後藤徹氏の妹の主尋問ー徹氏が話し合いをやめたいと言わない限り、兄妹として、話し合いに付き合いたいと思っていた。
妹さんの尋問は、6月17日、宮村氏の尋問の前に行われました。
当日の傍聴希望者は150人で3倍強の倍率でした。これ程の多くの人が傍聴希望したのは、ラストの宮村氏の尋問に興味があったのは勿論でしょうが、妹さんの尋問にも関心があったのではないでしょうか。
妹さんは、後藤徹氏と同じ12年5か月間、殆ど外出もせず、マンションで過ごしています。29歳から41歳でした。30代全てを後藤徹氏との話し合いに費やしました。
後藤徹氏は、監禁中「30代というのは人生で最も気力体力が充実している時だ。それを社会から隔絶された所に閉じこめられてまるまる奪われたんだぞ。どうしてくれるんだ。」と家族に訴えてます。(米本和広氏著書 我らの不快な隣人より引用)
同じく、人生の中で大切な30代を社会から隔絶された所に身を置いた妹さんの心境はいかばかりであったのでしょうか?多くを犠牲にしても徹氏との話し合いに臨んだのは何故でしょうか?

被告■<後藤徹氏兄>外2名代理人(荻上)

乙イ第7号証(陳述書)を示す
この陳述書は,あなたが内容を確認した上で,署名押印したものですね。
はい。
あなたは,原告のことを,ふだん話合いの期間中も含めて,どのように呼んでいましたか。
徹兄ちゃんとか徹兄と言っていました。
原告は,あなたのことを,ふだんどのように呼んでいましたか。
■■■とか,■■■君とか言っていました。
話合いの期間中も,そういう感じで,やりとりしてたということですか。
はい。
1987年1月か2月に,あなたのお母さんから,あなたが牧師先生の話を聞いてほしいと言われて,お母さんが東京に迎えに来てくれたにもかかわらず,あなたは東京駅で行方をくらましてしまったのは,どうしてなんですか。
![Tokyo_station_from_marunouchi_oazo[1]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/20130904232345a35s.jpg)
<東京駅>
このとき私は,反牧対策を受けていましたし,母のことをアベルに相談しましたところ,アベルから指示があり,その指示のとおりに行動したからです。
反牧対策というのは,具体的にどういうことを言われていたんですか。
拉致監禁されたり,精神病院に入れられて注射を打たれたりですとか,偽装脱会をして,やめたふりをして隙を見て戻ってくるとか,そのように教えられました。
そのとき行方をくらませてしまって,お母さんはどのような反応でしたか。
電話口で泣いていました。
泣いているお母さんと話をして,あなたはどう思いましたか。
非常につらかったんですが,これも家族の救いのためだし,いずれは分かってくれるときが来ると思って,気持ちを切り替えました。
家族の救いのためになるというのは,どういうことなんですか。
家族は今は統一原理のことは分からなくて悲しむかもしれないけれども,私が信仰を貫くことによって,いずれ家族は真理を知って救われるときが来ると,そういう意味です。
その後,■<後藤徹氏兄>がホームからいなくなりましたよね。
はい。
アベルから,やめたのではないかと言われたということですが,その後,1987年11月頃に,原告も統一教会からいなくなって,あなたとしては,何か警戒したりしなかったですか。
はい,警戒しました。このときは,アベルが自宅に来て泊まったりしましたし,それ以外は特に何か対策をするということはありませんでした。
原告が1回目の家族の話合いから統一教会に戻ったときに,あなたが接触したのは,いつ頃のことですか。
1988年頃だったと思います。
原告はその際,どのようなことをあなたに話していましたか。
霊人体がぐちゃぐちゃになったですとか,1回は落ちたけれども,確かめたいことがあって,統一教会に戻ったと言っていました。
何かアベルに泊まってもらったりして,多少警戒していたというようなこともあったわけなんで,あなたのほうから原告に,大丈夫だったのかとか,拉致監禁されてたんじゃないかと,そんなことは聞かなかったんですか。
聞きましたが,家族と宮村さんとは話したと言っていましたけれども,拉致監禁されてひどい目に遭ったとか,そういうことは言っていませんでした。
原告は自分の拉致監禁の体験を手短に話して,拉致監禁される危険があるから気をつけるように言ったというふうにおっしゃっているんですけれども,そのようなことを,あなたは言われましたか。
いいえ,言われませんでした。もし言われていたら,もっと警戒すると思いますけれども,言われなかったので,特に生活を変えるっていうことはありませんでした。
あなたが統一教会の問題について家族ときちんと話合いを始めたのは,1989年3月ですよね。
はい。
そのときは,自宅で話合いをしようと言われたんですよね。
はい。
そのとき自宅には,どなたがいましたか。
両親と■<後藤徹氏兄>がいました。
この頃,統一教会の反牧対策というか,自宅で家族から,場所を変えて話合いをしようということを求められた場合については,どのように対処するように,あなたは言われてましたか。
私の場合は,話を聞くふりをして,偽装脱会をして,隙を見せて戻ってくるようにと,そのように言われました。
陳述書では,とうとう来たかと思い、動揺したと書かれていますね。
はい。
そうすると,あなた自身は,話合いをしたいという心理状態ではなかったと思うんだけど,どうして素直に応じて,話合いには応じるということで荻窪のマンションに移動したんですか。
アベルに指示されていたこともありますし,また家族が私のことを非常に心配している,その気持ちも分かりましたので,やっぱり話合いに応じようと思いました。
隙を突いて逃げようと考えていたということなんだけど,監禁されてたということなんですか。
いいえ,話合いは応じていましたので,無理やり閉じ込められているという状態ではありませんでした。
そのとき仕事をされてたと思うんですけど,職場には連絡しましたか。
父が連絡をとってくれました。しばらく休職するという了解を取ってくれました。
あなたの陳述書を見ると,1ヵ月間は全く外出しないで話合いをしていたということで,若干普通に考えると分かりづらいところもあるんだけど,どうして外出もせずに,話合いを続けたんですか。
父が仕事を休んで話合いに真剣に向き合おうとする,その姿勢に心打たれまして,私もやっぱり話をしようと,そのように思いました。
