被告側証人OB氏の陳述書ー徹さんはわがままで10年以上も引きこもっていたと主張
後藤徹氏の本人尋問録はまだ時間がかかりそうです。
尋問録の前に、被告側の証人であるOB氏の陳述書をお届けします。
OB氏は、後藤徹氏の準備書面や陳述書にもずいぶんと登場する元信者です。
水面下で暗躍する宮村氏はめったに"地上"に出てこないのですが、唯一の例外と言えるのが『親は何を知るべきか』(いのちのことば社)という著書です。この本の中で宮村氏は子供を"救出"するにはカウンセラーに委ねろという趣旨のことを語っています。
そして、この本の別の章では、OB氏を宮村氏が説得する時の生々しい様子が、OB氏の妹であるOF氏の証言として収められています。
妹の証言を素直に読めば、OB氏は宮村氏の説得中、散々抵抗し、監禁状態にあるとしか考えられないのですが、その点について、OB氏は「半ばパフォーマンス」だったと陳述書では述べています。
あくまでも同意の上で話し合いに入ったということなんだそうです。
非常に理解に苦しむところですが、そのあたり、証人尋問ではどのように語られるのでしょうか?
また、OB氏は、教会員時代、後藤徹氏と共に過ごしたことがあり、後藤氏の監禁部屋にも訪れています。
先日の反対尋問にも登場しました。
4月8日、東京地裁の803号法廷で、OB氏は何を語るのか興味津々です。
1 私の経歴、特に統一協会歴について
私は元統一協会信者です。私の経歴、私か1987年4月に統一協会にかかわりはじめて、1990年4月に献身し、1996年6月に脱会するまでの経緯については、私が原告の一人となっていた青春を返せ訴訟に提出した陳述書(乙イ第18号証)をお読み頂ければと思います。
この陳述書では、後藤徹さんが原告の裁判で証拠として提出されている『親は何を知るべきか』(甲24)175頁以下について、また、後藤徹さんとご家族が話し合いをされていた当時の様子について私が見聞きしたことを述べさせて頂きます。
第2『親は何を知るべきか』(甲24) 175頁以下について
1 初めに
まず、「兄を統一協会から救出した妹の証言」と表題にあるように、この内容は、私の妹であるOFの主観に基づいて書かれたものであり、私がこの本の出版前にその内容を確認したことはありません。私は家族との話し合いを2回経験しており、2回目の話し合いで統一協会による教え込みからようやく自由になることが出来ました。私のために、家族だけではなく、多くの方々が尽力して下さり、その結果として、自分自身の人生を取り戻すことが出来たことについては、感謝しても感謝しきれません。
2 最初の話し合いについて
1988年3月の第1回目の説得のときは、甲24のP 176~177にかけて書いてあるとおり、両親が勝手にガードマンを雇い、私を強引に 東京から仙台まで連れて行きました。私としては、こんな形で強引に実家につれ戻されたので内心の両親に対する反発がますます強くなるだけでした。このため、自分の中で、統一協会の信仰と信者としての行動について 客観的に整理して考えることはとても出来ませんでした。話し合いをしていても統一協会に戻って確認したいという想いが強くなり、いわゆる偽装脱会をして、話し合いの場をのがれて、統一協会に戻ったのです。その後私は迷いつつも、1990年3月に統一協会の信者として献身しました。
一回目の話し合いがかえって私を統一協会にのめりこませることになったと言えます。献身者というのは、仕事を辞めて統一協会の活動に専従する信者のことです。私は献身者として教育部門を多く担当してきたので、1994年5月、統一協会の還故郷の方針に従って、仙台の実家に戻ってからも、いつ両親を説得して統一協会を受け入れさせるかということを考えており、自分が統一協会をやめることは考えられる状況ではありませんでした。
2 2回目の話し合いについて
(1)1996年2月の第2回目の話し合いのときは、私は、しぶしぶではありましたが、家族や親せきの私のことを案じる強い想いに打たれて、話し合いに入ることを自発的に同意しました。また、場所を移動して話し合いをすることについても、同意はしていました。
両親だけでなく親せきの人たちも10人近くいたので、随分いるなとは思いましたが、数に負けてはいられないと思っていました。このとき、私の内心では、家族や親せきから何を言われても論破することが出来るし、逆に家族に対し、統一協会の信仰の正しさを伝えることが出来る良いチャンスであると考えていました。
