後藤徹氏陳述書(2)
原告(後藤徹氏)陳述書(2)
京王プラザホテルとその後の移送先での第一回監禁から脱出して統一教会の宿舎に逃げ帰った後から、2回目の拉致監禁のうち新潟での監禁までを掲載する。
京王プラザホテルとその後の移送先での第一回監禁から脱出して統一教会の宿舎に逃げ帰った後から、2回目の拉致監禁のうち新潟での監禁までを掲載する。
後藤徹氏陳述書の構成
1.略歴
2.統一教会への入会
3.第1回目の監禁
4.第1回目の監禁から脱出後の経緯
5.第2回目の監禁(今回)
(1)新潟のマンション(パレスマンション多門607号室)での監禁
(2)東京のマンション(1カ所目・荻窪プレイス605号室)での監禁
(3)東京のマンション(2カ所目・荻窪フラワーホーム804号室)での監禁
(4)宮村等による脱会説得
(5)ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)
(6)ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)
(7)ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)
(8)監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に
青印が今回アップしたもの
4.第1回目の監禁から脱出後の経緯
ホームに帰ってより後は,再び家族らによって拉致監禁される恐怖に苛まれ,もともと所属していた兄が知っている部署から他の部署に移してもらい,居場所がばれないように「鈴木祐司」と偽名を名乗り,家族に居場所を告げることさえもできず,潜伏生活を余儀なくされました。道にワゴン車が止まっていると,物陰から誰かが飛び出してきて襲撃され,そのワゴン車に拉致されるのではないかと気が気ではありませんでした。
実際,当時,日本では全国で数多くの統一教会信者が突然失踪する事件が頻発しており,1990年~92年の3年間だけで,941名が失踪しました。その内,統一教会に戻ってきた233名に聞き取り調査をしたところ,失踪理由が本人の意思に反する拉致監禁による棄教目的の強制説得であったことが分かっています。特に1992年に至っては1年間で375名が失踪し,延べ,一日に一人以上が拉致監禁されるという異常さでありました。
そのような中で私は「信教の自由が憲法において保障されている現代日本において,なぜ,中世の魔女狩りのような恐怖に怯えなければならないのか」,と嘆息しながら「今日は,自分が拉致監禁されるかもしれない」と一時も心の休まる暇もないほどでした。
この春にせっかく入社した会社に復帰したい気持ちもありましたが,職場に復帰すると家族らに私の居場所を知られ,再び拉致監禁されるかも知れないという恐れがどうしても拭えず戻ることができませんでした。このため私は仕方なく大成建設を退社し,その後は,信徒組織にて献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになりました。
その頃,私は,兄と私が立て続けに拉致監禁されたため,次は妹が狙われるのではないかと心配していました。そして,その心配は現実となってしまいました。1989年初め頃には,今度は妹が両親,及び兄等によって拉致され,脱会してしまいました。それからしばらくの間,私は妹を強制説得から守ることができなかった自責の念に駆られ苦しみました。
兄は,脱会後,宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになり,1991年には東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわるゆ「青春を返せ裁判」)を提起しています。
1992年8月,私は■(後藤氏の最初の婚約者)という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加しました。合同結婚式は,参加した相手と永遠の伴侶として将来,幸せな家庭を築くことを誓い合う出発の儀式であり,もちろんそれは,私の願いでもありました。しかし,残念なことに,その後,■さんは家族らによって脱会説得を受け,信仰を失ってしました。このため,私は■さんと結婚生活を開始することはできませんでした。
最初の拉致監禁から年月が過ぎる中,再び拉致監禁されることに警戒しつつも,いつまでもこのままではらちが明かないと思い,電話での会話から始まり,手紙を送ったり,家族の誕生日にはプレゼントを贈ったりして,少しずつ家族との関係を修復する努力をしました。そんな中,確か1992年頃だと思いますが,父親との電話での会話で父が「もうあんなことはしない」と明言して,二度と拉致監禁をしないことを約束してくれました。そこで,こちらの居場所を家族に伝え,私が統一教会の信仰を持っていることには反対しながらも再び家族と交流ができるようになりました。
1995年1月,兄は■という女性(以下,「兄嫁」と言う)と結婚しました。兄嫁も,親族に拉致監禁され,宮村,及び松永堡智(日本同盟基督教団新津福音キリスト教会牧師)らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者で,脱会後は統一教会に対する反対活動を行うようになり,1991年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起しています。
1995年8月,私は■(後藤氏の2回目の婚約者)という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加しました。既に年齢も31歳となっていたことから,この頃より私は将来家庭を持つことに備えて,統一教会での信仰は続けつつも信徒組織での活動を辞め,一般の仕事に就くことを考えていました。しかし,同年9月に私が2回目の拉致監禁の被害に遭ったため,■さんと結婚生活を始めることはできなくなりましたし,一般の仕事に就くこともできませんでした。
5.第2回目の監禁(今回)
(1)新潟のマンション(パレスマンション多門607号室)での監禁
1995年9月11日夜,東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中,それまでの和やかな雰囲気が一変し,その場に緊張が走り父親が「徹,ちょっと話がある」と言ってきました。そして,統一教会の批判を言いだし「ここでは何だから,別の場所に行こう」と言ってきました。私は,「しまった。またやられた。」と再び拉致監禁されることを直感し「話ならここですればいいだろう」と反論し座り込んだまましばらく抵抗していましたが,兄嫁が「いつまでもこんなことをしててもしょうがないわ。もう行きましょうよ」と言うと,兄と父に左右両脇を抱えられ,力づくで持ち上げられてしまいました。そして,母,兄嫁,妹,及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ,抵抗できない状態にされ,家の中から引きずり出されると,ワゴン車に無理やり押し込められ拉致されました。
この時,私は,もうやらないと約束していたにもかかわらず,再び拉致監禁されたショックと恐怖,また,用意周到に見知らぬ他人まで動員して逃走を防ぐかのように庭に配置しているのを目の当たりにして,絶望感に襲われ,激しく抵抗する気力さえも失せてしまいました。後日判ったことですが,庭に潜んでいた男性は,宮村が経営する株式会社タップの従業員でした。
ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り,(叔父の■氏だったかもしれない)見知らぬ男性が運転しました。私は,一番後ろの席の真ん中に座らされ,私の右側に父,左側に兄が座り,父は,終始,私の腕を掴んでいました。私はこの時,憤って,家族に対し,「もうこんなことはやらないと言っただろう」と言うと,家族は無言でした。私は,「どこに連れて行くつもりだ」と尋ねましたが,兄が「行けば分かる」と答えただけで行先は教えてくれませんでした。私は,彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行されました。
