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原告後藤徹氏本人尋問(主尋問その5)-人間としての尊厳を否定し尽くされ,人生の大切な貴重な時間を奪われましたと主張する後藤徹氏

後藤徹氏の主尋問も今回が最終回です。
風呂場で助けを求め、叫んでいたところ宮村氏に引きづりだされたときの様子。
インフルエンザにかかっても、病院に連れて行ってもらえなかったこと。
3度にわたるハンガーストライキ、その後の食事制裁のこと。
解放後のことなどが語られています。

また、原告側から陳述書を提出した伊藤芳郎弁護士に直接会い、宮村氏の悪行をご本人の口からじかに聞いたことも語っています。
陳述書には都合でかけなかったもっとひどいこともあったようです。








脱出を試みたことで家財道具も損傷したのかな。

はい。そのときの揉み合いで,私が家族から取り押さえられまいとして,アコーディオンカーテンなどにつかまって,それを引っ張るものですから,それが破損いたしました。


あと,家族はあなたの脱出防止のために,何か対抗手段を講じてきませんでしたか。

玄関前の木戸が施錠されました。


甲第9号証の添付図面4を示す
先ほどのフラワーホームの図面でいうと,Dですね。

はい。


荻窪フラワーホーム804号室間取り図

それは,どうして分かったんですか。

私が隙を見て,何度か木戸のところまで行きつくことができて,ノブをガチャガチヤやって,前に出たり後ろに引いたりやるんですけれども,全く開かないんですね。で,そこに立っておりました兄が「油断も隙もあったもんじゃない」,そのように言いました。それで,施錠されているのが分かりました。


あなたが脱出を試みて制圧されたときに,宮村も駆けつけてきたことがあるんじゃないですか。

はい。最初に私がその行動を起こしたときに,宮村が来ました。


誰が宮村を呼んだんですか。

あのときは兄が押さえ込んでいて,そして兄が妹に目配せして,おいって言うんですね。そしたら妹が携帯電話で誰かを呼んでおりました。そしたら,しばらくして,宮村か来まして,私が取り押さえられて床に伏せておりまして,そしたら,宮村の足が私の目の前に来ました。それで,何,騒いでるんだといったことを言って,しばらく様子を見て帰っていきました。


マンション内で何かあったら,すぐに宮村に連絡するという体制がとられていたということですか。

ええ。私はそのときの一連の行動を見て,全く迷いのない行動を見て,これは前もって宮村と家族の間で,そういう段取りができているんだということをはっきりと見てとりました。


宮村はもう1回この部屋に来ましたね。

はい。ちょうどその頃,私が風呂場の浴槽の上によじ登って,通気口に向かって「警察を呼ベー。誰かいますか。」というふうに叫んでいましたら,多分家族から通報を受けた宮村がその風呂場に入ってまいりまして,私の首根っこをつかんでそこから思いきり引きずりおろしてそして,そのキッチンを伝って,私の奥の部屋まで引きずっていきました。私は本当に頭に来て,机をバンバン叩いて,「いい加減にしろ。ここから出せ。」,そのように言いましたら,宮村は「もう駄目だ,こりゃ。」と言って,そこから出ていきました。


それ以来,宮村は来なかったと。

はい,来ていません。


こういったことがあって,あなたは力づくでの脱出は断念してしまったということですか。

はい。その期間,あらん限りの力をもって,私は脱出を試みようといたしましたけれども,何度やっても取り押さえられてしまう。そのうえに,より厳重な施錠がなされてしまうことで,私はもう断念せざるをえなくなりました。


監禁期間中,インフルエンザで高熱が出たこともあったんじゃないの。
しかし病院には連れていってもらえませんでしたね。

ええ。恐らく家族が処方されていた薬を飲ませられただけでした。


もっと重篤な病気にかかって病院にも行けないとなると,命も危なかったんじゃないですか。

はい。当時もその危険を心配していましたけれども,本当に今考えるとぞっとします。


2004年4月に1回目のハンガーストライキを決行していますね。

はい。


ハンストをした動機は何ですか。

その頃は本当に監禁が長引いてまいりまして,このままでは私はここから一生出られないんじゃないかと,そういう焦燥感に駆られておりました。ただ,力づくで脱出しようとしても本当に難しかった。そういう経緯がありましたので,私はハンストをして監禁に抗議することにいたしました。