話合いはきちんと応じようということですよね。
はい。
そういっても,相対基準を結ぶなと言われていて,あなた自身は,最初のうちは真面目に話を聞かないようにしていたというようなことが陳述書に書いてあるんで,ちょっと矛盾しませんか。
いいえ,家族の真剣な態度や愛情も分かりましたし,その一方で,統一教会で教え込まれたこと,アベルの指示などの間で,葛藤はしていました。
原告は,原告側の準備書面10の18ページ<第4、8参照>で,宮村さんが来たときに押し入れに立てこもったので,あなたが拉致監禁されていたことは間違いないんだというようなことを述べておられるですけれども,宮村さんが来たときに押し入れに立てこもったということはあったんですか。
はい。
原理に詳しい人の話を聞くということを承諾しておきながら,何で来たときに立てこもったりしたんですか。
いざその場面になると,統一教会で教え込まれていたことがよみがえって,怖くなって,とっさに押し入れに入りました。そこで祈って心を落ち着けようと思ったんですけれども,そんな私を見て,家族は真剣に呼びかけてくれたので,やはり話を聞こうと,そのように思いました。
家族や宮村さんは,あなたに対して,誹傍や罵倒や中傷あるいは強制的な棄教を迫ってきたりはしましたか。
いいえ,そういうことはありませんでした。統一教会では,そのようにされると教えているんですが,そういうことはありませんでしたし,私は家族の気持ちが分かって,だんだんやっぱり心が開かれていきました。もしそういうことを聞かれていたら,きっと心を閉ざしていたと思いますし,やっぱり統一教会に言われているとおりだなと思って,信仰も強まっていったんじゃないかなと思います。
そういうことというのは,誹誇,罵倒,中傷されることが実際あったらということですよね。
はい,そうです。
あなたの場合,1ヵ月ちょっとで統一教会の誤りに気づいたということでしたけれども,どうして同じマンションで3ヵ月も共同生活を続けたんですか。
私は自分で考えて行動をするということに不安がありましたし,また統一教会の人に会って連れ戻されるのではないかという不安もありました。今までの自分の考えや行動を整理して,普通の生活に戻れるように,家族が協力してくれていました。
その後しばらく,あなたは両親のいた大阪で,両親としばらく生活をしてましたね。
はい。
いわゆるリハビリ生活をしたということですか。
はい。
リハビリ生活というのを,どうしてそういうのが必要なんですか。
統一教会による教え込みの影響が強くありますので,リハビリ生活をしないで社会に戻ってしまうと,社会生活の中でさまざまな支障が出てくるからです。
<新潟での徹氏との話し合い>
![tokimesse1[1]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/2013090600230259cs.jpg)
<新潟市街>
あなたの陳述書の16ページに,原告が3万双の合同結婚式を受けたこと,及びだめになったことを後日知ったとあるんですけれども,知ったのは,いつのことですか。
新潟に行って,徹が統一教会の誤りに気づいたと言って,その後,手記を書いたんですが,その手記を見て知りました。
あなたは,原告が36万双の合同結婚式を受けていたということは,聞いていましたか。
いいえ,聞いていません。SKさん<後藤徹氏の36万双の祝福相手>という名前も,刑事事件の捜査のときに,■<後藤徹氏兄嫁>が警察官の人から聞いて,そのとき知りました。
原告の側は,家族の新潟での話合いが,原告の結婚妨害目的だというようなことを述べているんですけれども,そのような意図はありましたか。
いいえ,そうではありません。合同結婚式の意味も含めて話し合いたいと思ったからです。
新潟の松永牧師の新津教会での勉強会では,どのようなことを勉強されてたんですか。
家族の心構えについてです。
家族の心構えというのは,端的に,手短に具体的に,どのようなことを習ってたんですか。
頭ごなしに言わないとか,きちんと話を聞くですとか,そういったことです。
1995年9月11日の話合いで,新潟に移動する際の車についてなんですけれども,車をどなたが手配したかというのは,あなたは知っていましたか。
当時は知らなかったのですが,父が■<後藤徹氏兄嫁>のお兄さんにお願いして,新潟でレンタカーで借りたと聞いています。
原告は車に乗る際,暴れたり抵抗したりしましたか。
いいえ,そういうことはありませんでした。渋々でしたけれども,話合いには承諾して,自分で歩いて車に乗りました。
お父さんは,ふだん乗っていた自動車に,携帯トイレを常備していたんですか。
![37384_02_20120905001143_thumb300[1]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/20130906000041df0s.jpg)
はい。
どうして常備してたんですか。
父は60過ぎてから免許を取って,何か車に乗りたかったみたいで,職場が千葉の白井っていうところにあったんですけれども,東京からその職場まで車で1時間半くらいかけて通勤していたり,また新潟の教会の勉強会にも車で通っていまして,日曜日の夕方,渋滞することもあったので,用心のために入れていたんだと思います。
![shiroi[1]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/20130906000417a84s.jpg)
<千葉県白井市市営運動公園 本件とは何の関わりもありません。>
やや頻尿気味だったということもあったんですか。
そうですね。
ただ9月11日に新潟に移動した際には,携帯トイレは,お父さんは使用しなかったですよね。
はい。
どうしてですか。
何かあるといけないと思って,水分を控えていたのかもしれません。
移動中に原告が携帯用トイレで用を足したことについて,大変屈辱的だったというようなことを述べているんですけれども,原告は怒ったり,そのようなことを述べたりしていましたか。
いいえ,トイレの世話までさせて悪いねと言っていましたけど,何か文句を言うようなことはありませんでした。
<ここで傍聴席の一部より苦笑>
新潟の話合いをしてたマンションの状況ですけれども,原告はパレスマンション多門の窓がストッパーで固定されていたとか,玄関も内側から開けられないようになってたというようなことを述べているんですけれども,そのような状態でしたか。

