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後藤徹氏最終準備書面③-検察審査会は重大な事実が欠落したまま不起訴相当と認定した

いよいよ判決まで60日となりました。
引き続き、後藤徹氏の最終準備書面をご紹介します。

先回も、これでもかこれでもかというほど、被告側の矛盾をついてきましたが、今回もてんこもり反論しています。

検察審議会の不起訴相当の認定についても、重大な事実が欠落していたために誤った判断が下されたと主張しています。あの当時は、松永牧師の「拉致監禁指南ビデオ」も「監禁マニュアル」も発見される前でしたし・・・

また、後藤氏が監禁された日に、後藤氏の実家の庭に潜んでいた人物についても言及しています。
宮村氏も、後藤氏の家族もこの人物が庭に潜んでいた事実を「知らない」といってますが、監禁時に、人員を「動員」することはマニュアル化されていますし、被告側の証人OB氏もご自分が自宅から連れて行かれる際,夜8時を過ぎた時間に庭に見知らぬ人物数人が待機していた事実を証言しているんですよね。

今回もかなりの長文になっています。
なるべく読みやすいように、画像やリンクを張っておきましたが、書面の引用も半端な数ではなく、完全ではありません。

ご了承ください。m(__)m







第4 原告に対する第1回目の拉致監禁・脱会強要,及びその前後の経緯

1.被告■<後藤徹氏の兄>に対する拉致監禁

 被告■<後藤徹氏の兄>は1987年5月,当時他の統一教会信者等と共同生活をしていたホームから保谷市の実家に帰宅してその日のうちにホームに戻る予定であったところ,自宅付近にて父親を含む複数名によって強引に車に押し込められ,連行されたものである。このため被告■<後藤徹氏の兄>は,連行される途中,踏切で車が停車中に車の窓から車外に脱出したが,そこで父親等と乱闘になり,その激しさゆえに,被告■<後藤徹氏の兄>が腕にしていた腕時計が腕から外れて飛ぶほどであった。また余りの乱闘の激しさに目撃者が警察に通報し,現場に駆けつけた警察によって被告■<後藤徹氏の兄>及び父親等は警察に連行された。当初被告■<後藤徹氏の兄>等の事情聴取に当たった警察官等は,親といえども成人した子を意に反して連行することは許されないとの意向を示したが,たまたま親戚に統一教会信者がいる別の警官が,事態を大目に見たため,被告■<後藤徹氏の兄>は解放されず,父親等によって神戸に連行されたものである(甲9号証2頁30行~3頁7行,原告調書1頁10行~2頁3行)。

なお,車での連行中,被告■<後藤徹氏の兄>が窓からの脱出を図って乱闘となり八王子警察署に連れて行かれた事実,及び事情聴取の結果,取調をしたのとは別の警察官の配慮で事件化しなかった事実は,被告■<後藤徹氏の兄>も認めるところである(被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書2頁8行~22行,同反対尋問調書2頁20行~4頁12行)。以後,被告■<後藤徹氏の兄>が統一教会の信仰を失うまでの約1ヶ月間,同被告は統一教会の信者仲間には一切連絡をとっておらず,この間,散歩に行く際も1人では外出していない(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書5頁16行~22行)。被告■<後藤徹氏の兄>は神戸にてOAの脱会説得を受け,統一原理に対し疑問を持つに至ったものの脱会には至らず,3人の元信者を連れて東京から来た被告宮村の話を聞いて,遂に統一教会を脱会するに至っている(乙イ10号証2頁21行~4頁13行)。

 被告■<後藤徹氏の兄>は,統一教会ではアベルと言われる立場の上司に対し日々の行動を報告・連絡・相談することが義務づけられていたと言う一方で(乙イ6号証19頁5行~7行,乙イ10号証27頁13行~28頁8行,■<後藤徹氏の兄>ら準備書面(第3)11頁14行~19行),神戸に連行された際には,元々日帰りの予定で実家に帰ったにもかかわらず(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書1頁17行~20行),家族等によって東京から神戸まで無理矢理拉致され,途中逃走を図って警察沙汰にまでなるという異常事態に遭遇したにもかかわらず,アベルには一切連絡していない。このことから,被告■<後藤徹氏の兄>は完全に脱会したと認められるまで,外出して公衆電話のある場所に行くことすらできない状況におかれていたことが明らかであり,被告■<後藤徹氏の兄>は神戸にて両親等によって監禁下に置かれていたものである。


2.被告宮村の事前共謀

 被告宮村は,1987年1月,原告の両親が荻窪栄光教会を訪れて被告宮村及び森山牧師と会い,被告■<後藤徹氏の兄>,原告及び被告■<後藤徹氏の妹>の3人の子らが統一教会に入っていることを伝え,統一教会から取り戻したい旨相談したと述べる一方,この後,神戸に行くまで原告の両親とは会っていなかった旨述べる(乙ハ2号証22頁27行~23頁6行)。しかし,原告の両親が,当時国内で最も高い実績を誇った被告宮村及び森山牧師に相談していながら,森山及び被告宮村に何の相談もなく,神戸に被告■<後藤徹氏の兄>をいきなり連行し,当時殆ど名の知られていなかったOの脱会説得を受けさせるなどあり得ない。被告宮村及び森山牧師は,子弟の脱会説得を依頼してくる父兄に対しては,まず毎週日曜日に行われる荻窪栄光教会での礼拝及び水茎会の会合に参加させ順番が回ってくるまで勉強させていたのであって,父兄がこうした手順を踏まない限り,子弟の脱会説得には応じなかったものである。したがって,実際には原告の両親は荻窪栄光教会及び水茎会に通って被告宮村等の指導を受け,拉致監禁に向け準備していたことは間違いない。

原告も後日,順番待ちの父兄の名簿上では原告に対する脱会説得の順番はずっと後であったのに,被告■<後藤徹氏の兄>が被告宮村の脱会説得活動を余りに熱心に手助けしたため,原告を脱会説得する順番を早めてもらったということを後に被告■<後藤徹氏の兄>から聞かされており(甲9号証3頁23行~26行),原告の両親は1987年1月に水茎会に入会し,その際,被告■<後藤徹氏の兄>,原告及び被告■<後藤徹氏の妹>に対する脱会説得を依頼し,以後順番待ちをしつつ毎週荻窪栄光教会に通って拉致監禁のための準備をしていたものである。そうしたところ,同年5月,被告■<後藤徹氏の兄>が保谷市の実家に来ることになったため,この機に拉致監禁を決行すべく思い立ったものであるが,この時水茎会が確保していた全てのマンション・アパートの部屋が塞がっていたため,被告宮村から神戸のOAを紹介され,OAの脱会説得を受けさせるべく,被告■<後藤徹氏の兄>を神戸に連行したものである。しかし,OAでは被告■<後藤徹氏の兄>を脱会させるに至らなかったため,後日手の空いた被告宮村が自ら神戸に赴き,脱会説得を行って被告■<後藤徹氏の兄>を脱会させたものである。また,原告の両親が元々被告宮村及び森山牧師に依頼したものであったからこそ,その後被告■<後藤徹氏の兄>は荻窪栄光教会にて勉強し,更には原告や被告■<後藤徹氏の妹>に対する拉致監禁・脱会強要に向けて準備するようになったものである。
森山牧師
<向かって右の人物が拉致監禁の"先駆者"森山牧師 >


 なお,被告宮村は神戸には「別件」で行ったなどと述べる(乙ハ2号証23頁7行)。しかし,被告■<後藤徹氏の兄>の陳述書によれば,被告宮村は3人の元信者を連れて被告■<後藤徹氏の兄>のもとに来たというのであり(乙イ10号証4頁3行~4行),また反対尋問における被告■<後藤徹氏の兄>の供述によれば被告宮村は被告■<後藤徹氏の兄>の親から頼まれて来たというのであるから(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書6頁11行~14行),実際には別件ではなく被告■<後藤徹氏の兄>を脱会させる目的で神戸を訪れたことが明らかである。被告宮村は1998年3月に高澤守からの依頼で高澤が脱会説得に手を焼いていた富澤裕子の脱会説得のため,2人の元信者を連れて大阪に赴いた件についても「別件」を主張するなど(宮村準備書面(第3)7頁13行),脱会説得目的の来訪について「別件」を主張するのは被告宮村の常套手段である。

 また,被告■<後藤徹氏の兄>は乙イ10号証の陳述書では1987年初旬に神戸に行き,約2週間後に被告宮村が来たと述べ(乙イ10号証2頁14行~18行,同4頁1行~4行),被告宮村は1987年夏頃神戸に行ったと述べるが,被告■<後藤徹氏の兄>が青春裁判で提出した陳述書には,被告■<後藤徹氏の兄>が神戸で脱会説得を受けたのは同年5月初旬と記されており(乙イ6号証36頁7行目),原告の記憶とも一致する(甲9号証2頁27行~30行)。青春裁判の陳述書は当時から4年後の1991年に作成されており,より正確であると考えられるが,乙イ10号証の陳述書においても被告■<後藤徹氏の兄>は,脱会後約1ヶ月間大阪に居てから東京に戻り,荻窪にアパートを借り,同年6月か7月には荻窪栄光教会に毎日の様に通うようになったとの経緯を述べているのであるから(乙イ10号証4頁19行~5頁15行),これとの整合性からも,被告■<後藤徹氏の兄>が神戸に連れて行かれた時期は青春裁判の陳述書に記されている通り同年5月初旬であると言える。被告■<後藤徹氏の兄>は荻窪栄光教会に毎日のように通うと同時に水茎会にも参加し,相談に来る父兄の相談相手になったり,脱会説得を受けている信者の部屋を訪れ脱会説得を行っていたものである(乙イ10号証5頁22行~6頁2行)。そして,日常的に被告宮村とも交流を重ね,原告及び被告■<後藤徹氏の妹>に対する拉致監禁・脱会強要を計画し,被告宮村と謀議を重ねたものである。

