後藤徹氏の兄嫁の主尋問ー結婚生活より、徹氏との話し合いを重視した。
後藤徹氏の本人尋問を傍聴した人の話しによれば、後藤徹氏のお兄さん、妹さんは殆ど顔を上げることなく、表情も表わさなかったのに対し、兄嫁さんはしっかりと顔をあげ、後藤徹氏の発言に表情豊かに反応していたということです。
後藤徹氏の陳述書を読んでも、氷水を背中に流したり、徹氏を揶揄した似顔絵を「これを見て食事をしろ!」と強制したり、叩いたりと、気の強い女性というイメージが先行します。
しかし、この尋問では、自らの結婚生活よりも、義弟である徹氏の将来を心配して、徹氏との話し合いを重視したという家族思いの主張が聞かれました。
この主尋問の1つの注目点は、伊藤弁護士が信用できるか、との質問に対する兄嫁氏の発言です。(この発言に関しては、裁判傍聴した人も捉え方が様々でした。)
山口貴志弁護士尋問の最後の方で、このやりとりがありますので、皆さんで確認していただけたらと思います。
尚、この件に関しましては、エイト氏、yoshi氏のブログでも紹介されてますので、そちらもご覧いただけたら、と思います。

被告後藤■<後藤徹氏の兄>外2名代理人(山口貴士)
乙イ第4号証及び乙イ第5号証(いずれも陳述書)を示す
これらは,乙イ4については押印,乙イ5については署名押印したものに間違いありませんか。
はい,間違いありません。
甲124号証において, 1993年5月29日ご撮影されたというあなたの写真が証拠として出るんですけれども,この当時,あなたは水茎会に通っていましたか。
はい,通っていました。
水茎会に何のために通っていたんでしょうか。
水茎会に元信者の方々もいらっしゃってましたし,そこで交流ができるということもありました。それから水茎会に統一教会の信者を持つ家族の方々が心配していらっしゃってましたので,その方々に自分の体験などを話せたらいいなという思いもあって,行ってました。
徹さんとの話合いについて宮村さんに相談していたのではないですか。
いえ,それはありません。
後藤家において,もう一度,徹さんと話合いをしたいと言われ始めたのはいつ頃でしょうか。
1994年12月ぐらいだったと思います。
言い出しだのは誰ですか。
義理の母です。
なぜ9月11日にお話合いをしようと徹さんに持ちかけることになったんでしょうか。
95年9月11日に徹さんのほうから義理の父のほうに電話がありまして,自宅に帰ってくるということを言ってきたようでして,それを主人のほうに義理の父が伝えて,この日にぜひ話合いをしたいという希望を伝えてきました。
なぜ新潟で話合いをしようと考えたんでしょうか。
徹さんが当時,東京のほうで活動していましたので,新潟ですと距離的に離れてることもありまして,統一教会の妨害がないだろうということと,あと私が以前,お世話になりました松永先生にお願いできるということも考えていました。それから当時,私の祖父のマンションが空き家になってたので,そこも使えるということで決めました。
松永先生に連絡をとったのは誰ですか。
義理の父です。
松永先生に何をお願いしようと思ったんですか。
徹さんと統一教会のことや聖書の話をしていただければということでお願いしたと思います。
話合いに入るまでに,松永先生の教会に何回ぐらい通ってますか。
五,六回だったと思います。
松永先生の教会に通うようになったのはいつ頃でしょうか。
1995年4月か5月ぐらいだったかと思います。
松永先生のところに通ったのはなぜなんでしょうか。
松永先生のところに伺ったときに,松永先生のほうから,家族の会の勉強会のほうに行って,参加してみたらどうですかというお勧めがありました。
そこの勉強会ではどのようなことを学ぶのでしょうか。
聖書のこともありましたけれども,家族の心構えということが一番でした。
松永先生のところに通ったのは誰ですか。
義理の父と義理の母と主人と■<後藤徹氏の妹>さんと私です。
要するに家族全員ですね。
はい,そうです。
甲98号証の1から3,あるいは甲99号証,甲100号証,甲101の1ないし3,甲102,こういうメモ,ノートとかビデオの反訳とか,こういう証拠が出てるんですけども,これはご覧になりましたか。
見たことありません。
この裁判になってから見たことありますか。
はい。
今回の訴訟が提起される前に,松永先生からこれらの資料を見せられたり,ここに書いてある内容を説明されたり,指示されたことはありますか。
ありません。