家族に対して,なぜハンストをするのか,何か抗議をしたんじゃないですか。

はい。そのときはこの監禁に抗議してハンストすることを宣言してやりました。


どういったことを言いましたか。もう8年になるじゃないか,とか。

そのときは8年になっておりましたので,「当時生まれた人間はもう小学生だぞ。私の最も人生で充実している30代という頃が社会から隔絶されて,丸々奪われて,一体どうしてくれるんだ。」というようなことを言って抗議しました。


このハンストの期間,被告■<後藤徹氏の兄嫁>からかなりひどい虐待を受けたんじゃないですか。

はい。ちょうどその頃,兄嫁は私の前に正座して,思いきり手を振りかざして,私の顔面を平手打ちしました。それを四,五回しました。


それで1回目の断食が終わって,食事が普通食に戻ってから,あなたは少し太ったんだというふうに被告■<後藤徹氏の兄嫁>は言ってますが,事実ですか。

私は,この12年5か月間,自分の元々の体重以上に目に見えて太ったということは1回もありません。


被告■<後藤徹氏の妹>は同じ頃,あなたとお母さんと被告■<後藤徹氏の兄嫁>,被告■<後藤徹氏の妹>の4人で話をしてたとき,あなたがはぐらかすので,それに対して注意をすると,あなたが嫌がらせをしてポットをわざと倒して,被告■<後藤徹氏の兄嫁>の足にお湯がかかってやけどをしたんだということを言っているんですが,事実ですか。

いえ。あのときは何か話していたときに,いつもの調子で兄嫁が興奮しだして,私に飛びかかってきました。それで,台所のほうに行ったときに,何かの拍子でポットが下に落ちましたけれども,兄嫁がそこでやけどをしたかどうかは知りません。


2回目の21日間のハンストを決行したのは2005年4月ですね。

はい。


その理由はやはり監禁に対する抗議ですね。

はい,そうです。


ところが,このときはハンストが終わっても粗末な食事しか与えられなかったということですか。

はい,そうです。


今度はあなたを食事制裁によって虐待してきたということですか。

はい,そうです。


あなたはこれに対して抗議をしたんですか。

はい。私はあのときは兄嫁に対して,「最初のときは1か月で食事を戻したのに,今回はなんでこんなに長いんだ。兵糧攻めか。制裁か。」と言いました。「いつ戻すんだ。」と聞きましたところ,兄嫁はそれに対して,「それは分からない。」と言いました。


結局,それはどれくらい続いたの。

7か月間,続きました。


2006年4月に3回目のハンストをやっていますね。

はい。


3回目は無期限断食だったみたいですね。

はい,そうです。


最終的には30日で終了したと。

はい。


命の危険を感じたということですか。

はい。30日目には命の危険を感じ,それで家族に対して断食をやめることを言いました。


このときもすぐに食事は出されなかったんですか。

はい。あのときは断食をやめると言ってから1日経っても何も出されなかったので,私は家族に対して「殺す気か。」と言いました。


すると,向こうは。

そうしましたら「そっちで勝手に断食しておいて勝手に食事を出せとは何事だ」,「馬鹿じゃないのか」,「死ぬまでやれ」と,そのように言われました。


そう言われて,あなたはどうしたの。

私は本当にこのままでは殺されるんじゃないかと,そういう恐怖を感じまして,家族に対して,何とか食事を出してくれるように頼み込みました。


それでようやく重湯などが出てくるようになったということですか。

はい。出てまいりましたけれども,出てきたのは直径7センチ,深さ5センチくらいの小鉢に7割くらいの重湯と,500ccのポカリスエットが2本という食事でした。


断食明け後も家族からの虐待は続きましたね。

はい。あるときは妹がちょっと機嫌が悪いような感じだと,そのポカリスエットを出されるのがちょっと遅れるんですね。私はその期間が本当につらくて,大変になりました。また,私が,家族が食事をするときに,家族が見えないところで食事,食事といっても重湯なんですけれども,とろうとすると,兄嫁が机をバンと叩いて,「ここで食事をしなさい。」と言って,全体から見える,家族が食事をしているのが見えるところで食事をするように強いられました。


当然,家族らは普通の食事をしているわけね。

はい,そうです。


この状態は何日続いたんですか。

70日間続きました。その期間というのはほとんど何も食べさせられないような期間でありましたので,本当に痩せこけて餓死寸前のようになりまして,このときは体力的に最もきつい期間が続きました。


