罵倒中傷を受けていなかったにもかかわらず、話し合いの聞、終始罵倒・中傷を受けていたと虚偽の事実を主張しているのであり、その供述は全く信用ができない。

エ 話し合いに同じホテルやマンションが使用されていること

(ア)京王プラザホテルや荻窪フラワーホームなど特定の場所が話し合いの場として複数回使用されているが、これは被告宮村が指示したからでは全くない。
 原告は、荻窪フラワーホームについて、部屋の構造が監視にてきしていたことから被告宮村が好んで使用していたマンションであると主張する。しかし、そのような事実はない。そもそも原告が荻窪フラワーホームで一番奥の部屋を使用することになったのは、被告■<後藤徹氏の兄>らが原告を監視するためではなく、被告自らが奥の部屋に行き、そのままその部屋を自らの部屋として使用するようになったからである(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書14頁)。

(イ)京王プラザホテルで話し合いをすることは、被告宮村が指示したものではない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書37頁、被告宮村21頁)。京王プラザホテルで話し合いをすることは、■<後藤徹氏の父>が決めたことであり、その理由は定かではないが水茎会で京王プラザホテルで話し合いを行った家族の話を聞いて決めたものと考えられる。

 当時、他の家族の話し合いの際にも京王プラザホテルを使用したことはあったが、水茎会で京王プラザホテルで話し合いをすることを決めていたわけでは全くなく(被告宮村調書22頁)、他のホテルを使用したこともあった。
 いずれにせよ被告宮村は話し合いの場所の選定には一切関与していない。

(ウ)また、荻窪フラワーホームについても、被告宮村の指示でこのマンションでの話し合いが行われたわけではない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書40頁、被告宮村調書30頁)。
 被告■<後藤徹氏の兄>らは荻窪フラワーホームの前に荻窪プレイスで居住していたが、大家の都合で急遽同マンションから転居せざるを得なくなり(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書14頁)、荻窪フラワーホームに転居したのである。被告■<後藤徹氏の兄>らは、急逡荻窪プレイスから退去しなければならない事態に直面し、水茎会で知り合った人から荻窪フラワーホームを借りたのだが、その点についても被告宮村は一切関与していない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書13頁)。
 被告宮村としては家族と統一協会信者の話し合いに使用するマンションを自ら決めていないので、なぜ荻窪フラワーホームが複数回使用されていたのかは分からないが、同マンションは空き室が多く、交通の便が良く、また、家賃が安いということで(被告宮村調書30頁)、水茎会に参加している家族の中で情報交換され、使用されていたとしても何ら不思議ではない。決して、荻窪フラワーホームを水茎会で管理していたことはなく、水茎会で被告■<後藤徹氏の兄>らのために用意したものでもない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書13頁)。家賃も後藤家で支払っていた(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書65頁)。
 したがって、荻窪フラワーホームで複数回話し合いが行われていたとしても、被告宮村が指示したことを意味するものでは全くない。

(エ)なお、原告は、甲第127号証の1及び甲第127号証の2を提出し、被告宮村が統一協会信者を監禁していた場所として、13箇所のマンション等を挙げるが、被告宮村がこのうち統一協会信者と話し合いをしたことのあるのは、コスモマンション、犬猫マンション、フラワーホームだけであり、ましてや監禁などしていないのであるから、全く信用のできない陳述書であることは明らかである。

(6)被告宮村が多額の金銭を受領していないこと

ア 原告は、被告宮村が統一協会信者の拉致監禁及び強制棄教行為の統括、指揮・命令を行っていると主張しているが、被告宮村がこのような行為を行うには相応の動機がないと不自然であることから、あえて被告宮村が統一協会信者の拉致監禁及び強制棄教行為を行って多額の金銭を受領している「職業的強制改宗屋」であると主張する。