<↑は見たことも聞いたこともないと言い切る兄嫁さん>
<新潟での話し合い>

徹さんに対して,95年9月11日ですけども,話合いをしようと持ちかける予定だったということを事前に説明していましたか。
していませんでした。
なぜ事前に説明しなかったんでしょうか。
徹さんは統一教会の信者なので対策を受けていまして,信者は自分の上司で,アベルというんですけれども,そういう立場の人に必ず状況を報告,連絡,相談をしていましたので,アベルのほうにそういう報告をすれば,アベルが話合いに行くなというふうに止めることが想像できましたので,家族としては徹さんに家族の思いをしっかり伝えた上で,徹さんが話合いのほうに応じるかどうか,しっかり考えてほしかったからです。
ただ,急に言われても,徹さんにも予定や都合があるのではありませんか。
本人が納得すればいいと思います。
要するにいやだったら徹さんは話合いに応じないと,そういうことですか。
もちろんです。
ただ,後藤家のほうではマンションとか車とか手配して,親戚の人も呼んでるし,徹さんが嫌だと言っても,計画を中止するわけにはいかないのではないですか。
本気で抵抗すれば止めることもできませんし,嫌だったら話合いはできないと思いますけれども,そういう場合は,そういう思いはあっても,諦めるしかなかったと思ってます。
本人の同意なく無理やり連れていくと話合いってどうなるんですか。
本人のほうが心を閉ざして,かえって話合いが難しくなると思います。
あなたの陳述書には,徹さんにもう行きましょうよとあなたが促したけども,徹さんは動こうとしなかったということが書いてあるんですけども,徹さんには話合いに応じる意思はなかったのではないですか。
いえ,黙って考えてる様子でしたけども,父のほうからも,また,主人もまた続けて話してましたし,最終的には承諾してました。
徹さんは左右両脇を抱えられて,ワゴン車に無理やり押し込められたと述べてるんですけど,事実ですか。
いえ,そういうことはありませんでした。
実際はどうだったんですか。
自分で立ち上がって,靴を履いて,ワゴン車まで歩いてました。
徹さんがワゴン車に乗る前に,抗議したり抵抗したことはありますか。
ありませんでした。
徹さんはワゴン車のどこに座っていたんでしょうか。
一番後ろの真ん中で,両脇に父と母が座ってました。
徹さんが出発前に,誰かに連絡をとらせてほしいと言ったことはありますか。
いえ,ありませんでした。
あなたのお兄さんが車を運転してるんですけど,なぜあなたのお兄さんが車を運転するようになったんですか。
新津教会のほうに出向いていくときに,実家についでに寄って,そのときに私の家族,兄がいたんですけれども,そのときに徹さんとの話合いをしたいと考えてるということを話しました。そのときに私の兄のほうから車の運転を買って出てくれましたので,父がお願いしますと言ってました。
車の手配をしたのは誰ですか。
私の兄です。
東京から新潟への移動手段や方法について,松永先生に相談したり,助言を受けたことはありますか。
それはありません。
新潟のパレスマンション多門には電話はあったんでしょうか。
ありませんでした。
なぜ電話がないんでしょうか。
当時,空き家になってましたので,電話は取り付けてなかったです。
要するにおじいさんが亡くなった後,しばらく空き家になってたということですか。
そうです。
電話がなくて不便ではなかったんですか。
父が,義理の父ですけれども,携帯電話を持ってました。
荻窪フラワーホームや荻窪プレイスには電話はありましたか。
ありました。
なぜ荻窪フラワーホームや荻窪プレイスには電話があったんでしょうか。
備え付けてありました。
備え付けてあったというのは,何を備え付けてあったんですか。
固定電話です。
電話機が既にあったということですか。
はい。
荻窪フラワーホームや荻窪プレイスなんですけど,固定電話は使っていたんでしょうか。
フラワーホームは使ってました。
パレスマンション多門の呼び鈴はどうなっていましたか。
普通にありました。
徹さんにはパレスマンション多門の住所は教えていましたか。
そういう話はしたことがありません。
そういう話をしたことがないのはなぜですか。
聞かれなかったからです。
あなたは徹さんから聞かれたことがないということですね。
そうです。
徹さんはパレスマンション多門にいる間,外に出たいとか散歩したいとか,そういうふうに言ったことありますか。
いえ,ありませんでした。
あなたがパレスマンション多門に住んでた,あるいは顔を出していた時期について説明してください。
1995年9月11日に行ったんですけれども,その年の12月ぐらいに体調が悪くなりまして,新潟の実家のほうで私は生活するようになりました。96年になって,体調もよくなったので,その頃は春ぐらいにアルバイトを始めまして,多門マンションのほうには週に2回か3回ぐらい顔を出してたと思います。時々は私の自宅,新座の自宅のほうに帰ったりもしていました。
アルバイト先は何というところでしょうか。
ことりやというユニフォームを扱ってる会社です。
乙イ第38号証(在職証明書)を示す
これは今言われたことりやのほうから出してもらった在職証明書でしょうか。
はい,そうです。
あなたは週に二,三回ぐらい,パレスマンション多門に顔を出していたと言われるんですけども,その滞在時間は大体どれぐらいだったんでしょうか。
半日ぐらいのときもありましたし,10分程度で帰ることもありました。
あなたが実家からパレスマンション多門に戻ってきて,住むようになったのはいつですか。
1997年3月くらいです。
なぜパレスマンション多門に戻ってきたんでしょうか。
その頃に義理の父が肝臓がんだと分かったんですけれども,義理の母も父に東京のほうで付き添うという話になりまして,そのことを聞いて,■<後藤徹氏の妹>さんが非常に不安になってまして,私が付き添ったほうがいいなと思って,マンションに戻りました。
松永先生がパレスマンション多門に来るようになったのはいつ頃ですか。
1995年10月くらいだったと思います。
松永先生を呼ぶように提案したのは誰ですか。
義理の父です。
松永先生を呼ぶことについて,徹さんはどのような反応でしたか。
承諾はしてました。
元信者の人たちが話合いに来ることについてはどうでしたか。
了承してました。
徹さんが脱会を表明したことをあなたはどうやって知りましたか。
マンションに行ったときに,義理の母と■<後藤徹氏の妹>さんから聞きました。
当時,徹さんが書いた脱会手記というのは読んでますか。
いえ,読んでません。
徹さんが統一教会をやめたと脱会を表明した後も,パレスマンションでの生活か続いた理由はなぜなんでしょうか。
徹さんのほうから話合いをやめようという話はありませんでしたし,家族もできれば話をしたいと思っていましたので続けてました。
徹さんが脱会を表明した後,新津教会に通わなかった理由はなぜでしょうか。
家族との話合いのほうが大事だと思ってたので,そういう話にはなりませんでした。
お父さんが肝臓がんだということが判明した後,徹さんがお見舞いに行ってないのはなぜなんでしょうか。
徹さんがお見舞いに行きたいと言わなかったからです。
義理のお父さん,■<後藤徹氏の父>さんが東京に戻ってから,徹さん宛てに何か連絡はありましたか。
はい,何度も手紙が届いてました。
手紙の内容は知ってますか。
私は見てませんけれども,■<後藤徹氏の妹>さんからちょっと聞いた話ですけども,徹さんがこれからの人生のことや統一教会のこととか,しっかりと新潟のほうで考えてほしいというような,そんな話を書いてあったようなことを聞いたと言って聞きました。
<新潟から東京へ>

<図面はクリックしたら大きくなります。>
パレスマンション多門から東京に移動する際の車とか,同行する人の手配をしたのは誰なんでしょうか。
主人です。
徹さんはパレスマンション多門を出て,車に乗るまでの間,周りを取り囲まれていたと述べてるんですが,事実ですか。
いや,それはありません。
移動する車の中に乗っていたのは誰ですか。
私と■<後藤徹氏の妹>さんと徹さんと私の2人の兄と,それからTさん<被告松永によって脱会説得を受けた元信者>です。
あなたの陳述書だと,Tさんが乗っていたかどうかはっきりしないと述べているんですけども,Tさんはその場にいたんですか。
いたらしいです。後日,うちに連絡かおりまして,後日って最近の話ですけど,裁判の最中ですけれども,連絡かありまして,徹さんから電話が来たようなんですけれども,そのときに車に乗ってたよねということを聞いたので,そういう話がうちに来まして,そのときにTさん,乗ってたんだっけっていう感じで思い出しました。
なぜTさんが車を運転するということになったんですか。
Tさんが車を出してくださったそうなので,自分の車だったので自分で運転してきたんだと思います。
それはいつ頃,知ったんですか。
・・・ちょっとはっきり覚えて・・・。
裁判が起きる前か後か。
もちろん始まってる頃です。
徹さんはSという元信者,あるいは女性の元信者も同じ車に乗ってたんだと主張していますが,どうですか。
いや,それはありませんでした。
新潟<ママ 東京>に向かう車の中は余裕があったのか,それとも定員いっぱいだったのか,どっちですか。
余裕はありました。
徹さんはどこに座っていましたか。
一番後ろで■<後藤徹氏の妹>さんと一緒に座ってたと思います。
徹さんが■<後藤徹氏の父>さんの遺体と対面したとき,周りには誰がいましたか。
後藤家の家族,私も含めてですけれども,それと私の兄2人です。
徹さんは東京で話合いを続けることについて,どのような態度でしたか。
そのときに,父の願いだったということも聞いたので,承諾してました。
荻窪プレイスまでの移動手段は何でしたか。
車です。
車に乗ってたのは誰ですか。
主人と徹さんと■<後藤徹氏の妹>さんと私です。
あなたが東京で話合いを予定されてることを知ったのはいつでしょうか。
・・・父と対面した後です。
対面ってご遺体を見たときということですか。
そうです,はい。
急に東京で暮らすことになって,困りませんでしたか。
手荷物は必要なものを持ってきましたので,あとは荷物を引き払ってくればいいなと考えてましたので。
手に持つというのは,どうせ何泊かするつもりだったから,一応,荷物を用意したということですか。
そうですね。必要な身の回り品とか衣服とかが中心でした。
荻窪プレイスまで移動する際の徹さんの様子はどうでしたか。
普通にしてました。
荻窪プレイスで生活してたときのことなんですけど,■<後藤徹氏の兄>さんはずっと徹さんとマンションの部屋にいたんでしょうか。
あの頃は仕事をしてましたので,日中はほとんどいませんでしたし,父が亡くなった後は新座のうちで1ヵ月近く生活してましたし,行ったり来たりしてたので,いないことも多かったです。
あなたの義理のお母さんはどうですか。
母は父が亡くなった後,私よりいろいろしなければいけないこともありまして,1ヵ月ぐらいは実家のほうで過ごしてました。それからは一緒に生活してました。
荻窪プレイスなんですけども,徹さんが外に行こうとした,あるいは外に出たいというふうに言ったことはありますか。
いえ,ありません。
<荻窪プレイス、荻窪フラワーホームの生活>