 被告宮村は陳述書において,被告■<後藤徹氏の兄>が東京に戻って最初に両親と挨拶に来たのが1987年10月だったと思うなどと述べるが(乙ハ2号証23頁11行~12行),原告に対する第1回目の拉致監禁・脱会強要に対する謀議の事実を殊更に否定するため,被告■<後藤徹氏の兄>との東京での接点を極力短くすべく,被告■<後藤徹氏の兄>の上京時期を極端に遅らせて供述しているものである。


3.原告に対する第1回目の拉致監禁・脱会強要


(1)京王プラザホテルでの監禁
京王プラザ


 原告の父■は原告の母■,被告■<後藤徹氏の兄>及び被告宮村等と共謀して原告に対する拉致監禁・脱会強要を計画し,その意図を隠したまま原告を新宿駅に呼び出し,予め予約していた京王プラザホテル高層階のスイートルームに連れ込み,同室にて原告を監禁したものである。同室は2つの部屋が内部ドアで行き来できるタイプの部屋であったが,原告が留め置かれた奥の部屋の廊下に面したドアは何らかの細工によって中からは開かないように固定され,部屋の中のドアは,被告■<後藤徹氏の兄>らが監視していたため,原告は奥の部屋から出られない状態となった。同室には被告宮村が元統一教会信者を引き連れて脱会強要に訪れ,原告の信仰を批判するなどした。被告宮村が同室から退席した後,原告は監禁されたことに憤慨し,トレイに立て籠もって「出せ!」と叫んで騒ぎ立てた。しかし父及び被告■<後藤徹氏の兄>にトイレの鍵を開けられ,部屋に引っ張り出され,取っ組み合いになったが,多勢に無勢のため取り押さえられた。手前の部屋に待機していたと見られる被告宮村も奥の部屋に入ってきて,「騒ぐな」などと言って原告を制した(甲9号証3頁末行~4頁22行,同号証添付図1,原告調書3頁3行~5頁9行)。
京王プラザホテルの監禁部屋見取り図



 被告■<後藤徹氏の兄>は同室のドアは開閉可能であったとか,同室には電話機があったと述べる。しかしながら,右も左も分からない試行錯誤の時期に準備会に参加したと主張する被告松永においてすら(松永準備書面(5)3頁24行~26行),「保護」の際,ドアを施錠することを当然のこととして,電話のない部屋で脱会説得を行うべきことや,窓からの逃走を警戒すべきことを同時期に指導ビデオにて説いているのであるから(甲101号証の3,12頁末行~13頁12行),まして,経験豊富な被告宮村において,そうした指導に手抜かりがあったはずはない。

 既述の通り,『親は何を知るべきか』(甲24号証)によれば,証人OBに対する第1回目の「話し合い」の時,同証人がホテルの一室に連行され,同室にてドアに体当たりし,椅子を持ち上げて騒ぎ立てたが,その度に親戚に押さえ込まれ,「やめる。やめるから,出してくれ」と言い出したとのことであるが(178頁7行~8行,16行)。したがって,ホテルであっても部屋のドアを開閉不能にすることはできるのである。この時証人OBの家族が相談したのは浅見定雄であるが,同人も被告宮村同様原対協のメンバーであり(甲96号証の2),原対協では,ホテルのドアを開閉不能にする知識を持ち合わせていたものである。

 被告■<後藤徹氏の兄>らが原告の自由意思を全く無視していた事実は,京王プラザホテルの一室に入るまでの間,同室にて何日も宿泊しなければならないことや,同室に被告宮村が来て脱会説得を受けなければならないこと,その後荻窪のマンションに移って荻窪栄光教会に通わなければならないこと,更には会社に事前に長期休暇を申し出たこと(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書15頁末行~16頁17行)など事前には一切原告に伝えないまま原告を京王プラザホテルの一室に連れ込んだ事実からも明らかである。これは,こうした計画が原告の意思に反することや,こうした計画について原告の同意を求めても承諾しないことを被告■<後藤徹氏の兄>らにおいて十分認識していたからに他ならない。また,同室入室後においても,原告が隙あらば脱出するであろうことを被告■<後藤徹氏の兄>らは十分認識していたからこそ,原告一人を同室に残すことはしなかったし,同室滞在期間中原告を一切外には連れて出さなかったのである。したがって,当時被告■<後藤徹氏の兄>らがとった行動を見れば,京王プラザホテル等で被告■<後藤徹氏の兄>及び被告宮村らの脱会説得を受けることに原告が同意していなかった事実もまた明らかである。

 また被告■<後藤徹氏の兄>は,原告を京王プラザホテルから荻窪のマンションに連れて行く際,ホテルのフロントの前を通って外に待機していた車に乗せたと供述する(被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書4頁23行~末行)。しかしながら,被告■<後藤徹氏の兄>や被告宮村は,原告を荻窪栄光教会に通わせて更なる脱会説得を行わなければ十分でないと判断したからこそ,原告を荻窪に連行したものである。だとしたら,未だ原告が逃げる可能性を認識していたはずであるから,実際には地下駐車場に連行用の車両を待機させ,エレベーターで原告を連れて地下まで下り,待機させた車に原告を監禁して連行したものと考えられる。

(2)「犬猫マンション」における監禁
Inuneko


 原告は荻窪に連行され,被告■<後藤徹氏の兄>らが「犬猫マンション」と呼ぶ荻窪のマンション(甲127号証の2)の一室において監禁され,両親及び被告■<後藤徹氏の兄>らの監視下,同室より荻窪栄光教会に通わされたものである(甲9号証4頁29行~5頁1行,原告調書6頁15行~7頁18行,8頁17行~末行,70頁13行~71頁末行)。原告は玄関ドアや窓の施錠状況等,具体的な監禁状況については覚えていない。しかし,同マンションは原理研究会の伊勢谷俊昭が作成した「栄光教会アジト監禁場所」(甲127号証の2)にも掲載され,水茎会が管理し,「保護」即ち拉致監禁,脱会強要のために1980年代後半より繰り返し利用していたマンションであり(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書12頁7行~21行),原告の逃走後はまた別の信者の「保護」のために利用されたという(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書17頁25行~18頁1行)。したがって,同室の玄関ドア及び窓が厳重に施錠され,開閉不能となっていたことは明らかである。また,「犬猫マンション」は原告が1997年12月以降監禁された荻窪フラワーホームの道を挟んだ向かいに位置しているところ,被告■<後藤徹氏の兄>は荻窪フラワーホーム804号室について,杉並教会が近く荻窪駅を利用する統一教会信者が前の道を通るので,危険を感じて玄関ドアに南京錠をつけ,窓にクレセント錠をつけて開閉不能にしたと供述する(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書39頁2行~9行)。だとしたら,1987年当時も杉並教会は同じ場所にあり,「犬猫マンション」は荻窪フラワーホームと同じ通りに面していた以上,同様の施錠をして玄関ドア及び窓を開閉不能にしていなければならなかったはずである。

 同マンションから荻窪栄光教会に行く途中,環八のような大通りを横断して通ったのは事実であるが,原告としては下手に逃走して捕まれば,再度部屋からは一歩も外出できない状態に置かれ,被告宮村の脱会強要を受けなければならなくなることを熟知していたため,それよりも,やがて被告■<後藤徹氏の兄>らの警戒が緩み,確実に逃走できる機会が訪れるまで待ったものに他ならず,その最初の機会が,荻窪栄光教会における日曜礼拝のときに訪れたために,その機会を捉えて原告は逃走したものである(原告調書8頁17行~9頁5行)。原告は,この頃は少なくとも荻窪栄光教会への行き帰りの間,外気に触れることができたものであるが,下手に逃走に失敗すれば,再度一歩も外に出られない状態が続くのであるから,そのような危険な選択を軽々に取れなかっことは十分理解できるところである。

 なお,MFは陳述書にて,同人が原告と二人だけで歩いてマンションに帰ったこともあったなどと述べる(乙ハ36号証2頁末行~3頁2行)。しかしながら,仮にそのような機会があったとしたなら,原告としては何も荻窪栄光教会で四面楚歌の状態で礼拝が行われている機会に敢えて逃走せずとも,MFと別れた後に逃走したはずである。したがって,MFの陳述書の記載は作り話以外の何ものでもない。現に被告■<後藤徹氏の兄>自身,MFの同行の事実など記憶してはいない(被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書53頁9行~12行)。

 ところで,隙があれば逃げようとするのは原告に限ったことではない。既述の通り,被告■<後藤徹氏の兄>は連行途上に車の窓から脱出して家族等と乱闘になった旨供述し,また,被告■<後藤徹氏の妹>も陳述書において,マンションでは隙を見て逃げようと思っていたと述べる(乙イ7号証13頁5行~6行)。一方,被告■<後藤徹氏の兄>においては,自身が連行中に逃走を試みた経験からしても,原告が隙さえあれば逃走するであろうことを認識していたことは明らかであり,原告に対しては逃走の隙を与えなかったものである。ちなみに,騒ぎになって警察沙汰になったとしたなら,警察によって家族に引き渡される危険があることを,原告は監禁中に被告■<後藤徹氏の兄>から聞かされて知っており(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書4頁7行~12行),原告において殊更騒ぎを起こしてまで強行突破による逃走を図ることは決して得策ではなかったのである。

(3)荻窪栄光教会から脱出後
荻窪栄光教会


 原告は荻窪栄光教会から脱出後,被告■<後藤徹氏の兄>らによる再度の拉致監禁を恐れ,大成建設を辞し,信徒会における所属部署を変え,名前まで変えて活動した(甲9号証5頁19行~25行,乙イ7号証11頁10行~15行)。この後原告が被告■<後藤徹氏の兄>らと交流するに至るには約4年を要し,また,実家に帰るようになるには約7年を要しているが,これも京王プラザホテル及び荻窪のマンションにおける被告■<後藤徹氏の兄>及び被告宮村等の拉致監禁,脱会強要が熾烈を極め,原告としては再度の拉致監禁,脱会強要を警戒せざるを得なかったからに他ならない(甲9号証6頁23行~30行,乙イ7号証16頁7行~13行,同17頁2行~4行,被告■<後藤徹氏の兄>主尋問8頁16行~18行)。