<クリックすると画像が大きくなります。>
いいえ,違います。
検察審査会の議決書を見ると,平成8年, 1996年3月以降は,あなたと原告だけという状態が多かったことを,原告自身も認めているという記載があるんですけれども,実際にあなたと原告だけという状態が多かったんですか。
はい。
議決書を見ると,あなたは新潟の話合いの当時,153センチ39キロと書かれているんですけど,大体そのくらいですか。

<議決書一部>
はい。
今は,体重は何キロぐらいですか。
42キロです。
同じく議決書に,原告は当時182センチ,体重は65キロから70キロと書かれているんだけど,大体そんな感じですか。
測ってはいませんけれども,大体そのくらいだと思います。
そうすると,やっぱり議決書にも書いてあるんだけど,行動は自由で,原告のほうが体力的に圧倒的にまさっていて,出ていこうとする意思があれば困難なことはないというようなことが議決書に書いてあって,実際そう思うんだけど,どうして原告は出ていかなかったと思いますか。
やっぱり話合いには応じないといけないと,そう思っていたと思いますし,実際に出ていこうとする行動は,一切ありませんでした。
あなたと2人きりのときを含めて,家族に対して,散歩に行きたいとか外に出たいんだというようなことを,原告が言ってたということはありますか。
いいえ。
家族の話合いで,松永牧師に来ていただかなくなったのは,いつ頃ですか。
徹が統一教会の誤りに気づいて,その後,何度かは話に来てくださったのですが,それからはほとんど来られなくなりました。
どうして来てもらうことをお願いしなくなったんですか。
もう誤りに気づいたと言っていたので,これからは家族の信頼回復をするための家族同士の話合いが必要かなと思ったからです。
家族の信頼関係の回復ということなんですけど,原告の様子というのは,実際,家族との関係で,どのような感じだったんですか。
どこかよそよそしかったり,何か家族に心開いていないように感じることもあって,長年信じてきた信仰を手放すっていうことになったので,心の整理がついていないのかなと,そういうふうに感じたこともありました。
実際に家族と原告というのは,具体的にどのようなことを話してたんですか。
統一教会の話もしましたし,家族としての日常の会話をしました。
平成8年3月以降,あなたと原告だけという時間が多かったということですけれども,2人だけのときというのは,どのようなことを話してたんですか。
兄妹としての普通の会話です。子供の頃の話ですとか,そういった話もしました。
あなたと家族の話合いのときには,1ヵ月過ぎ頃から,時折外出してたということなんだけど,どうして原告と家族との話合いにおいては,外に出るというようなことがなかったんですか。
外に出たいということも言いませんでしたし,話合いを続けたいということであれば,家族もやはり話を続けたいと,そのように思っていましたし,また実際そのようにしていました。それで,徹が偽装脱会をしていたということですので,あえてそういうふうに言わなかったのかもしれません。
お父さんががんで余命幾ばくもないという状態になってからも,どうしてお見舞いに,東京に行かなかったんですか。
父が徹に手紙を書いていたんですけれども,その手紙に,お見舞いには来なくていいから,統一教会のこと,自分のことをしっかり考えるようにと,そのように書いてあったからです。
<荻窪での徹氏との話し合い>
![250px-Ogikubo_sta_south[1]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/20130906003425b43s.jpg)
<荻窪駅南口>
東京へ移動する際に,原告は東京へ行くことを承諾していましたか。
はい。
原告は連行されたというようなことを言っているんだけど,移動する際の様子は,どのような形でしたか。
普通に歩いて移動していました。
お父さんの葬式に出ないことについてなんですけども原告は何か文句のようなことを言っていましたか。
いいえ,言っていません。
荻窪プレイスにいるときに,あなた方家族は,原告は偽装脱会しているんだというように疑っていたんですか。
半信半疑でした。やはりどことなくよそよそしく感じ,家族に心開いてないなっていうふうに思っていましたし,でもやっぱり徹の言うことも信じたいなと,そういう両方の面がありました。
お父さんは,原告とあなたとかが新潟にいるときに,既に宮村さんに対して,原告が明らかに偽装脱会しているので,お願いしますというようなことを言っていたというようなことなんですけれども,お父さんはどうしてそのようなことを言ったんでしょうか。
恐らく父は余命幾ばくもない,そういう中で,宮村さんに,焦る気持ちもあって,そのように言ったんだと思います。
お願いする際に,そのようなことを言ったということですか。
はい。
荻窪プレイスの生活している中で,原告はやっぱり外に行きたいとか,そのようなことを言ったことはありますか。
いいえ。
荻窪プレイスからフラワーホームへ移動する際に,無理やり意思に反して連れ込まれたというようなことはないというふうに,一応証言されているんだけど,実際に移動する際,原告は,どのような様子でしたか。
普通に歩いていました。
南京錠というのは,いつ頃から,つけていたんですか。
1997年12月末くらいです。
どうして今までつけていなかった南京錠を,フラワーホームではつけるようにしたんですか。
このフラワーホームは,荻窪駅から統一教会の杉並教会の途中にありまして,信者さんがよく前の道を歩いていましたので,この話合いの場所が見つかって妨害されるといけないという,そういう心配があったからです。

そうすると,あなたは統一教会の信者とそうでない人というのは,区別がつくんですか。
はい。幹部の人はちょっと分からないかもしれないですけど,自分も以前信者でしたので,見れば大体,何か二,三人で連れ立って質素な格好をして歩いているので,分かりました。
![image[5]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/201309042355209d3.jpg)
<この方々も見方によっては、質素だが・・・>
今,質素とおっしゃったんだけど,質素な人というのは幾らでもいると思うんで,どうして信者だというふうに分かりますか。
ちょっと薄化粧だったり,地味そうな感じで歩いているからです。
大体雰囲気で,この人は統一教会の信者だと,大体分かるということですか。
そうですね,はい。
MKさんが,陳述書では98年に入ったからとしか書いてなかったんだけど,尋問では98年5月に,フラワーホーム,あなた方のいた804号室を訪れて,南京錠を見たと言っているんだけども,実際に見てますか。
MKさんが来たこと自体は,ちょっと覚えてないんですけども,そのときは,もう南京錠はつけていなかったので,見てないと思います。
入ったときに,つけるのを見たというふうにおっしゃっているんだけど,元信者さんたちが来ているときに,南京錠というのは施錠してたんですか。
いえ,してませんでした。
MKさんが見たときの状況として,ドアノブの側にげた箱があるというようなことを前提で,南京錠が見えたというふうに証言しているんだけど,げた箱というのは,ドアノブ側にあったんですか。
いえ,逆側ですね。部屋のほうから見て,右側のほうにありました。
甲第9号証(陳述書)添付図面4を示す