荻窪プレイスから荻窪フラワーホームに移動したときなんですけども,移動手段は何ですか。
車で移動しました。
徹さんと同じ車に乗ったのは誰ですか。
主人と徹さんと義理の母と■<後藤徹氏の妹>さんです。
徹さんに荻窪フラワーホームに移ることは説明してますか。
はい。
説明したのは誰ですか。
主人だったと思います。
徹さんは荻窪フラワーホームに移ることを承諾してましたか。
はい,主人が言って,承諾してました。
徹さんは荻窪フラワーホームに移動することについて,何か言ってましたか。
いや,特には言ってませんでした。
徹さんは荻窪フラワーホームへの移動に反対したり異議を唱えたり,嫌だとか,そういうことを言ったことありますか。
それはありませんでした。
荻窪フラワーホームのドアに南京錠がついてたのはいつからいつまでですか。
フラワーホームに入ってから,その年だから98年4月くらいだったと思います。
検察審査会の議決書,乙イ1号証の3枚目の6ページ目の力の第2段落には,南京錠は入居前に取り付けと書いてあるんですけども,そのようなことをあなたが警察や検察官に述べたことはありますか。

<議決書の一部。反対尋問でも出てきます。>
そういうことは言ったことありません。
何でこういう記載があるんでしょうか。
検察審査会の勘違いだと思います。
あなたはどのようなことを述べたんですか。
南京錠のことを聞かれて,主人が南京錠は入居前には用意したんじゃないかなという話はしたと思いますけれども。
なぜこれは検察審査会の勘違いだというふうに言えるんですか。
入居前に南京錠をつけることは無理ですので。
徹さんが,自分が偽装脱会したことを表明したときの態度はどのようなものでしたか。
偽装脱会を表明したときは,今まで家族に嘘をついてたわけなので,統一教会のことを本当は信仰を失ってませんと,そんな感じで言ったんですけれども,申し訳ありませんでしたと嘘をついたことについては謝ってました。徹さんとしては,家族が何もそういったことに触れてこなかった。で,偽装してたんだというふうに家族が疑ってたんだろうというふうに。家族がそういうことを言ってこなかったことに対して不満めいたことは言ってました。
そういうことを言ってこないというのは,要するに徹さんに面と向かって,あなたは偽装してるんじゃないのと指摘しなかったと,そういうことについてですか。
そうです。
徹さんが偽装脱会を告白したときに,徹さんは声を荒げたり怒鳴ったり,そういうことをしたことはありますか。
いえ,ありませんでした。
宮村さんに話合いのために来てもらおうと言いだしたのは誰でしょうか。
義理の母です。
具体的にお母さんはどういう状況でどういうふうに言ったんですか。
とても心配してましたので,徹さんにもっとしっかり自分の人生のこと,統一教会のこと,検証をもう一回してほしいと言ってました。それで統一教会にも詳しい宮村さんの話をもう一度聞いたりして,一緒に話をしてみてほしいということを言ってたと思います。
それは徹さんが偽装脱会を表明する前ですか,後ですか。それともそのときですか。
表明したとき。そうです。表明した後ですね。
徹さんは宮村さんと話合いをすることについて,どのような態度をとってたんですか。
葛藤してる感じはありましたけれど,了承してました。
甲第9号証(陳述書)添付図面4を示す

<図面はクリックしたら、大きくなります。>
これは荻窪フラワーホームの804の間取り図なんですけども,電話があった場所というのを間取り図上で説明してもらえますか。
まず,この位置とか。
このというのは,今「服など」と書かれてるところを指してるんですね。
そうですね。「服など」というあたりがちょっと微妙に違うんですけれども,ここは洋服かけのようになってまして,隣に衣装ケースがありまして,その上のあたりに,大体そこら辺にあったと思います。
甲第9号証(陳述書)添付図面3を示す

<図面はクリックしたら、大きくなります。>
荻窪プレイス605の間取り図なんですけど,このうち,どこに電話があったんでしょうか。
この図はちょっと広さとか位置が違うんですけれども,ここの玄関のわきに本当はトイレがありまして。
玄関のわきって玄関の右わきですね,この図面上でいう。
こう図面で見て右わきです。この畳の部屋の隣みたいな。
畳の部屋というのはその右側。
徹さんがよくいた部屋なんですが,畳の部屋の,この図でいうと左隣がフローリングの小さい部屋になってまして,このあたりにあったと。
今のを図でいうと,玄関の右隣にトイレがあって,その隣のほうにフローリングの部屋があって,そこに電話があったということですか。
そうです。
荻窪フラワーホーム,荻窪プレイスに呼び鈴はありましたか。
はい,ありました。
呼び鈴は鳴ったんでしょうか。
鳴りました。
ずっと鳴ってましたか。
フラワーホームは最初,鳴ってたんですけれども,最初からちょっと調子がおかしい音がしてまして,途中から鳴らなくなりました。
あなたが荻窪フラワーホームで生活したり,通っていた状況を時期ごとに説明してください。
1997年12月にマンションに来たんですけれども,98年4月,春ぐらいなんですが,体調を崩しまして,自宅のほうに帰りました。それが1999年の末ぐらいまでなんですけれども,それ以降,ずっと病院に入院しましたり,その後,アルバイトしたりしまして・・・回数は98年,9年あたりは週二,三回ぐらい来てたと思いますけれども,2000年以降はそんな頻度は,まれに行く程度でした。それで2004年2月ぐらいにもう一度,フラワーホームのほうに生活するようになりました。
荻窪フラワーホームにいる間,徹さんが自分からマンションの外に出ようとしたことはありますか。
いえ,ありません。
玄関まで行って,ドアを確認したことはありますか。
ありません。
<徹氏の態度に対し、家族が行ったこと>

あなたは徹さんに対して最初にマンションから出ていくように言ったのはいつですか。
1998年9月か10月ぐらいだったと思います。
それからマンションから出ていくように徹さんに言った回数はどれぐらいですか。
それ以降,何度も,数えきれないぐらいあります。
出ていくように言ったのは誰ですか。
家族全員言ってました。
口で言うだけじゃなくて,実際に外に出そうとしたことはありますか。
はい,二度ほどあったと思います。
それはいつでしょうか。
1996年9月か10月のときと,2004年の徹さんが断食をした後ぐらいにありました。
今,96年9月か10月頃と言われたけども,96年でよろしいですか。
98年ですね。
98年9月か10月頃はどういう出来事だったんでしょうか。
話合いをしてるときに徹さんがいい加減な態度をとって,母も心配して話をしていたんですけれども,■<後藤徹氏の妹>さんと母に対して非常に見下した,ばかにするような態度で発言を繰り返してましたので,相当我慢しましたけれども,あまりにもひどいので腹が立ちましたし,徹さんに反省してほしいという気持ちもあって叩きました。
叩いたときの話は後で話を聞くんだけども,そのときの話はそれでいいんだけども,98年に徹さんを外に出そうとしたときの話。
出そうとしたときは,徹さんがやっぱり訳の分からないばかにするようなことを言ったり,そのときに私たちが,統一教会に関する話のときが多いんですけれども,そうすると話を逃げて・・・こんなところに閉じ込めやがってみたいなことを言ったりするときがありまして,そういったときに,そんなこと言ってないで,そんなだったら出ていけばいいじゃないっていう感じで引っ張ったんですけれども,全く,力が強いので動こうとしませんでした。
引っ張ったのは誰ですか。
私です。
2004年の出来事はどういう状況だったんですか。
2004年のときは・・・やはり話合いをしてるときに・・・話を逃げるようにして,また難癖つけるように,閉じ込めてるみたいな感じで家族に文句を言うので,だったら出ていけばいいじゃないというふうにして言ったんですけれども,そうするとはぐらかすようにしてて,だから出ていけばいいじゃないと言って,そのときは■<後藤徹氏の妹>さんと一緒に引っ張っていこうとしましたけれども,女2人がかりでも全く全然動きませんでした。
徹さんは■<後藤徹氏の兄嫁>さんから背中に氷水を流し込まれたことがあると主張してるんですけど,事実ですか。
事実じゃないです。
先ほど,あなたは自分からお話しになったんだけど,徹さんを叩いたことがあるわけですね。
はい。
何回叩いたんですか。
2回です。
叩いた経緯は既に述べられたとおりですね。
はい。
時期はいつ頃なんですか。
先ほども言いましたけれど,1998年9月,10月あたりと2004年の断食の後です。
2回叩いてるというのは,時期が2回あるということ。
そのときも叩きましたし,そのときの2回です。
叩かれた徹さんはどのような態度をとってたんですか。
少しばつの悪い顔はしてました。
力はどの程度ですか。
そんなに強くはありません。
徹さんは,あなたは水泳をしてて力が強かったと述べてるんですけど,どうでしょうか。
水泳をしてたのは小学生の頃ですし,大人になってからは運動する機会もありませんでしたので,そんなに力が強いとは思いません。
徹さんから,あなたが叩いたことについて抗議や文句はあったんですか。
いえ,ありませんでした。
徹さんは手向かってきましたか。
いや,そういうことはなかったです。
徹さんは,あなたが徹さんを茶化すような絵を見せつけながら食事するように言われたんだと供述してるんですけど,事実ですか。
いえ,事実ではありません。
徹さんに絵を見せたことはあるですか。
はい,あります。
どのような絵を見せたんですか。
話をしてるときに,非常に態度が悪くて,偉そうにしてるというか,ばかにした感じで偉そうにしてるので,どうしてそんな態度をとるのかと言っても,いや,別にそんなことないですよみたいな感じだったので,全然,自分の態度を認めようとしませんでしたので,絵に書いて,こういう感じだよというふうに見せました。