(2)しかしながら、話し合いの場所であるマンションに到着し、翌朝になってから、昨日とはうって違って私の中に恐怖心が芽生えてきました。何故ならば、私は統一協会において、「対策」と称して、監禁され、強制的に改宗するまでは何十年も閉じ込められ、それでも信仰を捨てなければ、精神病院に入れられて薬漬けにされてしまうという嘘を教え込まれていたからです。念のためですが、統一協会信者の使う「監禁」という言葉は、日常 用語とは大分違うものであり、家族やカウンセラー等との話し合いのために、一緒に部屋にいることを「監禁」と称します。そして、例えば、窓から飛び降りるようなことをしてでも、この「監禁」状態から逃げ出すこと自体が信仰の証であり、英雄的な行為であると聞かされていました。
また、私は、自分の家族について、真理を知らない堕落人間であり、精神的には低位の存在であり、自分が言わばアベ/レの立場にあると教え込まれていました。つまり、私は統一原理を知っている神に選ばれた人であり、これを理解できないで反対している両親や妹たちは、サタンに支配されたかわいそうな罪人(つみびと)だと見下す心情に固まっていました。ですから、自分自身の恐怖心を堕落人間である両親などに見せる訳には行かない、もし、怯えていると知られれば、家族は自分の話をますます聞かなくなり、真理から遠ざかってしまうと考えていました。そこで、私は、高圧的な態度を取ったり、多少暴れたりすれば、家族は怯えて委縮し、自分の話を聞くようになるだろうと考えていました。
そこで、私は、統一協会において教え込まれたとおり、激しい口調で抗議をしたり、両親や親せきに対して、不実をなじる様な言葉を発したりしました。
(3)甲24に書かれているように、私がOFらに対して「信頼していたのに、裏切られた」(甲24・183貢末行~184貢1行)、「勝手に連れて来て」(同185貢10行)、「このマンションも見ればわかります。改宗に使う部屋でしょ」(同187貢6行)、「こんなことをしてよいと思っているのか!訴えてやる!」(同189貢2行~3行)、「みんなが裏切ってうそを ついて、ここへ連れて来た。信じられない。立ち直れない」(同191貢12行)等という言動をとったかどうかはおぼえていません。実際そうだったとすれば、それは、あくまでも、統一協会の信者としてそのように振る舞わなくてはならないという教え込みのためであり、半ばパフォーマンスでした。
たしかに私は話し合いに応じたものの、東京の方まで自動車で連れて行かれました。それに、両親も妹も本当に長期戦を覚悟しているようでした。
私は1,2週間も話し合えば、私のペースで「判ったもういいよ」と両親も言って元の活動に戻れると思っていたのですが、両親が全く急ぐふうでなく、じっくり話し合う構えだったのです。私が積極的に何か言い出すまで静かに待つという様子でした。このような状況にあせった私は、多少本音で両親や妹を非難するなどして挑発して発言させることで、こっちのペースにしていこうと考えたのでした。
ところが、なぜか、両親も妹も泰然としていて私の主張に耳を傾けるものの、全く受け入れていないことがよく判ったので、ますますあせったのです。
(4)そのようなことから私は、確かに、話し合いの最中に突如立ち上がってその場を立ち去るそぶりをしてみせたり、暴れて障子を壊したりもしました。
これも統一協会の信者としての教え込みのためであり、決して本気ではなく、自分のペースにするためのパフォーマンスでした。後藤徹さんが提出した平成23年10月11日付準備書面(4)には、「OBの兄が『ここから出る!』と言って立ち上がると、家族全員で拘束して脱出を阻むなど(同189貢13行~14行)、OBの兄が意に反してマンションに監禁されていた事実が明らかである。」、「被告宮村は、部屋の状況に激怒したOBの兄が障子を蹴り壊したとの報告をOFから受けるや、家族を挙げて本人を押さえつけ、腕にかみついてでも拘束するよう厳命することによって、違法な身体拘束を教唆、共謀しているのである(同187貢7行~188貢末行)。」という記載があるようですが、明らかな間違いです。何故ならば、私は両親などの手を振りほどいてマンションを出ようと思えば、出ることは十分に可能だったからです。
私が暴れたり、話し合いの場を立ち去ろうとしたとき私の体にしがみづいたのは、母親と妹でした。体力的には私の方が母親と妹よりも遥かに勝っているので、物理的に二人を振りほどいて部屋から出て行こうと思えば、出ていくことは出来ました。しかし、私をマンションでの話し合いに引き留めたのは、しがみつく力ではなく、真情から私を案じる家族の必死なまなざしでした。ここで、私を引き留めなければ、二度と本当の話し合いはできなくなるかも知れない、あるいは、とち狂った私が窓から飛び出すなどして死んでしまうかもしれないという必死の思いは私にも伝わってきました。私としては、そんな母や妹の手を力づくで、振りほどいてマンションの部屋を出ることはどうしても出来ませんでした。