また,連行途中,私は用を足したくなり,トイレに行きたいと要求しましたが,家族等はトイレに行くことを許さず,代わりにビニール製の携帯用簡易トイレを私に手渡し,これで用を足すようにと言いました。このため私は見知らぬ者達の同乗するワゴン車の中で用を足さざるを得ず,大変屈辱的な思いをさせられました。車内では,誰も話をせず,終始無言で,異様に緊迫していました。
「パレスマンション多門」(このマンション名は後に警察が捜査して特定し,教えてもらいました)に到着すると,私は,両脇にいた兄と父に押し出されるようにして,車から降ろされました。この時,私は,「やはり監禁場所を準備していたのか,もう拉致監禁はやらないと約束していたにもかかわらず,用意周到に拉致監禁を計画して準備までしていたのか!」と,家族に裏切られた悔しさと情けなさから,激しく抵抗する気力さえも失せ,兄と父に両脇をつかまれ,家族や運転手の男に周りを囲まれたまま,気がつくと607号室に連行されていました【図2】。
同室は,窓が全て「ウィンドロック」という防犯錠が取り付けてあり【写真1】,内側から開けられないようにされていました。奥の部屋【図2の A】も引き戸の上部をウィンドロックで施錠され開けられないようにされていて,実際,一度も開けられたことはありませんでした。また玄関は,私が部屋に入れられた後,何らかの形で内側から施錠されました。このことは,松永牧師と元信者が同室を訪れ,玄関をノックした際,ちょうど私がトイレから出てきた時があり,松永牧師等を迎えに玄関に向かう父親の手に解錠するための鍵が握られていたことから間違いありません。
同室に連行され,しばらくした後,私は気力を振り絞って,家族に対して「もうこんなことはしないと言っていただろう」「(窓の施錠を指して)この鍵はなんだ。こんな人権侵害が許されると思っているのか!」「こんなのは犯罪だ!」と糾弾しました。それに対し,父親は「確かにそのように言った」と認めながらも,「他に,どうしようもなかったんだ。」と,話してきました。そして,兄は,私に対して,「言っておくが,この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし,この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは,覚悟しておけ」と言って,私が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨を宣言しました。そして,この兄の言葉は単なる上辺だけのものではありませんでした。兄を始め家族等のこの異常な決意によって,私は合計12年5ヶ月間に亘って監禁されたのです。しかも,後述の通り,私が3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ,この監禁は今なお継続していたとも言えるのです。その他兄は,「窓から飛び降りたら絶対に死ぬぞ」と言って,私が窓からの脱出を図らないよう牽制し,「死なない程度に悩め」と言って私に精神的苦痛を与えました。
私は,約8年前に京王プラザホテルに監禁され,前記宮村に強制説得された時の苦しみがよみがえってきて,夜,床についても,これからまたあの苦しみが始まるかと思うと眠ることができず,叫びたい衝動に駆られました。
というのも,監禁され,自由を奪われただけでも,その苦痛は,計り知れないものがあると思いますが,強制棄教を目的とする拉致監禁の場合,それと共に,自分の命よりも大切な信仰を踏みにじられ,それが破壊されるまで解放されないという恐怖と苦痛は筆舌に尽くし難いものがあるからです。
同室では両親,妹,兄嫁が監禁場所に常駐して私を監視していました。数日経った頃,父が「まずは,徹が信じている統一原理(統一教会の教理)を教えてくれ」と言ってきました。
これは,拉致監禁によって強制棄教する時の脱会説得の専門家が家族に指導するいつものやり方で,初めは信者に自分が信じる教理を説明させておいて,一通り説明を聞いた後で,「あなたの話は分った。今度はこちらの話を聞いてほしい。」と切り出し,第三者である脱会説得の専門家を介入させるきっかけを作るのです。
私は,「監禁という不当な環境にありながら,自分が信じている教理を説明する必要などまったくない」と憤りながらも,早く解放されたい一心から,約一週間かけて家族にノートに図を書くなどして統一原理を説明しました。その,家族への説明が終わった後,予想通り父が「統一教会に詳しいキリスト教の牧師先生がいる。是非,話を聞いてほしい。」と話してきました。
その後,すぐに松永牧師が元信者らを連れてマンションを訪れるようになりました。私は,牧師でありながら,このような非人間的な監禁下にある自分に脱会説得を行う松永に対し激しい怒りと憤りを覚えました。松永は「統一教会は問題のある団体だ」と切り出すと,多い時には週に3日,合計20回~30回,同室を訪れ,教理や教祖の批判を繰り返し,棄教を強要しました。
松永は,既成キリスト教会と統一教会を比較して「あなたは,どうして味噌とクソの区別もつかないのか」と言って侮蔑し,「メシアという言葉はもともと聖書から出てきている。その聖書から見て,文鮮明がなぜメシアなのか。説明してみなさい」と言うので,私が「誰が何を信じようと自由でしょう。私は,統一原理に感動して統一教会の信者になった。もし私をやめさせたいなら,統一教会の批判ばかり言うのではなく,統一原理以上のものを提示して下さいよ。」と言うと松永は「私は,ご両親から,(キリスト教の伝道ではなく)説得を頼まれている。まず,あなたが問題のある統一教会のことをここで真剣に考えることが先だ。ここは,そのための話し合いの場所だ。」というので,私は,「こんな所に閉じ込めておいて話し合いなどあり得ないでしょう。卑怯だ!あなた方が批判している統一教会でも,人を監禁して信者にするようなことなど絶対にありえないでしょう。」と反論しましたが,全く取り合わず,悪びれもしない態度を見て,私は,はらわたが煮えくりかえる思いに駆られました。
また,松永は統一教会の教理解説書である原理講論を批判し,「原理講論には,キリスト教の教理の中で,淫乱が最も大きな罪として取り扱われている,と書いてあるが,これは間違っている。旧約聖書の十戒では,姦淫は七番目で,一番ではない」とか,「人間の子は人間。サルの子はサル。神の子であるキリストは,神に決まっているでしょう。どうして人間が神の子になれるのか。神の子であるキリストは,神ご自身であるイエス以外にありえない。人間である文鮮明がメシアになれるはずはない。」等,自分が信仰するキリスト教の教義を絶対視し,一方的に統一教会の教義を異端視して批判しました。松永は,興奮すると時に大声を張り上げ,「統一教会は,犯罪集団だ!」「こんなに金,金と言うのが,メシアのはずがない。イエス様と全く違うじゃないか!」等と喚き立て,私に精神的苦痛を与えました。
また,この頃,松永によって拉致監禁下で脱会説得された約20人の元信者が入れ替わり立ち替わりマンションを訪れ,自分たちが統一教会を脱会した理由等を聞かされました。来訪した元信者は,■(女),小池宏明(男、現在新津福音キリスト教会牧師),■(男),■(男)といった者達です。その話の内容は,統一教会や教理,教祖に対する批判的な内容ばかりで,連日,閉ざされた空間で聞きたくもない批判を強制的に聞かされる苦痛は耐えがたく,私は,このままでは精神が破たんしてしまうのではないかと思い「神様,頭がおかしくなりそうです。もし,精神が破たんしてしまうとあなたを信じることもできなくなります。どうかお守りください」と祈らざるをえませんでした。