<クリックすると図面が大きくなります。>
玄関のところに「くつ入れ」というふうに書いてあるんだけど,靴入れがあったのは,この場所なんですか。
いえ,ここにありました。
ここというのは,反対側の玄関の「くつ入れ」と書いてある逆側の壁のところということですか。
そうです。
フラワーホームの窓に鍵付きのクレセント錠をつけたというのは,いつ頃,どのような理由からですか。
徹が偽装脱会していたということを告白してから,家族で話し合ったときに,以前と違って感情的になることもあったので,突発的に何をするか分からないと思いまして,その頃につけました。
原告が偽装脱会を告白した際,どのようなことを話してましたか。
偽装していて済まなかったということと,あと家族のほうから何も言ってこなかったことに対する不満は漏らしていました。
声を荒げて抗議してきたというようなことはありましたか。
いえ,それは,ありません。
原告は,宮村さんや家族が原告に対して誹誇,罵倒,中傷,強制棄教を迫ってきたというようなことを述べているんですけれども,そのようなことはありましたか。
いえ,そういうことは,ありませんでした。
MKさんは,宮村さんと原告が話し合っている場面を見て,原告がひたすらうなだれてたというようなことを述べているんですけど,そのようなことはありましたか。
ひたすらうなだれているということは,ありませんでした。
原告は尋問のときに,宮村さんの陳述書に書いてあるような原告とのやりとりが,実際にあったというようなことは述べているんだけれども,あなたが聞いていても,大体そのようなやりとりがされてたということですか。
はい,そうです。
元信者の方が来てくれたときに,原告とは大体どういうようなことを話し合っていたんですか。
統一教会のことですとか,ご自分の体験談を話されたり,あと普通の日常の会話などをしました。
元信者の人たちが来てくれて話し合っているときの原告の様子というのは,どのような感じでしたか。
普通の日常会話のときは,笑いながらしゃべるときもありましたけれども,統一教会の教えの矛盾ですとか実態の話になると,答えが詰まったり,そう言われましてもとか,でも文鮮明はメシヤだからとか,そのようなことを言って,話合いにならないということがありました。
あなた方の準備書面の(2)の6ページで,被告■<後藤徹氏妹>も原告と一緒にマンションで生活している期間中,ほとんど外部と連絡がとれない状況になったと書いてあるんだけれども,電話はありましたよね。
はい。
連絡がとれない状況というのは,どういう意味で書いたんですか。
私は仕事をせずに,徹との話合いに専念していましたので,家族以外の外部の人と,友人,知人と連絡をとり合ったり,交流したりと,そういうことはなかったという意味です。
検察審査会の議決書には,あなたがスポーツクラブに通ってたというようなことが書かれているんだけども,いつ頃,どのくらいの期間,通っていましたか。

<議決書一部>
2007年1月から1年くらい通っていました。
どうしてスポーツクラブに通ったんですか。
私は腰痛持ちだったんですが,そんな私を見て,徹が運動でもしに行ったらいいんじゃないっていう感じで言ってたので,行っていました。
原告は,兄嫁である被告の■<後藤徹氏兄嫁>から,いじめ抜かれたというようなことも述べられているんですけれども,そのようなひどい仕打ちを,■<後藤徹氏兄嫁>はしてたんですか。
いや,家族と一緒に生活していたので,■<後藤徹氏兄嫁>がそういうことをできるはずはありません。
していなかったということですね。
はい。
原告が真剣に向き合おうとしないというような記述が,よく出てくるんですけれども,話合いには応じてたということですよね。
はい。
話合いに応じつつ真剣に向き合わないというのは,具体的にはどういうようなやりとりなんですか。
やっぱり統一教会の矛盾の話ですとか実態の話になると,話をそらしたり,そう言われましてもとか,今は時ではないからとか,そういうことしか言えなくなったり,また私たちが話そうとすると,一方的に自分の主張を押し通そうとしたりして,そういうことです。
原告に対して,最初にマンションから出ていきたければ出ていけばというような話をしたのは,いつ頃のことですか。
1998年9月か10月くらいだったと思います。
そのような発言というのは,何回ぐらい,言ったことかありますか。
しょっちゅう言っていました。話に詰まると,徹のほうから,拉致監禁だとか言うので,このどこが拉致監禁なのよって,出ていきたければ行けばいいじゃないっていう感じで,毎回そんなふうなやりとりがありました。
そういうことを言っているにもかかわらず,どうして原告は出ていかないんですか。
話合いも続けたかったんだと思いますし,自分から出ていってしまえば,家族の救いも,そこで閉ざされると思ったからだと思います。
あなた方のほうで,実際に玄関まで連れていこうとしたというようなことがあったと聞いているんですけれども,そんなことがあったんですか。
ありました。
いつ頃のことですか。
98年と2004年頃です。
どうなりましたか,引っ張っていこうとして。
玄関のほうに引っ張っていこうとしたんですけれども,全然動かなくて,びくともしませんでした。
■<後藤徹氏兄>の陳述書に詳しく書いてあるんだけども,フラワーマンションには,配水管清掃だとかガス点検だとか外壁改修業者,給湯管の取替え業者だったりとか,水漏れの業者,あと原告がいた奥の部屋の雨樋の修理業者だとか,いろんな業者が出入りしてたということが書いてあるんだけど,間違いないですか。
はい,古いマンションでしたので,結構そういう業者は出入りしていました。
その際,原告は,業者の人たちに,こんなひどい目に遭っているんだとか,助けてくれだとか,そんなことを言ってたことはありましたか。
いえ,それはありません。
2003年頃に,■<後藤徹氏兄>がトイレから出られなくなったということがありましたよね。
はい。
そのとき原告は,どのようにしてましたか。
私は気づかなかったのですが,徹が気づいて,部屋から出て私に教えてくれて,ドライバーでドアノブのところをガチャガチャやって,開けようとしていました。
開かなくて,どうなったんですか。
これはだめだな,誰かに頼まないと開かないぞって,そういうふうに言ってました。
原告が言ったということね。
はい。
その後,どうなったんですか。
それから■<後藤徹氏兄>が何人か電話して,つながったOBさん<被告側証人>が来てくださって,OBさんが扉を開けるようにしてくださいました。
いろいろガチャガチャやっている間に,■<後藤徹氏兄>がいろいろ電話して,OBさんが来てくれることになったということですよね。
そうです,はい。
原告は,OBさんが来たことも知らない,声も聞いてない,姿も見てないというようなことを言っているんですけど,実際そんなことはありますか。
いや,そういうことはないと思います。実際,私を呼びに来てくれましたし,OBさんの姿も見ていると思いますし,■<後藤徹氏兄>とOBさんで作業中にやりとりもしていましたので,仮にふすまが閉まっていたとしても,その声は聞こえていたはずです。
原告は様子も何かうかがっていたということですよね。
はい。
原告は2001年2月頃に暴れたというようなことをおっしゃっているんですけれども■<後藤徹氏兄>がいる2001年2月頃に暴れたということなんだけど,あなたやお母さんしかいないときに,原告が暴れたというようなことはありましたか。
いいえ,ありません。
フラワーホームで,あなたとお母さんだけという時期は,結構あったんですか。
はい,ありました。■<後藤徹氏兄>は長期間働いていた時期もありますし,また■<後藤徹氏兄嫁>は体調を崩したり,アルバイトをしていた期間も長くありましたので,徹と母と私,3人という時間は,かなりありました。
■<後藤徹氏兄嫁>が体調を崩されたというのは,何か流産されたとかということもあったということですか。
そうです,はい。
あなたと原告だけという時間も,結構ありましたか。
はい,ありました。
そうすると,どうしてわざわざ■<後藤徹氏兄>がいるときに暴れたんですか。
パフォーマンスだったんだと思います。出ていきたければ行けばと言っても,実際出ていかなかったですから。
何でパフォーマンスをされるんですか。
■<後藤徹氏兄>は霊の親であり男兄弟であるので,そういう反発心もあったと思いますし,話合いがうまくいかないことを,家族のせいにしたがったのかもしれません。
原告は,2001年2月に,風呂場で叫んでいたときに,宮村さんがフラワーホームに来たというようなことを述べているんですけれども,そのようなことはありましたか。
いいえ,ありません。
叫んだということはあったということなんですか,風呂場の中で。
はい。
それは,いつ頃のことですか。
98年の夏頃だったと思います。
原告が風呂場でいろいろ叫んでいたのは,この1回だけですか。
はい。
原告は毎日お風呂に入ってたんですか。
はい。
甲第9号証添付図面4を示す