それに話し合いの途中で私から逃げ出すことは、正しいことをしているはずの私が優位に立てなくなるのでまずいと思っていました。私としては、何とか両親や妹を言い負かして、私がそれほど言うのなら、主張も筋が通っているし教義もしっかりしているから、認めよう、と言うようにしたかったので、何とかそうなるようにしたいと考えて、懸命に両親や妹に話をしたつもりでした。しかし、全く両親や妹の心を打たないばかりでなく、素朴な質問をぶつけられるとそれに答えることができない自分がいるので、本当にあせってしまいました。
(5)宮村さんがマンションに来だのは、私が会いたいと希望したからです。統一協会では、信者の家族に対し、拉致監禁を指導する「強制改宗屋」がいると教えており、家族からも「宮村峻」という名前が出ていましたので、私は、宮村さんを論破すれば、家族も統一協会の信仰の正しさを受け入れるだろうと思い、自分から宮村さんを呼ぶように言ったのです。当時の私は宮村さんを論破してみせて、家族に統一原理はずごいと思わせる自信がありました。だから、宮村さんが来るまでの間、私は、自分の頭の中で想定問答のように、まず、最初に、きつい言葉をぶつけて意表を付いてやろう、こう言われたら、ああ言い返そうと考えておりました。とりあえず、まずは怒りをぶつけてやろうと考えていました。このような私の態度は、外から見れば、興奮しているように見えたかも知れませんが、私の内心は意外と冷静で、宮村さんという人物を見極めよう、悪く言えば、試してやろうと考えていました。
しかしながら、実際にやってきた宮村さんの態度は、冷静で、私の無礼な言動をたしなめ、私が、「統一協会をやめる」などと言って誤魔化そうとしても、また話をはぐらかそうとしても、厳しい口調ではありますが、あくまでも、誠実に自分自身と向き合って真摯に答えるように諭して来ました。また、私が投げかける、今思えば、失礼、あるいは、屁理屈のような質問に対しても一切逃げようとすることなく、また、論点をずらそうとすることもなく、正面から答えてくれました。このため、自分も、結論がどうなるにせよ、この場から逃げ出すという安易な方法を選ぶのではなく、家族や宮村さんとの話し合いに真剣に取り組み、統一協会の信仰と信者としての行動についてもう一度見つめ直さなくてはならないと思うようになり、最終的に、統一協会の信仰を離れることに繋がったと思います。
(6)宮村さんは、私の家族に対し、色々と助言をすることはあったとあとになって聞きましたが、家族に対して命令をしたり、家族がその言いなりになっていたというような様子は全くありませんでした。
(7)私は話し合いの最中に3日間の断食をしました。これは、監禁への抗議のハンガーストライキではありません。統一協会の信仰に基づく宗教的な「願掛け」とでも言うべき意味を持つものでした。統一協会では、断食行を立てる等、「蕩減条件」を立てて、これを一定期間実践することにより、善霊が働いて困難な状況が一変し、願いが適うと教えられていました。私としては、3日間の断食という蕩減条件を立てることにより、善霊が働いて家族が統一協会の教えの正しさに気がつくといいなと考えて、そうなるように期待して3日間の断食をしたのです。親族にも私の決意の固さを認識してもらうことになるとも期待しました。
先ほど言及した準備書面(4)には、「また被告宮村は、OBの兄が抗議のハンガーストライキ(断食)を決行中に、40日間断食した信者もいたので10日くらいは大丈夫などと余裕をもって答えるなど(同195貢6行~7行)、家族と共謀して統一協会信者を監禁し、脱会説得を行うという活動を常習的に行ってきた事実は明らかである。」とありますが、宮村さんは、統一協会における教え込みのことや私がやったような断食行のもつ意味をよく知っていたので、両親が無駄な心配をしないように、40日間の断食の話を例え話としてしたのだと思います。そもそも、私は監禁されていませんでしたから、明らかな間違った主張です。
3 まとめ
このように、私は、自分の意思に反して拉致監禁されたわけではありません。また自分なりに本当に一生懸命苦しみつつ考えて、統一協会の信仰を離れる決意をしたので、徹さんの主張は私に関するものについては、全く事実に反するものであることを明言致します。
第3 荻窪フラワーホームにいたときの徹さんの様子について
1 徹さんとの話し合いについて
(1)私は、平成10年頃、徹さんが荻窪フラワーホーム804号室で家族と話し合いをしている際に、話をしに行ったことがあります。回数は2、3回位でした。このときは、他の元信者の人から、徹さんが話し合いをしていると聞き、同じ地区で活動していた者どうしなので、徹さんの悩みや葛藤は分かりますので、話し合いをしたいと考えたのです。私の見たところ、マンションの部屋には南京錠等はありませんでした。そのとき、部屋にいたのは、母親と妹の■さんで、■<後藤徹氏の兄>さんはいませんでした。