それで,生ごみなどをあさって食べるようにしたと。

はい。生きるために,そのように致しました。


それも見つかっちゃったんですかね。

はい。始めは部屋の前に冷蔵庫がありましたので,そこから,少し減っても分からないような調味料を,マヨネーズとか食べておりましたけれども,それがいつの間にか全部なくなってました。それで今度は流しにりんごの皮とか人参の皮とか,生ごみを抜き取って,それを食べました。りんごの皮のところに少し実があるんですよ。それを齧ったときに,その甘さで本当にうれしくて涙を流しだのを覚えています。しかし,その生ごみもいつの間にかなくなってしまうんですね。それで,私はその後,家族が米を炊く前にボールの中に米を水で浸しているんですけれども,そこから少し私は米を抜き取って,その生ごみ<ママ 調書では生ごみとなっているが、ここは生米の間違いかと思われる>をかじって,何とかこれが見つからないでくれ,神に祈りながら,それをかじっておりましたけれども,何とかそれは見つがらずに済みました。


そうした中,2006年7月頃,命の危険を感じるような状況に飢餓の中で陥ったんじゃないんですか。

はい,そうです。


具体的には。

その頃は,どこからともなく,きれいな音楽が聞こえてくるようになりました。私は何だろうと思ったんですけれども,気が付いてみたら,それは幻聴だったんですね。私はもういよいよお迎えが近いんじゃないかと,そのように思いました。


それで,あなたは家族に食事を戻してくれるように頼んだんですか。

はい。70日間くらい経ったときに,私はこのままではどうしようもないと思いまして,家族に対して,何とか食事を戻してくれるように頼みました。


お兄さんは,いいんじゃないかと言ったんでしょう。

はい,そうです。


ところが。

兄嫁さんは,それに対して「ええ,信じられない。」と,いかにも残念そうに言ってました。


結局,食事は元に戻されたんですか。

戻されるといいましても,その重湯が3分粥,7分粥と,それが5か月の期間がありまして,その後は,朝はパン1枚に飲物1杯,昼はごはんに味噌汁にのり4枚に,小皿の上に小魚,たくあん,梅干し,夜はごはん1杯,味噌汁1杯,小皿の上に小海老など,それに納豆が付くと,おかずらしいおかずがない,その食事がそこから解放されるまで続きました。


甲第140号証の1(照会書)を示す
Hirt Yoru


これが今あなたが言葉でおっしゃったのを再現した,昼夜のおかずと。こんな状態だった。

はい。


これが毎日,あなたが解放されるまで続いたということてすか。

はい,そうです。


被告らは同じテーブルで普通の食事をとっていたんでしょう。

はい,そうです。


どんなものを食べてましたか。

カレーライスでありますとか,ラーメンでありますとか,かつ丼でありますとか,てんぷらでありますとか,そういうものを食べてました。


自分にも食べさせてくれというふうに,あなたは言わなかったんですか。

そのときの雰囲気は,とてもそんなことを言えるような雰囲気ではありませんでした。食事のときも,会話なんていうものは一切ありませんでしたし,たとえれば空気が凍り付いているような,そういう雰囲気でありました。私が何か頼んだときに,それが聞き入れられるような,それを期待できるような,そんな様子が全くみじんもない,そういう状態でありますので,私はとても頼むことはできませんでした。


被告■<後藤徹氏の兄>は,陳述書で,あなたがマンションを出ていかなかったのは,統一教会の教義である氏族メシアの使命と責任を実感していて,それを実行していたからなんだというふうに言っているんですが,そうなんでしょうか。

いいえ,それは全く違います。私はこの被告側の主張を聞いたときにあまりの荒唐無稽さに呆れてしまいましたけれども,これは,私か閉じ込められていないというのにもかかわらず,なぜあれだけ統一教会や教祖に対する悪い情報の集中砲火を浴びながら,それも,そのマンションから一歩も出ることなく12年にわたってそこに留まり続けたのかと。これに対して,被告らが回答を何とか出さなければならないという,その苦肉の策として無理やりこじつけたのがこの氏族メシアであります。