 被告■<後藤徹氏の妹>は陳述書において,原告と池袋で会った際,原告が拉致監禁されたとか酷い目にあったとは聞かなかったと述べるが(乙イ7号証11頁15行~26行),実際には原告は拉致監禁された事実を話し,被告■<後藤徹氏の妹>も気を付けるよう注意している(原告調書10頁12行~16行)。被告■<後藤徹氏の妹>も,自宅にて両親及び被告■<後藤徹氏の兄>の来訪を受け,統一教会での活動について話合いを求められた際,「とうとう来たか」と思って動揺したと述べ,被告■<後藤徹氏の兄>や原告の身に起きたと同じような,統一教会で言う「拉致監禁」が自分の身にも起きたと思ったと供述し,荻窪のマンションでは隙を見て逃げることを考え(乙イ7号証12頁21行~13頁6行,被告■<後藤徹氏の妹>調書38頁6行~22行),被告宮村が部屋に来訪した際には押入れに入って面談を拒絶している(被告■<後藤徹氏の妹>調書4頁19行~5頁4行)。押入れにまで入るというのは異常なことであるが,これはとりもなおさず,原告から被告■<後藤徹氏の兄>及び被告宮村等による拉致監禁,脱会強要の実体験を聞き,被告宮村については恐ろしい人物と聞いていたからに他ならない(宮村準備書面(第3)11頁21行~末行)。また,被告■<後藤徹氏の妹>は荻窪のマンションにて監禁されていたことを否定するが,出入りが自由な部屋であれば,押入れに避難するまでもなく逃げ帰っていたはずであり,嘘である。

 なお,被告■<後藤徹氏の兄>らからは,「野の花会」会員証(乙イ36号証)なるものが証拠として提出されている。その発行年月日は,1987年(昭和62年)2月20日ということであるが,この時期は原告はまだ統一教会に伝道されて間もない大学卒業前の春休みの期間であり,原告には当時この会員証を作った記憶はなく,原告が野の花会の活動をした事実はない(原告調書121頁20行~122頁3行)。

4.第1回目の監禁に対する被告宮村の関与

 被告宮村は京王プラザホテルにて原告に脱会説得を行うに至った経緯について,被告■<後藤徹氏の兄>ら原告の家族が原告を京王プラザホテルに連れて来た後に原告の父が荻窪栄光教会の森山牧師宛に電話を入れ,森山牧師が留守であったために電話をとった被告宮村が,森山牧師の指示で脱会説得の依頼を受けたが,それ以前には京王プラザホテルで話合うことについて連絡を受けていなかったとの迂遠な経緯を供述する一方(被告宮村調書20頁24行~21頁5行),原告を保護するのに事前に■<後藤徹氏の兄>らからは一切相談はなく,保護してから急に連絡してきたなどと供述する(被告宮村調書89頁6行~24行)。しかし,被告■<後藤徹氏の兄>は陳述書において京王プラザホテルでの脱会説得に関し,「宮村さんや元信者の人達には,事前に水茎会で会った時に,徹と話し合いを行うことは言ってあり,本人が話を聞きたいと言ったら話をして貰えるよう,父から予めお願いしてありました」と述べている(乙イ10号証7頁11行~13)。

また,被告宮村自身も被告■<後藤徹氏の兄>ら代理人からの尋問に対しては,1987年10月の原告と家族との「話し合い」に先立ち,原告の両親及び被告■<後藤徹氏の兄>が挨拶に来て,原告と話し合って欲しい旨依頼したと供述しているのである(被告宮村調書43頁10行~16行)。このように被告■<後藤徹氏の兄>らが被告宮村には事前に一切言わないでいきなり原告を保護したとの被告宮村の供述が事実を偽るものであることは明らかである。そもそも原告の両親は,1987年1月の段階で既に荻窪栄光教会を訪れ,森山牧師及び被告宮村に対し,被告■<後藤徹氏の兄>,原告及び被告■<後藤徹氏の妹>の3人が統一教会に入ったことを伝えて脱会説得を依頼していたものであり(乙ハ2号証22頁28行~23頁6行),1987年5月頃被告宮村の脱会説得を受けて脱会した被告■<後藤徹氏の兄>は,同年6月か7月頃には荻窪栄光教会に毎日通って森山牧師の話を聞き,水茎会にも参加して相談に来る父兄の相談相手になったり,拉致監禁,脱会説得を手伝うようになったのであり(乙イ10号証5頁14行~6頁2行),原告の母も同年10月の原告に対する脱会説得に向けて水茎会に通っていたというのであるから(被告宮村調書21頁11行~15行),こうした経緯の中で被告■<後藤徹氏の兄>らが原告に対する監禁・脱会強要を行うに際し,事前に森山や被告宮村に対して何の相談も断りもなく行ったなどということはあり得ない。被告宮村は,原告に対する拉致監禁・脱会強要への関与を殊更に否定するために,事実を偽っているものに他ならない。

 もとより,京王プラザホテルは被告宮村が拉致監禁,脱会強要に際し頻繁に利用する場所であり,原告に対する脱会説得以前においても既に2,3件の脱会説得に利用している(被告宮村調書22頁1行~5行)。察するに,水茎会で確保している拉致監禁,脱会強要専門のマンション,アパートが他の信者に対する脱会説得に使用中で満室であったため,一旦別の場所で原告を拉致監禁すべく京王プラザホテルを利用し,荻窪のマンションが空いた後に原告を荻窪に移動するという計画のもと,被告宮村が原告の両親を指導して京王プラザホテルを借りさせたものと考えられる。同ホテルを利用するのは,同ホテルのスイートルームが監禁に適していることと,立地的にも,車であれば青梅街道,電車であればJR総武線を利用することによって被告宮村が拠点とする荻窪との間の行き来が容易であることが理由である。

 また,被告宮村は,原告を脱会させるよう後藤家に働きかけた事実も否定する(被告宮村調書21頁8行~10行)。しかし,森山牧師の呼びかけで始まった原対協は,「救出活動」,即ち統一教会信者に対する拉致監禁,脱会強要を「実施」することを活動内容としていたのであるから(甲96号証の2「4」),森山と共に熱心に「救出活動」に従事していた被告宮村が,原告を脱会させるよう後藤家に働きかけたのは当然のことである。
 また,被告宮村は,原告が京王プラザホテルでの滞在を終えた後に荻窪栄光教会に通ったことについて,「家族とご本人で決めたんだと思います」などと述べ,自身の関与を否定する(被告宮村調書23頁21行~24行)。しかしながら,神戸で脱会説得を行った被告■<後藤徹氏の兄>に対しては被告宮村は,荻窪栄光教会に来て森山牧師の話を聞いたらいいと勧めていたものであり(乙イ10号証5頁2行~4行),荻窪から車で30分程度の京王プラザホテルに滞在していた原告に対し,荻窪栄光教会に通うよう言っていないことなどあり得ない。京王プラザホテル及び「犬猫マンション」の双方とも水茎会で常用していた事実からも,原告に対する第1回目の拉致監禁が実際には全て被告宮村の指示・指導のもと計画的に行われたことについて疑いの余地はない。

5.被告■<後藤徹氏の妹>に対する拉致監禁,脱会強要

被告■<後藤徹氏の妹>は,1989年3月に両親及び被告■<後藤徹氏の兄>によって自宅から荻窪のマンションに拉致され約1ヶ月間監禁され,被告宮村の脱会強要を受けて統一教会を脱会したものである。被告■<後藤徹氏の妹>は連れて行かれた際のことについて,マンションに連れて行かれそうになったら素直についていくようにとアベルから教わったため素直について行ったなどと供述するが(被告■<後藤徹氏の妹>調書41頁3行~42頁6行),明らかに事実を偽るものである。

 被告■<後藤徹氏の妹>は,1987年1月か2月に原告と共に大阪の教会に牧師の話を聞きに来て欲しいと母から頼まれた際には,反対牧師の話を聞いて信仰を失うといけないので会う前に逃げるようアベルから指示を受け,大阪に向かう途中の東京駅で母を騙して逃走したと供述する(乙イ7号証9頁13行~10頁6行,被告■<後藤徹氏の妹>調書1頁12行~21行)。即ち,反対牧師と会う前に逃げるべきだというのが被告■<後藤徹氏の妹>がアベルから教わっていた指導である。また,被告■<後藤徹氏の妹>は当時は,統一教会の反牧対策において,反対牧師によって拉致監禁されると,注射を打たれ精神病院に連れて行かれたり手錠を掛けられるなどの話を聞いて「私は,反対牧師はとても怖いという強烈な印象を植え付けられていました」と供述するが(乙イ7号証9頁21行~27行),反対牧師に会ったら最後,手錠を掛けられたり精神病院に違法に入院させられるというのであればなおさらのこと,マンションに素直についていくようにとの指導がアベルからなされたはずはない。一旦マンション等に行けば最後,偽装脱会をしても簡単には解放されない事実は先の原告の事例で実証済みであり,原告の場合はたまたま礼拝中に脱出に成功したが,気づかれて逃走に失敗した可能性もあったことを考えると,敢えてそのような危険な場所に行くよりも,行かない方が安全に決まっているのである。したがって,アベルがマンションに素直についていくよう指導するはずなどないのである。

 以上の次第であり,アベルからマンションに素直について行くようにとの指導があったなどというのは嘘である。被告■<後藤徹氏の妹>は,統一教会で言う「拉致監禁」が自分の身にも起きると思って動揺したというのであるから(被告■<後藤徹氏の妹>調書38頁6行~22行),実際には素直について行ったものではなく,意に反して無理矢理連行されたものである。