(2)徹さんは、マンションの一番奥の部屋にいて、静かに座っていました。徹さんとは、統一協会信者だったころ同じ△△△というホーム(共同生活の場)で一緒に寝泊まりしていました。役割は違っても中堅の信者どうし、苦しさを共にしたと思っていました。久しぶりに会ってみて、前とは特に変わらず、朴訥とした感じであまり多くを話そうとはしませんでした。私が徹さんと話をしたのは、1回あたり、30分から40分位でした。世間話や統一協会時代の話をしましたが、徹さんは口数が少ないため、会話は長続きせず、統一協会の信仰や問題点については、あまり掘り下げた話は出来ませんでした。そのため、私は2、3回で話し合いに行くのを辞めてしまいました。
このような時に、徹さんから拉致された、あるいは、監禁されているという話は聞いたことがありません。
2 ■<後藤徹氏の兄>さんがトイレに閉じ込められたときの話について
(1)平成15年冬頃のことだったと思います。突然後藤■<後藤徹氏の兄>さんの携帯電話から私の携帯に電話がありました。用件は、徹さんといるマンションのトイレ兼風呂場の鍵が壊れてしまい、■<後藤徹氏の兄>さんが閉じ込められて出られなくなった、母親、■<後藤徹氏の妹>さん、それに徹さんが幾ら扉を押しても引っ張ってもどうしようもないので、助けて欲しいという話でした。当時私は荻窪駅近くに住んでいたのですが、そのことを知っていて、私が携帯を持っていたので■<後藤徹氏の兄>さんが私にSOSをしたのだと思いました。私はバールを持参して、荻窪フラワーホーム804号に駆けつけました。トイレ兼風呂場の中から「ごめん。なんとか開けてもらえないか」という■<後藤徹氏の兄>さんの声が聞こえました。
そこで、まず、力づくで扉(引き扉)を開けようとしましたが、いくら私が扉を引っ張ってもびくともしませんでしたし、ドアを蹴飛ばして溝から外そうともしましたが、やはり、無理でした。
(2)私は、やむを得ず、扉を壊して、■<後藤徹氏の兄>さんを助け出すことにしましたが、まず、バールで鍵を壊そうにも、鍵の周りの木製部分を削り取って、鍵の部分を剥き出しにする必要がありました。そこで、何か、工具はないかと見たところ、マイナスドライバーが置いてありました。良く見ると、扉の鍵のあたりには傷もついており、■<後藤徹氏の妹>さんに、自分で鍵を壊そうとしたのかと聞くと、「徹が、鍵を開けようといじっていたけど、どうしても開かないので徹も諦めてしまったの」と言いました。徹さんも心配そうにとなりの部屋から私のすることを見守っていました。
私は、ドライバーを使って鍵の周りの木製部分を削り取り、バールでベニヤ板を剥がし、鍵を剥き出しにしてから、鍵のフックの部分をドライバーで外して何とか扉を開いて、■<後藤徹氏の兄>さんを救い出すことができました。
私が到着してから、ドアが空くまで30分以上かかりました。その間、徹さんは、奥の部屋から、心配そうに、私のすることを見ていました。
(3)それが、とても久しぶりにフラワーホームに行った時のことなのでよく覚えているのです。しかし、それ以降、私は、荻窪フラワーホームに行っていません。この時もなんだか徹さんがよそよそしかったので、行って話してみても仕方ないのかなと、私なりに思ったからでした。
この度、徹さんが■<後藤徹氏の兄>さんたち兄弟や宮村さんたちを訴えたと聞いて驚いています。徹さんのわがままで10年以上の間ひきこもり、■<後藤徹氏の兄>さんたちの行動を制限しておいて、それが徹さんを監禁したという主張は全く逆だと思います。
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尋問録の前に、被告側の証人であるOB氏の陳述書をお届けします。
OB氏は、後藤徹氏の準備書面や陳述書にもずいぶんと登場する元信者です。
水面下で暗躍する宮村氏はめったに"地上"に出てこないのですが、唯一の例外と言えるのが『親は何を知るべきか』(いのちのことば社)という著書です。この本の中で宮村氏は子供を"救出"するにはカウンセラーに委ねろという趣旨のことを語っています。
そして、この本の別の章では、OB氏を宮村氏が説得する時の生々しい様子が、OB氏の妹であるOF氏の証言として収められています。
妹の証言を素直に読めば、OB氏は宮村氏の説得中、散々抵抗し、監禁状態にあるとしか考えられないのですが、その点について、OB氏は「半ばパフォーマンス」だったと陳述書では述べています。
あくまでも同意の上で話し合いに入ったということなんだそうです。
非常に理解に苦しむところですが、そのあたり、証人尋問ではどのように語られるのでしょうか?