氏族メシアという教えがあることはあるのね。

はい,統一教会にはその教えはあります。もちろん,その家族親族を信仰の道に導くことは非常に重視しております。


しかし氏族メシアを全うするにはどうすべきだというふうに教えられていますか。

大前提といたしまして,国際合同結婚式に参加して,その伴侶と共に理想家庭を築かなければなりません。ですから,一人ものでは,氏族メシアというものは全うできないです。


当時のあなたに当てはめるとどういうことになりますか。

私は祝福を受けたSKさんと所帯を持って,それで子どもを設けて,理想家庭の実現を目指さなければならなかったということです。


それができない状況で,12年間引きずられたと。

はい,そのとおりです。


聞き方変えますけれども,あなたは,この12年5か月間,家族を救おうと考えていましたか。

いいえ,それはもう全く考えられないことでありました。


拉致監禁して,2度にわたってやってくる人たちが伝道できるなんて思わないでしょう,あなたは。

それは,そうです。統一教会に対してこれほど強固に反対して,私に対してこれほど監禁し続けるような家族に対して,不可能だと思ってました。


検察審査会の議決書には,家族の誤解を解いて救いたい気持ちがあった云々と書いてあるんですが,これはどういうことなの。

それは,あのときに家族を救いたい気持ちがあったんじゃないか,そういうことを何度も執拗に聞かれたので,私も信仰者である以上は,そのときは難しくても将来的には何とか救われてほしいと思ってますよと,そのように言っただけです。


そのことを執拗に聞かれたわけね。

はい,そうです。


被告らの,自分の意思で留まり続けていたという主張をどう思いますか。

そんなことは絶対にありえません。


あなたが家族を救おうとしていたのではないことを端的に示す事実がありますよね。

はい。それは私が偽装脱会していたことです。偽装脱会をするということは,自分は統一教会信者じゃないと,やめましたと,それでもう脱会届も出しておりました。そんな人間が家族を伝道できるわけありませんから,当たり前の話です。


被告■<後藤徹氏の兄>■<後藤徹氏の妹>OBの陳述書によると,2003年の冬に被告■<後藤徹氏の兄>がトイレに閉じ込められたことがあったということですが,この3人が書いていることは事実ですか。

事実の部分と,そうでない部分かあります。


そのときの状況を教えてくれる。

あのときは私が部屋におりまして,トイレのほうが,ドアが騒がしくなったので,何事だろうと思って,トイレのドアの前に行きますと,中でドアノブをガンガンやっておりまして,兄が出られなくなった,開かなくなったと言っておりました。


それで,あなたはこれ幸いと逃げようとは思わなかったの。

一瞬思いましたけれども,誰もいなければそういう行動をやったかもしれませんけれども,母と妹の声が聞こえましたので,それはやりませんでした。


その後,どうなったんですか。

そのままでもどうしようもないので,奥に向かって,おーいと声を掛けますと,妹が来ましたので,妹に対して,なんか壊れたみたいというふうに言って,それで自分は部屋に帰って,その襖を閉めました。


被告■<後藤徹氏の妹>の陳述書には,あなたがドライバーでノブの部分をガチャガチャしていたと述べているんですが,事実ですか。

いいえ,ドライバーなど知りません。


OBは奥の部屋から,あなたが,OBが後々やってきたらしいんですけれども,することを心配そうに見ていたというふうに述べているんですが,事実ですか。

そんなの全く嘘です。私は当時襖を閉めておりましたので,OB氏がそこに来たことも声を聞いたことも姿を見たことも全くありません。


3度目のハンストが終わった頃から,家族らはあなたに出ていってもいいと何度か言ってたんですか。

はい,言ってました。


それを言われて,あなたはどう思ったの。

あのときは,それまでの私に対する,そこからの脱出を阻止するための様々な暴行とかいろいろな虐待,そういう経験がありましたので,彼らがそれを本気で言っているとはとても思えませんでした。私は彼らに対して「もう訴えるぞ。」と,そのように言っておりましたので,これは訴えられたときに監禁されてたという非難を免れるためのアリバイ,わざと言っているというふうにしか,私には思えませんでした。