また,監獄のような監禁部屋において松永,元信者,家族に囲まれ,私一人に対し集団で,批判を浴びせるやり方は,まさに中世のキリスト教会で行われていた魔女狩り裁判における異端審問に匹敵し,自由と民主の現代日本において,このような蛮行が行われていることを実際に体験するに及んで,「いったいこの日本は,本当に法治国家なのか」と嘆かずにはおられませんでした。
松永に脱会説得を受けた数多くの統一教会信者の中で,監禁解放後,脱会後のリハビリ期間として松永の教会に通っていた人たちの証言によると,松永は,当時,自身が主任牧師の教会である新潟県新潟市にある新津福音キリスト教会で毎週土曜日の午後,統一教会信者である子供の脱会を望む父兄等を数十人集め,子供を脱会させるための勉強会を行なっていました。その勉強会では,まず,松永が出演する8種類のビデオ等により統一教会の実態や統一教会員の考え方などを学ばされ,特に「対応(1)(2)」というビデオでは,脱会説得のための監禁前や監禁中,また,脱会説得後に親はどのように子供に接するか,拉致から監禁,監禁後の手ほどきが解説されていました。信者父兄は,自分の子供を救出するその時が来るまで松永が主催するこの勉強会に何回も出席し,このような内容のビデオを繰り返し見せられます。
この勉強会で,拉致監禁による説得以外に統一教会をやめさせることができないと教え込まれた父兄等が,拉致監禁を決意して松永に相談すると,「2DAYS」と呼ばれていたセミナーへの参加を勧められます。このセミナーは,統一教会信者に対する拉致監禁をその父兄らに行わせるための教育と実践方法を学ぶのが目的で開催され,その中心は,拉致監禁のための具体的な模擬訓練による指導です。このセミナーでは,松永が自ら拉致監禁の具体的な内容について黒板を使って説明します。
この具体的な内容は,このセミナーに松永とともに何度も参加し,セミナーの講義も担当したことがある小出浩久氏が詳しく証言していますが,極めて具体的な方法まで細かく指示しています。なお,小出氏は,監禁説得の準備のために,新潟市内にあるロイヤルコープというマンションに松永と同行し,玄関を内側から施錠するためのチェーン式の鍵を持たされ,窓が内側から開けられないように特殊な器具を取り付け,障子戸なども開かないように釘で打ち付けることを行っています。これら全ては松永の指示で行ったということです。本来,人の魂に安らぎを与える牧師ともあろう人物が陰でなんと酷いことをやらせているのかと,本当に怒りと憤りを禁じえません。
もともと脱会説得の方法の知識も経験もない統一教会信者父兄が,このような松永による教育と指導を受けずに,自分で計画・実行するとはとても考えられません。用意周到な準備と余りにも手際良い拉致監禁など一般人に考えつく芸当ではありません。私の両親は,既に前記宮村の指導のもと,私を含め3人の子供に対する拉致監禁による脱会説得を実行しましたが,今回の脱会説得においても,改めて松永に相談・指導を仰いだことは,間違いありません。
松永や元信者が同室に来るときは,ドアをノックする回数を取り決めていたようで,いつも合図のように何度かノックの音がしていました。すると,家族は緊張した様子で玄関に向かって松永や元信者を迎え入れていました。当時,私はそのノックの音を耳にし,これからまた聞きたくもない批判を強制的に聞かされると思うと,体中に緊張とものすごい不快感が走り,血の気が引いていくような感覚に襲われました。
監禁から解放されて3年以上経った今もその後遺症は残っていて,「トントン」というノックの音を聞くと背筋に緊張が走り不快な気持が襲ってきます。
また,この頃,兄は,東京で働いていたため,時々顔を見せる程度でしたが,来る度,私に対し、「今、何を考えている?」「松永先生の話はどうだ?」「原理(統一教会の教理)にまだ確信があるのか?」等、質問を投げかけ私の気持ちを聞き出そうとしました。これは、私に対する脱会説得がどの程度進行し、彼らの言うマインド・コントロールがどの程度解けているのかを見極めようとしていたに違いありません。私は、監禁下で情報をコントロールしながら、人の心(思想信条)に土足で踏み込んでくる彼らのやり方に、言いようのない怒りと嫌悪感を覚えました。
私は,拉致監禁される一月ほど前に統一教会の合同結婚式を通して将来を誓い合った婚約者がいましたが,その婚約者と連絡を取ることができない期間が長くなるにつれて「彼女は,今どうしているだろうか。心配しているに違いない。」「私のことを必死に探しているに違いない。」そんな思いが,私の心を締め付けました。
そうしたこともあり,拉致監禁から3カ月半ほど経った1995年12月末,私はこのままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し,監禁から脱出するために,意に反して信仰を失い脱会を決意した振り,すなわち “偽装脱会”をして,脱会した証しとして意に反して脱会届を書きました。脱会届を書くと,松永から私が統一教会の入信から脱会を決意するに到った手記を書くように指示され,レポート用紙10枚ほど書かされました。
私は,信仰を保っていたにもかかわれず,本当に信仰を失ったかどうか確かめるための「踏み絵」のような手記を書かされるのは,苦痛以外の何物でもありませんでしたが,監禁から一刻も早く解放されたい一心で意に反して本心を偽り,松永や家族の意に沿うような内容の手記を書きました。
この,偽装脱会をしていた期間は,マンションからの脱出を図りたくとも,安易に行動できない,たいへんな緊張を強いられる期間でした。なぜなら,例えば玄関ドアの施錠の状態を確かめようとして玄関を覗くような行動をとることにより,もし,偽装脱会をしていることがバレてしまった場合,脱出が一層困難になるばかりか,松永牧師等による脱会説得が再び始まり,教会の悪口や中傷罵倒を毎日のように聞かされるようになることは明らかだったからです。私にとり,その苦しみは到底耐え難いものでした。
ゆえに,この期間は,監視がなくなり確実に逃走できる状態が訪れるまでは,信仰を捨てていないことを疑われるような行動を取ることはできませんでした。私は,ひたすら完全に逃走することができる瞬間が訪れるのを辛抱強く待つしかなかったのです。しかし,私が脱会を表明した後も,家族等は私を監禁し続けました。1987年の1回目の監禁の時,私が偽装脱会をして逃走したため,今度は家族等が慎重になったのだと思います。
私は,いつまでも外に出してもらえないことにしびれを切らし家族に対し「ずーとマンションにいると息苦しいので,ちょっとでいいので外を散歩させてくれないか」と頼みましたが,家族は「まだ,それはできない」と言って聞き入れませんでした。月日が経つにつれ,募る焦燥感に押しつぶされそうになった私は,また,不当に監禁されていることに対する憤りも相まって「もう,(脱会届を書いて)1年も経つのに,どうして散歩もさせてくれないのか!」と家族を責めましたが,そのような態度をとればとるほど,逆に出してもらえないと判断し,1997年の初め頃には,上のようなことを言わなくなり,ひたすら監視がなくなりマンションから出してもらえる日を待ち続けました。
1996年3月,同室にて監視していた父の容態が突然悪化して入院し,心臓のバイパス手術を受けましたが,私は一切監禁から解放されませんでした。心臓の手術が成功した後,父は同室に戻ってきましたが,1997年3月,癌のため再び入院し,同年6月22日,死去(65歳)しました。同室に監禁されている間,父の入院等で,監視が女性だけになった時もありましたが,玄関には内側から脱出できないよう施錠がされていることや上記理由もあって,ひたすら完全に逃走することができる瞬間が訪れるのを辛抱強く待つしかありませんでした。