<こんな感じの絵だろうか?と勝手にイメージしてみました。>
誰に対して偉そうな態度をとったんですか。
いや,特には。私もそうですけど,母や妹たちに対してです。
あなたは興奮して半狂乱になったということはあるんですか。
いえ,ありません。
徹さんは,■<後藤徹氏の妹>さんから押されたと述べてるんですけど,このような状況を見たことはありますか。
いや,見たことありません。
<徹氏の断食、その後の食事>

徹さんの1回目の断食のきっかけはどのようなものでしたか。
1回目の断食のときは,ずっと徹さんが引きこもってる状況だったときなんですけれども,徹さんと話し合うきっかけができて,そのときに,このような状況じゃなくて,また一緒に食事をしようという話をしましたら・・・2日ぐらいたった頃だったかと思うんですけれども,急に一緒に食べるんだったら断食すると言って始めてました。
1回目の話ですけど,断食を終わった後,断食明けの食事というのを出しだのはなぜなんですか。
断食が終わって,徹さんが断食の食事をお願いしますと頼んできたので出しました。
それは2回目も3回目もそうですか。
そうです。
1回目の食事の内容について,徹さんから不満が出たことはありますか。
いえ,特にはありませんでした。
2回目の断食のきっかけはどのようなものだったんでしょうか。
2回目の断食のときは,母がいるところに徹さんが来て,韓国語のテキストを欲しいと言って,ちょっとこびるような感じで来て,そしたら母が,そんなこと言ってる前に考えなきゃいけないことがあるんじゃないのかということを話していたんですけれども,そこに私も話に加わって,■<後藤徹氏の妹>さんも加わってたと思うんですけれども‥駄々こねて,そんな身勝手なことを言ってるので,そんなこと言うんだったら自分で外に出て働いて,それで自分で買えばいいじゃないという感じで話をしましたら,徹さんが怒って,むきになって,だったら断食するという感じで始まりました。
2回目の断食の後,断食明けの食事を出して,普通食に戻すまで期間はどれぐらいだったんですか。
2回目は1ヵ月ぐらいでした。
徹さんは,70日間も重湯やポカリスエットが続いたと述べてるんですが,事実ですか。
いえ,そういうことはありません。
徹さんから,早く普通食に戻してほしい,いつ普通食に戻すのかと言われたことはありますか。
ありません。
2回目の断食の後に,徹さんは断食について何か言っていましたか。
相当つらかったらしくて,もうつらいから絶対やらないって言ってました。
徹さんの3回目の断食のきっかけはどのようなものでしたか。
3回目のときは,ノートとかボールペンが欲しいという話をしてきまして,そのときにそういったものがなかったので断ったら,また不機嫌になって,断食をやるというような感じで始まりました。
断食や断食明けの食事について,何か文献を調べたことはあるんですか。
■<後藤徹氏の妹>さんが,私たちみんな心配してましたけれども,断食少食健康法というような,甲田光雄さんという医師の方なんですけれども,その方の本などを読んでまして,私もそれを見たりしてました。
3回目の断食の後,普通食に戻した後も徹さんだけ食事のメニューが異なってるんですけども,それはなぜなんでしょうか。
3回もやると思いませんでしたけれども,3回目のときに,断食して何の意味があるのというふうな話をして,そしたら意固地になりまして,とにかくやるんだと,やってやってやりまくるんだっていう訳の分からないことを言い出して,止められないので,断食になったんですけれども,何回も断食をしてましたし,またそんな発言もあって,何回も繰り返すんじゃないかという感じもありましたし,断食明けの食事から体にも負担がかからない,また,断食しても体にギャップというか,そういうのがかからないように,心配していましたので,だったらこういう食事のほうが体にはいいんじゃないかということで決めました。
徹さんはその食事について不満を漏らしてることはありますか。
いえ,ありませんでした。
乙イ第37号証(写真撮影報告書)を示す

<写真1 朝食を再現 写真2 昼食、夕食を再現 後藤徹氏の妹が撮影>
後藤徹氏呟き:しかし、食事の内容もさることながら、こんなにたくさん食べられたらどんなによかったか!
<ちなみに原告が食事の内容を再現して撮影した写真は↓>


<クリックしたら、画像が大きくなります。>
2ページ目の写真の食事なんですけども,あなたの認識と大体一致するのかしないのか,お答えください。
こういう感じです。
徹さんは空腹のあまり,生ごみや生米に手を出したと述べてるんですが,どうですか。
いや,それはないです。
なぜそう言えるんですか。
すぐそばに冷蔵庫もありましたし,棚には食べ物も載ってますから,そういうものを食べる必要がないと思いましたし,食事も足りないほどの量ではなくて,食べてましたので,あり得ないです。
徹さんが間食するのをとがめたことはありますか。
いえ,ありません。
炊飯器を買い替えたことってあるんですか。
ありません。
徹さんはインフルエンザにかかっても病院に連れて行ってもらえなかったと主張してるんですけども,どうですか。
いえ,そういうことはないと思います。風邪を引いて,何日か寝込んだことはあったと思いますけれども,普通に回復してました。
徹さんは監禁されて,棄教や脱会を強要されたんだと述べてますが,事実なんですか。
いや,それはありません。
先ほど,徹さんを外に出そうとしたことが2回あると言ったんですけども,2008年2月10日に徹さんを外に出したときとは別に2回あったということですよね。
そうです。
甲第1号証(写真撮影報告書1)を示す