イ しかし、被告宮村は水茎会から給料のような定期的な金員を受領していたことはない(被告宮村調書11頁)。水茎会の参加者と旅行に行く時に一部食費等のカンパを受けたことはあるが、それも一回5万円から10万円程度にすぎず、それ以外には水茎会から金員を受領したことはない(被告宮村調書11頁)。また、被告宮村は水茎会の経理には関わっておらず、会費額を決めたこともない(被告宮村調書10頁)。そもそも水茎会の会費は1家族5000円程度で、毎月20から30万円程度の収入しかなかった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書36頁)。そして、そのうちの大半は会合の会場費として支出していたのであり、被告宮村に交付されたことはなかったし、交付することができるような財政状態ではなかったのである(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書36頁)。
バリ島
<バリ島 サンセットの美しいタナ・ロット寺院 宮村氏は聞くところによると毎年のように元信者を引き連れてバリ島を訪れたという。美しい夕日を見ながら、宮村氏は元信者と共に英気を養ったのでしょうか?もちろんそのお金は水茎会からのカンパです。>
 原告は甲第12号証の手紙で、会費の納入を家族に募っていることから、被告宮村が水茎会から金員を受領していると主張するが、これは水茎会が被告宮村に水茎会に対する経済的な支出をしなくて済むようにカンパを募っているに過ぎず、被告宮村に金員を交付するためにカンパを募っているものではない(被告宮村調書12頁)。
水茎3
<水茎OB会が会費を募るために振込用紙と共に水茎OBらに送った手紙の一部。「被告宮村に水茎会に対する経済的な支出をしなくて済むようにカンパを募っている」ような文章には見えませんが・・・>
 また、被告宮村は、話し合いを行った家族から謝礼を受け取ったことはあるが、25年間の間で話し合いを行った80家族強のうちの3分の1の家族から多ければ20万から30万円、少ないときは5万円程度の謝礼を受領したに過ぎない。この80家族強のうち謝礼をくれたのが約3分の1で、交通費等の実費を数万円くれたのが約3分の1おり、残りの3分の1は実費等についても負担してくれていない(被告宮村調書13頁)。しかも、謝礼や実費等についても被告宮村から要求したことはない(被告宮村調書13頁)。
このような実態からすれば、被告宮村が統一協会信者との話し合いで多額の金員を受け取っていないことは明らかである。

ウ また、原告は、甲第126号証の受付票をもとに水茎会の会員が多数おり、この会費だけでも莫大な金員を手にしていると主張するようであるが、これも全く事実と異なる。
 この受付票は、水茎会に相談に来た際に、その相談を受け付けたものが機械的に作成するもので、同受付票の左上の数字は相談に来た人の順に機械的に付されている番号である(被告宮村調書8頁)。すなわち、前述のとおり、この番号は水茎会の会員番号ではなく、水茎会にこの番号に相当する人数の会員がいるわけでは全くない。このように相談に来た人のうち、水茎会に通うようになる人は100人のうち5、6人ないし8から10人くらいに過ぎない。したがって、会費で莫大な金銭を手にするどころか、水茎会は被告宮村もカンパしなければならないほどの財政状態だったのである。
bari_golf
<バリ島のゴルフ場。宮村氏ご一行は、バリに到着するとゴルフのグループと海のグループに分かれて観光を楽しんだといいます。宮村氏のゴルフの腕前はかなりのものだという情報もあるので、宮村氏はこのようなすばらしい景観の中でゴルフを楽しんだのではないかと思われます。それにしても水茎会の財政はお世話になっている先生にカンパをしてもらわないといけないほど困窮しているとは・・・・。っていうかそんなに困窮しているのに、旅行代のカンパなんてできるのでしょうか?>

エ なお、伊藤芳朗弁護士の陳述書にも被告宮村が多額の金銭を手にしていたと記載されているが、これは第2.2(7)で後述するとおり、全く事実と異なる。

オ 以上のとおり、被告宮村は水茎会から基本的に金銭を受け取っておらず、また、話し合いに赴いた先の家族から謝礼や交通費等の実費をもらったことはあるもののその金額はわずかであり、被告宮村に経済的利益を得る目的がなかったこと、そして、原告の主張するような「職業的強制改宗屋」ではないことは明らかである。

(7)伊藤芳朗弁護士の陳述書(甲第107及び122号証の1)について

ア 原告(というよりも統一協会と訴外米本和広)は、伊藤芳朗弁護士が訴外米本に語ったこと及びその内容が事実だとする甲第122号証の1を作成提出したことを利用し、この内容をチラシにして広く宣伝し、統一協会の機関誌で報道、宣伝し、統一協会にとって都合の悪い活動をしてきた弁護士連絡会の弁護士を誹謗中傷するとともに、被告宮村の名誉毀損を繰り返して、その活動を抑止する活動を展開してきた。