 また,被告■<後藤徹氏の妹>は,荻窪のマンションに連れてこられてから最初の1ヶ月間は一切外出しなかった旨供述する(被告■<後藤徹氏の妹>調書4頁6行~10行)。通常の話し合いなら一切外出しないなどという不自然な行動をとるはずはないが,隙があったら逃げようと思っていた被告■<後藤徹氏の妹>が最初の1ヶ月間一切外出しなかったというのは,紛れもなく監禁されていたからに他ならない。

 また被告■<後藤徹氏の妹>は,被告宮村がマンションに来た際,押入れに閉じこもって面談を拒否した事実について陳述書には一切書いていない。この点については忘れていたので書かなかったのだと言う(被告■<後藤徹氏の妹>調書39頁16行~40頁3行)。しかし,30年近くにも亘って複数の統一教会信者に対する脱会説得を行ってきた被告宮村でさえ,同事実を覚えていたのであるから(被告宮村準備書面(第3)11頁21行~末行),被告■<後藤徹氏の妹>において忘れたはずはなく,被告■<後藤徹氏の妹>は被告らに都合の悪い部分を忘れたと供述しているものである。

 以上の通り,被告■<後藤徹氏の妹>も被告■<後藤徹氏の兄>と同様,被告宮村等によって拉致監禁され,脱会強要を受けて統一教会を脱会したものである。

第5 本件第2回目の拉致監禁,脱会強要に向けた被告らの謀議

1.水茎会における謀議

 原告の両親,被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>,及び被告■<後藤徹氏の妹>は,毎週土曜日の新宿西教会に通って水茎会の会合に参加し,1987年10月の第1回目の拉致監禁から脱出した原告に対する第2回目の拉致監禁,脱会強要に向け,謀議を巡らし,着々と準備を進めたのであった(甲124号証<1993年5月に撮影された写真。当時、水茎会の集会が開かれていた新宿西教会の入り口付近で撮影されたものですが,そこには後藤徹氏の家族が写っている>)。水茎会の存在目的からして,被告宮村の指導を受けるという理由以外に被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>,被告■<後藤徹氏の妹>及び原告の母が被告宮村の主宰する水茎会の会合に参加する理由はなく,1993年5月に撮影された甲124号証の写真だけからしても,その後に敢行される第2回目の原告拉致監禁(1995年)につき,被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>,被告■<後藤徹氏の妹>ら原告の家族と被告宮村との共謀事実は明らかである。この点,被告■<後藤徹氏の妹>も,統一教会を脱会してより後の1991年頃から1995年初夏まで月に1,2回の頻度で水茎会に通っていた事実を認める(被告■<後藤徹氏の妹>調書26頁10行~17行)。被告宮村は本人尋問においては,被告■<後藤徹氏の妹>の脱会後,被告■<後藤徹氏の兄>以外の後藤家の両親や被告■<後藤徹氏の妹>が水茎会に通った事実を一旦否定したが,甲124号証を提示されるとにわかに供述を翻し,原告の両親や被告■<後藤徹氏の妹>が水茎会に通っていた事実を認めるに至った(被告宮村調書25頁4行~21行)。
■<後藤徹氏の妹>さんが脱会した後ですけど,後藤家は水茎会に通っていましたか。

後藤■<後藤徹氏の兄>君は,時々来ていたくらいですね。


後藤家の両親や■<後藤徹氏の妹>さんは,通っていなかったんですか。

はい,来てなかったと思います。


甲第124号証(写真説明書)を示す
これは1993年当時の写真のようなんですが,これは水茎会の会合から,後藤家の家族やあなたが出てきたところのシーンということでいいんですか。

そうです。


そうすると,1993年頃は,後藤家の両親や■<後藤徹氏の妹>さんも,水茎会に通っていたということですか。

通っていましたけど,毎週来るという通い方ではなかったように記憶しています。


どれくらいの頻度で来てたか,覚えていますか。

月に二,三度は,なかったかな。


お父さんは,水茎会に来ることはありますか。

ありました。


どれくらいの頻度でありましたか。

年に数回くらいですか。


<宮村峻氏主尋問の一部。宮村氏は甲124号証を示される前は、後藤氏の妹は水茎会には「きてなかったと思う」と証言しているが,甲124号証を示されたとたん,前言を翻している。>

被告宮村等によって拉致監禁され脱会強要を受けたYYは1993年4月8日付で別件裁判に上申書を提出しているが(甲35号証の2),その添付資料「関与者一覧表」の「15 ■<後藤徹氏の兄>」欄では,「三人兄妹で本人が一番先に入会し,弟と妹も伝道したのだが,けっきょく本人は監禁されて離教してしまい,次に妹も監禁されて同じく離教,弟はまだ現在も統一教会に入会しているようだが,家族ぐるみで宮村の指示を受けながら陰で監禁の準備をしているようである」と記している。
YY上申書
同記載は,被告■<後藤徹氏の兄>等原告の家族らが被告宮村の指示を受けながら,原告に対する2回目の拉致監禁,脱会強要を準備していた事実を意味しているが,本件第2回目の事件発生以前に本件裁判を意識せずに記されたものであるだけに,極めて信憑性が高い。被告宮村自身も,YYが偽装脱会中にこうした話を聞いたであろうことは否定していない(被告宮村調書98頁11行~12行)。

 被告らは原告には一切内緒にしたまま,第2回目の拉致監禁,脱会強要の実施に向け着々と準備を進めていたものである。
 被告宮村は反対尋問において,1987年の第1回目の事件後,1995年の第2回目の事件まで,新潟での保護計画について原告の家族からは一切聞いていなかったと供述し,甲124号証を撮影した時点と第2回目の新潟での保護までは10年以上経っているなどと述べる(被告宮村調書92頁23行目~94頁1行)。しかし,甲124号証の写真を撮影したのは1993年5月であり,1995年9月の第2回目の事件まではせいぜい2年数ヶ月間の開きしかない。また,そもそも前述の通り被告宮村は陳述書では,1995年6月か7月頃,原告の両親,被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>及び被告■<後藤徹氏の妹>の5人が被告宮村のもとに来て,原告との話し合いを新潟で行うことになったと言ったと明確に述べている(乙ハ2号証25頁14行~16行,被告宮村調書26頁6行~11行)。したがって,第2回目の事件まで新潟での保護計画について原告の家族から一切連絡も相談も受けなかったとの供述は,あからさまに事実を偽るものであり,被告宮村は,原告に対する拉致監禁・脱会強要への関与を殊更に否定しようとする余り,陳述書では認めていた事実までも反対尋問では否定したのである。

2.新津教会における謀議

被告■<後藤徹氏の兄>らは,1995年5月か6月頃より被告松永のもとに5,6回通ったものであるが(乙イ10号証13頁14行~16行,被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書2頁13行~16行,同2頁24行~3頁1行),被告松永は「Xデー」と言われる拉致監禁の実行日が迫った父兄等に対しては,拉致監禁の計画書を示すなどして具体的に拉致監禁を指導していたものであり,被告■<後藤徹氏の兄>らが被告松永のもとに通ったのは,原告に対する拉致監禁に向け,具体的謀議をするために他ならない。

 「第1」で述べた通り,被告松永の勉強会でKCが記録した講義ノート(甲44号証)には「体の救出」「移動」「説得」の3つについて先ず計画すべきことが記され,「移動」欄には「コース決め」「トイレの問題」「料金所を通過する時」「乗せ方降ろし方」といった記載があるが(甲45号証添付資料の9頁),被告■<後藤徹氏の兄>らも被告松永の指導のもと,同様の計画を立て,車にポータブルトイレを用意することや,車を乗り降りさせる時の拘束について謀議したはずである。
甲44p9一部


また,「説得」欄には「本人から目を離さない」「ドア,窓の前に人を立たせる」「1親と子,2脱会者と子,3牧師と子の順に話合う」といった記載があるように,マンション到着以降の原告に対する監視体制(誰が新潟に留まるかなど)についても事前に謀議しているはずであるが,肝心の被告松永の都合を聞かずしては「牧師と子の順」について勝手に決められるはずはなく,被告松永が謀議に加わっていたことは明らかである。また講義ノートには,「家で1時間話すのが原則」とか「『ラチがあかないから・・・』といってやや強引につれてくる方が,ウソついて連れてくるよりずっとまし」といった記載もある通り(甲45号証添付資料の22頁),原告が同行を拒んだ場合,強引に連れてくるべきことも謀議されたはずである。

 被告松永によって拉致監禁,脱会強要の被害を受けた元統一教会信者KHの日記(甲13号証)の4枚目「95.8.3」欄には,「汚ねえー,俺はマンションの中でうそをつかれて説得された。すべて裏工作があった。牧師よ。あんた,いったい何なんだ。早くここをおさらばしたい」との記載がある。1995年8月3日と言えば,被告■<後藤徹氏の兄>らが被告松永の勉強会に通っていた頃であり(乙イ10号証13頁14行~16行),被告松永が信者のあずかり知らぬところで信者の家族を全面的に指揮,指導していた事実を糾弾するこうした記載からも,原告に対する拉致監禁,脱会強要に向け,被告松永の指揮,指導及び共謀の事実があったことは明らかである。
近藤君の日記1
<元統一教会信者KHの日記(甲13号証)の4枚目「95.8.3」欄>