<クリックすると図面が大きくなります。>
この図を見ると,お風呂とトイレというのは,同じ部屋の中にあったということですか,同じ扉の中で。
はい。
そうすると,風呂に入ったりとかトイレに入ったりとか,毎日しているということだと,その時間帯は,毎日1人になりますよね,原告は。
はい。
どうして騒いだのがそのときだけなんですか。
やっぱりパフォーマンスだったのかなと思います。
おばあさんのお葬式に,原告と一緒に行かなかったのは,どうしてなんですか。
このときは,徹は3回目の断食中でしたので,とても一緒に行ける状況ではないと思いましたので,行きませんでした。
葬式について,原告は何か言ってましたか。
帰ってきてから,そのことを話したときに,ご苦労様でしたと言っていました。
<断食後の後藤徹氏の食事&体力>
2回目の断食後の食事なんだけれども,原告は普通食になるまで7ヵ月間あったというふうに述べているんだけれども,実際に普通食に戻ったのは,断食が終わった後,どのくらい後ですか。
1ヵ月くらいです。
3回目の断食後の食事については,普通食に戻る期間というのは,どのくらいあったんですか。
2ヵ月くらいです。
原告は何か文句を言っていましたか。
いいえ。
原告は7ヵ月間というふうに言っているんだけど,事実ですか。
いいえ,母と私で作っていましたので,そういうことはありません。
原告は生米,生ごみで飢えをしのいだと言っているんですが,そのようなことはありますか。
いえ,冷蔵庫がすぐそばにありましたし,食材はそこに入っていたので,そこから食べればいいことですし,実際食べていたのかもしれません。
生ごみをあさっている時間があるんだったら,冷蔵庫の中からものが出せるということですか。
はい。
原告は冷蔵庫の中の調味料をなめたら,ある日,冷蔵庫が空にされてたというようなことを言っているんだけど,そのような事実はありますか。
いえ,毎日食事は作っていましたので,食材も買っては入れていたので,冷蔵庫に空になるという,そういうことはありませんでした。
乙イ第37号証(写真撮影報告書)を示す

<H25年5月22日 後藤■<後藤徹氏妹>撮影>
3回目の断食後に出していた食事の内容というのは,この写真のようなものですか。
はい。
具体的に,どのようなことに気を使って,出していたんですか。
朝は胚芽パン1枚と,ゴマ,スキムミルク,きな粉,蜂蜜が入った青汁をマグカップに1杯,それとお昼と夜は,小魚,浅漬け,あと漬け物などと,あと汁物は魚のつみれ,魚の煮たの,野菜の煮たのを入れたみそ汁に,あと納豆,あとご飯は大きめの茶碗に胚芽米5分つき米を,多めに盛って出していました。
写真を見ると白米に見えるんだけど,胚芽米だったということですか。
はい,そうです。
あなた方家族は,どのような食事をされてたんですか。
比較的質素な食事をしていました。母が作ることが多かったので,母の嗜好に合わせて,肉とかはほとんど食べていませんでした。
カツ丼とかハンバーグとかを食べていたんですか。
いや,それはないですね。
質素な食事をされてたということなんだけど,断食後の食事の内容は,家族と原告で違ってたというのは,どうしてなんですか。
徹は何度も断食をやってやってやりまくるとか言っていたので,またいつ断食をするか分からないと思いまして,家族も体のことを気を使って,断食中と余りギャップがない栄養バランスを考えた食事にしようと思って出していました。
何か参考にした本とかはありますか。
甲田光雄先生という方の本を読んだりして,参考にしていました。
2008年2月10日に,原告をマンションから出したということなんですけれども,どうして出したんですか。
このときは,真剣に話合いに向き合っていない,そういう状態でしたので,■<後藤徹氏兄>がちゃんと話合いをするか出ていくか決めてくれっていうことを言って,それでも,そう言われましてもという感じで,曖昧な状態だったので,それなら出ていけということで,家族で引っ張って部屋の外に出しました。
このときは,出ていきたければ出ていけというだけでなくて,みんなで引っ張って出したということですか。
はい。
原告は,出ることに対して,抵抗していましたか。
抵抗していました。
衰弱しきっていたというようなことを言っているんだけど,そうしたら簡単に外に出せましたよね。
いや,衰弱しきっているっていう感じはなくて,結構力もありました。
そのまま帰ってこないんじゃないかというふうに思いませんでしたか。
いえ,そうは思いませんでした。出ていきたければ行けばいいじゃないと言っていたので,そういうことはないと思っていました。
甲第1号証(写真撮影報告書1)を示す

これは2月13日の写真だというふうに,原告は言っているんだけど,2月10日に,今,すごい力で抵抗したりだとか,警察にも相手にされなかったり,渋谷まで歩いていったりだとか,それだけ元気だと思うんだけど,原告の状態というのは,こんな感じでしたか。
いいえ,こんなに痩せていませんでした。風呂上がりにパンツ1枚の姿を見ましたけれども,こんなふうには痩せていませんでした。
<ここで傍聴席の一部より苦笑>



<2008年2月10日解放後、後藤徹氏の歩いた出発点(荻窪フラワーホーム)