2008年2月10日,ついに家族らが退去を命令してきましたよね。

はい。


それで,あなたは何と言ったんですか。

そのときは,いきなり家族が私の部屋に参りまして,そういうことを言ってきましたので,「それだったら電車賃くらいくれ。」と,そのように言いました。


そうしたら。

「駄目だ。」と言ってきました。


それで,どうなったの。

私は当時は,いわゆる着の身着のままで12年間社会から隔絶されておりましたので,頼るべき人もいない。昔の知り合いはどうしているかも分からない,そういう状況でありましたので。また,真冬でありましたので,どこかで行き倒れればこれは凍死するかもしれないと,そういうことも思いましたので,お金くらい何とかくれと,12年間も監禁しておいて一文無しで追い出すとは何事だと,そのように言いまして,そしたら,当時は食事制裁されて私は痩せ細っておりましたので,家族から外に無理やり出されました。


甲第42号証(報告書)を示す
重ね着
<後藤徹氏が家族から一文無しで追い出された当日着ていた衣服>

出されたときのあなたの衣服ですけど,これがこのときあなたがフラワーホームを出たときの衣服全部,こういう状態で出ていったということですね。
これは,破れたり血が付いているところもあるんだけど,どうしてなの。
敗れた服 血のついた服

それは,フラワーホームから出されるときの揉み合いのときに手を怪我したりとか,あるいは玄関から押されて倒れましたので,そのときに傷が付いたものです。


それで,あなたは外に出されて,どうしたの。

ようやく自由になったわけですけれども,とにかく,当時知っている人も誰もいない,頼るべき人もいない,当面の仕事とか生活の当てもない。とりあえずは統一教会本部に行ってみるしかないと思いまして,本部に向かって歩き出しました。


渋谷にある松濤本部と言われているところですね。

はい,そうです。


途中,交番でお金を借りようとしたようですね。

はい。交番がありますので,そこに入りまして,「私はそこのマンションに監禁されてました。今,解放されてまいりました。」と,そのように警察官に言いました。始めは本当に驚いたような様子で,一生懸命話を聞いてくださいましたけれども,私か統一教会の信者で家族に監禁されて,ということを話しますと,ちょっと態度が変わってきまして,それで結局,お金も借りようとしましたけれども,身元不詳ということでお金を貸してくれずに,渋谷行きの地図をそれだけ書いてくれて,それを持って私は仕方なくそこから渋谷に向かいました。


被告らは,あなたが荻窪から渋谷まで歩こうと思うほど体力があったんじゃないかというふうに言っているんですが,あなた,そのとき,どういう状況でしたか。

あのときは,長年歩いていませんでしたので,自分がどのくらい歩ける状況かというのは自分自身も分からない状態でした。途中で歩けなくなりました。しかし,もう行くところまで行かないと,ここで倒れたら凍死するという思いもありましたので,とにかく気力を振り絞って行けるところまで行こうと,そういう心境でありました。


その後,教会本部で保護されてから,一心病院に緊急入院しましたよね。

はい。


入院する前に教会で何か食べさせてもらったの。

はい。何か食べましたかと,いえ,食べてませんと,そういたしましたら,その守衛の方が近くのコンビニからカツカレーとあんパンとヨ-グルトを買ってきてくださいまして,それがいつも私か本当に食べたいと思い浮かべていたものばかりだったので,私は本当にその日に神様を感じて泣きました。


甲第17号証(報告書)を示す
宮村峻氏,後藤徹氏,保護説得,統一協会,脱会

これが入院当日,深夜ですけれども,一心病院の診察室であなたを撮影した写真ですね。

はい,そうです。


甲第1号証(写真撮影報告書)を示す
入院直後の後藤さんの激やせ状態

これは入院3日後,2月13日に米本氏が撮ったあなたの写真ですね。

はい,そうです。


長期にわたる拉致監禁の結果,身体的にあなたはどういう支障を来たしましたか。

入院した当初は膝が痛くて痛くて,立つことができないので車椅子で生活しておりました。その後,車椅子から歩行器になり,そして松葉杖を使うようになって,そして杖を使うようになって,入院から40日くらい経ったときに,ようやく一人で自立できるようになりましたけれども,まだ長い距離が歩けなかったのでリハビリを続けました。内臓もどうも弱っていたようで,入院して3日くらいしたときに胃腸炎になりまして,高熱を発して下痢が続いて点滴を打ちました。


退院後もしばらくは走ることもできなかったんじゃなかったですか。

はい。 30分間くらい買物に出ても,すぐに膝が痛くなって,足首が痛くなって,翌日には筋肉痛が残りました。


視力も下がったんですか。

はい。監禁される前は1.5ありましたけど,0.2になりました。


理由は何でしょうか。

やはり12年5か月間,景色をほとんど見ることができなかったということと,途中で電気スタンドの球を支給されなくなったということと,目薬も途中から支給されなくなったということが影響していると思います。