 そのような原告ないしは統一協会及び訴外米本の活動を見れば、本件訴訟は原告の人権侵害を許さない訴訟だとしつつも、その真の目的は統一協会の組織立て直しと統一協会の活動に反対している人々への攻撃にあることが明白となる。

 甲第107号証の訴外米本作成の伝聞の陳述書自体信用性に乏しいものであるし、本件と全く関係のない被告宮村への人格攻撃的な誹謗に満ちており、およそ信用できない。被告宮村が「何も知らないで、よくあんな嘘がつけるなと思っています」と供述したとおりである(被告宮村調書46頁)。
 しかし、念のため、以下、甲第107号証の記載内容についても本件訴訟に必要な限度でその信用性がないことについて述べる。

イ 甲第107号証6頁には、被告宮村が、信者を車で尾行して無理に車に連れ込んで、マンションの一室に連行して監禁し、信仰を失うまで外に出さないという方法を常習的にやっているかの如き記述がある一方で、「宮村氏は直接には関わらないようにしていました。」とも書かれている。
 伊藤芳朗弁護士は、具体的に、いつ誰に対して、どのようなことがあり、それに被告宮村がどのように関わったのかという事実を知り得る立場にないのであり、そのような被告宮村の活動の実情を知り得ない伊藤芳朗弁護士からのこのような聞き取りが法律上意味がないことは明白である。
 また、被告宮村が被告松永と「組になってやっていたはずです」との記載も、その記載からも分かるとおり、伊藤芳朗弁護士が被告宮村の活動の実態を知らずに発言したものであり、前同様全く意味がない。
 このように伊藤芳朗弁護士の供述に何ら信用性がなく、無意味であることは、甲第109号証9頁に「私が直接拉致監禁の現場を見たわけではない」と明記していることからも明らかである。

ウ 甲第107号証12、13頁には水茎会についての記述もある。
 しかし、これも全く事実に反するし、伊藤芳朗弁護士の誤った推測が書かれているだけである。

 第1に、父兄らは「最低でも3年、多くは5-6年この勉強会(水茎会)に通うことが要請されました。」という記述は全く事実に反する。
 各家族が水茎会にどの程度の期間通うかは、各家族がそれぞれの事情を踏まえて独自に判断することであって、このような一律の扱いなどありえないことである。

 第2に、水茎会の収入が毎月300万円あるという推測やその水茎会の収入が被告宮村の手取りになるかの如き記述も全く事実に反する。
 自ら直接関わってもいない統一協会信者の家族による任意の団体について、このような噂話の域を出ない推測を述べて証拠として提出することは、事実認定を左右するのが目的ではなく、このような文書の存在を宣伝することにあることを裏付けるものである。
 なお、水茎会の収入状況については前述のとおりせいぜい月20から30万円程度の収入があったにすぎず、また、甲第12号証のOB会の呼びかけ文書については、被告宮村調書11-13頁のとおりであって、財政的にも宮村の負担が重いものであって、伊藤芳朗弁護士及び訴外米本の指摘、統一協会や原告の主張は全く誤りである。

エ 甲第107号証17、18頁には被告宮村の原告への関わりについての推測が記載されているが、これも全く意味がない。
 伊藤芳朗弁護士は、被告宮村が原告のもとを訪れなくなって以降、「彼を解放しなかった」と根拠なく決めつけた上で、訴外米本から、宮村氏の指示に従ったのではないかと聞かれ、これまた推測で「そうだと思いますよ。」と述べたという。
 伊藤芳朗弁護士は、原告が被告らを逮捕・監禁罪で刑事告訴した際に、警察官の取調にも協力し、その担当警察官について「かなり熱心に取り組んでいるような刑事さんだった」と述べたという。伊藤芳朗弁護士は、そのような熱心な警察官の捜査を経て、被告らが不起訴となった事実の重みをかみしめるべきである。