第6 新潟パレスマンション多門における拉致監禁・脱会強要

1.保谷市の実家から新潟への拉致

(1)庭に潜んでいた男

1995年9月11日,被告■<後藤徹氏の兄>らが原告を保谷市の実家から新潟パレスマンション多門に連行した際,実家の門と玄関の間の側に位置する庭には原告の見知らぬ男性が原告の逃走を阻むべく潜んでいたものであるが,この男性は水茎会会員の元統一教会信者であり,被告宮村経営に係る株式会社タップの従業員でもあって,後日原告が監禁された荻窪フラワーホーム804号室にも来訪しいる(甲9号証18頁1行~8行,原告調書13頁10行~末行,被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書41頁20行~42頁8行)。荻窪フラワーホーム804号室にも来たという以上,水茎会にて被告宮村のスタッフとして活動している者であり,原告の実家には被告宮村の指示で派遣されたものに他ならない。

 ちなみに,フラワーホーム505号室に拉致監禁され被告宮村の脱会強要を受けた証人OBも,自宅から連れて行かれる際,夜8時を過ぎた時間に庭に見知らぬ人物数人が待機していた事実を証言する(証人OB調書53頁14行~18行)。即ち,拉致現場である自宅の庭に人を待機させて統一教会信者の逃走を防ぐことは被告宮村の常套手段である。

 統一教会信者は「話し合いの場」から先ず「逃げようとする」というのは,松永ビデオやマニュアルにおける指導内容であり(甲101号証の3の13頁4行~12行,甲98号証の3マニュアル2枚目本文4行目),被告らの主張するところであるが(被告■<後藤徹氏の兄>ら準備書面(7)12頁末行~13頁1行,乙ロ1号証5頁13行~15行),原告は1987年の第1回目の拉致監禁において,被告宮村等による脱会強要を拒んで逃走しており,原告が被告らの言う「話し合い」に応じないことは被告らにおいては十分承知していたところであり,原告の逃走を警戒していたことは被告■<後藤徹氏の兄嫁>も供述するところである(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書41頁14行~19行)。そうであればこそ被告■<後藤徹氏の兄>らは,原告の両親,被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>,及び被告■<後藤徹氏の妹>だけでなく,被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄,原告の叔父のO,それに庭に潜んでいたタップの従業員と,大勢の人間を動員して原告に対する拘束連行に備えたのである。また,原告の逃走防止のためにこれだけの人数を用意したという事実自体,「絶対に逃がさない」という被告らの意志を物語るのであり,被告■<後藤徹氏の兄>らの行動が,原告の意思を尊重した話し合いなどではなく,正真正銘の拉致監禁であった事実は明らかである。

 被告宮村は同従業員について,当日原告宅にいたことを知らなかったなどと述べる。しかし,警察沙汰にもなりかねない危険な犯罪行為の現場に被告宮村の許可なく被告宮村の会社の従業員であり配下の水茎会スタッフでもある人物を駆り出すなどということはあり得ず,被告宮村が原告の拉致実行を知らなかったなどあり得ない。「第2」で述べた通り,被告宮村は,MKに対する拉致監禁に際し,MKの親族を西央マンション301号室に集めて謀議を行い,親族等を指示・指導して拉致監禁を実行させたものであり(甲43号証2頁26行~29行),本件は既に被告松永のもとに計画が進められていたとはいえ,被告宮村もまた同計画を知っていた以上,人材派遣を通して原告に対する拉致監禁に協力したものである。また,庭に潜んでいた上記従業員が被告宮村の配下のスタッフでもあった以上,原告の連行後に同従業員が被告宮村に連絡を入れ,被告■<後藤徹氏の兄>らが計画通り原告を連行した顛末を報告したことは間違いなく,更に被告宮村もその知らせを被告松永に伝えたことは間違いない。

(2)直前の謀議

 1995年9月11日に原告が保谷市の実家に到着したとき,家の前の路上にはワゴン車はなく,家の庭にはタップの従業員の姿はなく,室内にはOも被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄の姿もなかった。ワゴン車は原告が家から引きづり出されたときに玄関前の路上に待機していたものであり,タップの従業員の元信者男性は原告が家の中に入った後に所定の位置に配備されたものであり,Oは原告を連れて行く段になって姿を現している(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書44頁8行~20行)。当初から玄関前の路上にワゴン車が待機し,運転席に被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄がいて,庭に見知らぬ人物が潜んでいたなら,原告は警戒して家の中に入ることはなかったものであるが,被告らもこのことを十二分に承知しているからこそ,ワゴン車や庭の男は別の場所で待機させ,原告の入室後に連絡を受けるか,予め打ち合わせていた時間に所定の場所に配置についたものである。とすると,被告■<後藤徹氏の兄>らは,被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄や庭に潜んでいた男,及びO等と事前に入念な打ち合わせをして,誰がどこに待機し,誰からの連絡でどこに移動するかなど計画していたものと言えるが,実に被告■<後藤徹氏の兄嫁>も反対尋問においては,こうした事前謀議があった事実を認めているのである(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書45頁5行~10行)。被告■<後藤徹氏の兄嫁>及び被告■<後藤徹氏の妹>はこうした謀議に自分達が参加した事実を否定する(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書43頁13行,被告■<後藤徹氏の妹>調書46頁13行)。しかし,以下の通り本件に即して見るなら,被告■<後藤徹氏の兄>のみならず被告■<後藤徹氏の兄嫁>や被告■<後藤徹氏の妹>についても,事前謀議に参加していた事実は明らかである。
 第1に,庭に潜んでいた人物は,午後8時を過ぎた遅い時間帯に庭に潜んでいたのであるから,事前に顔合わせをしておかない限り,被告らの間においても不審者がいることになり,夜遅くなり統一教会信者が近くで控えていることを警戒していたという被告■<後藤徹氏の兄嫁>らが(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書45頁19行~46頁4行),統一教会信者が奪還に来たと思い騒ぎになったはずである。
タップ社員
<後藤徹氏の実家の庭に潜んでいたとされる人物>

 第2に,原告を連行する際,誰が原告の右腕を固め,誰が左腕を固め,誰が玄関ドアを開け,誰が靴を履きやすいように揃え,誰がどの荷物を持ち,玄関の鍵を閉めるかなど,各人の役割分担が事前に決められたはずであり,被告■<後藤徹氏の兄嫁>のような女性達といえども,玄関ドアを開けたり,荷物を持つなど一定の役割分担が与えられていたはずである。例えば被告■<後藤徹氏の兄嫁>は,原告が立ち上がるのを見て,支度等のため先に居間を離れワゴン車のところで待っていたという(乙イ5号証26頁15行~17行)。したがって,同被告は各人の靴を履きやすいように向きを整え,玄関ドアを開け,庭に潜んでいた男,及びワゴン車の運転席にいた同被告の兄に原告が来ることを伝え,ワゴン車のエンジンを掛けさせ,ワゴン車のドアを開けたままそこで待機する役割を担っていたものと言える。真に原告が同意した上で同行するなら,被告■<後藤徹氏の兄嫁>は一緒について行けば済むだけのことであり,支度など一切必要ないのである。勿論原告がワゴン車に乗る直前に拘束を振り切って逃走を図れば,OFが被告宮村の指導を受け荻窪フラワーホーム505号室でしたのと同様,原告にしがみついて逃走を阻んだはずであり,被告■<後藤徹氏の兄嫁>もまたそうした指導を被告宮村等から受けていたことは間違いない。
乙ハ5号証26ページ
<乙ハ5号証26ページ一部>

 第3に,被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄が運転するワゴン車が準備されていることや,タップの従業員が来ることなど,事前に原告には秘しておかなければならない。事前にこうした情報を原告に伝えれば,原告が不審に思って早々に実家を立ち去ることは間違いないからである。したがって,最低限,計画を決行するまで計画に関することは秘しておくという取り決めが事前に被告らの間でなされていたはずであり,こうした点からも,被告■<後藤徹氏の兄>のみならず被告■<後藤徹氏の兄嫁>や被告■<後藤徹氏の妹>においても事前謀議に参加していたことは明らかである。

(3)原告の連行態様

1987年の第1回目の脱会強要の際に逃走した事実が示す通り,原告は被告■<後藤徹氏の兄>らの言う「保護」に応じる意思はもとよりなかったものであり,だからこそ原告は実家を訪問するまでに約7年を要したのであった。また,原告自身陳述書で供述する通り,1990年から1992年の3年間で941人の統一教会信者が全国で拉致監禁,脱会強要の被害に遭うなど(甲9号証5頁26行~30行),統一教会信者における拉致監禁,脱会強要の被害は甚大なものであった。したがって,原告の父が「ここでは何だから,別の場所へ行こう」と切り出した際も当然のことながら原告は,再度拉致監禁の被害に遭うと直感し,同行を拒んだものであり,被告■<後藤徹氏の兄>らは原告の両腕を両脇から抱えて家の中から引きずり出し,行き先も伝えないまま路上に待機させたワゴン車に無理矢理監禁し連行したものである(甲9号証7頁16行~24行)。

 被告らは原告が話し合いに同意して自分の足で歩いてワゴン車に乗ったなどと供述し(乙イ10号証14頁20行~24行,被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書9頁18行~24行),しかも,被告■<後藤徹氏の兄>らは,原告が話し合いに入ることを頑なに断れば断念するしかなかったなどと供述するが(乙イ10号証37頁18行~20行,(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書3頁末行~4頁5行),庭に家族ならぬ第三者まで潜ませて原告の逃走に備えた事実からすれば,被告■<後藤徹氏の兄>らが原告の意向を無視して力づくで拉致監禁する意図であったことは明らかである。

(4)簡易トイレ

被告らは,簡易トイレは原告の父がトイレが近かったために積んでいたものだと弁明する(乙イ10号証15頁8行,被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書27頁9行~26行,被告■<後藤徹氏の妹>調書7頁6行~21行)。しかしながら,前記KCの講義ノートには「トイレ」対策が明記されているのであり(甲45号証添付ノート9頁),また,被告松永及び被告宮村が利用していたマニュアル(甲98号証の3)の2枚目にも「逃げる」「トイレ」といった記載があるなど,トイレに行った際,統一教会信者が逃げようとすることに対して被告松永らは最大の注意を払うべきことを指導していたものである。
甲98-3②