また、OB氏は、教会員時代、後藤徹氏と共に過ごしたことがあり、後藤氏の監禁部屋にも訪れています。
先日の反対尋問にも登場しました。
4月8日、東京地裁の803号法廷で、OB氏は何を語るのか興味津々です。
陳 述 書
2012年5月18日
OB
OB
1 私の経歴、特に統一協会歴について
私は元統一協会信者です。私の経歴、私か1987年4月に統一協会にかかわりはじめて、1990年4月に献身し、1996年6月に脱会するまでの経緯については、私が原告の一人となっていた青春を返せ訴訟に提出した陳述書(乙イ第18号証)をお読み頂ければと思います。
この陳述書では、後藤徹さんが原告の裁判で証拠として提出されている『親は何を知るべきか』(甲24)175頁以下について、また、後藤徹さんとご家族が話し合いをされていた当時の様子について私が見聞きしたことを述べさせて頂きます。
第2『親は何を知るべきか』(甲24) 175頁以下について
1 初めに
まず、「兄を統一協会から救出した妹の証言」と表題にあるように、この内容は、私の妹であるOFの主観に基づいて書かれたものであり、私がこの本の出版前にその内容を確認したことはありません。私は家族との話し合いを2回経験しており、2回目の話し合いで統一協会による教え込みからようやく自由になることが出来ました。私のために、家族だけではなく、多くの方々が尽力して下さり、その結果として、自分自身の人生を取り戻すことが出来たことについては、感謝しても感謝しきれません。
2 最初の話し合いについて
1988年3月の第1回目の説得のときは、甲24のP 176~177にかけて書いてあるとおり、両親が勝手にガードマンを雇い、私を強引に 東京から仙台まで連れて行きました。私としては、こんな形で強引に実家につれ戻されたので内心の両親に対する反発がますます強くなるだけでした。このため、自分の中で、統一協会の信仰と信者としての行動について 客観的に整理して考えることはとても出来ませんでした。話し合いをしていても統一協会に戻って確認したいという想いが強くなり、いわゆる偽装脱会をして、話し合いの場をのがれて、統一協会に戻ったのです。その後私は迷いつつも、1990年3月に統一協会の信者として献身しました。
一回目の話し合いがかえって私を統一協会にのめりこませることになったと言えます。献身者というのは、仕事を辞めて統一協会の活動に専従する信者のことです。私は献身者として教育部門を多く担当してきたので、1994年5月、統一協会の還故郷の方針に従って、仙台の実家に戻ってからも、いつ両親を説得して統一協会を受け入れさせるかということを考えており、自分が統一協会をやめることは考えられる状況ではありませんでした。
2 2回目の話し合いについて
(1)1996年2月の第2回目の話し合いのときは、私は、しぶしぶではありましたが、家族や親せきの私のことを案じる強い想いに打たれて、話し合いに入ることを自発的に同意しました。また、場所を移動して話し合いをすることについても、同意はしていました。
両親だけでなく親せきの人たちも10人近くいたので、随分いるなとは思いましたが、数に負けてはいられないと思っていました。このとき、私の内心では、家族や親せきから何を言われても論破することが出来るし、逆に家族に対し、統一協会の信仰の正しさを伝えることが出来る良いチャンスであると考えていました。
(2)しかしながら、話し合いの場所であるマンションに到着し、翌朝になってから、昨日とはうって違って私の中に恐怖心が芽生えてきました。何故ならば、私は統一協会において、「対策」と称して、監禁され、強制的に改宗するまでは何十年も閉じ込められ、それでも信仰を捨てなければ、精神病院に入れられて薬漬けにされてしまうという嘘を教え込まれていたからです。念のためですが、統一協会信者の使う「監禁」という言葉は、日常 用語とは大分違うものであり、家族やカウンセラー等との話し合いのために、一緒に部屋にいることを「監禁」と称します。そして、例えば、窓から飛び降りるようなことをしてでも、この「監禁」状態から逃げ出すこと自体が信仰の証であり、英雄的な行為であると聞かされていました。