ホームに帰ってより後は,再び家族らによって拉致監禁される恐怖に苛まれ,もともと所属していた兄が知っている部署から他の部署に移してもらい,居場所がばれないように「鈴木祐司」と偽名を名乗り,家族に居場所を告げることさえもできず,潜伏生活を余儀なくされました。道にワゴン車が止まっていると,物陰から誰かが飛び出してきて襲撃され,そのワゴン車に拉致されるのではないかと気が気ではありませんでした。
実際,当時,日本では全国で数多くの統一教会信者が突然失踪する事件が頻発しており,1990年~92年の3年間だけで,941名が失踪しました。その内,統一教会に戻ってきた233名に聞き取り調査をしたところ,失踪理由が本人の意思に反する拉致監禁による棄教目的の強制説得であったことが分かっています。特に1992年に至っては1年間で375名が失踪し,延べ,一日に一人以上が拉致監禁されるという異常さでありました。
そのような中で私は「信教の自由が憲法において保障されている現代日本において,なぜ,中世の魔女狩りのような恐怖に怯えなければならないのか」,と嘆息しながら「今日は,自分が拉致監禁されるかもしれない」と一時も心の休まる暇もないほどでした。
この春にせっかく入社した会社に復帰したい気持ちもありましたが,職場に復帰すると家族らに私の居場所を知られ,再び拉致監禁されるかも知れないという恐れがどうしても拭えず戻ることができませんでした。このため私は仕方なく大成建設を退社し,その後は,信徒組織にて献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになりました。
その頃,私は,兄と私が立て続けに拉致監禁されたため,次は妹が狙われるのではないかと心配していました。そして,その心配は現実となってしまいました。1989年初め頃には,今度は妹が両親,及び兄等によって拉致され,脱会してしまいました。それからしばらくの間,私は妹を強制説得から守ることができなかった自責の念に駆られ苦しみました。
兄は,脱会後,宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになり,1991年には東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわるゆ「青春を返せ裁判」)を提起しています。
1992年8月,私は■(後藤氏の最初の婚約者)という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加しました。合同結婚式は,参加した相手と永遠の伴侶として将来,幸せな家庭を築くことを誓い合う出発の儀式であり,もちろんそれは,私の願いでもありました。しかし,残念なことに,その後,■さんは家族らによって脱会説得を受け,信仰を失ってしました。このため,私は■さんと結婚生活を開始することはできませんでした。
最初の拉致監禁から年月が過ぎる中,再び拉致監禁されることに警戒しつつも,いつまでもこのままではらちが明かないと思い,電話での会話から始まり,手紙を送ったり,家族の誕生日にはプレゼントを贈ったりして,少しずつ家族との関係を修復する努力をしました。そんな中,確か1992年頃だと思いますが,父親との電話での会話で父が「もうあんなことはしない」と明言して,二度と拉致監禁をしないことを約束してくれました。そこで,こちらの居場所を家族に伝え,私が統一教会の信仰を持っていることには反対しながらも再び家族と交流ができるようになりました。
1995年1月,兄は■という女性(以下,「兄嫁」と言う)と結婚しました。兄嫁も,親族に拉致監禁され,宮村,及び松永堡智(日本同盟基督教団新津福音キリスト教会牧師)らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者で,脱会後は統一教会に対する反対活動を行うようになり,1991年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起しています。
1995年8月,私は■(後藤氏の2回目の婚約者)という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加しました。既に年齢も31歳となっていたことから,この頃より私は将来家庭を持つことに備えて,統一教会での信仰は続けつつも信徒組織での活動を辞め,一般の仕事に就くことを考えていました。しかし,同年9月に私が2回目の拉致監禁の被害に遭ったため,■さんと結婚生活を始めることはできなくなりましたし,一般の仕事に就くこともできませんでした。
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後藤徹さんが監禁されたパレス多門607号室=小川寿夫世話人提供 |
5.第2回目の監禁(今回)
(1)新潟のマンション(パレスマンション多門607号室)での監禁
1995年9月11日夜,東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中,それまでの和やかな雰囲気が一変し,その場に緊張が走り父親が「徹,ちょっと話がある」と言ってきました。そして,統一教会の批判を言いだし「ここでは何だから,別の場所に行こう」と言ってきました。私は,「しまった。またやられた。」と再び拉致監禁されることを直感し「話ならここですればいいだろう」と反論し座り込んだまましばらく抵抗していましたが,兄嫁が「いつまでもこんなことをしててもしょうがないわ。もう行きましょうよ」と言うと,兄と父に左右両脇を抱えられ,力づくで持ち上げられてしまいました。そして,母,兄嫁,妹,及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ,抵抗できない状態にされ,家の中から引きずり出されると,ワゴン車に無理やり押し込められ拉致されました。
この時,私は,もうやらないと約束していたにもかかわらず,再び拉致監禁されたショックと恐怖,また,用意周到に見知らぬ他人まで動員して逃走を防ぐかのように庭に配置しているのを目の当たりにして,絶望感に襲われ,激しく抵抗する気力さえも失せてしまいました。後日判ったことですが,庭に潜んでいた男性は,宮村が経営する株式会社タップの従業員でした。
ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り,(叔父の■氏だったかもしれない)見知らぬ男性が運転しました。私は,一番後ろの席の真ん中に座らされ,私の右側に父,左側に兄が座り,父は,終始,私の腕を掴んでいました。私はこの時,憤って,家族に対し,「もうこんなことはやらないと言っただろう」と言うと,家族は無言でした。私は,「どこに連れて行くつもりだ」と尋ねましたが,兄が「行けば分かる」と答えただけで行先は教えてくれませんでした。私は,彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行されました。
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【図2】 |
また,連行途中,私は用を足したくなり,トイレに行きたいと要求しましたが,家族等はトイレに行くことを許さず,代わりにビニール製の携帯用簡易トイレを私に手渡し,これで用を足すようにと言いました。このため私は見知らぬ者達の同乗するワゴン車の中で用を足さざるを得ず,大変屈辱的な思いをさせられました。車内では,誰も話をせず,終始無言で,異様に緊迫していました。
「パレスマンション多門」(このマンション名は後に警察が捜査して特定し,教えてもらいました)に到着すると,私は,両脇にいた兄と父に押し出されるようにして,車から降ろされました。この時,私は,「やはり監禁場所を準備していたのか,もう拉致監禁はやらないと約束していたにもかかわらず,用意周到に拉致監禁を計画して準備までしていたのか!」と,家族に裏切られた悔しさと情けなさから,激しく抵抗する気力さえも失せ,兄と父に両脇をつかまれ,家族や運転手の男に周りを囲まれたまま,気がつくと607号室に連行されていました【図2】。