水虫にもなったのかな。

はい。右足の親指の爪の部分が水虫になりまして,これも当初は薬をもらっておりましたけれども,途中から支給されなくなりまして,入院後も1年間くらい,右足の爪が変形したままでした。


甲第1号証を示す
水虫菌で変形した後藤さんの足の爪

この12の写真で,親指の爪が変になってる,これですね。

はい,そうです。


ところで,この裁判に伊藤芳朗弁護士が陳述書を出してくれていますが,あなたも伊藤先生とは会ってますね。

はい。 2012年頃の春頃に伊藤弁護士の事務所でお会いしました。


このとき,伊藤先生はあなたのことについて何か言っていましたか。

はい。初めて私を見て「■<後藤徹氏の兄>さんの弟さんですね。■<後藤徹氏の兄>さんのことはよく知っていますよ。」と言われました。それで,宮村の実態を伊藤弁護士から話してくださいましたけれども,一時,宮村と反統一教会活動をしておりましたので,その話は本当に驚愕すべき内容でありまして。私も自分の体験から宮村の悪さというものは身に染みておりましたけれども,その伊藤弁護士のお話を聞いて,ますます本当にひどいと思いました。


その内容は米本氏がレポート形式で出してる,伊藤弁護士の証言,陳述書に出ているわけですね。

はい,そうです。


本当はもっとたくさん言っておられたけれども,都合上,書いてないものもあるんじゃないですか。

はい,そのとおりです。


伊藤先生はあなたのことをあらかじめ知っておられましたが。

はい。伊藤弁護士は,私がこの12年5か月間監禁されている間に,日本基督教団の牧師,あるいは元信者から私のことを聞いていたと,そのように言っていました。


甲第107号証の米本陳述書,そして甲第122号証の伊藤弁護士陳述書によると,あなたが拉致監禁されてから1年半から2年後の頃,伊藤弁護士が日本基督教団の牧師から宮村さんがある信者を拉致し,1年半だか2年だったか,ずっと監禁していると聞いたと。さらにあなたに対する監禁が始まって8年後くらいに,宮村が長年にわたり一人の統一教会信者を監禁している事実をやはり日本基督教団の牧師と元信者からも聞いたと証言しておられるんですが,これがそうですね。

はい,そうです。


あなたも直接,この話は聞きましたね。

はい。私は伊藤先生から直接それを確認しまして。私が12年5か月間監禁されている期間の中で,その統一教会に反対している牧師あるいは元信者の間で,私のことが取り沙汰されて噂になっていたということを言っておりました。私が監禁されてから1年半か2年後のその頃に,その牧師さんから宮村がある信者を監禁しているという話を聞いたと。それで,私が監禁されてから8年後の頃に,まだ同じ信者を宮村が監禁し続けているということをその牧師や元信者から聞いて,まだやっているのかと言って,本当に憤ったという話をしてました。


被告■<後藤徹氏の兄>,被告■<後藤徹氏の兄嫁>及び被告■<後藤徹氏の妹>(以下「被告後藤ら」という。)代理人
 (荻上)

1年後,8年後というのは,どの時点からですか。

1995年9月11日。


2回目の。

2回目です。


原告代理人
最後に,あなたから言いたいことを言ってもらえますか。

私は31歳から44歳までの間,すべての自由を奪われまして,私の統一教会に対する信仰に対して集団で誹誇中傷を受けて,それを破壊するために本当に苦痛を受けました。そのうえ,食事制裁などの虐待を受けまして,私はその期間,人間としての尊厳を否定し尽くされ,そして人生の大切な貴重な時間を奪われました。私は被告たちを絶対に許すことはできません。


最後に一つお聞きしますが,あなたは結局これで12年5か月という時間を奪われたわけなんですが,その少し前に,あなたはSKさんと祝福を受けて所帯を持とうというふうに話し合ってましたよね。その際に,所帯を持つにあたって,あなたはどこか就職しようとか,そういう話をしてたんですか。