今,写真をお見せしたんですけど,徹さんの体なんですけど,荻窪フラワーホームを徹さんが出たときの状況とこの写真の体を比べて,どうですか。
全く,かなり痩せてると思います。
写真のほうが痩せてるということですか。
全然痩せてます。
なぜそう思うんですか。
私もじかに徹さんの体の様子を見たこともありますし,断食が終わった頃の状況に似てると思います。その頃は母もすごく心配して,もう本当に眠れないぐらいの感じだったんですけれども,断食明けの食事も随分,前に終わってますし,普通に食事してましたから,母が全く心配するような状態ではありませんでした。
今,徹さんの体を見る機会があったって,どういう機会に見たんですか。
暑いときとかそういうときに上着を脱ぐんですけれど,下着のTシャツ1枚になることがしばしばありましたので,見てます。
<兄、兄嫁の結婚生活>


あなたは結婚生活のかなりの部分を徹さんとの話合いに費やしてますよね。
はい。
お子さんはいらっしゃいますか。
いません。
何でお子さんは作らなかったんですか。
徹さんとの話合いが第一の生活になってましたので,それどころではなかったというのが正直なところです。
夫婦で一緒の生活というのはどうだったんですか。
もうほとんど一緒の生活が,後半は少し一緒にいましたけれども,ほとんど別居状態でした。
でも話合いを続けたのはなぜなんてすか。
やはり徹さんも悩んでるような様子もしばしばありましたし,家族としてはやはり徹さんのことが本当に心配でしたので,話合いを続けていったということです。

後藤徹氏呟き:だから、私は「こんな事(監禁・監視)は早く止めて解散しよう!」と何度彼らに忠告したことか!
<伊藤弁護士が兄嫁に・・・>

伊藤芳朗弁護士というのは青春を返せ訴訟において,後藤隆さんの代理人をしてましたよね。
はい。
あなたはどういうきっかけで伊藤弁護士と知り合ったんですか。
たしか東京で青春を返せ裁判の何か,はっきり覚えてないですけど,集会のようなものがあったときに会ったんだと思います。
あなたの知る限りで結構なんだけども,伊藤弁護士は青春を返せ訴訟にかかわってた弁護士とかカウンセラーとか元信者の間では,いろんな突っ込んだ話,打ち明け話を聞かせてもらえるような感じで信用されていたんでしょうか。
信用はあんまりされてなかったと思います。
なぜでしょうか。
ちょっと女癖が悪いというか,そういう評判がありました。
具体的に述べてください。
ちょっと言いにくいですけれども,伊藤芳朗先生とお会いしてたときに伊藤先生から言い寄られたというか・ ・ ・付き合ってくれというか,そういう告白をされたりしましたので,えっていう感じになりました。
当時,あなたは今のご主人である■<後藤徹氏の兄>さんと付き合っていたんですか。
はい,付き合ってました。
そのことは周りの皆さん,ご存じだったんですか。
いや,知ってる人もいたと思いますけど,知らない人もいたと思うので。
伊藤先生は独身だったんですか。
いえ,しっかり奥さんもいらっしゃってたし,お子さんもいたのは聞いてましたので。
言い寄られたのはあなただけなんですか。
そのときは分からなかったですけど,後からそういう話をあちこちで耳にしまして,びっくりしました。
最後に裁判所に言いたいことはありますか。
私たちは徹さんのことを無理やり棄教とか監禁して,話合いをしたわけではありません。本当に徹さんのことを心配して,真剣に統一教会の問題に向き合ってほしいと思って話合いをしました。本当に話合いは難しくて,私たちも悩みつつ,一日一日過ぎていったような状況だったんですけれども,このような話合いの困難なこととか話合いの実態を裁判官の方々にもよく理解していただいて,裁判の判決を下していただきたいと願っています。
<兄嫁さんと家族の話し合い>
![015968s_mini[1]](https://blog-imgs-59-origin.fc2.com/a/n/t/antihogosettoku/20130831083455758.jpg)
<兄嫁さんが家族と話し合い、統一教会を脱会した1991年はこんな出来事がありました。>
被告松永代理人(東)
あなたが両親と話合いを始めたのはいつですか。
1991年1月,お正月ぐらいです。
最初は両親とあなたと3人だけで話合いをしてたんですね。
そうです。
ご両親と3人だけの話合いで,お互い納得のいく話合いはできましたか。
いや,できませんでした。
何でだと思いますか。
私自身がうまく説明もできませんでしたし,両親はよく聞こうとはしてくれてましたけど,話がかみ合いませんでした。
何をうまく説明できなかったの。
統一教会の活動のことは当時,言えませんでしたし,統一教会の教えのことはうまく説明ができませんでした。
その後,松永牧師と話し合いますね。
はい。
どういった経緯で松永牧師と話し合うことになったんですか。
話合いがうまくいかなくて,両親もほとほと困っていたんですが,そのときにキリスト教の牧師先生がいるので,統一教会にも詳しくて,キリスト教の話も分かるので,そういった人の話を聞いてみてほしいという感じで話がありました。
あなたはそうやって言われて,松永牧師と話し合うことを希望しましたか。
やはり葛藤はしましたけれども,話は聞こうと。両親の思いが強かったので話を聞こうと思いました。
あなたは松永牧師と話し合いますというふうに言ってから,松永牧師が来るまでどのくらい,間がありましたか。
1週間ぐらいだったと思います。
初めて会ったときの松永牧師の印象というのはどんなものでしたか。
とても質素な服装をしておられたのと穏やかな感じでいらっしゃったので,いわゆる統一教会の対策で聞いてた反牧とはちょっとイメージが違うなという思いはしました。
統一教会の対策で聞いてた反牧ってどんなイメージなんですか。
1つは共産党の運動をしてるような活動家みたいな,そういう感じとか,あとちょっと知的で・・・ロがうまいというか,そういう感じのイメージでした。
一番最初に松永牧師からはどのようなことを言われましたか。
私の両親が何を心配されてるか分かってますかっていう感じで来られました。
あなたはその質問に何と答えましたか。
分からないですと。
松永牧師とは最初から本音で話し合うことはできたんですか。
当初はやはり統一教会の対策も受けてましたので,気持ち的には怖いなっていう思いはありましたけれども・・・先生とお話ししていくうちに,先生がとても丁寧に分かりやすく説明をしてくださってたので,筋が通るなというふうに印象を受けまして,徐々に話を素直にするようになっていきました。
松永牧師はあなたと話合いをしているときに,あなたの信仰を否定したり,あるいはあざけったり,あるいは文鮮明を罵倒したりとか,そういうことはありましたか。
いえ,そういうことは全くなくて,かえって理解しようという感じで話をしてくれてました。
<兄嫁さん脱会後のリハビリ