オ このように甲第107号証と甲第122号証の1の陳述書等は全く意味のないものであることを改めて強調しておく。

(8)小括
 以上のとおり、水茎会は、原告の主張するような被告宮村が主催する団体ではなく、家族が自主的に結成した団体であり、その活動目的は、統一協会信者を拉致監禁して棄教を強要することではなく、家族が統一協会に入信してしまったことによる悩みを相談し合い、また、情報を交換し合う団体であって、その活動も、主に、家族が幾つかのグループに分かれて悩みを相談し合い、情報を交換することにある。そして、被告宮村は、水茎会において、拉致監禁を指導しているのではなく、水茎会に参加する家族に統一協会に関する情報を提供し、家族と信者の求めに応じて、統一協会の教えと聖書との間の矛盾等について信者と話をしているだけである。そして、信者と話し合いをいつ、どこで、どのように行うかの判断に被告宮村が関与することはなく、この点は、家族が自ら判断している。また、被告宮村は水茎会から給与や報酬を得ることはなく、話し合いをした家族から謝礼や実費をもらうことはあっても、その額は少額に過ぎない。
 これらの事実から、被告宮村が、「職業的強制改宗屋」では全くなく、水茎会において組織的に拉致監禁を指導していないこと、また、被告■<後藤徹氏の兄>らが水茎会に通っていたことから被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>らの間で原告に対する拉致監禁及び棄教強要行為の共謀、指導があったとする原告の主張が全く根拠のないものであることは明白である。

3.被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>の関わりについて

(1)被告■<後藤徹氏の兄>の脱会の経緯
 被告宮村は、1987年、被告■<後藤徹氏の兄>が神戸で両親及び尾嶋牧師と話し合いをしていた際、たまたま神戸に行く用事があり、両親から要請され、かつ、被告■<後藤徹氏の兄>から承諾を得て、被告■<後藤徹氏の兄>と話し合いを行った。この時の被告■<後藤徹氏の兄>と両親らとの話し合いの設定に被告宮村は関与していない(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書32頁)。
 この話し合いは、1回だけであり、時間も1時間くらいであった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書1頁)。この時の被告宮村の態度は紳士的で、その話の内容も統一原理の教えと聖書の内容の矛盾等であり、被告宮村が自ら丹念に調査した結果に基づいて話をしており、被告■<後藤徹氏の兄>は、被告宮村について信用できる人物だという印象を持った(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書32,33頁)。

 このような被告宮村との話し合いも含め、被告■<後藤徹氏の兄>は、両親及び尾嶋牧師との話し合いを通じて、統一協会で教えられていたことが虚偽であることを知り、脱会を決意したのである。被告■<後藤徹氏の兄>は、決して拉致監禁され、非難・中傷によって棄教を強要されたわけではない。ましてや被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>に対して拉致監禁はもちろん、棄教を強要したことも全くなかった。

(2)被告■<後藤徹氏の兄>の株式会社タップ入社の経緯及び同社での勤務状況

ア 被告■<後藤徹氏の兄>は、いままで統一協会の中で統一協会及び先輩信者の教えに従って生きてきたことから、統一協会の教えを虚偽と理解し、脱会した後も、どのように生きていけばいいのか判断がつかないことが多かった、被告■<後藤徹氏の兄>は、前述の被告宮村との話の中で、荻窪栄光教会の森山牧師が非常に統一協会に詳しく、この問題に対する造詣が深いと聞いていたことから、東京に出て来て、荻窪栄光教会に通い、森山牧師のもとで勉強をすることを自ら決意した。この頃、被告■<後藤徹氏の兄>と被告宮村は荻窪栄光教会で顔を合わせれば挨拶をしたり、言葉を交わしたりする程度の交流しかなかった。

イ その後、被告■<後藤徹氏の兄>は、無職で仕事を探していたところ、被告宮村から株式会社タップで営業社員を探していることを聞いた。株式会社タップは、広告代理店業を営んでおり、その主要な取引先は、住宅関係や建築関係の会社であった。被告■<後藤徹氏の兄>は、広告代理店業というクリエイティブな職業に興味を持っていたことに加え、大学時代に建築を専攻していたことから、建築関係の会社を主要な取引先とする株式会社タップで働きたいと考え、1988年2月に同社に就職した。

ウ その後、被告■<後藤徹氏の兄>は、株式会社タップにおいて、2001年1月末に同社を退職するまで、営業職として勤務した。この間、1998年1月から同年9月までの問は、被告宮村が原告と話し合いを行っていたが、それは概ね午後6時から8時までの株式会社タップでの勤務の後であり、株式会社タップの業務とは全く関係のないところでの行動である。
 被告■<後藤徹氏の兄>は、株式会社タップにおいて、営業職として勤務し、主に取引先に営業に回ることを担当業務としていた。そのため、被告■<後藤徹氏の兄>は一日の多くを社外で過ごしており、被告宮村と一緒にいる時間は非常に限られていた。また、被告宮村からは、前述のとおり、株式会社タップにおいては、統一協会に関連することについて話さないよう厳命されていた。
 そのため、株式会社タップに勤務していた時は、被告宮村と統一協会に関連する話をすることはほとんどなかった。