原告自身,毎日15分程度の運動はしていたと言っているんだけど,運動してたんですか。どんな運動を,どのくらいしてましたか。
スクワットですとか,テーブルを持ち上げたりする運動を,15分から30分くらいはしていました。
<徹氏との話し合いに付き合った30代>
95年9月というのは,あなたは29歳ですね。
はい。
話合いが終わった2008年2月というのは,41歳ですね。
はい。
その間,あなたは仕事をしていましたか。
いいえ。
その間,大部分の時間を,フラワーホームで過ごされたということですよね。
はい。
どうして30代前後の貴重な長い時間を,原告との話合いに,あなたは付き合ったんですか。
私は以前,統一教会信者でしたから,統一教会の実態,問題は分かっていましたので,徹自身が話合いをやめたいと言わない限りは,兄妹として話合いに付き合いたいと,そのように思っていました。1日のうちでは,またその日によっても,徹の態度は変わっていました。本当に真剣に向き合っていないっていうふうに感じたこともありましたし,また悩んでいるのかなと,そういうふうに感じたこともありましたから,話合いに付き合っていました。1日1日の話合いの積み重ねの結果だと思いました。
逆にどうして原告は,出ていこうと思えば出ていけたと思うんだけども,12年間にわたって,マンションで話合いを続けたんですか。
やっぱり家族で1人統一教会信者でしたから,家族は救わなければいけないっていう,そういう思いはあったと思います。実際に神が働けばあなた方も救われますと,そういうふうに言っていましたし,また自分から話合いをやめてしまえば,そこで家族の縁も切れてしまいますし,そこで家族の救いも,自分の手で断ち切ってしまう,そういうことになるのが嫌だったからだと思います。
そう言いながらも,原告はあなたたちを刑事告訴したり,この裁判を起こしたりしているんだけど,どうしてこういう刑事告訴したり裁判をしたと思いますか。
統一教会からの指示だと思います。実際2008年2月以降,話合いが終わってから,何度か徹と会いましたけれども,家族に対する恨み言とか不満とか文句とか,そういうことは一切ありませんでしたし,かえって申し訳なさそうにしていました。
非常に家族思いの優しい性格のはずだということですよね。
はい。
2008年7月2日に,原告があなたの家に来たということですけれども,原告はどのような様子でしたか。
いや,久しぶりだったっていう感じで,うちに上がってきて,保険証とか免許証あるっていうふうに聞いてきて,そのやりとりは,私の陳述書に書いてあるとおりなんですけれども,まさか刑事告訴するとは思いませんでしたし,そういうふうには全く感じられませんでした。
それ以外にお会いしたというのは,いつ頃のことなんですか。
昨年の4月末に,母が入院したんですけれども,その病院で2回会いました。
原告は1人で来たんですか。
いえ,1回目は奥さんと子供を連れてました。
そのとき原告に会ったのは,あなただけですか。
2回目は,兄夫婦も一緒でした。
原告と会った際に,原告はどのようなことを話していましたか。
母の病状のことについて聞いてきたり,またお母さんのことをよろしく頼みますと,そのように言っていました。
最後に何か言いたいことがあれば,手短に。
私は兄である徹のことを心配し,話合いを続けていたのであって,閉じ込めて無理やり信仰を奪うという,そういうようなことはしていません。それは,今は亡き両親も兄夫婦も同じです。どうぞ適切な判断をお願いいたします。
<宮村氏との関わり>

<1993年当時の宮村氏です。>
被告宮村代理人(木村)

<右側にいらっしゃるのが木村弁護士です。>
先ほど,反牧対策を受けていたという話がありましたね。
はい。
アペルの指示で,偽装脱会しろということも言われてたんですか。
はい。
その偽装脱会をしろということなんですけど,それは家族と話をしても,話合いの場から離れることができないときに,偽装脱会しろという話なんですか。
いえ,とにかく話を聞いたふりをして,間違いが分かったというふりをして戻ってくるようにと,そういうふうに言われました。
宮村さんとのことですが,あなたは被告宮村との話合いで,それをきっかけに統一教会を脱会したんですね。
はい。
被告宮村と話をすることになったときですが,話合いをすることについては,同意をしていたんですか。
はい。
被告宮村からは,どんな話を聞かされましたか。
統一教会の教義の矛盾点ですとか実態について,聞きました。
その教義の矛盾や統一教会の実態についての話が,どうしてあなたの脱会につながることになったんですか。
私は統一教会では統一教会と教えられずに,その教義を教え込まれていまして,疑問を持つということができる環境ではなかったんですけれども,自分でしっかり考える,そういう場所で,宮村さんから統一教会の教義の矛盾点ですとか実態を聞いて,初めて自分の頭で考えて,検証して,それで間違いだと思って,やめました。
そうすると,被告宮村の話が,あなたが教え込まれてた教義を考え直すきっかけになったということですか。
はい,そうです。
被告宮村からは,脱会しろ言われて,脱会したということではないですか。
いいえ,違います。
あなたの陳述書によると,父親が真剣に心配してくれたことも,統一教会のことを考え直すきっかけだったというように記載されているんですが,それはどういう意味ですか。
父が仕事を休んでまで,私との話合いに真剣に向き合おうとしている,そういう姿を見て,私のことをすごく思ってくれているんだなって思いましたので,私も真剣に考えなきゃいけないと,そういうふうに思ったからです。
あなたは,そのとき,どこのマンションで話合いをしていたんですか。
荻窪のマンションです。
具体的にマンション名とか分かりますか。
名前はちょっと分かりません。
そのマンションには,何ヵ月滞在してたんですか。
3ヵ月くらいいました。
その3ヵ月間の間,ずっと外には出なかったんですか。
いえ,途中からは,家族と外出していました。
その外出するという判断は,誰の判断によるものですか。
私と家族で話して決めました。
3ヵ月後にマンションから離れることになったのは,誰の判断ですか。
やはり同じです。家族と私で決めて,出ました。
被告宮村から許可が出て,外出するようになったということではないんですか。
違います。
統一教会を脱会した後,1991年頃に,東京に来てますね。
はい。
東京に来てから,水茎会には顔を出していたんですか。
はい。
どれくらいの頻度で,水茎会に顔を出してたんですか。
月に一,二回くらいです。
いつ頃まで,水茎会に顔を出していましたか。
95年の初夏ぐらいだったと思います。
それ以降,徹さんと話合いをしている間は,通っていなかったということですか,水茎会には。
はい。
水茎会の会合では,どういうことが行われてたんでしょうか。
グループに分かれて,それぞれのご家族の情報交換をしたり,また元信者の方やそのご家族の体験談を聞いたり,また聖書のお話を聞いたりしていました。
水茎会の会合では,宮村さんは何をしていたんですか。
グループに分かれたときに,家族の求めに応じて,統一教会の教えについてや実態について,話をされていました。
被告宮村が会合に集まったみんなの前で,講義をするということはあったんですか。
いや,講義をするということは,ありませんでした。統一教会の今の実情などを報告するという,そういったことはありました。
被告宮村が,家族に対して,拉致監禁の講義をしたことはあるんですか。
いいえ,ありません。
あなたが脱会する前に,原告から,原告と宮村さんとあとは家族と話合いをしたということを聞いてたんですね。
はい。
その中で,被告宮村が,統一教会信者の家族に対して,拉致監禁して強制改宗させる方法を教えていたという話はありましたか。
いいえ,ありません。
両親が,被告宮村から,拉致監禁の方法を教わっているという話はありましたか。
いえ,ありません。
あなたから被告宮村に対して,1995年以降の新潟での話合いについて,逐一報告をしていたことはありますか。
いいえ,ありません。
全く報告したことはないですか。
はい。
1998年,被告宮村がフラワーホームに訪れるようになってからですが,訪問の際に,ノックの合図とかが決まってたことはあるんですか。
いいえ,ありません。
被告宮村が来るスケジュールというのは,あらかじめ決められてたんですか。
いいえ,そういうことはないです。
元信者たちが来るスケジュールは,決められてましたか。
いいえ,ありません。
被告宮村ないし元信者が,フラワーホームに来る際には,事前の連絡はあったんですか。
あるときもありましたし,ないときもありました。
元信者の方が,フラワーホームに徹さんと話をしに来ていたんですが,これはどうして来ることになったんでしょうか。
■<後藤徹氏兄>が元信者の方にお願いしていたということもあり,また元信者の方も,真実を知ってほしいっていう,そういう強い思いを持っておられて,自主的に来てくださっていました。
1998年9月以降,被告宮村がフラワーホームに来なくなったんですね。
はい。
その理由は,何でしょうか。
徹が統一教会が間違いでも信じるとか,そのようなことを言っていたので,そういう感じじゃ話合いにならないと思って,それで来られなくなったと思います。
被告宮村が来なくなった後,被告宮村から,原告が脱会するまで外に出すなという指示はありましたか。
いいえ,ありません。
被告宮村が来なくなった後も,家族と原告で話合いを続けろという指示はありましたか。
いいえ,ありません。
被告宮村か来なくなった後,被告宮村に対して,話合いの状況を後藤家の家族から報告してたことはありますか。
いいえ,ありません。
1998年9月以降に,被告宮村がフラワーホームに来なくなりましたね。
はい。
その後に,二度ほど,部屋に被告宮村が来たと原告が言っているんですが,そういう事実はありましたか。
いいえ,ありません。
原告が風呂場で叫んでいるところに,被告宮村が来て,被告宮村が原告を引きずり出したというふうに原告は言っているんですが,そういう事実はありましたか。
いいえ。
1998年9月以降に,被告宮村から,原告との話合いについて,何らかの指示とか助言はあったんですか。
いや,ありません。
逆に,あなたとか後藤家の家族から,被告宮村に対して,原告との話合いについて,相談したということはありますか。
いいえ,ありません。
<松永牧師との関わり>