したがって,ポータブルトイレも,パーキングエリア等のトイレで原告が逃走を図るのを防止するために予め用意したものであることは明らかである。

 また被告■<後藤徹氏の兄>は,刑事手続では新潟までノンストップで行ったと供述していたにもかかわらず(乙イ1号証3頁8行~12行),本件においては,高速道路に乗って程なく給油所に立ち寄ったと供述する(乙イ10号証15頁5行~6行,被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書10頁1行~4行)。しかし,検察審査会議決書ではトイレにすら立ち寄らなかった事実をもってノンストップと表現しているのであり,ガソリンスタンドに立ち寄っていたならノンストップなどと表現するはずはないのであって,ガソリンスタンドに立ち寄ったなどというのは,本件訴訟になって新たに付け加えた作り話に他ならない。そもそも被告■<後藤徹氏の兄>らは,原告をトイレに行かせる時間もないほど急いでいたのなら事前にガソリンを満タンにして準備していたはずであり,出発して早々に給油所に寄ったなどという供述は全く信憑性がない。
議決書(2)
<乙イ1号証(検察審議会議決文)3頁8行~12行>



(5)新潟パレスマンション多門の前に到着して以降

 ワゴン車が新潟のパレスマンション多門の前に到着した後,原告は,ワゴン車から降ろされ,兄と父に両脇をつかまれ,家族やO,■<後藤徹氏の兄嫁>の兄に周りを囲まれたまま同マンション607号室に監禁されたものである(甲9号証8頁17行~19行,原告調書17頁23行~18頁8行)。
 被告■<後藤徹氏の兄>らはここでも原告が普通に部屋に入ったと供述する(乙イ5号証27頁11行~14行,被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書10頁9行~11行)。しかしながら,保谷市の実家では第三者の協力まで得て原告を絶対に逃がさない構えでワゴン車に監禁し,車内ではポータブルトイレまで用いて原告の逃走を妨げた被告■<後藤徹氏の兄>らが,新潟において原告を逃走可能な状況下においたはずはなく,被告■<後藤徹氏の兄>らの供述は嘘である。

(6)原告の意向を無視した計画推進

 被告■<後藤徹氏の兄>らは1995年6月か7月頃には新潟での原告との「話し合い」を決め,被告宮村にその旨伝え(乙ハ2号証25頁14行~16行),部屋の手配及び準備を進めており,被告■<後藤徹氏の妹>においては3年間勤めた立教大学内の書店での仕事を同年8月に辞めるなどしたものであるが(乙イ7号証2頁13行~14行,同18頁21行~24行),1995年9月11日に原告が保谷市の実家に来るまでの間,被告■<後藤徹氏の兄>らは新潟での「話し合い」の計画を原告には一切伝えていない(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書28頁5行~9行,被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書3頁11行~13行)。被告■<後藤徹氏の妹>は反対尋問では,新潟での話し合いがどのくらいかかるか分からなかった旨供述するが(被告■<後藤徹氏の妹>調書45頁6行~10行),どのくらいの期間かかるかもわからないような「話し合い」に原告が応じるはずはなく,そのため被告■<後藤徹氏の兄>らは新潟での「話し合い」の計画を原告には一切伝えなかったのである。

 また被告■<後藤徹氏の妹>が原告の了承を取り付ける以前に勤務先を辞めたのは,原告の意向がどうであれ強引に拉致監禁する計画であったからであり,仮に原告の意向を尊重する方針であったのであれば,原告が拒む可能性が格段に高かった以上,原告の了承を得てから勤務先を辞めたはずである。
 以上の通り,被告■<後藤徹氏の兄>らは原告の意向も都合も一切無視して一方的に計画を進めていたものであるが,これもまた,統一教会信者の人権を一顧だにしない原対協マニュアル(甲98号証の3)等に基づいて父兄を扇動してきた被告宮村及び被告松永の指導・教育が被告■<後藤徹氏の兄>らに浸透した結果に他ならない。

(7)被告松永,及び被告宮村の事前教育と実際の行動

保谷市の実家における原告に対する連行手順は,原告の父,O,被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄,タップの従業員の男性計5人,及び原告の母,被告■<後藤徹氏の兄嫁>,被告■<後藤徹氏の妹>の女性計3人が関与し,原告をワゴン車に乗せるまでに1時間程度話合うなど(原告は30分,被告■<後藤徹氏の兄>らは1時間30分と供述),被告松永及び被告宮村が使用していた原対協マニュアル(甲98号証の3)の2枚目「③」「④」,及びKC講義ノート(甲45号証添付ノート9頁)の通りである。また,携帯トイレを車内に用意して「トイレの問題」に対処するなど,マニュアル2枚目,及び被告松永の勉強会(甲45号証添付ノート9頁)での指導に従っていることも明らかである。被告■<後藤徹氏の兄>らは被告松永及び被告宮村の指示・指導通りに原告を拉致監禁したものであり,これは被告■<後藤徹氏の兄>らが独自の発想と計画で行ったものではない。

 以上の通り,被告らの言う「話し合い」が被告宮村や被告松永といった家族ならぬ第三者の指示・指導のもと,タップの従業員のような第三者まで現場に動員して行われるものであるところから,「家族の話し合い」などという平穏なものではなく,凶悪犯罪行為の実態が明らかであると言える。こうした凶悪犯罪行為に向けて,被告■<後藤徹氏の兄>らは被告宮村及び被告松永と相次いで謀議を積み重ね,共謀して原告に対する拉致監禁,脱会強要を実行したものである。

(8)検察審査会の認定の間違い

検察審査会議決文には庭に潜んでいた人物についての記載はなく,また当時は被告松永の拉致監禁指導ビデオやマニュアルも発見されていなかったのであるから,検察審査会では重大な事実が欠落したまま不起訴相当との認定が行われたことになる(乙イ1号証2頁28行~3頁4行)。

 なお,検察審査会は,原告が保谷市の実家でワゴン車に乗せられる際やワゴン車を下ろされ新潟のパレスマンション多門に入室する際,「大声を出して救助を求めることは容易にできたのに,行っていない」などと述べ(乙イ11号証3頁1行~2行),原告が他に救出を求めなかった事実をもって逮捕監禁の事実を否定する。

 しかし原告は,家族がもうやらないと約束していたにもかかわらず信じていた家族から裏切られたショックと他人まで動員しての用意周到なる拉致の準備・計画を見せつけられ,抵抗しても無駄と思わさせられたため,大声を出して助けを求めることはできなかったものである(甲9号証7頁23行~26行,原告調書15頁1行~20行)。この点,被告松永や被告宮村等が用いていた拉致監禁マニュアル(甲98号証の3)の1枚目には自宅からの移動について「家か親戚の家で一論争し,ひとあばれさせる。そして,逃げられないという自覚をさせる。そのためには6人位の大人が必要である」(本文5行~7行)と記され,更に5枚目には,「<絶対に逃げられないのだという意識がない限り聞こうとはしない>それで4人から6人で取り囲む必要があるのです」(本文4行~7行)との記載があるが,被告らの言う「保護」は,信者に対し「絶対に逃げられないのだという意識」を抱かせるほどの強固な決意と気迫を伴って行われるものであり,到底家族とは思えぬ無慈悲な対応に圧倒され,ショックと恐怖により信者が声も出せなくなることは十分あり得る。
甲98-3①


 また,確かに原告が大声で救出を求めれば付近の住民が異変に気づくかも知れない。しかし,まだ監禁が始まっていない状況でいかに原告が「これから監禁される」と必死に訴えても説得力に乏しく,逆に原告の両親等が「監禁なんかしない。家族で話し合うだけだ」と言えば,付近の住民も為す術はないのである(原告調書77頁4行~11行)。また仮に警察が来たとしても,原告の両親や被告■<後藤徹氏の兄>等が同様に「監禁なんかしない。家族で話し合うだけだ」と弁明すれば警察も手の出しようはない。この場合警察としては,結局「事件性無し」などの判断のもと原告を救出することはしないのであって,このことは,被告■<後藤徹氏の兄>が連行されたときの事例が実証する通りである。そして,仮に警察が来たとしても被告■<後藤徹氏の兄>等が司法機関に対して正直に監禁意図を話さなかったであろうことは,本件民事・刑事手続において監禁を殊更に「家族の話し合い」と言い換えて供述する被告■<後藤徹氏の兄>らの供述態度から明らかであると言える。

 実は,警察が拉致監禁の被害を受けている信者を解放しないことは被告松永及び被告宮村等も熟知しているところである。そうであればこそ,新津教会で行われる父兄勉強会の内容を記録したKCの講義ノート(甲45号証添付資料1頁13行)には,「桜田じゅんこで有名な~と言えば,分ってくれる。警察は味方である」と記されているのである。また,被告宮村は準備書面(第4)において,「警察の介入はむしろ歓迎すべきこと」(3頁5行~6行)などと述べているが,伊藤芳朗弁護士によれば,水茎会には警察対策のマニュアルがあったと言う(甲107号証6頁23行~26行,甲122号証の1,2)。原告はこれまで拉致監禁・脱会強要に対して日本の警察が介入しないことを主張してきたが,拉致監禁,脱会強要に携わる者の間でも,警察が介入しないことは常識化しており,これに乗じて拉致監禁,脱会強要が行われてきたものである。したがって,原告が大声で助けを求めなかったことを被告らの有利に認定するのは背理である。

2.新潟パレスマンション多門での監禁状況
パレスマンション多門

 新潟パレスマンション多門607号室の玄関ドアは特殊な施錠によって開閉不能にされていたものであり,また,全ての窓はウインドウロックが取り付けられ開閉不能にされていたものである(甲9号証8頁20行~27行,原告調書18頁12行~21行)。この点被告らは否定するが(乙イ10号証15頁末行~16頁4行,被告■<後藤徹氏の兄>主尋問調書10頁12行~14行,被告松永調書6頁末行~7頁2行),以下の理由から,原告の供述通り玄関ドア及び窓は物理的に開閉不能となっていた事実が明らかである。