エ 被告■<後藤徹氏の兄>は、株式会社タップを退社した後、人材派遣会社で派遣社員として勤務しながら正社員として就職先を探していたが、なかなか就職先が見つからなかった。そのような折、株式会社タップの先輩社員から同社で欠員が出たからもう一度一緒に働かないかと誘われ、2004年8月に株式会社タップに再就職した(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書19頁)。このような経緯からも明らかなように、被告■<後藤徹氏の兄>の株式会社タップへの就職と原告との話し合いは全く関係がなく、2004年8月に被告■<後藤徹氏の兄>が株式会社タップに就職したことは、被告宮村がその後の被告■<後藤徹氏の兄>らと原告との話し合いに関与したことを意味するものでは決してない。

(3)被告■<後藤徹氏の兄>の水茎会へのかかわり

ア 被告■<後藤徹氏の兄>は、脱会後、水茎会に通うようになったが、水茎会の会合に常に参加していたわけではなく、1989年3月に■<後藤徹氏の妹>が脱会した後は、時々参加する程度であった(被告宮村調書25頁)。被告■<後藤徹氏の妹>は1989年に脱会した後、1991年に東京に出てくるまでの水茎会に通っておらず、1991年以降は月に1 、2回通うようになった(被告■<後藤徹氏の妹>調書26頁)。1993年頃には、被告■<後藤徹氏の兄>、被告■<後藤徹氏の妹>、被告■<後藤徹氏の兄嫁>及び母親は水茎会に通うようになっていたが、月に2,3回程度で、毎回必ず参加していたわけではない(被告宮村調書25頁)。そして、その後、被告■<後藤徹氏の兄>らは、1995年初夏頃まで水茎会に通っていた(被告■<後藤徹氏の妹>調書26頁)。なお、原告との話し合いの段取りを決めていた■<後藤徹氏の父>は、水茎会に年数回来る程度であった(被告宮村調書26頁)。

イ 被告■<後藤徹氏の兄>は、水茎会の会合に参加する以外にも、統一協会を脱会した元信者として、水茎会において、他の参加者又は被告宮村から、話し合いを行っている家族のことを聞くと、自身の経験談を話して統一協会の真実を知ってほしいとの思いから、自ら話し合いの場に赴いて、自身の経験談を話すことがあった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書36,37頁16回調書7頁)。このような被告■<後藤徹氏の兄>の行動は、被告宮村から指示されたからではなく、自主的に行ったにすぎない。自ら話し合いの場に行くのに、被告宮村の許可が必要となることもない(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書7頁)。また、話し合いに行った際、被告宮村に話し合いに行ったことを報告したりしたこともあるが、被告宮村の指示で話し合いに行っていたわけではなく、自らの意思で話をしに行っていたので、被告宮村に報告しなければいけない理由はなく、報告しなかったこともあった。

ウ しかし、被告■<後藤徹氏の兄>は、株式会社タップの業務が忙しくなったことから、1993年頃には話し合いの場に行かなくなった(被告■<後藤徹氏の兄>16回調書12頁)。

エ また、被告■<後藤徹氏の兄>らが、1995年9月11 日に、新潟で話し合いを始めてからは水茎会に通わなくなった(被告■<後藤徹氏の妹>調書26頁)。

(4)被告■<後藤徹氏の兄>の話し合いと株式会社タップの業務との関係

ア 被告■<後藤徹氏の兄>は、1988年2月に株式会社タップに就職したが、その理由は前述のとおりであって、水茎会の活動とも、被告■<後藤徹氏の妹>及び原告との話し合いとも一切関係がない。