同室は,窓が全て「ウィンドロック」という防犯錠が取り付けてあり【写真1】,内側から開けられないようにされていました。奥の部屋【図2の A】も引き戸の上部をウィンドロックで施錠され開けられないようにされていて,実際,一度も開けられたことはありませんでした。また玄関は,私が部屋に入れられた後,何らかの形で内側から施錠されました。このことは,松永牧師と元信者が同室を訪れ,玄関をノックした際,ちょうど私がトイレから出てきた時があり,松永牧師等を迎えに玄関に向かう父親の手に解錠するための鍵が握られていたことから間違いありません。
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【写真1】 |
同室に連行され,しばらくした後,私は気力を振り絞って,家族に対して「もうこんなことはしないと言っていただろう」「(窓の施錠を指して)この鍵はなんだ。こんな人権侵害が許されると思っているのか!」「こんなのは犯罪だ!」と糾弾しました。それに対し,父親は「確かにそのように言った」と認めながらも,「他に,どうしようもなかったんだ。」と,話してきました。そして,兄は,私に対して,「言っておくが,この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし,この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは,覚悟しておけ」と言って,私が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨を宣言しました。そして,この兄の言葉は単なる上辺だけのものではありませんでした。兄を始め家族等のこの異常な決意によって,私は合計12年5ヶ月間に亘って監禁されたのです。しかも,後述の通り,私が3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ,この監禁は今なお継続していたとも言えるのです。その他兄は,「窓から飛び降りたら絶対に死ぬぞ」と言って,私が窓からの脱出を図らないよう牽制し,「死なない程度に悩め」と言って私に精神的苦痛を与えました。
私は,約8年前に京王プラザホテルに監禁され,前記宮村に強制説得された時の苦しみがよみがえってきて,夜,床についても,これからまたあの苦しみが始まるかと思うと眠ることができず,叫びたい衝動に駆られました。
というのも,監禁され,自由を奪われただけでも,その苦痛は,計り知れないものがあると思いますが,強制棄教を目的とする拉致監禁の場合,それと共に,自分の命よりも大切な信仰を踏みにじられ,それが破壊されるまで解放されないという恐怖と苦痛は筆舌に尽くし難いものがあるからです。
同室では両親,妹,兄嫁が監禁場所に常駐して私を監視していました。数日経った頃,父が「まずは,徹が信じている統一原理(統一教会の教理)を教えてくれ」と言ってきました。
これは,拉致監禁によって強制棄教する時の脱会説得の専門家が家族に指導するいつものやり方で,初めは信者に自分が信じる教理を説明させておいて,一通り説明を聞いた後で,「あなたの話は分った。今度はこちらの話を聞いてほしい。」と切り出し,第三者である脱会説得の専門家を介入させるきっかけを作るのです。
私は,「監禁という不当な環境にありながら,自分が信じている教理を説明する必要などまったくない」と憤りながらも,早く解放されたい一心から,約一週間かけて家族にノートに図を書くなどして統一原理を説明しました。その,家族への説明が終わった後,予想通り父が「統一教会に詳しいキリスト教の牧師先生がいる。是非,話を聞いてほしい。」と話してきました。
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新津福音キリスト教会(小川寿夫世話人提供)と松永堡智牧師(教会ホームページより) |
その後,すぐに松永牧師が元信者らを連れてマンションを訪れるようになりました。私は,牧師でありながら,このような非人間的な監禁下にある自分に脱会説得を行う松永に対し激しい怒りと憤りを覚えました。松永は「統一教会は問題のある団体だ」と切り出すと,多い時には週に3日,合計20回~30回,同室を訪れ,教理や教祖の批判を繰り返し,棄教を強要しました。
松永は,既成キリスト教会と統一教会を比較して「あなたは,どうして味噌とクソの区別もつかないのか」と言って侮蔑し,「メシアという言葉はもともと聖書から出てきている。その聖書から見て,文鮮明がなぜメシアなのか。説明してみなさい」と言うので,私が「誰が何を信じようと自由でしょう。私は,統一原理に感動して統一教会の信者になった。もし私をやめさせたいなら,統一教会の批判ばかり言うのではなく,統一原理以上のものを提示して下さいよ。」と言うと松永は「私は,ご両親から,(キリスト教の伝道ではなく)説得を頼まれている。まず,あなたが問題のある統一教会のことをここで真剣に考えることが先だ。ここは,そのための話し合いの場所だ。」というので,私は,「こんな所に閉じ込めておいて話し合いなどあり得ないでしょう。卑怯だ!あなた方が批判している統一教会でも,人を監禁して信者にするようなことなど絶対にありえないでしょう。」と反論しましたが,全く取り合わず,悪びれもしない態度を見て,私は,はらわたが煮えくりかえる思いに駆られました。
また,松永は統一教会の教理解説書である原理講論を批判し,「原理講論には,キリスト教の教理の中で,淫乱が最も大きな罪として取り扱われている,と書いてあるが,これは間違っている。旧約聖書の十戒では,姦淫は七番目で,一番ではない」とか,「人間の子は人間。サルの子はサル。神の子であるキリストは,神に決まっているでしょう。どうして人間が神の子になれるのか。神の子であるキリストは,神ご自身であるイエス以外にありえない。人間である文鮮明がメシアになれるはずはない。」等,自分が信仰するキリスト教の教義を絶対視し,一方的に統一教会の教義を異端視して批判しました。松永は,興奮すると時に大声を張り上げ,「統一教会は,犯罪集団だ!」「こんなに金,金と言うのが,メシアのはずがない。イエス様と全く違うじゃないか!」等と喚き立て,私に精神的苦痛を与えました。
また,この頃,松永によって拉致監禁下で脱会説得された約20人の元信者が入れ替わり立ち替わりマンションを訪れ,自分たちが統一教会を脱会した理由等を聞かされました。来訪した元信者は,■(女),小池宏明(男、現在新津福音キリスト教会牧師),■(男),■(男)といった者達です。その話の内容は,統一教会や教理,教祖に対する批判的な内容ばかりで,連日,閉ざされた空間で聞きたくもない批判を強制的に聞かされる苦痛は耐えがたく,私は,このままでは精神が破たんしてしまうのではないかと思い「神様,頭がおかしくなりそうです。もし,精神が破たんしてしまうとあなたを信じることもできなくなります。どうかお守りください」と祈らざるをえませんでした。
また,監獄のような監禁部屋において松永,元信者,家族に囲まれ,私一人に対し集団で,批判を浴びせるやり方は,まさに中世のキリスト教会で行われていた魔女狩り裁判における異端審問に匹敵し,自由と民主の現代日本において,このような蛮行が行われていることを実際に体験するに及んで,「いったいこの日本は,本当に法治国家なのか」と嘆かずにはおられませんでした。
松永に脱会説得を受けた数多くの統一教会信者の中で,監禁解放後,脱会後のリハビリ期間として松永の教会に通っていた人たちの証言によると,松永は,当時,自身が主任牧師の教会である新潟県新潟市にある新津福音キリスト教会で毎週土曜日の午後,統一教会信者である子供の脱会を望む父兄等を数十人集め,子供を脱会させるための勉強会を行なっていました。その勉強会では,まず,松永が出演する8種類のビデオ等により統一教会の実態や統一教会員の考え方などを学ばされ,特に「対応(1)(2)」というビデオでは,脱会説得のための監禁前や監禁中,また,脱会説得後に親はどのように子供に接するか,拉致から監禁,監禁後の手ほどきが解説されていました。信者父兄は,自分の子供を救出するその時が来るまで松永が主催するこの勉強会に何回も出席し,このような内容のビデオを繰り返し見せられます。