あなたは1991年2月に脱会届を統一教会宛てに出してますね。
はい。
手記は書きましたか。
いや,書いてません。
松永牧師から手記を書くように勧められましたか。
勧められたような記憶はありますけれども,書きませんでした。
別にそのことについて何か言われたりはしませんでしたか。
言われませんでした。
あなたは脱会を表明した後の91年3月から4月頃,新津教会に泊まり込んで生活をしてましたね。
はい。
それは何のためにしてますか。
心の整理をしたいというのと,聖書の勉強等をしたいという思いがありました。
なぜ新津教会を見つけたんですか。
先生がお近くにいるし,そこだと聖書の勉強ができるということもありましたので,そういうお話をしたら,じゃよかったら教会のほうにちょっと住んでみたらという感じでお話ししてくださったので,行きました。
新津教会ではどんな生活をしてましたか。
普通に生活してましたけれども,新津教会で当時,聖書研究会みたいなこととか祈り会など,午前中ですとかやってたような記憶があるんですけど,そういったものがあるときは,私は聖書の学びをしたかったので参加したりもしてました。
そういうスケジュールというのは決まってたんですか。決められてたんですか。
いえ,特には決まってなかったです。
同じようにいわゆるリハビリ生活をしてる元信者というのは,あなたと同じ時期はどれくらいいましたか。
そのときによって違いましだけど,1人のときもありましたし,2人とか3人のとき,あったかどうか,ちょっとはっきり覚えてないですけど,そんな感じです。
聖書研究会や祈り会とおっしゃってましたか,祈祷会とかに出るほかに,信者とその家族が話合いをしているところに行って,あなたがその信者と話をしたということはありますか。
話合いしてるご家庭にっていうことですか。はい,ありました。
それは行くように言われるんですか。
いえ,そういう話をしてほしいということで行ってる方がいるということを耳にしたので,自分も行きたいと思って行ってたという感じです。
なぜあなたはそういった協力をしてたんですか。
自分自身も元信者の方が来てくれて,体験を聞いたり,気持ちを聞いたりとか,すごく助けになったのが現実でしたので,自分がやめてからそういうことができれば,何か助けができるならという気持ちで行ってました。
あなたと一緒に元信者がそういう話合いにほかにも行ってた方がいたと思うんですけど,その中で嫌々,強制されて行ってたというような様子の人はいましたか。
いえ,そういうのはないです。
いつ誰が話合いに行く,家族と話し合ってる信者のところに話合いに行くというのはどうやって決めるんですか。
新津教会のほうに脱会者の方が誰かしら来たときに,どこかでお話ししてるけれど,行くとか行かないとかそんな感じで決めてたり,松永先生がお話に行かれるっていうことを聞いたら,私も行きますという感じで,そんな感じで決めてました。
松永先生から,どこそこへ話しに,会いに行くから来てくれとか,あるいは行けとか,そういう話はあったんですか。
命令ということですよね。
指示ですかね。
ないです。
そういった信者と家族が話し合ってるところに行って,あなたは何をお話ししてましたか。
自分の経験しか話すことはないので,自分が統一教会にいた頃の活動ですとか,自分の体験したことです。
話す内容を指示されたことというのはあるんですか。
いえ,特にないです。
リハビリをしていた91年当時ですけれども,新津教会で行われてた勉強会に出席したことはありますか。
はい,あります。
その勉強会は誰が中心になって行ってましたか。
話合いを終えたご家族とか,あと脱会者の方です。
勉強会はどのような感じで行われてたんですか。
礼拝というか,聖書の学びのようなこと,聖書の話を聞いたりして,信者の人の体験談とか統一教会の中での活動ですとか,ご家族の人の話とか聞いたと思います。
91年当時,勉強会でビデオを見たことというのはありますか。
ありません。
あなたはビデオを作成する現場というのは見たことあるんですか。
はい,あります。
誰がどんなビデオを作成してる現場を見ましたか。
TさんとかToさん<両名共被告松永によって脱会説得を受けた元信者>とか,そういった方々がビデオを作るんだみたいな感じで見たときはありました。
どういう内容のビデオを作るとかというのは聞きましたか。
はい。それぞれ体験したことだと思いますけれども,統一教会の実態,統一教会の内部の活動ですとか,そういったたぐいのことだと思いますけれど,それと統一教会の対策。
対策というのは。
統一教会で信者がどのようにして家族に対するとか,反牧の話ですとか,そういう話を聞かされてるというたぐいのことだったと思います。
何でそういったビデオを作るのかという理由は聞いたことありますか。
当時,勉強会に来る方に同じような話を何回もされるので,大変,人手もいることですし,ビデオを作ってしまおうかということで作ってたというふうに聞いたと思います。

<これ以外に元信者でビデオを作成したと言うが・・>
あなたは勉強会に出てたとおっしゃってましたけど,あなた自身は勉強会で何をしてましたか。91年のリハビリ生活。
自分自身も勉強になりましたし,いろんな体験を聞くこともありましたけれども,自分の経験とかも聞かれれば話したりしてました。
あなた自身は何かそういった役割みたいなのは決められてたんですか。
いえ,そういうことはなかったです。
この勉強会に出席してあなたの経験を話す,あるいは話合いの現場に行ってあなたの経験を話すとか,そういったこと以外に信者とその家族の話合いに協力したということはありますか。
いえ,ありません。
あなたは91年8月に提訴されたいわゆる青春を返せ裁判の原告になってますよね。
はい。
青春を返せ訴訟に参加するようになったきっかけはどういったものでしたか。
青春を返せ,やめたばかりの頃はそんなの私,知らなかったので・・・先にやめた方,元信者の方が何か裁判みたいなことをやってるという話を聞いて,そのときにどういう裁判なのかということを聞いたら,統一教会の真相を世の中の人たちにもアピールできるし,難しいかもしれないけれども,当時,まだ統一教会で活動してる信者の人たちが何かのきっかけで事の真相に気がついてはしいという意義があったというふうに聞いたので,私もぜひ参加したいと思って,参加しました。
参加するのは元信者たちに対して強制されることだったんですか。
それはありません。
ほかの原告たちの様子というのはどうでしたか。嫌々やってる人とか強制されたとか言ってる人は聞いたことありますか。
そういう人は参加しないです。
<1995年~1997年>

95年のことですけれども,95年の初夏頃,家族で新津教会に通ったということでしたね。
はい。
新津教会に通って,何をしてましたか。
礼拝に出て,あと勉強会に出たりしてました。
それは何でそういった新津教会に通うということをしてたんですか。
松永先生に相談に行ったときに,ぜひ勉強会のほうに行って勉強してみたらどうですかというお話がありました。
95年頃,勉強会はどのように行われてましたか。あなたが95年頃,家族
として出席した勉強会はどのように行われてましたか。
・・・ビデオを見たこともありましたし,元信者の人達が何人か話を聞かせてくれたりとか,ご家族の話をしたりとか,あと勉強会に出てる方々と交流するような感じで話をしたりとかしてました。
ビデオを見てるとおっしゃってましたけど,それはどういうビデオでしたか。
先ほど言ったビデオを何本か見たような気がします。
元信者の方が作ったビデオ。
はい。
甲101号証,今回,訴訟で出てますけど,これは見たことがないということでよろしいですか。
見たことありません。
この勉強会で献金や会費などを払っていましたか。
礼拝のときは献金は普通にしてました。
会費は。
会費は払ってたんだと思います。
新潟での話合いについてですけれども,松永先生が10月半ば頃,いらしたということでしたけれども,新潟に移動してから大体1ヵ月ぐらいたってると思うんですけど,最初から松永牧師に話をしてもらわなかったのはなぜですか。
もちろん家族でまず話合いをしっかりしたいと思って,徹さんの考えてることや信じてるものを聞きたいという気持ちもありましたので,話してたんです。
それは決められたこととかじゃないですか。最初,家族で。
それは違います。
松永牧師を呼ぶことになったきっかけというのは何かあるんですか。
やはり徹さんと話をしてて,一生懸命,講義したりもしてましたけれどもやはり普通の人よりは理解ができないというか,そういうことで,質問すると機嫌が悪くなることもあったんですけど,ちょっと平行線になりましたので,やはり統一教会の知識のある,また,グリスチャンでもある松永先生にお話を聞いてみたらどうだということで義理の父が言ったという感じでした。
松永牧師が初めて徹さんのところを訪ねたときの様子というのはどうでしたが。
ちょっと緊張していた様子でした。
原告が緊張した様子だと。
はい。
松永牧師はどうでしたが。
松永先生は普通どおり,愛想よく来られてたと思います。
松永牧師と原告が話し合った話合いには,あなたはどれくらい同席してましたか。
・・・多門マンションに行ってから・・・12月の末まで生活してたので,どれぐらいなんだろう。先生が来られたときは,そのときは同席してましたし,それ以降はあんまり一緒になることは,少なかったような記憶です。
あなたが同席した限りで,松永牧師と原告との話合いを見ていて,松永牧師が原告のことを罵倒したり,あるいは統一教会の悪口を言ったり,そういったことはありましたか。
いえ,ありませんでした。
あなた自身は松永牧師と話合いを経験したことがあるわけですよね。
はい。
その話合いと比べて,何か違った点とかありましたか。
松永先生ご自身がですか。特段変わりませんでした。
今,松永先生ご自身とおっしゃってますけど,そうすると原告のほうではあなたとちょっと違うと思った点はあるんですか。
ちょっと私のほうが穏やかに話していたというか,ちゃんとしたやりとりをしようというふうに当時,意識してましたんで。
あなたはですか。
うん,原告はちょっとめちゃめちゃな感じがありましたね。
新潟では,徹さんのところに元信者が来ることもありましたね。
はい。
それは松永先生と必ず一緒でしたか。
・・・松永先生と一緒に来られた信者の人もいましたし,信者だけで来てたということもありました。
元信者と原告との話合いの様子というのは,あなたは見たことありますか。
あります。
どんな感じでしたか。
普通に話してました。笑って話してたり,ゲームとかやったりとか,そんな感じでした。
あなた自身は原告のところに話しに来た元信者と話をしたことはありますか。
はい,あります。
拉致監禁下で脱会説得されたんだと,そういうようなことを言ってた元信者はいますか。
いや,いませんでした。
96年3月以降は松永牧師は原告のところに来なくなってますよね。
はい。
それはなぜですか。
先生もひとしきり原理の話をしたりとか聖書の話をして,徹さんもあまり質問するような感じが少なくなってたと思うんですけれども,先生自身がそういう状況で話,ちょっと話題が乏しくなってきたということもありましたし,家族で,私たちだけでも話をしたいなというふうな気持ちがありましたので,来られなくなったんだと思います。
ご家族のほうで松永先生に来てもらうようにお願いする。こともなかったということですか。
来られなくなってからはなかったと思います。
その後,97年6月に東京に戻りますよね。お父さんが危篤の連絡を受けて戻りますね。
はい。
東京に戻るまでの間に,松永牧師のほうに来てくれと,あるいは徹さんと話し合ってほしいというようなことを言ったことはありますか。
いや,ないです。
97年6月22日にお父さんの危篤の知らせを受けて,東京に戻りますよね。
はい。
このとき,お父さんが亡くなって東京に行くことを松永牧師に連絡しましたか。
私はしてません。
誰かしましたか。
主人がしたかもしれないです。