被告松永代理人(東)
あなたは89年に脱会して,リハビリ生活をした後,ご両親と一緒に大阪で住んでいましたね。
はい。
原告との1回目の話合いについて,このときご両親から何か聞いていましたか。
話合いをして,それで栄光教会に通っていたときに,突然姿を消して,統一教会に戻ってしまったっていうことを,とてもつらいと,そのように話していました。
ご両親は,原告と再度話合いをしたいというご希望は,持っておられましたか。
はい。
何で,再度話合いをしたいというふうにおっしゃってたんですか。
やっぱり徹の将来のことを心配していたからです。統一教会の違法な活動をしていることですとか,合同結婚式についてですとかを,やはり本人としっかり話合いたいと,そのように思っていました。
あなた自身は,どう思っていましたか。
私自身も,そう思っていました。
このあいだ,■<後藤徹氏兄>が葛西の徹さんのところに通ったりとか,あるいは徹さんと旅行に行ったりとかもありましたね。
はい。
松永牧師や宮村さんや,そういったカウンセラー抜きに,家族だけで話し合うということは,難しいんですか。
やはり難しいと思います。
それは,何でですか。
やはり統一教会の知識のある詳しい方に入っていただかないと,話合いはうまくいかないからです。
原告とこの後,新潟で話し合っていますけれども,新潟で話し合うということは,誰がどのように決めましたか。
父が提案して,家族で決めました。
宮村さんから,新潟で話し合ったらいいんじゃないかとか,俺が松永牧師に段取りをつけてやるとか,そういう話はあったんですか。
いえ,ありません。
95年初夏頃から,先ほど,新津福音教会に通って,家族の心構えを学んだというふうにおっしゃってましたね。
はい。
家族の心構えというのは,誰が話をしていましたか。
松永先生が,話しておられました。
新津福音教会の勉強会で,松永牧師以外の人から話を聞いたことはありますか。
元信者の方からお聞きました。
元信者からは,どんな話を聞きましたか。
統一教会の実態ですとか,反牧対策,そういったことをお聞きしました。
あなたは,この裁判になってから,甲101号証のビデオというのは分かりますか。
はい。