この勉強会で,拉致監禁による説得以外に統一教会をやめさせることができないと教え込まれた父兄等が,拉致監禁を決意して松永に相談すると,「2DAYS」と呼ばれていたセミナーへの参加を勧められます。このセミナーは,統一教会信者に対する拉致監禁をその父兄らに行わせるための教育と実践方法を学ぶのが目的で開催され,その中心は,拉致監禁のための具体的な模擬訓練による指導です。このセミナーでは,松永が自ら拉致監禁の具体的な内容について黒板を使って説明します。
この具体的な内容は,このセミナーに松永とともに何度も参加し,セミナーの講義も担当したことがある小出浩久氏が詳しく証言していますが,極めて具体的な方法まで細かく指示しています。なお,小出氏は,監禁説得の準備のために,新潟市内にあるロイヤルコープというマンションに松永と同行し,玄関を内側から施錠するためのチェーン式の鍵を持たされ,窓が内側から開けられないように特殊な器具を取り付け,障子戸なども開かないように釘で打ち付けることを行っています。これら全ては松永の指示で行ったということです。本来,人の魂に安らぎを与える牧師ともあろう人物が陰でなんと酷いことをやらせているのかと,本当に怒りと憤りを禁じえません。
もともと脱会説得の方法の知識も経験もない統一教会信者父兄が,このような松永による教育と指導を受けずに,自分で計画・実行するとはとても考えられません。用意周到な準備と余りにも手際良い拉致監禁など一般人に考えつく芸当ではありません。私の両親は,既に前記宮村の指導のもと,私を含め3人の子供に対する拉致監禁による脱会説得を実行しましたが,今回の脱会説得においても,改めて松永に相談・指導を仰いだことは,間違いありません。
松永や元信者が同室に来るときは,ドアをノックする回数を取り決めていたようで,いつも合図のように何度かノックの音がしていました。すると,家族は緊張した様子で玄関に向かって松永や元信者を迎え入れていました。当時,私はそのノックの音を耳にし,これからまた聞きたくもない批判を強制的に聞かされると思うと,体中に緊張とものすごい不快感が走り,血の気が引いていくような感覚に襲われました。
監禁から解放されて3年以上経った今もその後遺症は残っていて,「トントン」というノックの音を聞くと背筋に緊張が走り不快な気持が襲ってきます。
また,この頃,兄は,東京で働いていたため,時々顔を見せる程度でしたが,来る度,私に対し、「今、何を考えている?」「松永先生の話はどうだ?」「原理(統一教会の教理)にまだ確信があるのか?」等、質問を投げかけ私の気持ちを聞き出そうとしました。これは、私に対する脱会説得がどの程度進行し、彼らの言うマインド・コントロールがどの程度解けているのかを見極めようとしていたに違いありません。私は、監禁下で情報をコントロールしながら、人の心(思想信条)に土足で踏み込んでくる彼らのやり方に、言いようのない怒りと嫌悪感を覚えました。
私は,拉致監禁される一月ほど前に統一教会の合同結婚式を通して将来を誓い合った婚約者がいましたが,その婚約者と連絡を取ることができない期間が長くなるにつれて「彼女は,今どうしているだろうか。心配しているに違いない。」「私のことを必死に探しているに違いない。」そんな思いが,私の心を締め付けました。
そうしたこともあり,拉致監禁から3カ月半ほど経った1995年12月末,私はこのままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し,監禁から脱出するために,意に反して信仰を失い脱会を決意した振り,すなわち “偽装脱会”をして,脱会した証しとして意に反して脱会届を書きました。脱会届を書くと,松永から私が統一教会の入信から脱会を決意するに到った手記を書くように指示され,レポート用紙10枚ほど書かされました。
私は,信仰を保っていたにもかかわれず,本当に信仰を失ったかどうか確かめるための「踏み絵」のような手記を書かされるのは,苦痛以外の何物でもありませんでしたが,監禁から一刻も早く解放されたい一心で意に反して本心を偽り,松永や家族の意に沿うような内容の手記を書きました。
この,偽装脱会をしていた期間は,マンションからの脱出を図りたくとも,安易に行動できない,たいへんな緊張を強いられる期間でした。なぜなら,例えば玄関ドアの施錠の状態を確かめようとして玄関を覗くような行動をとることにより,もし,偽装脱会をしていることがバレてしまった場合,脱出が一層困難になるばかりか,松永牧師等による脱会説得が再び始まり,教会の悪口や中傷罵倒を毎日のように聞かされるようになることは明らかだったからです。私にとり,その苦しみは到底耐え難いものでした。
ゆえに,この期間は,監視がなくなり確実に逃走できる状態が訪れるまでは,信仰を捨てていないことを疑われるような行動を取ることはできませんでした。私は,ひたすら完全に逃走することができる瞬間が訪れるのを辛抱強く待つしかなかったのです。しかし,私が脱会を表明した後も,家族等は私を監禁し続けました。1987年の1回目の監禁の時,私が偽装脱会をして逃走したため,今度は家族等が慎重になったのだと思います。
私は,いつまでも外に出してもらえないことにしびれを切らし家族に対し「ずーとマンションにいると息苦しいので,ちょっとでいいので外を散歩させてくれないか」と頼みましたが,家族は「まだ,それはできない」と言って聞き入れませんでした。月日が経つにつれ,募る焦燥感に押しつぶされそうになった私は,また,不当に監禁されていることに対する憤りも相まって「もう,(脱会届を書いて)1年も経つのに,どうして散歩もさせてくれないのか!」と家族を責めましたが,そのような態度をとればとるほど,逆に出してもらえないと判断し,1997年の初め頃には,上のようなことを言わなくなり,ひたすら監視がなくなりマンションから出してもらえる日を待ち続けました。
1996年3月,同室にて監視していた父の容態が突然悪化して入院し,心臓のバイパス手術を受けましたが,私は一切監禁から解放されませんでした。心臓の手術が成功した後,父は同室に戻ってきましたが,1997年3月,癌のため再び入院し,同年6月22日,死去(65歳)しました。同室に監禁されている間,父の入院等で,監視が女性だけになった時もありましたが,玄関には内側から脱出できないよう施錠がされていることや上記理由もあって,ひたすら完全に逃走することができる瞬間が訪れるのを辛抱強く待つしかありませんでした。
2011-06-06(Mon)
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お気持ちをお察しいたします
後藤さん。長く辛い体験されたことをお察しいたします。このマンションの607号室につながる長い廊下その突き当たりを曲がって一番奥の目立たない所にある部屋です。玄関前までしかいけないけれど、当時この部屋でこのような蛮行が行われていることなどだれが想像したでしょうか?昔から船に例えると、いたこ一枚下は地獄と、いう諺がありますが、扉一枚向こうも地獄 脱出出来ないように鍵をかける。窓もしかり 多勢に無勢一対多数家族も敵おまけに牧師という黒幕。まさに、パレス多門強制思想改造所 である。それから、窓が開かないようにするウインドーロック等ホームセンターに行けば簡単に手に入る監禁七つ道具。これも自分で購入し、試しに自宅の窓に取り付けてみた。もちろん窓は開くはずなし。こんなところでもしも私があなたが監禁されたらそして、後藤さんと同じ境遇になったらどうですか?4678
知らなかった!