イ また、1987年の京王プラザホテルでの原告との話し合い及び1993年の被告■<後藤徹氏の妹>との話し合いのいずれも■<後藤徹氏の父>が話し合いの段取りを組んで進めたことであって、被告■<後藤徹氏の兄>が進めたことではなかった。
このことからも明らかなように、被告■<後藤徹氏の兄>が株式会社タップに勤務していたことと被告■<後藤徹氏の妹>との話し合いは一切関係がない。被告■<後藤徹氏の兄>が株式会社タップに勤務していたことで被告■<後藤徹氏の妹>との話し合いの順番が早まったということも当然ない(被告■<後藤徹氏の兄>1頁)。
 むしろ、前述のとおり、被告■<後藤徹氏の兄>は、株式会社タップでの業務が忙しくなると、水茎会での活動に関わる機会が減っていったのである。

ウ 原告は、被告■<後藤徹氏の兄>が、脱会後、被告宮村の経営する株式会社タップの従業員となり、被告宮村が荻窪近辺の複数のマンションに統一協会信者を拉致監禁して行う脱会説得に長年にわたり協力してきたなどと主張するが、そのような事実はない。

 被告■<後藤徹氏の兄>は、自ら統一協会を脱会した信者として、信者と家族で話し合いを行っているときには、その信者の助けになると思い、自らの意思でその話し合いの場に赴いて自身の経験談等を話していたに過ぎず、被告宮村に協力していたものではない。
 そして、1995年9月11日に、被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と新潟で話し合いを始めるに当たって、被告■<後藤徹氏の兄>が同年の初夏頃に被告宮村に新潟で話し合いをする旨伝えたところ、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>に株式会社タップの業務に影響がないようにするよう指示していた(乙ハ2,25頁)。このことから明らかなように、被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>とは、株式会社タップにおいては、あくまでも経営者と従業員との関係であり、被告■<後藤徹氏の兄>が統一協会信者である原告と話し合いをするということがあっても、その点について、被告宮村は関与しておらず、特別扱いはしていないのである。

エ そして、1995年9月11日以降、被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>と同じ会社で勤務していたが、ほとんど原告のことについて報告を受けることなく、原告との話し合いについて要請を受けるまでは、原告との話し合いに一切関与していない。
 また、同様に、1998年10月以降、被告宮村は原告のもとに話し合いに行かなくなってからは、被告■<後藤徹氏の兄>との関係は、株式会社タップの経営者と従業員にすぎず、業務中に話をする時間がほとんどないこともあり、ほとんど被告■<後藤徹氏の兄>から原告との話し合いについて報告を受けることはなく、被告宮村から指示をしたり、助言をしたりすることもなかったのである。被告■<後藤徹氏の兄>が、2004年8月に、株式会社タップに再就職した後も、原告のことが話題に上がるのは数えるほどにすぎなかった(被告■<後藤徹氏の兄>15回調書19頁)。
オ 以上のとおり、被告■<後藤徹氏の兄>の話し合いと株式会社タップの従業員であったことは、全く関係のないことであって、株式会社タップの従業員であったから被告宮村の指示・命令を受けていたとすることはできない。

(5)小括
 以上のとおり、被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>の関係は、株式会社タップの経営者と従業員にすぎず、この関係は原告との話し合いとの関係では何ら意味を持たない。また、被告■<後藤徹氏の兄>は水茎会に通う4,50家族のうちの1人であり、毎週のように通う参加者ですらなかったのであるから、水茎会においても、被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>の間に特別な関係は形成されていない。
 このような被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>の関係からすれば、同人らの間に、原告との話し合いに関して、指揮命令関係や共謀関係がないことは明らかである。

4.原告との話し合いに関して被告松永と協力し合っていないこと

(1)被告宮村と被告松永の関係について
 そもそも被告宮村と被告松永は、後述の原理対策キリスト者全国連絡協議会(以下、「原対協」という。)等の集まりで年に1、2回会う程度の関係であり、それ以外に電話等で連絡を取り合うこともなかった(被告松永調書31頁)。したがって、互いに統一協会信者との話し合いの方法について指示や助言をすることはなく、被告宮村と被告松永が共同で統一協会信者との話し合いを行ったこともない(被告松永調書31、32頁)