また、私は、自分の家族について、真理を知らない堕落人間であり、精神的には低位の存在であり、自分が言わばアベ/レの立場にあると教え込まれていました。つまり、私は統一原理を知っている神に選ばれた人であり、これを理解できないで反対している両親や妹たちは、サタンに支配されたかわいそうな罪人(つみびと)だと見下す心情に固まっていました。ですから、自分自身の恐怖心を堕落人間である両親などに見せる訳には行かない、もし、怯えていると知られれば、家族は自分の話をますます聞かなくなり、真理から遠ざかってしまうと考えていました。そこで、私は、高圧的な態度を取ったり、多少暴れたりすれば、家族は怯えて委縮し、自分の話を聞くようになるだろうと考えていました。
そこで、私は、統一協会において教え込まれたとおり、激しい口調で抗議をしたり、両親や親せきに対して、不実をなじる様な言葉を発したりしました。
(3)甲24に書かれているように、私がOFらに対して「信頼していたのに、裏切られた」(甲24・183貢末行~184貢1行)、「勝手に連れて来て」(同185貢10行)、「このマンションも見ればわかります。改宗に使う部屋でしょ」(同187貢6行)、「こんなことをしてよいと思っているのか!訴えてやる!」(同189貢2行~3行)、「みんなが裏切ってうそを ついて、ここへ連れて来た。信じられない。立ち直れない」(同191貢12行)等という言動をとったかどうかはおぼえていません。実際そうだったとすれば、それは、あくまでも、統一協会の信者としてそのように振る舞わなくてはならないという教え込みのためであり、半ばパフォーマンスでした。
たしかに私は話し合いに応じたものの、東京の方まで自動車で連れて行かれました。それに、両親も妹も本当に長期戦を覚悟しているようでした。
私は1,2週間も話し合えば、私のペースで「判ったもういいよ」と両親も言って元の活動に戻れると思っていたのですが、両親が全く急ぐふうでなく、じっくり話し合う構えだったのです。私が積極的に何か言い出すまで静かに待つという様子でした。このような状況にあせった私は、多少本音で両親や妹を非難するなどして挑発して発言させることで、こっちのペースにしていこうと考えたのでした。
ところが、なぜか、両親も妹も泰然としていて私の主張に耳を傾けるものの、全く受け入れていないことがよく判ったので、ますますあせったのです。
(4)そのようなことから私は、確かに、話し合いの最中に突如立ち上がってその場を立ち去るそぶりをしてみせたり、暴れて障子を壊したりもしました。
これも統一協会の信者としての教え込みのためであり、決して本気ではなく、自分のペースにするためのパフォーマンスでした。後藤徹さんが提出した平成23年10月11日付準備書面(4)には、「OBの兄が『ここから出る!』と言って立ち上がると、家族全員で拘束して脱出を阻むなど(同189貢13行~14行)、OBの兄が意に反してマンションに監禁されていた事実が明らかである。」、「被告宮村は、部屋の状況に激怒したOBの兄が障子を蹴り壊したとの報告をOFから受けるや、家族を挙げて本人を押さえつけ、腕にかみついてでも拘束するよう厳命することによって、違法な身体拘束を教唆、共謀しているのである(同187貢7行~188貢末行)。」という記載があるようですが、明らかな間違いです。何故ならば、私は両親などの手を振りほどいてマンションを出ようと思えば、出ることは十分に可能だったからです。
私が暴れたり、話し合いの場を立ち去ろうとしたとき私の体にしがみづいたのは、母親と妹でした。体力的には私の方が母親と妹よりも遥かに勝っているので、物理的に二人を振りほどいて部屋から出て行こうと思えば、出ていくことは出来ました。しかし、私をマンションでの話し合いに引き留めたのは、しがみつく力ではなく、真情から私を案じる家族の必死なまなざしでした。ここで、私を引き留めなければ、二度と本当の話し合いはできなくなるかも知れない、あるいは、とち狂った私が窓から飛び出すなどして死んでしまうかもしれないという必死の思いは私にも伝わってきました。私としては、そんな母や妹の手を力づくで、振りほどいてマンションの部屋を出ることはどうしても出来ませんでした。