拉致監禁に誘(いざな)う勉強会のことは取材し、原稿にしてきましたが、8種類の逆洗脳ビデオ、「2DAYS」と呼ばれていた監禁実践のためのセミナーがあったとは!少々驚きです。
松永牧師らに、統一教会の教化システムを批判する資格はありませんね。
いずれアップされるだろう小出さんの陳述書を楽しみにしています。
松永牧師らに、統一教会の教化システムを批判する資格はありませんね。
いずれアップされるだろう小出さんの陳述書を楽しみにしています。
絶対に許さない
<「もう,(脱会届を書いて)1年も経つのに,どうして散歩もさせてくれないのか!」と家族を責めましたが,そのような態度をとればとるほど,逆に出してもらえないと判断し,1997年の初め頃には,上のようなことを言わなくなり,ひたすら監視がなくなりマンションから出してもらえる日を待ち続けました>
このくだりを読むと、本当に胸が苦しくなります。
私は暑がりなのもあって、職場で窓や扉を開けないで仕事をしていると、息が詰まりそうになります。
従業員には花粉症や外から入ってくるタバコの煙りを嫌う人がいるので、なかなか窓や扉を開けてもらえないのですが、それだけでも気持ち的にはかなりしんどく、忍耐を要します。
後藤さんの場合、何年もの間、窓を開けてもらえず、外の空気にも景色にも触れさせてもらえなかったわけですよね。そう思っただけでも、私は気が変になりそうです。何か偏執狂、サイコキラーの映画を見た時にような、吐き気を催しそうになります。
どうして、そんな非人間的なことができるのか。親、兄弟なのに…。
子(弟)に外の空気を吸わせない…、それでも、平気で生きていられる。
彼ら親族は何かに取り憑かれているとしか、言いようがない。正にキチガイ沙汰です。
そこまでさせてしまう松永牧師という人間は一体、何者でしょうか。後藤さんを監禁したままにして窓を開けることすら許さず、自分は、のうのうと外の空気を吸い、綺麗な景色を見て、自由に生きてきた。
許せない。こんな人間が、もし、知らぬ存ぜぬを決め込んで、かすり傷一つ負わず、生き延びるとしたら…。
法律が許しても、警察が許しても、世論が許しても、私は絶対許さない。
このくだりを読むと、本当に胸が苦しくなります。
私は暑がりなのもあって、職場で窓や扉を開けないで仕事をしていると、息が詰まりそうになります。
従業員には花粉症や外から入ってくるタバコの煙りを嫌う人がいるので、なかなか窓や扉を開けてもらえないのですが、それだけでも気持ち的にはかなりしんどく、忍耐を要します。
後藤さんの場合、何年もの間、窓を開けてもらえず、外の空気にも景色にも触れさせてもらえなかったわけですよね。そう思っただけでも、私は気が変になりそうです。何か偏執狂、サイコキラーの映画を見た時にような、吐き気を催しそうになります。
どうして、そんな非人間的なことができるのか。親、兄弟なのに…。
子(弟)に外の空気を吸わせない…、それでも、平気で生きていられる。
彼ら親族は何かに取り憑かれているとしか、言いようがない。正にキチガイ沙汰です。
そこまでさせてしまう松永牧師という人間は一体、何者でしょうか。後藤さんを監禁したままにして窓を開けることすら許さず、自分は、のうのうと外の空気を吸い、綺麗な景色を見て、自由に生きてきた。
許せない。こんな人間が、もし、知らぬ存ぜぬを決め込んで、かすり傷一つ負わず、生き延びるとしたら…。
法律が許しても、警察が許しても、世論が許しても、私は絶対許さない。
拉致監禁は拷問と同じ。
みんなさんに同感です。読むうちに、あまりの残酷さに、身の毛がよだつほどです。これは、神を信じる一信者にたいして、拷問しているのと同じです。過去に信仰ゆえに、拷問されたり、虐待されたりした、多くの義人がいますが、現代の日本においては、あるまじきことです。2回目の裁判のとき、宮村側は、ウソの答弁書を出しましたが、後藤氏側は、これから、1万ページ以上の真実の証言や、証拠がでてくるでしょう。一日もはやく、この事件が解決されることを、祈ります。
逆洗脳ビデオ
はじめまして。数日前にこのサイトのことを知りました。在韓の教会員です。
正直、目がまんまる状態です。後藤さんのことはこちらでもかなり有名ですが、裁判の中身については不勉強でした。 私たち在韓の教会員もこの裁判の中身をもっと知らなければいけないと思います。
それにしても逆洗脳のビデオとは?
現物は手にはいらないものですかね~
スーパーヘビー級の証拠品になるのに。
もう処分しちゃってるか、厳重に保管ですよね~
正直、目がまんまる状態です。後藤さんのことはこちらでもかなり有名ですが、裁判の中身については不勉強でした。 私たち在韓の教会員もこの裁判の中身をもっと知らなければいけないと思います。
それにしても逆洗脳のビデオとは?
現物は手にはいらないものですかね~
スーパーヘビー級の証拠品になるのに。
もう処分しちゃってるか、厳重に保管ですよね~
No title
とうとう宮村の化けの皮がはがれました!
拡散希望です。
http://miyamurakirai.blog104.fc2.com/blog-entry-1.html
http://blogs.yahoo.co.jp/miyamurakirai/4279660.html
拡散希望です。
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http://blogs.yahoo.co.jp/miyamurakirai/4279660.html
動かぬ証拠
白い旅団さん。ありがとうございます。
この記事と写真は、完全な証拠です。宮村側にいる国会議員、ジャーナリスト、弁護士らは、無抵抗で、無垢な女性たちの人生を奪った罪の償いをどうやってするのだろうか。宇佐美さんの件にしても、警察までまきこんで、計画されたとしか、考えられません。純粋に神を求めようとして歩んでいる求道者たちを、このように、無残に奪っていく拉致監禁に、神も人もこれ以上沈黙はしません。お金と権力で、これ以上、神と人々をあやめることは、ゆるされません。
この記事と写真は、完全な証拠です。宮村側にいる国会議員、ジャーナリスト、弁護士らは、無抵抗で、無垢な女性たちの人生を奪った罪の償いをどうやってするのだろうか。宇佐美さんの件にしても、警察までまきこんで、計画されたとしか、考えられません。純粋に神を求めようとして歩んでいる求道者たちを、このように、無残に奪っていく拉致監禁に、神も人もこれ以上沈黙はしません。お金と権力で、これ以上、神と人々をあやめることは、ゆるされません。
推薦リンクさせていただきました。
白い旅団様
ブログ拝見しました。大変な力作ですね。「拡散希望」と書かれていたので、リンクさせていただきました。今後ともよろしくお願いします。
ブログ拝見しました。大変な力作ですね。「拡散希望」と書かれていたので、リンクさせていただきました。今後ともよろしくお願いします。
「拉致監禁」はなかった!?
統一教会のホームページに、宇佐美さんの第三回公判のことが紹介されています。
それによると、
<女性は家族との話し合いの当初から宮村峻氏の関与があった事実を認めましたが、「拉致監禁」の事実は頑なに否定し続けました>
とのことです。
宮村の関与があったが「拉致監禁はなかった」と。
こんな話がありますかねぇ。
これは偽証にはならないのでしょうか。
後藤さんの裁判でも、兄や宮村たちは「拉致監禁はなかった」と言うのでしょうね、きっと。
これは言葉の解釈(拉致監禁≠保護説得)の問題なのでしょうか。
「マンションに鍵を掛けて外出できないようにしましたか」というふうに質問しても、やはり「しなかった」と答え、これが偽証には当たらない、ということになるのでしょうか。
こんなに裁判というのはいいかげんなものなのでしょうか。なんか、しらけてしまいましたね。
それによると、
<女性は家族との話し合いの当初から宮村峻氏の関与があった事実を認めましたが、「拉致監禁」の事実は頑なに否定し続けました>
とのことです。
宮村の関与があったが「拉致監禁はなかった」と。
こんな話がありますかねぇ。
これは偽証にはならないのでしょうか。
後藤さんの裁判でも、兄や宮村たちは「拉致監禁はなかった」と言うのでしょうね、きっと。
これは言葉の解釈(拉致監禁≠保護説得)の問題なのでしょうか。
「マンションに鍵を掛けて外出できないようにしましたか」というふうに質問しても、やはり「しなかった」と答え、これが偽証には当たらない、ということになるのでしょうか。
こんなに裁判というのはいいかげんなものなのでしょうか。なんか、しらけてしまいましたね。
真実、事実
みんなさんへ、
先回の後藤さんの裁判の宮村氏側の答弁書では、拉致監禁はしなかったと書いてありました。後藤氏が勝手に居座ったと書いてあったし、ほかにも、偽りのウソの内容が、何箇所もありました。彼らは、拉致監禁が、明らかに、犯罪になることを感じているので、弁解して、逃避したいのだと思います。弁護師らと話しを合わせておかなければいけないので、当人(工藤さん)の心は、葛藤しているでしょうね。リンクを見ようと思ってクリックしたら、真っ白になっています。これから、正義感の強い裁判官の公正な判決を期待しています。
先回の後藤さんの裁判の宮村氏側の答弁書では、拉致監禁はしなかったと書いてありました。後藤氏が勝手に居座ったと書いてあったし、ほかにも、偽りのウソの内容が、何箇所もありました。彼らは、拉致監禁が、明らかに、犯罪になることを感じているので、弁解して、逃避したいのだと思います。弁護師らと話しを合わせておかなければいけないので、当人(工藤さん)の心は、葛藤しているでしょうね。リンクを見ようと思ってクリックしたら、真っ白になっています。これから、正義感の強い裁判官の公正な判決を期待しています。
宇佐美さんの第3回公判について
宇佐美さんの第3回公判、弁護士とKさんのやりとりを読みました。弁護士の質問鋭いですね。真実は、本人に確認されますから、この時点で、ウソか正直に答えているか、判断されるでしょう。読みながら、自分がそこにいるようで、緊張しました。Kさんも辛い立場だと思います。Kさんの弁護士との打ち合せもあるでしょうから。
拉致監禁はなかったかぁ!