(1)被告らにとっての原告を監禁することの必要性

① 逃走防止

 被告■<後藤徹氏の兄>は反対尋問において,部屋から信者を出すかどうかは家族が判断すると供述する(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書14頁19行~23行)。そして更には,被告宮村関与事例に関し,被告宮村の許可無く信者を解放した事例は一件もないと供述する(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書15頁15行~25行)。したがって,実際には被告宮村や被告松永の許可が無い限り,原告を外出させることはできなかったものに他ならない。正に「説得者の許可なく外出はさせない。必ず逃げるから」というマニュアル記載通りのことが行われていたものである(甲98号証の3,4枚目「5」)。しかるに,家族が逃げようとする信者を部屋から出さないようにするとしたら,玄関ドアや窓を開閉不能にする以外には不可能である。
甲98-3④

 一方,新潟での脱会説得に関し,原告の逃走を警戒していた事実は被告■<後藤徹氏の兄嫁>も供述するところであるが((被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書41頁14行~19行),新潟パレスマンション多門607号室においては,実家の庭に潜んでいた男や被告■<後藤徹氏の兄嫁>の兄は既におらず,Oも1ヶ月ほどしかいなかったのだから,人手が少ない中,夜中に被告らが寝静まった時間帯においても原告の逃走を阻止するには,玄関ドアや窓を開閉不能にする以外にはない。この点,被告松永も指導ビデオの中で「ドアなんて鍵をかけちゃえば終わりなんですよ」と指導し(甲101号証の3の13頁8行),玄関ドアやベランダの窓などを開閉不能にすべきことを当然視した指導を行っているのであるから,原告が供述する通り,被告■<後藤徹氏の兄>らが玄関ドアや窓を特殊な鍵などによって施錠したであろうことに疑いの余地はない。
このことは,原告が統一教会の信仰を持っていた間はもとよりのこと,原告が偽装脱会した後においても,「偽装」を疑っていたという被告■<後藤徹氏の兄>らにおいては,施錠を解くべき理由は存在しなかったものである。

② 救出要請メモ放出防止
 被告松永は,監禁された信者が救出要請メモを外部に放出するので注意するよう指導ビデオで述べており(甲101号証の3の13頁28行~32行),被告■<後藤徹氏の兄嫁>も,過去に保護中の信者が救出要請メモを窓から外に投じた事例について聞いた事実を認めるが(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書50頁23行~51頁2行),原告が救出要請メモを外部に放出すことを阻止するには,玄関ドアや窓を開閉不能にするしかない。したがって,被告松永と共謀していた被告■<後藤徹氏の兄>等においても,玄関ドア及び窓などを開閉不能にしていた事実は明らかである。

 被告■<後藤徹氏の兄嫁>は反対尋問で,原告が窓から救出要請メモを放出することを警戒したのではないかと聞かれた際,原告が納得して話し合いをしているので衝動的にすることはあり得ても,あまり考えていなかったと供述する(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書51頁3行~8行)。しかしながら,原告は1995年12月には偽装脱会を行っており,被告らを欺いてでも「話し合い」を逃れようとしていたものであり,納得して話し合ってなどいない。そして,被告らは原告が「明らかに偽装脱会をしている」と確信していたというのであるから(乙ハ2号証26頁16行),原告が納得の上で話し合っていないことなど先刻承知だったのであり,被告■<後藤徹氏の兄嫁>は事実を偽っているものである。

(2)「サイン」に関する被告■<後藤徹氏の兄>の供述

 被告■<後藤徹氏の兄>は反対尋問において,何故荻窪フラワーホーム804号室だけ南京錠やクレセント錠で玄関ドアや窓を開閉不能にしたのかとの質問に対し,原告が脱会届を統一教会側に送った際,原告がまだ信仰を持っていることを知らせる「サイン」を密かに書いていた可能性があり,統一教会信者が来るかも知れないと心配したからだと供述する(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書39頁10行~19行)。しかし,原告が自由に外出できる環境にあったなら,わざわざ脱会届にサインを書くなどという迂遠なことをせずとも,最寄りの公衆電話まで行って統一教会側に電話するなりすれば済むはずである。したがって,脱会届にサインを忍ばせる可能性があったということ自体,実際には原告が外出できない環境下に置かれていたことを意味し,またそのことを被告■<後藤徹氏の兄>も認識していた事実を意味する。更に,脱会届に忍ばせたサインによって統一教会に知らせることがあるとすれば,それは原告が監禁場所を記載して統一教会側に監禁状態からの救出を要請することに他ならない。したがって,そのような可能性を警戒していたということ自体,被告■<後藤徹氏の兄>が原告を監禁していたことを自認するに等しい。

 なお,脱会届に忍ばせたサインによって統一教会が来るというなら,原告が脱会届を書いたのは1996年2月~3月(乙イ10号証16頁19行~20行,乙イ7号証21頁19行~23行)であるから,被告■<後藤徹氏の兄>の弁明からすると,新潟パレスマンション多門607号室及び荻窪プレイス605号室において既に玄関ドアや窓を開閉不能にしていなければならなかったはずである。

(3)KHの日記(甲13号証)

 甲13号証は,被告松永らによって拉致監禁されて脱会した元統一教会信者KHの日記である。同号証12枚目の1995年10月4日付記載には,「もう新潟に来て一年になる。今日,後藤さんの所へ行った。今,後藤さんはどんな気持ちでいるか。本当に一人孤独に戦っている。かわいそうだ。どうか,神がいるならいるならなんとかしてくれ」とある。
近藤君の日記2

もし原告が自由に外出できたなら,KHが「神がいるならいるならなんとかしてくれ」などと書くはずはない。KHが同日記13枚目「95.11.16(木)」欄に「昨年の今日僕はら致された」と記しているのと同様,原告もまた拉致監禁されていたのである
近藤君の日記3


(4)当時の被告らの行動

被告らが12年5ヶ月間原告を一度も部屋に一人の状態にさせなかった事実から,原告が物理的に監禁されていた事実が明らかである。
 被告■<後藤徹氏の兄>は原告を一人にさせなかった理由として,原告と一緒に検証作業をするという意思を示したかったからだと供述する(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書58頁2行~24行)。しかし,実際には部屋に残った家族が常に原告と共に検証作業をした事実などない。また,被告■<後藤徹氏の妹>は原告を一人にさせなかった理由を聞かれた際,家族として一緒にいたかったなどと供述する(被告■<後藤徹氏の妹>調書59頁2行~25行)。しかし,個々の家族について見れば部屋から適宜の出入りをしていたのであるから,必ずしもそれぞれの家族が原告と常に一緒にいたわけではない(交代で監視に当たっていただけ)。のみならず,真に原告が部屋から出入り自由な状況にあったなら,原告が外出する可能性があった以上,部屋に残る意味もなかったはずである。必ず誰かが部屋に残ったということは,原告は絶対に部屋から外出できないということがそもそも前提となる行動であり,原告が物理的に監禁されていた事実は明らかである。
 原告以外に被告らの1人が必ず部屋に残らなければならなかったのは,原告を1人にすれば逃げられるからであるが,別の見方をすれば玄関内側から南京錠等による解・施錠をする者が原告以外に最低1人は部屋に残ることがどうしても必要だったからである。仮にその役目を原告に任せようとしたら,原告に施錠・解錠のために鍵を渡したりダイヤルロック式の鍵の暗証番号を教えざるを得ないが,そのようなことをしたら最後,原告が逃走することが分かっていたので,被告らは原告1人を部屋に置いて出ることができなかったのである。
 被告らは原告以外部屋に女性1人しか残らなかったこともあったと主張するが,女性1人いれば玄関ドアの南京錠やダイヤルロックを施錠でき,原告を監禁するには十分であったのである。仮に玄関ドアに体当たりして施錠を破壊しようにも,一方の手でドアノブを回した状態では勢いをつけることはできず,殆ど体当たりにはならない。また防犯チェーンや南京錠もこの程度の体当たりで破壊されるようなら,防犯器具としての役目は果たせない。

 既述の通り,『親は何を知るべきか』によれば,証人OBは仙台のホテルの一室においてドアに体当たりし,椅子を持ち上げて騒ぎ立てもしたが,その度に親戚に押さえ込まれたという(甲24号証178頁7行~8行,16行)。被告松永もこうした施錠の威力を良く知っているからこそ,指導ビデオの中で「ドアなんて鍵をかけちゃえば終わりなんですよ」と述べているのである(甲101の3「ビデオ反訳書」13頁8行目)。

 また仮に原告以外に女性1人しかいないタイミングがあったとしても,原告が玄関ドアの施錠を破壊する行動に出れば,直ちに被告松永や元信者等に連絡が行き,程なく彼らが駆けつけ原告を取り押さえたであろうことは間違いない。このことは,被告■<後藤徹氏の兄>が荻窪フラワーホーム804号室にてトイレに閉じ込められた際,同被告が採った行動を見れば明らかである。即ち同被告はトイレの中から携帯電話で被告宮村を始め複数の関係者に電話を入れ,20分~30分以内に元信者のOBが駆けつけている(乙イ10号証30頁1行~3行,被告宮村調書121頁12行~16行)。しかもOBは,バールまで持参しており(乙イ19号証7頁23行~末行,証人OB調書5頁4行~6頁5行),被告らは非常時の備えは万全を期していたのである。また,証人MKを拉致監禁したMMは陳述書において,精神的に限界になってスタッフに電話を入れたときすぐに被告宮村がマンション入口に駆けつけたため,その行動の速さに驚いたと述べる(甲43号証3頁16行~20行)。したがって,仮に原告が脱出を図ったとしても,被告松永ないし元信者等が駆けつけ,たちまちにして原告を取り押さえたであろうことは十分予想できたのである。