<懐かしの歌を聴きながら、まったりタイムを。>
<兄嫁さんが語る宮村氏の姿>

被告宮村代理人(山口広)
1991年に松永先生と話合いをしているときに,どういう経過で宮村さんを紹介されたんでしょうか。
先生が何回か来られたときに,東京の宮村さんという人が統一教会のことに詳しいんだけれども,一度,話を聞いてみますかというふうに聞かれました。
松永先生も十分詳しいと思うんだけど,特に宮村さんと会ってみないかと言われた理由を何か言ってましたか。
当時,祝福を受けてやめた人は少なかったんですけれども,私も祝福を受けてまして,そういった話はあまり経験がなかったようなので,そういう話が,統一教会のいろんな裏の情報もですけれども,詳しいというふうな感じで聞きました。
宮村さんはなぜ新潟に来るという話でしたが。
いや,そこまで聞いてないです。
あなたは宮村さんの話を聞くことは承諾したんですか。
ちょっと躊躇はしましたけど,でも松永先生の話が非常に筋が通ってたので,ちょっと聞いてみようかなっていう感じで聞きました。
実際に宮村さんと会って話をしたときに,宮村さんの態度はどんなでしたか。
普通に真摯な感じでこられました。
中傷されたり罵倒されたりとか,ばかにされたりというようなことはありませんでしたか。
全くありませんでした。
宮村さんからはどんな話をされたんでしょうか。
あなたは統一教会のこと,全体,分かりますかっていうふうなこととか,統一教会の裏の,私たちがあんまり聞いたことのないようなお話ですとか,祝福の本当の教えという,昔の話なんですけれども,そういったたぐいの話を聞きました。
何回,お話しされたんですか。
2回です。2日にわたって2回です。
時間はどのぐらい。
二,三時間くらいだと思います。
その間,松永さんは同席してたんですか。
松永先生はいらっしゃらなかったです。
話を聞いて,どのような印象を持ちましたが。
宮村さんに対してですか。最初はちょっと見た目に怖い感じもしましたけれども,でも非常に熱心に思いやりを感じるような話をしたので,この人自体は,当時ですけど,サタンに操られて言ってるのかなっていう感じに思いました。
サタンに操られてるのかな。
統一教会の対策で,サタンが反牧とか共産党の人を心で操ってるんだっていうか,何か陰の黒幕みたいのがいるような話をしょっちゅう聞かされてたので,そういうイメージがすごく強くて,一見,話をする前ですけれど,ちょっと怖いなっていう。
最初,警戒したということですね。
そうですね。
その後は。
宮村さんの話も非常に分かりやすかったですし,筋が通ってたので,この人は真剣にやってるのかなというふうに思いました。
先ほどの尋問で,水茎会に何回か顔を出したという話がありましたね。
はい。
これはその後,東京に出てきて,水茎会の会合にも顔を出したということですね。
東京に出てから水茎会に顔を出すようになりました。
水茎会の運営というのは誰がしてるというふうにあなたは認識してましたか。
親御さんたちだと思います。
親御さんというのは。
親御さんっていうか,ご家族の人。統一教会の信者を持ってる,または話合いをして終わったご家族という認識でした。
あなたのような脱会者の方々もかなりいましたよね。
・・・はい,当時は。
あなたにとっては,脱会者との交流というのはどんな意味がありましたか。
やめたばかりで人間関係も切れてましたし,やはりすごく共有できる話題があって,これからの自分の人生とか考え方とかいろいろ社会生活の不安を抱えてましたので,そういった意味での経験とか話をすることができたので,非常に心の支えになりました。
あなたと一緒に統一教会の新宿教会で活動してた人で脱会してる人も来てたんじやないの。あなたは統一教会の新宿教会で活動してたでしょう。
新宿教会で活動というか。
新宿教会の信者として活動してたでしょう。
はい。
そのときに同じ新宿教会の信者だった人が水茎会に通ってませんでしたか。
通ってました。
そういう方とも交流ができたわけですね。
はい,それはすごく昔話もできましたし。
この会合で,宮村さんが何かみんなの前で講義をするというようなことはあったんですか。
いや,講義というのはなかったです。
宮村さんはどういう役回りをしてましたか。
時々,統一教会の今の現状みたいな話を,情報で持ってればされたこともありますし,家族の必要に応じて,質問があれば答えたりっていう感じでした。
例えば端的にいうと,現役の信者をどういうふうに家族がとっつかまえて,どこかのマンションに閉じ込めるかとか,そういうようなことを具体的に話す,あるいは指導するということはあったんでしょうか。
そういうことはないです。
あなたから宮村さんに,新潟での松永牧師と徹さんとの話合いについて報告をするということはありましたか。
いえ,ないです。
あるいは誰かが宮村さんに報告するということはあったんでしょうか。
いえ,特別ないです。
東京に戻ってきてからの話なんですが,フラワーホームに移ったのはなぜですか。あなたの認識。
荻窪プレイスで住むことができなくなったという感じで聞きました。
これは宮村さんの指示で移ったとか,そういうことはないですか。
いや,それはないです。
宮村さんにフラワーホームに来てもらうようになりましたよね。
はい。
そのことについて徹さんは了解しましたか。
はい,了解してました。
宮村さんの話を聞いてるときの徹さんの態度はどうでしたが。
最初,来た頃はちょっと横柄な態度で,壁に寄っかかってのけぞるような感じでいましたけれども,宮村さんと話をしていくうちに徐々に普通の感じになっていきました。ただ,統一教会の話とか教えとか活動の矛盾の話になったりすると不機嫌になったり,いい加減な,ごまかすというか,そんな態度でいました。
宮村さんと徹さんとの話を録音したりとか,そういうことはあったんですか。
いや,ありません。
宮村さんが来る時間というのはあらかじめ予定があったんでしょうか。
いや,特別ないですけれども,お仕事されていますので,お仕事が終わったあたりっていう感じでした。
来る前に事前に連絡はあったんでしょうか。
あることもあったし,なかったこともありました。
元信者の方々も徹さんと話をするために来てくれてましたね。
はい。
これはなぜ来てくれてたんですか。
やはり家族のほうも話をできるときがあったらしてくださいというふうにお願いしてたと思いますし,経験を聞けることはありがたかったので,来てくださってました。
それは誰かが,今日は誰が来る,明日は誰とか何か采配してたんでしょうか。
いや,私の経験からもないです。
宮村さんが来なくなったのはなぜだったか,どう認識されてますか。