拉致監禁はなかったかぁ。そう言うのも仕方ないです。過去、山崎浩子さんもワイドショー司会者から拉致監禁じゃなかったのですよね?と聞かれて、はい、と言っていたし。私も昔は、公には、拉致監禁じゃなかった、と言っていたし。だけどね、強制脱会者同士で「あれは拉致監禁だよね」と言っていたし、ある脱会者は、拉致監禁されたことが悔しくて、親を訴えようと思ってた、と言っていたし。脱会後、O教会に所属してた人は、「監禁しないでどうやって説得するの?」と言っていたし。拉致監禁による脱会説得があることは、監禁はない、と言っている反対派、元信者がわかってます。
No title
監禁経験がある現役信者です。Koyomiさんのコメント、元教会員だけに説得力があります。おっしゃる通りで、拉致監禁せずに統一教会信者を脱会させるのは難しいです。そんなことは、宮村さんや松永さんは、百も承知でしょ。食口の信仰は、大抵、命がけです。自分の心にある、命よりも貴重なものが危機に晒されれば、誰だって死に物狂いで抵抗するものです。後藤さんのお兄さんも妹さんも兄嫁さんも必死の抵抗を試みたはずです。もし、自由が確保された話し合いの場であれば、100パーセント教会に連絡を取るし、いったんは、教会に戻りますよ。そんなことをさせたら、いつまでも脱会させることができないことをよく知っているから、嫌がり、抵抗する食口を物理的に拘束し、連絡を取らせず、一方的な情報で料理するのです。こういった強制力を用いた説得方法だったからこそ、何千人もの信仰剥奪と脱会に成功したのです。拉致監禁せず、自由な話し合いだったなら、10人脱会したかどうか。常識で考えれば簡単な話です。
先駆者に光あれ!
koyomiさんと青木さんのコメントを読んで、ちょっと考えてしまいました。
強制説得による脱会者は「あれは拉致監禁ではなかった」と言ってきましたが、「そうではない。あれは拉致監禁だった」と初めて声をあげたのは、夜桜さんでした。
ここの世話人でもある夜桜さんは2000年頃にホームページを開設し、保護説得の非道さを書き綴っていました。
それを見つけた樹村さん(息子さんの保護説得に成功したものの、その方法について自省的に思考していた母親、仮名)が、私に連絡し、それで夜桜さんとその友人に長時間インタビューを始めることができたわけです。
インタビューを開始したのは2002年頃から。その当時は統一教会を含め、誰も相手にしなかった「拉致監禁問題」でした。
今や隔世の感がありますが、夜桜さんのサイトが原点・出発点です。このことを拉致監禁に反対する人たちはゆめゆめ忘るる勿れ。「歴史の中の個人の役割」に思いをはせるべきです。
強制説得による脱会者は「あれは拉致監禁ではなかった」と言ってきましたが、「そうではない。あれは拉致監禁だった」と初めて声をあげたのは、夜桜さんでした。
ここの世話人でもある夜桜さんは2000年頃にホームページを開設し、保護説得の非道さを書き綴っていました。
それを見つけた樹村さん(息子さんの保護説得に成功したものの、その方法について自省的に思考していた母親、仮名)が、私に連絡し、それで夜桜さんとその友人に長時間インタビューを始めることができたわけです。
インタビューを開始したのは2002年頃から。その当時は統一教会を含め、誰も相手にしなかった「拉致監禁問題」でした。
今や隔世の感がありますが、夜桜さんのサイトが原点・出発点です。このことを拉致監禁に反対する人たちはゆめゆめ忘るる勿れ。「歴史の中の個人の役割」に思いをはせるべきです。
確かに
脱会者の夜桜さんが声をあげたのは、大きかったです。拉致監禁問題を統一教会のみで取り上げてたら、私もここまで「拉致監禁反対!」と言ってなかったと思います。
私は、脱会後、長いものに巻かれ、拉致監禁による説得に疑問を持ちながら、必要悪と思い、公には口をつぐんでましたから。要するに、卑怯者です。
だから、夜桜さんの勇気に敬服致します。
それとは別に・・・
脱会後の私の中に、統一教会員に対する別の思いもありました。恐ろしい思いだから、敢えて意識しなかったし、今でもそんな思いがあったのは認めたくないけど。
只、後藤さんの陳述書を読むと、後藤さんのお兄さんにも同じ思いがあったのでは、と思います。
私は、脱会後、長いものに巻かれ、拉致監禁による説得に疑問を持ちながら、必要悪と思い、公には口をつぐんでましたから。要するに、卑怯者です。
だから、夜桜さんの勇気に敬服致します。
それとは別に・・・
脱会後の私の中に、統一教会員に対する別の思いもありました。恐ろしい思いだから、敢えて意識しなかったし、今でもそんな思いがあったのは認めたくないけど。
只、後藤さんの陳述書を読むと、後藤さんのお兄さんにも同じ思いがあったのでは、と思います。
No title
統一教会の組織の中では、「反牧」という反対派が存在することは、聞いて、知っていましたが、ここまで酷いことを水面下で行われているとは、殆どの信者は、知らないと思います。「火の粉を払え」のブログや夜桜さんのブログ、「我らの不快な隣人」や小出さんの手記「人さらいからの脱出」などで実態を知り、驚きと怒りが込み上げてきました。
今でも、ネットを知らない信者は、事の真相を知らないのでは?統一教会と反牧集団は、自分達に不利になることは、情報を隠蔽しようと企てるとこともソックリでしたからね。
個人的に勇気を出して、公表した夜桜さんは、立派
だと思います。
全ての悪行が明るみにされる時を迎え、後藤氏と宇佐美氏が神様に選抜されたのでは、ないかと感じます。
今でも、ネットを知らない信者は、事の真相を知らないのでは?統一教会と反牧集団は、自分達に不利になることは、情報を隠蔽しようと企てるとこともソックリでしたからね。
個人的に勇気を出して、公表した夜桜さんは、立派
だと思います。
全ての悪行が明るみにされる時を迎え、後藤氏と宇佐美氏が神様に選抜されたのでは、ないかと感じます。
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