 被告宮村は、被告松永が被告■<後藤徹氏の兄嫁>や小池宏明と話し合いをしていた際、被告■<後藤徹氏の兄嫁>と話をしているが、これはたまたま被告宮村が別の用事で新潟を訪れていたため、被告宮村しか知らない話などをしてもらうために被告■<後藤徹氏の兄嫁>及び小池宏明それぞれの承諾を得て、被告宮村が話し合いの場に行ったにすぎない(被告松永調書34、35頁)。決して被告宮村が当初から被告松永と協力して被告■<後藤徹氏の兄嫁>や小池宏明との話し合いを行っていたわけではない。被告宮村が被告松永に協力したことのあるケースは、このような隅隅話をしに行った程度のものしかなく、その数も24、5年の間に4、5件程度と全体のごくわずかに過ぎないのである(被告松永35頁)。
 また、小出浩久は被告宮村と話し合いを行った後に、新潟に移動し、被告松永と話し合いを行っているが、これは小出浩久の父親が東京での話し合いが困難であると判断して、自ら新潟で統一協会信者との話し合いを行っていた被告松永に連絡し、被告松永のもとに行ったものであって、この間に、被告宮村と被告松永の問で相談や引継ぎをしたことはない(被告松永調書34頁)。TAについても同様である。
 このように被告宮村と被告松永は互いの協力を得たことはあっても、話し合いを共同で行ったことはなく、互いの話し合いの状況を定期的に情報交換し、協力しあっていることもない(被告宮村42頁)。当然、共謀関係はない。

(2)被告■<後藤徹氏の兄>らと原告の話し合いに関して協力し合っていないこと

ア 被告宮村は、原告との話し合いに関して、被告松永と協力し合った事実はない。
 原告は、被告■<後藤徹氏の兄>らが新潟で話し合いを行い、被告松永に話し合いに参加してもらったことについて、被告宮村が1987年の第1回目の拉致監禁に関与しており、統一協会よりマークされているとの危惧を抱いていたことによる一時的措置に他ならないと主張するが、1987年10月の話し合いからすでに8年も経っていたにもかかわらず、わざわざ新潟に避難させるなどということは全く不自然である。実際の経緯は、前述のとおり、被告■<後藤徹氏の兄>ら(主に■<後藤徹氏の父>)が被告松永に話し合いに参加してもらえるよう依頼していたからにすぎない。

イ 被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らに被告松永を紹介したこともなければ、被告宮村が被告松永に原告との過去の話し合いの状況を報告したり、助言したりしたこともない。被告宮村は、原告と被告松永との話し合いの状況については、1996年頃、被告松永と電話で話した際に、原告の様子を尋ねた以外には、被告松永からも被告■<後藤徹氏の兄>らからも聞いていなかったのである(被告宮村調書38頁、被告■<後藤徹氏の兄>15回調書44頁)。

ウ また、1997年以降、被告宮村が東京で原告と話し合いを始めた際も、被告松永から原告との話し合いの状況について報告を受けたり、助言を受けたりしたことはない(被告宮村調書39頁)。
 被告宮村が原告と話し合いを行っている際に、被告松永に一度同席してもらったことはあるが、これは被告松永がたまたま教団の用事で上京していきた際に、原告と会ってみるか持ちかけたら被告松永のみならず原告も被告松永と会うことを了承したため、会うことになったもので(被告宮村39頁)、被告宮村が原告との話し合いについて継続的に被告松永と情報交換していたことを意味するものではない。

(3)原理対策キリスト者全国連絡協議会について
 原告は原理対策キリスト者全国連絡協議会(以下、「現対協」<ママ>という。)でのメモ(甲第98号証の1ないし3)について、原告は、被告宮村が統一協会信者の拉致監禁、脱会強要するための具体的方法を定型化し、マニュアルに基づいて拉致監禁、脱会強要活動が反復継続して行われており、同会で発表されたものであると主張する。

 しかし、そもそも原対協は、それぞれ独立して活動している牧師等の間で情報交換をするために開かれた集会であって、参加者の間で統一協会信者と話し合いをするに際して、話し合いの方法等について一定の方針を決定したことはない(被告宮村15頁、被告松永17頁)。