はい。31歳になっておりましたので,SKさんと近いうちに家庭を持とうということで,SKさんと希望を持って話しておりました。


その当時は青年組織で献身的にやってらっしゃったんですが,それじゃ生活できないですから,どこか一般の会社へ。

そうですね。もちろん,その青年組織から離れて一般の会社に勤めてそれで家族を養っていくということを自分は考えておりました。


そういう話もしてたわけですね。

はい,そういう話をしました。





いよいよ次回からは反対尋問です。反対尋問のトップバッターは主尋問でも原告後藤徹氏に質問した荻上弁護士です。
被告側の弁護士からどのようなつっこみ、珍質問がでるのか興味深いところです。
すでに後藤徹氏本人尋問ー偏差値では負けてるが法廷では圧勝!!!でルポライター米本和広氏の「爆笑は、少なくとも5~10回。あんなに笑いが起きた尋問を過去に知らない」というコメントをご紹介しましたが、主尋問は淡々と進んでいったのに対し、反対尋問は爆笑の連続でした。続けてご愛読ください。



次回からいよいよ反対尋問です。
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2013-05-03(Fri)
 

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よくもご無事で 

以前の陳述書を読ませていただいた時も感じましたけど、後藤さん、ご無事で何よりでした。

3回に亘る断食後、70日の重湯とポカリスエットの生活。
その後は、修行僧もビックリの質素なお食事。

そして、無一文で寒空の中放り出されて、10キロの道を歩く・・
力尽きたところで、偶然信者に出会い、タクシーで教会まで行けた。

私は無神論者ですが、神様が後藤さんを生かしたのではないか、そんな錯覚さえ覚えます。

入院して3日後位に、胃腸炎で高熱を出したということですが、命とりになりかねませんでしたね。

ところで、
後藤さんは、入院後、40日も歩けなかったとのこと。
被告側の山口貴士弁護士が後藤さんが歩いた10キロを歩いた陳述書があったと思います。

山口貴士弁護士は、10キロ歩いた後、どうだったのでしょう?
まさか、40日歩けなかったことはないですよね。・・・

陳述書には、歩いた後のことが書かれてなかったので、是非、歩いた後どうだったのかも知りたいな、と思います。

後藤さんには、悪いのですが、後藤さんの入院中の経過は、症例として興味深いものがあります。

後藤さん入院中に関わったお医者さん、看護師さん、栄養士さん、理学療法士さんは症例発表して欲しいものです。




2013-05-06 00:29 | 元missM | URL   [ 編集 ]

空前の凶悪事件 

<被告■<後藤徹氏の兄>は,陳述書で,あなたがマンションを出ていかなかったのは,統一教会の教義である氏族メシアの使命と責任を実感していて,それを実行していたからなんだというふうに言っているんですが>

兄たち(被告)は「(原告は)使命感に燃えて居座った」と言ってみたり、「引きこもった」と言ってみたり…。
被告の言い分は一体、どっちなんでしょうかね。
使命感に燃える徹さんをイメージすればいいのか、お外が怖いといって部屋の隅っこで体を丸める徹さんをイメージすればいいのか………。

<2008年2月10日,ついに家族らが退去を命令してきましたよね>

長期間にわたって監禁し、視力を損なわせ、体力を奪い、真冬の屋外に無一文で放り出す…。
兄、妹、兄嫁はまさに鬼ですね。
虐待、いじめ事件史上、空前の凶悪事件です。

<あなたが脱出を試みて制圧されたときに,宮村も駆けつけてきたことがあるんじゃないですか。
はい>
<(伊藤弁護士は)その牧師さんから宮村がある信者を監禁しているという話を聞いたと>
家族ではなく、宮村が監禁していた―。
家族も元信者もみんな、そういう認識でいた(いる)、ということですね。

逃げるなよ、宮村!。自分の蒔いた種だ、きっちり責任とれ!

おそらく宮村は、徹さんがなかなか脱会しないことを、家族の愛情が足りないからだ、必死さが足りないからだ、と家族を責めたに違いない。
家族は徹さんを苦しめ、その分、自分たちも我慢することで、愛情・必死さを表そうとしたのかもしれない。

もちろん、徹さんにしてみれば迷惑この上ない話。
察するに、血のつながりのない兄嫁からの制裁は情が通わない分、きつくて、屈辱だったことでしょう。

徹さんの生還を心から嬉しく思います。と同時に、神様に感謝いたします。
2013-05-06 09:14 | みんな | URL   [ 編集 ]

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拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

連絡先:gotosaiban-contactus@yahoo.co.jp

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