それは,この当時,新津の勉強会で見たことはありますか。
いいえ,ありません。
勉強会で,松永牧師や元信者から,例えば簡易トイレを用意しろとか,あるいは話合いを始めるに当たって人数を用意しろとか,そういったことを言われたことはありますか。
いいえ,ありません。
本人の意思に反しても構わないから,場所を移動して話合いを開始しろと,そういうようなことを言われたことはありますか。
いいえ,ないです。
新潟で原告と話合いをするに当たって,どうやって原告と一緒に新潟に行くかとか,あるいは新潟のどこで話合いをするかとかいうことを,松永牧師と相談したことはありますか。
いいえ,ありません。
95年9月11日に,原告と一緒に新潟に移動しましたね。
はい。
9月11日に新潟に移動することについて,松永牧師と相談したり連絡したりしたことはありましたか。
いいえ,ありません。
新潟に移動する大まかな時期くらいは,伝えていましたか。
父のほうから,秋頃に話合いを持ちたいという,そういう旨は伝えていました。
そういうふうに伝えたときに,松永牧師からは,何ていうふうに言われたかは聞いていますか。
本人が話を聞きたいということであれば行きますと,そのようにおっしゃっていました。
新潟に行ってから,原告はどのような生活をしてましたか。
朝遅く起きたり,夜は遅くまで起きたりと,割と自由に生活していました。
どっちかというと,徹さんのペースで過ごしてたということなんですか。
はい,そうです。
徹さんを優先してたのは,なぜですか。
やはり気を使っていたということもあります。母は特に,徹に対して優しかったですし。
松永牧師が新潟のマンションに来たのは,いつ頃ですか。
新潟に行ってから,1ヵ月くらいたってからです。
松永牧師が1ヵ月後に来たのは,なぜですか。
父が,今話し合っていて,徹が話を聞きたいということを言っているので,話しに来てくださいますかと,そのようにお願いしたから,来てくださいました。
松永牧師が来るまでは,家族だけで話し合ってたんですか。
はい,そうです。
それが規定事項だったから。
いえ,そうじゃないです。
なぜ最初,家族だけで話し合ってたんですか。
やはり徹がどういうふうに考えているのかっていうことを,家族で聞きたかったですし,やっぱり家族の信頼回復っていうことが大事ですので,まず家族で話し合いたいと,そのように思ったからです。
松永牧師が初めてマンションに来たときに,あなたも同席してましたか。
はい。
原告は,どのような様子でしたか。
最初は少し警戒している感じはありましたけれども,すぐにふだんどおりに話していました。
松永牧師の様子は,どうでしたが。
穏やかに話しかけておられました。
二人がどんな会話をしていたかとか,覚えていますか。
松永先生は最初,家族は何を心配しているか分かりますかと,そのように聞かれて,それに対して徹はちゃんと答えられてなかったように思います。それからは,徹のほうから,聖書について,松永先生に質問したり,松永先生は統一教会の教義のことや実態について,お話しされていました。
松永牧師が統一教会や文鮮明を罵倒したり,あるいは大声を上げて棄教を要請したりしたことはありましたか。
いいえ,ありません。
原告のほうが,例えば大声を上げて,松永牧師に抗議をしたりとか,そういったことはありましたか。
いいえ,ありません。
95年12月頃に,原告が脱会表明をして,その後,手記を書きましたね。
はい。
原告が手記を書く様子は,見たことありますか。
はい。
原告は,手記をいつ書いていましたか。
夜遅く1人になったときに書いていました。
手記を書く原告というのは,どんな様子でしたか。
黙々と書いている感じでした。
その後,96年3月頃から,松永牧師が来なくなったわけですが,それはちょっとさっき主尋問で聞いていたので割愛しますけども,98年の春頃に,松永牧師がフラワーマンションに来たことがありましたね。
はい。
どういう経緯で来ることになったか,聞いていますか。
松永先生が東京に来られているということを宮村さんからお聞きしまして,久しぶりでしたので,お時間があれば来ていただきたいっていうことを言いまして,徹も承諾したので,来てくださるようにお願いしました。
松永牧師がフラワーマンションに来たとき,あなたも同席してましたか。
はい。
原告と松永牧師がどのような会話をしたかは,覚えていますか。
はい,徹は偽装脱会していて済みませんでしたと,そのように言っていました。
松永牧師が,それに対して何と言ったかは,覚えていますか。
しっかり検証してくださいねと,そのように言っておられたと思います。
松永牧師が原告に対して,頭をかち割ってみたいとか,そういったことを聞いたことはありますか。
いや,ありません。
松永牧師は,どのくらいいたんですか,そのときに。
30分くらいだったと思います。
<話し合いの原則&リハビリの必要性>
被告宮村代理人(山口広)
宮村さんとあなたとの話合い,あるいは宮村さんと徹さんとの話合いの中で,宮村さんはどんな話し方をするんですか。
そうですね,統一教会について,教義について,割と淡々と話をされます。
原告のほうが,いわゆる統一教会を中傷したり,あるいは原告を罵倒するというようなことがあったというようなことを言うんだけど,先ほどそれはなかったとおっしゃいましたが,そういう中傷とか罵倒をしたら,話合いになるのかな。
いや,やっぱりそういうふうにされてしまうと,やっぱり心閉ざしてしまうので,そういうことはありません。
原告は,宮村さんや元信者がフラワーに来るのを,喜んでいるふうでしたか,それとも嫌がっているふうでしたか。
喜んでいるっていうことでは,どうなんですかね。でも,やっぱりご本人のことを,やっぱり大事に思っておられるっていうのは確かなので,それは複雑な思いはあるかと思いますけれども。
98年9月頃から,来るのをやめたということでしたよね。
はい。
その後,例えば原告が,元信者や宮村さんと会いたいとかいう感じの発言はなかった。
いや,それはありませんね。
むしろ嫌がっているふうでしたか。
やっぱり話合いにならなければ,ちょっと難しいっていうふうには思っておられたと思いますから。
むしろ原告はマイペースで,自分の殼に閉じこもっていたような感じがありますか。
そうですね,確かにそういうときもありましたから,はい。
先ほどあなたは,脱会を決めた後も,いわゆるリハビリが必要だということをおっしゃいましたね。
はい。
これは,そういう脱会を決めた後も,突然実社会に戻ると,どんな支障が出るということですか。
やっぱり統一教会にいるときは,アベルの指示で動いていますので,自分で考えて行動するっていうことは,とてもできにくくなるんですね。ですから,いきなり働き出したりしたら,自分で動けないので,そこで職場の人とかとも,うまくいかなかったり,あと対人関係もなかなかうまくできなかったりするので,そういう支障はあります。
逆に統一教会の信者でいる間は,肉体的には,あるいは金銭的にはきついかもしれないけども,物事の考え方やその他は,全部アベルが指導,指示してくれるわけですね。
そうです,はい。
そういう意味では,精神的に楽なんだ。
言われたとおりのことをすればいいので,そういう意味では,楽かもしれません。
組織の中では,みんな同じ方向を向いているわけですね。
はい,そうです。
世の中は,みんな別々の方向を向いたりはしてますよね。
はい。

次回は、妹さんの反対尋問です。
これからも後藤徹氏を応援してくださいね!!
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ひきこもり状態にした張本人
もうちょっと、妹ならではの説明がほしかった…。
それにしても、面白い。
妹は、原理に詳しい人が来たとき、とっさに押し入れに入った、って…。
外に出ろよ、外に。このウソは、笑えます。
妹は、原告を「自分の意思で話し合いに応じる」状態から、引きこもり状態にした張本人。
話し合いにつきあうと言っていながら、1年間にわたって自分だけスポーツクラブに通うとは何事だ。
尋問通りのストーリーだと、妹との話し合いが原因で原告は引きこもりの状態になったことになるが、その責任はどう考えるの?
統一教会の話以外に「兄妹としての普通の会話」「子供の頃の話」をしたと言うが、そんな会話じゃ、12年5ヶ月という長時間話し合い記録(ギネス記録)は作れないよ。
「話に詰まると,徹のほうから,拉致監禁だとか言うので,このどこが拉致監禁なのよって,出ていきたければ行けばいいじゃないっていう感じで,毎回そんなふうなやりとりがありました」
そんなふうに抗議する原告が、外に出たがらなかった、教会にも行きたがらなかった、って、そんな話、信じられます?
反対尋問で原告サイド(福本弁護士)の倍返しが楽しみです。
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