 もっとも、当時、原対協参加者以外で、統一協会信者との話し合いの方法について一部問題のある方法をとる者がいたことから、原対協では、「救出等にあたり、目的のみならず、手段に関しても潔癖で、ふさわしいものとする」(甲第96号証の2)よう共通の認識を原対協参加者の間で話し合いをしていたことはあった。
 したがって、甲第98号証の3のメモに記載された内容の発言をした者がいたと考えられる(被告宮村調書14-15頁)が、これは原対協に参加した複数の参加者の発言を被告松永がメモにとったものにすぎず(被告松永調書19頁)、このメモに記載されているような方法で統一協会信者と話し合うべきであるという話が出たことはなく、このような方法で統一協会信者と話し合うという方針を原対協で決定したことも全くない。
 しかも、原対協は、荻窪栄光教会の森山牧師が中心となって開いた会合であって、当時、被告宮村は森山牧師の手伝いとして雑務を行っていたに過ぎない。したがって、甲第98号証の3に記載された内容が被告宮村の意見を記載したものではないことは明らかであり、当然、その内容は被告宮村の意見とも全く具なる(被告宮村調書15頁)。
 したがって、甲第98号証の3のメモが被告宮村による拉致監禁マニュアルではないことは明白であり、同メモをもって被告宮村及び被告松永らが、統一協会信者を拉致監禁する方針をとっていたとする原告の主張は失当である。

5.結論
 以上のとおり、被告宮村は、1995年9月11日に被告■<後藤徹氏の兄>らが原告と話し合いを始めるのに一切関与していないし、水茎会は拉致監禁を指導する組織ではなく、水茎会で被告宮村が被告■<後藤徹氏の兄>らに拉致監禁、棄教強要を指示したこともない。また、被告宮村と被告■<後藤徹氏の兄>の開に、指揮命令関係も共謀関係もなく、被告宮村が被告松永と共謀して原告との話し合いに臨んだ事実もない。
 したがって、被告宮村が拉致監禁及び棄教強要行為の統括並びに指揮・命令していないことは明白である。


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2013-12-16(Mon)
 

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ズラかる 

あんらま~、宮村だけトンズラしようってわけ~!?!?
監禁の罪は全部、後藤兄らに押しつけて、おら知らね、って。
指示していない、要請していない、関与していない…。
ない、ない、ない、の完全ほおかぶりですねぇ~。

問題の争点は、監禁があったかなかったか。
あったかどうか、そんなことより、とにかく自分は関与していないので、全く知りませ~ん、ってか。
当初はコンサルタントだと偉そうに言っていたが、いよいよヤバくなってきたんで、知らぬ存ぜぬで、自分だけズラかろう、って。
えげつない魂胆みえみえ~。
後藤兄らはしょせん赤の他人。金づるにならなくなった今、どうなろうが、知ったこっちゃない!、ってか。
本当に卑怯なヤツだね、宮村は(もちろん山口も)。

<被告宮村は株式会社タップの経営者であるが、前述のとおり、株式会社タップの経営と統一協会信者との話し合い等の活動は完全に分離されている。また、株式会社タップの従業員だからといって、被告宮村が勤務時間外の活動についてまで指示を出しうる立場にないことは明らか>

後藤兄や0Bは、宮村自身が「話し合い」で社会から隔離して(無職にさせて)説得して脱会させたから、自分の会社で面倒みることにしたわけでしょ。
それに、社員となった後藤兄の妹も宮村が説得して脱会させた。
会社ぐるみ、家族ぐるみの関係ありありで、一体、どこが分離されているんだか。

今度は社員である後藤兄が、弟(徹さん)を話し合いに持って行こうとしている。
後藤兄は、自身と妹の脱会を感謝しており、当然、宮村に恩義を感じていたわけだから、「実は今度、弟と話し合いをしようと思っているんです」と話し合いについて報告したはずだ。宮村に黙って、話し合い→脱会という大それたことをできるわけがない。
少なからず、話し合いに入ると、会社に迷惑を掛ける可能性があるわけで、黙って事を進められるはずはない。
後々、宮村に話に来てもらう、ということが念頭にあるなら、なおさらだ。


「そうかそうか、ついに話し合いに。いつからやるんだ。どこでやるんだ…」
一から十まで、ぜ~んぶ知っての親方のくせして、よくもしゃーしゃーと、無関係だとシラを切れるもんだ。

それに、財政的に苦しかった、というわりには、宮村は複数の元女性信者(無職)と温泉やら飲み屋にしょっちゅう通っているそうじゃないか。
そのお金は一体、どこから出てきたんだ。

宮村さん、逃げ切れそうですか。

最後の悪あがき、とくと拝見させていただきま~す。
2013-12-18 08:49 | みんな | URL   [ 編集 ]

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拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

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