宮村さんが来られなくなる頃に,徹さんも話を聞いていて,非常に葛藤したり悩んでる様子もあったんですけれども,あるときからちょっと開き直ったような感じになって,それで教えの間違いとか矛盾とかもあって,こういうのをどう考えるんだみたいな話になっていったときに,文鮮明かメシアでも教えが間違ってても自分はやるんだって言って,最後は興奮して,宮村さんの話も遮るような感じでしゃべりまくっているような状況でしたので,主人のほうからだったと思うんですけれど,宮村さんに,こういう状況では本人が話を冷静にするような状況じゃないし,これから家族で話合いをしますというような感じで,来られなくなったと思ってます。
宮村さんが来なくなってから,徹さんと家族の話合いの状況などを宮村さんに誰かが報告してたんでしょうか。
いや,私はしてませんし,主人はしたことあるのか分からないですけど,はっきり分からないです。
具体的に宮村さんから,出ていいとかもうやめたらいいとか,あるいはもっと続けろとか,そういう指示なり助言なりはあったんでしょうか。
いや,宮村さんが決めることではないので,そういうことはありません。
宮村さんが通わなくなって以降も,二度ほど,宮村さんが部屋に来たことがあるようなことを徹さんは主張してますが,そういうことはあったんでしょうか。
いや,ないと思います。
勘違いしてるんですか。
そうじゃないでしょうか。
<兄嫁さんの経歴>
あなたの自身の経歴についてですが,昭和61年10月に勤務先を退職して,62年3月に献身するまで,しばらく献身を見送りましたね。
・・・はい。
これはなぜなんですか。
当時,親が反対していたので,就職してまだ半年もたってなかったと思うんで,家族のことを警戒して,とりあえずすぐ献身しないほうがいいんじゃないかとアベルから言われたので。
そうすると,いずれ献身するつもりだったけど,とりあえず親対策で就職したということですか。
・・・就職。
就職し続けた,仕事をし続けたということですか。
はい,そうです。
祝福のためにあなた自身,成約断食というのをしてますね。
はい。
昭和62年10月末ですが,こういう成約断食は自分の判断でするんですか。
自分で勝手にはできないので,アベルに相談したり,人によっては指示されてやってました。
あなたは韓国人と一且入籍しましたよね。
はい。
その後,韓国に行くに当たって献金の指示があった。
はい。
それを実行するために親に嘘をつきましたね。
はい,嘘つきまくってるんで,あります。
つまり,韓国の大学に留学して韓国語の勉強をするので学費を出してほしいということで嘘をついて,親にお金を出させましたね。
そうですね,はい。
こういうのもアベルの指示なの。
そうですね。アベルと相談して,そういうふうに決めました。
いつ韓国人の男性と家庭を持つかということは自分で決められるんですか。
いえ,絶対決められませんでした。
これもアベルの指示で,いつ頃というめどが言われてたんですか。
そうですね。組織の指示もありましたし,アベルの指示もありました。組織というのは統一教会の上層部からの全体の指示と,直属のアベルの指示がありました。
次回は、兄嫁さんの反対尋問です。
これからも後藤徹氏を応援してくださいね!!
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私からも質問
そこで、私からも兄嫁さんに質問をしたいと思います。
・マンションの呼び鈴が鳴らなくなったそうですが、なぜ、大家さんに言って、それを直してもらわなかったのですか?
・1998年ころから、徹さんは「出て行け」と言っても出て行かなくなって、引きこもりのようになったそうですが、成人男性の引きこもりは深刻な問題です。その時、医師とか専門家に相談したのですか?
・韓国語のテキスト、ノート、ボールペンを買ってきてくれないだけで断食をする、という精神状態はなおさら異常ですが、このときも医師などに相談しなかったのですか?。なぜ、話し合いを続行したのですか?
・引きこもりの症状について、窓をしめきった部屋での長期間・長時間の話し合いが影響している、とは考えなかったのですか?。話し合いをやめたほうがいい、とは思わなかったのですか?
・弁護士から付き合ってほしいと告白されるほど、あなたは魅力的な女性なのですが、夫でもない成人男性と、連日連夜、同じ部屋で話し合いをして、異性の関係に発展しなかったのですか?。
・一般世間では、夫でもない成人男性のマンションに連日泊まる、ということは、たとえ親戚でも敬遠され、特に女性の場合は、そういう外泊は嫌がるものですが、どうしてあなたはそれができたのでしょうか?
もう一つ、肝心な質問
・無理矢理連れて行ったり、監禁したりすると、本人(徹さん)が心を閉ざすので話し合いにならない、だから、そういうことはしていない、とおっしゃっていますが、以下のあなたの証言では、本人は心を閉ざしているようにみられます。これは徹さんが拉致され、監禁された、ということではないですか?
「3回目のときに,断食して何の意味があるのというふうな話をして,そしたら意固地になりまして,とにかくやるんだと,やってやってやりまくるんだっていう訳の分からないことを言い出して,止められないので,断食になったんですけれども」
「徹さんと話をしてて,一生懸命,講義したりもしてましたけれどもやはり普通の人よりは理解ができないというか,そういうことで,質問すると機嫌が悪くなることもあったんですけど,ちょっと平行線になりました(だから、松永先生を呼びました)」
「(宮村さんの話を聞いてるときの徹さんの態度は)統一教会の話とか教えとか活動の矛盾の話になったりすると不機嫌になったり,いい加減な,ごまかすというか,そんな態度でいました」
意固地になっていたのは
動機が家族愛だろうが、悪なる統一から救う為だろうが、誘った者としての責任(これはお兄さんに限りますが)だろうが、拉致監禁したのは間違いない事実です。だから、「監禁してない」「本人の意思でマンションにいた。」と言うのは無理があります。
残念ながら。
反対派は、統一は嘘ばかり言う、と言うが、拉致監禁については、反対派が嘘ばかり言ってます。
今、それに後藤さんファミリーが気づいているか・・・、気づいてないでしょうね。
多分、兄嫁さんは後藤さんに対して恨み一杯なのでしょう。
陳述書読んでも、尋問録読んでも、感じるのは、意固地になっていたのは、後藤さんファミリーの方。
何故、宮村氏が来なくなった後10年近くも監禁を継続したのか?
(後藤さんは、否定しているが)後藤さんが、「統一が間違いでも、文鮮明がメシヤじゃなくても、やるんだ。」と言った時、何故そこで家族は諦めなかったのか?
断食しまくって手をやいたなら、我が儘で手を焼いたなら、どうして早くにお金を渡して解放しなかったのか?
何か恐ろしい執念のようなものを感じるのは、私だけでしょうか?
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