それに話し合いの途中で私から逃げ出すことは、正しいことをしているはずの私が優位に立てなくなるのでまずいと思っていました。私としては、何とか両親や妹を言い負かして、私がそれほど言うのなら、主張も筋が通っているし教義もしっかりしているから、認めよう、と言うようにしたかったので、何とかそうなるようにしたいと考えて、懸命に両親や妹に話をしたつもりでした。しかし、全く両親や妹の心を打たないばかりでなく、素朴な質問をぶつけられるとそれに答えることができない自分がいるので、本当にあせってしまいました。
(5)宮村さんがマンションに来だのは、私が会いたいと希望したからです。統一協会では、信者の家族に対し、拉致監禁を指導する「強制改宗屋」がいると教えており、家族からも「宮村峻」という名前が出ていましたので、私は、宮村さんを論破すれば、家族も統一協会の信仰の正しさを受け入れるだろうと思い、自分から宮村さんを呼ぶように言ったのです。当時の私は宮村さんを論破してみせて、家族に統一原理はずごいと思わせる自信がありました。だから、宮村さんが来るまでの間、私は、自分の頭の中で想定問答のように、まず、最初に、きつい言葉をぶつけて意表を付いてやろう、こう言われたら、ああ言い返そうと考えておりました。とりあえず、まずは怒りをぶつけてやろうと考えていました。このような私の態度は、外から見れば、興奮しているように見えたかも知れませんが、私の内心は意外と冷静で、宮村さんという人物を見極めよう、悪く言えば、試してやろうと考えていました。
しかしながら、実際にやってきた宮村さんの態度は、冷静で、私の無礼な言動をたしなめ、私が、「統一協会をやめる」などと言って誤魔化そうとしても、また話をはぐらかそうとしても、厳しい口調ではありますが、あくまでも、誠実に自分自身と向き合って真摯に答えるように諭して来ました。また、私が投げかける、今思えば、失礼、あるいは、屁理屈のような質問に対しても一切逃げようとすることなく、また、論点をずらそうとすることもなく、正面から答えてくれました。このため、自分も、結論がどうなるにせよ、この場から逃げ出すという安易な方法を選ぶのではなく、家族や宮村さんとの話し合いに真剣に取り組み、統一協会の信仰と信者としての行動についてもう一度見つめ直さなくてはならないと思うようになり、最終的に、統一協会の信仰を離れることに繋がったと思います。
(6)宮村さんは、私の家族に対し、色々と助言をすることはあったとあとになって聞きましたが、家族に対して命令をしたり、家族がその言いなりになっていたというような様子は全くありませんでした。
(7)私は話し合いの最中に3日間の断食をしました。これは、監禁への抗議のハンガーストライキではありません。統一協会の信仰に基づく宗教的な「願掛け」とでも言うべき意味を持つものでした。統一協会では、断食行を立てる等、「蕩減条件」を立てて、これを一定期間実践することにより、善霊が働いて困難な状況が一変し、願いが適うと教えられていました。私としては、3日間の断食という蕩減条件を立てることにより、善霊が働いて家族が統一協会の教えの正しさに気がつくといいなと考えて、そうなるように期待して3日間の断食をしたのです。親族にも私の決意の固さを認識してもらうことになるとも期待しました。
先ほど言及した準備書面(4)には、「また被告宮村は、OBの兄が抗議のハンガーストライキ(断食)を決行中に、40日間断食した信者もいたので10日くらいは大丈夫などと余裕をもって答えるなど(同195貢6行~7行)、家族と共謀して統一協会信者を監禁し、脱会説得を行うという活動を常習的に行ってきた事実は明らかである。」とありますが、宮村さんは、統一協会における教え込みのことや私がやったような断食行のもつ意味をよく知っていたので、両親が無駄な心配をしないように、40日間の断食の話を例え話としてしたのだと思います。そもそも、私は監禁されていませんでしたから、明らかな間違った主張です。
3 まとめ
このように、私は、自分の意思に反して拉致監禁されたわけではありません。また自分なりに本当に一生懸命苦しみつつ考えて、統一協会の信仰を離れる決意をしたので、徹さんの主張は私に関するものについては、全く事実に反するものであることを明言致します。
第3 荻窪フラワーホームにいたときの徹さんの様子について
1 徹さんとの話し合いについて