(5)原告が偽装脱会した事実

 原告が偽装脱会したことも,原告が監禁されていた事実を裏付ける。出入りが自由な状況で被告松永らの脱会説得を受けたくなければ,原告としては部屋から出て統一教会に戻ればいいだけのことであり,偽装脱会などする必要はないからである。この点,被告■<後藤徹氏の兄嫁>も反対尋問では,部屋に鍵がかかっていないならなぜ偽装脱会して出て行かなければならないのか聞かれた際,答に窮している(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書53頁末行~54頁3行)。原告が監禁下にあったという以外,原告が偽装脱会すべき合理的理由は存在しない。

 偽装脱会したら最後,原告としては統一教会批判及び教祖批判を繰り返す被告松永らに同調せざるを得なくなるが,そうすることは,後述の通り家族や氏族の伝道とは全く逆効果をもたらす行動である。またそればかりか偽装脱会をすること自体,原告にとっては大変な精神的苦痛と屈辱を強いられる行動であったのであり(原告調書30頁9行~19行),このことは,被告■<後藤徹氏の兄嫁>が原告の偽装脱会中の様子について「イライラしたり,不機嫌だった」と供述していることからも窺い知れる(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書52頁21行~26行)。したがって,そこまでして原告がマンションに居座る理由などなく,原告が偽装脱会した理由は監禁から脱出すること以外にはあり得ない。

(6)原告が12年5ヶ月間に亘り外出していない事実

 原告は12年5ヶ月間に亘ってマンション間の移動時以外は一歩も外出していないが,この異常行動自体,原告が物理的に監禁されていた事実を裏付けている。
 被告■<後藤徹氏の兄>らは準備書面(3)で「信者たちは,原罪をかかえた自分が唯一救われる方法がメシヤである文鮮明の祝福を受けて,メシヤが選んだ異性と家庭を持って子をつくることと信じ込まされている」(8頁3行~)と述べているが,上記表現の適否は脇に措くとしても,当時原告は,1995年8月25日の国際合同結婚式で結ばれたSKと家庭を持つべく計画していたものであり,仮に自由に外出できたのであれば,必ずSKに連絡をとったはずであり(原告調書20頁6行~20行),自ら一切連絡を断って婚約関係を事実上破綻に追い込むようなことをするはずがない。そして,SKは,行方不明になった原告を捜し,3年間も原告の帰りを待ち続けたのである(甲90号証5頁8行~6頁28行)。

また,被告■<後藤徹氏の兄>らは,マンションにおける「話し合い」の目的を「家族関係の回復」であると主張しながら,原告の父■が心筋梗塞で新潟市民病院に入院した際や癌で帯津三敬病院に入院した際,原告には一切見舞いに行く機会を与えず,果ては■<後藤徹氏の父>の葬儀にも参列させなかったものであり,矛盾というほかない。被告■<後藤徹氏の妹>は,父■が癌で入院中,原告に手紙を書いてその手紙に「お見舞いには来なくていいから」と書いてあったと供述するが(被告■<後藤徹氏の妹>調書10頁2行~6行),原告が部屋から出られない状況にあることを知っていた■が上記手紙を書くはずがない。原告は新潟から東京に移動させられた際,財布を置いてくるなど,所持品は全て新潟に置いてきたものであり,そうであればこそ被告■<後藤徹氏の兄>らは父■が新潟市民病院を退院後に書いた乙41号証の手紙の「原本」を証拠として提出できたものである。したがって,■が帯津三敬病院に入院中「見舞いに来なくていい」と書いた手紙があるなら,■の遺品として保管しているであろう被告らにおいてはその手紙を証拠として出せるはずである。

(7)氏族メシヤ及び家族の救いに関する被告らの供述の虚偽性

被告■<後藤徹氏の兄>らは原告がマンションに留まり続けて統一教会に戻らなかった理由として,氏族メシヤや家族の救いを挙げる(被告■<後藤徹氏の妹>調書22頁24行~23頁5行,乙イ10号証25頁23行~27頁13行)。しかし,原告が氏族メシヤや家族の救いのために被告らと共にいることを欲したとの説明では,原告が部屋から外に一歩も出なかったことの理由とはなり得ない(証人MK調書11頁24行~12頁9行)。被告■<後藤徹氏の兄>が陳述書において引用する「40日研修教材シリーズNo.12・祝福と氏族メシヤ」(光言社)には「皆さんは氏族を救うために,どんなに困難でも生涯迫害されても逃げてはいけません。それを歓迎し続け,正面で受けます。正面から困難なサタンの行為を歓迎しなさい。それが先生のとった道なのです」と記されてはいるが(乙イ2号証32頁5行~8行),家族を救うためには散歩や買い物にも行ってはならず,病院や投票所に行くことも,運転免許の書き換えに行くことも許されず,部屋から一歩も出てはならないなどとはどこにも記されていない。

 また,家族・氏族の救いというなら,マンションにいる家族だけでなく,死期の迫った原告の父を病院に見舞って最後の説得を試みたり,1998年春頃から1999年末頃まで病院に入院中であったという被告■<後藤徹氏の兄嫁>(被告■<後藤徹氏の兄嫁>調書14頁14行~17行)を見舞って元気づけるなどしなければならなかったはずであるが,実際には原告は,マンションに監視役として残った家族と共に無為な時間を過ごしただけである。

 また,仮にマンションに留まるとしても,被告らに対して統一原理を説き,最後まで統一教会の正当性に関する説得を試みなければならなかったはずであるが,実際には,前述の通り偽装脱会を行って統一教会批判及び教祖批判を繰り返す被告松永らに同調していたものであり,全く氏族の救いとは正反対の行動を取っていたのである(原告調書48頁10~15行)。なお,反対尋問でこの点を追及された被告■<後藤徹氏の兄>は,まともな返答ができないでいたものである(被告■<後藤徹氏の兄>反対尋問調書66頁15行~67頁9行)。

 また,被告■<後藤徹氏の妹>や被告■<後藤徹氏の兄嫁>は陳述書において,親を捨てて統一教会の活動に従事することこそが氏族・親族の救いになるとの信仰観を述べるているところであるが(乙イ5号証10頁7行~9行,被告■<後藤徹氏の妹>調書1頁24行~2頁4行),統一教会での活動を辞めて親と一緒にいることが氏族・親族の救いになるなどの信仰観は当時の信者にはないのである。統一教会では氏族メシアを全うするためには,その大前提として国際合同結婚式に参加して家庭を築かなければならないのであり,原告の場合,SKと所帯をもつことが必要であったのに,SKに一切連絡もとらずに12年5ヶ月間も密室に籠もって氏族メシア活動に人生を費やすことなどあり得ないことである(原告調書47頁8行~17行)。SKに一切連絡をとらなければSKとの関係が破綻することは目に見えているが,そうなると「氏族」の救い以前に自分の「家庭」すら確立できなくなるのである。

 検察審査会議決書には天罰からの家族の救い(乙イ1号証8頁29行~末行)について記されているが,天罰を言うのであれば,原告としては,天が与えた祝福を破綻させるという罪を被告■<後藤徹氏の兄>らに負わせる訳にはいかなかったはずである。

 以上の通り,氏族メシヤや家族の救いは,被告■<後藤徹氏の兄>らが原告を監禁していたために原告が一歩も外に出られなかった事実を殊更に誤魔化すための詭弁でしかない。


続く・・・


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2013-10-19(Sat)
 

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7つの証明 

福本弁護士の論駁はすごい!
証拠がことごとく隠滅され、監禁実行者・支援者がこぞって口裏を合わせている中で、どうやってそのウソを論駁するのかと、不安に思っていたのですが、なるほど、見事な論証で、感嘆・感激させられました。
改めまして脱帽です。

監禁の証明。
準備書面から気付いた点を列挙してみたいと思います。

(1)兄は原告が脱会届にサインを忍ばせる可能性があったとの認識を持っていた。
→確かに、原告が自由に外出できれば、サインを忍ばせる必要はないよな~。

(2)四六時中、原告を一人にすることはなく、誰か一人が必ず部屋に残った。
→原告が自由に外出できるのであれば、原告も鍵を持っていたはずだよね。

(3)原告は偽装脱会をした。
→出入りが自由であれば、偽装なんかする必要はないね。

(4)婚約者に電話一本していない。
→統一教会の信徒は祝福を最も価値視する。その祝福を自ら棄てるようなことをするわけないじゃん。

(5)父の見舞いに行っていない。
→父を救いたいと思っていた原告なら、マンションに留まらず、父の死期にはいちもくさんで見舞いに行っていたはず。血のつながった子なら、親の死に目に会いに行くのが普通だけどね。

(6)原告は統一教会の活動をしていない。
→礼拝に行かなくていい、マンションに居座って話し合いを続けなさい、という教えは統一教会にはありませんね。

(7)京王プラザで解放されず、スキを見つけて逃げた経験を持つ原告が2回目の「話し合い」に応じるわけがない。
→京王プラザでは1ヶ月閉じこめられた。そんな嫌な経験を持つ原告が、なんで家に帰ったその日に「わかった、行きましょう」となるの?。行き先は教えてもらえず、一本の電話も許されなかったのに…。


まあ、ここまで論駁するまでもなく、監禁は疑いようがない。
12年5ヶ月にわたって、自由意思で一切外出しない、ということなど、どう考えたって不自然すぎる。そんなこと、小学生でも分かりますがな。

ついでに言わせてもらえば、監禁という犯罪を見逃した警察官、そして監禁を間接的に支援した浅見定雄には、この裁判の後、きっちり落とし前を付けてもらわなきゃなりませんな~。
2013-10-23 17:54 | みんな | URL   [ 編集 ]

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拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
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世話人:小川寿夫
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