(1)私は、平成10年頃、徹さんが荻窪フラワーホーム804号室で家族と話し合いをしている際に、話をしに行ったことがあります。回数は2、3回位でした。このときは、他の元信者の人から、徹さんが話し合いをしていると聞き、同じ地区で活動していた者どうしなので、徹さんの悩みや葛藤は分かりますので、話し合いをしたいと考えたのです。私の見たところ、マンションの部屋には南京錠等はありませんでした。そのとき、部屋にいたのは、母親と妹の■さんで、■<後藤徹氏の兄>さんはいませんでした。
(2)徹さんは、マンションの一番奥の部屋にいて、静かに座っていました。徹さんとは、統一協会信者だったころ同じ△△△というホーム(共同生活の場)で一緒に寝泊まりしていました。役割は違っても中堅の信者どうし、苦しさを共にしたと思っていました。久しぶりに会ってみて、前とは特に変わらず、朴訥とした感じであまり多くを話そうとはしませんでした。私が徹さんと話をしたのは、1回あたり、30分から40分位でした。世間話や統一協会時代の話をしましたが、徹さんは口数が少ないため、会話は長続きせず、統一協会の信仰や問題点については、あまり掘り下げた話は出来ませんでした。そのため、私は2、3回で話し合いに行くのを辞めてしまいました。
このような時に、徹さんから拉致された、あるいは、監禁されているという話は聞いたことがありません。
2 ■<後藤徹氏の兄>さんがトイレに閉じ込められたときの話について
(1)平成15年冬頃のことだったと思います。突然後藤■<後藤徹氏の兄>さんの携帯電話から私の携帯に電話がありました。用件は、徹さんといるマンションのトイレ兼風呂場の鍵が壊れてしまい、■<後藤徹氏の兄>さんが閉じ込められて出られなくなった、母親、■<後藤徹氏の妹>さん、それに徹さんが幾ら扉を押しても引っ張ってもどうしようもないので、助けて欲しいという話でした。当時私は荻窪駅近くに住んでいたのですが、そのことを知っていて、私が携帯を持っていたので■<後藤徹氏の兄>さんが私にSOSをしたのだと思いました。私はバールを持参して、荻窪フラワーホーム804号に駆けつけました。トイレ兼風呂場の中から「ごめん。なんとか開けてもらえないか」という■<後藤徹氏の兄>さんの声が聞こえました。
そこで、まず、力づくで扉(引き扉)を開けようとしましたが、いくら私が扉を引っ張ってもびくともしませんでしたし、ドアを蹴飛ばして溝から外そうともしましたが、やはり、無理でした。
(2)私は、やむを得ず、扉を壊して、■<後藤徹氏の兄>さんを助け出すことにしましたが、まず、バールで鍵を壊そうにも、鍵の周りの木製部分を削り取って、鍵の部分を剥き出しにする必要がありました。そこで、何か、工具はないかと見たところ、マイナスドライバーが置いてありました。良く見ると、扉の鍵のあたりには傷もついており、■<後藤徹氏の妹>さんに、自分で鍵を壊そうとしたのかと聞くと、「徹が、鍵を開けようといじっていたけど、どうしても開かないので徹も諦めてしまったの」と言いました。徹さんも心配そうにとなりの部屋から私のすることを見守っていました。
私は、ドライバーを使って鍵の周りの木製部分を削り取り、バールでベニヤ板を剥がし、鍵を剥き出しにしてから、鍵のフックの部分をドライバーで外して何とか扉を開いて、■<後藤徹氏の兄>さんを救い出すことができました。
私が到着してから、ドアが空くまで30分以上かかりました。その間、徹さんは、奥の部屋から、心配そうに、私のすることを見ていました。
(3)それが、とても久しぶりにフラワーホームに行った時のことなのでよく覚えているのです。しかし、それ以降、私は、荻窪フラワーホームに行っていません。この時もなんだか徹さんがよそよそしかったので、行って話してみても仕方ないのかなと、私なりに思ったからでした。
この度、徹さんが■<後藤徹氏の兄>さんたち兄弟や宮村さんたちを訴えたと聞いて驚いています。徹さんのわがままで10年以上の間ひきこもり、■<後藤徹氏の兄>さんたちの行動を制限しておいて、それが徹さんを監禁したという主張は全く逆だと思います。
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2013-03-25(Mon)
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偽装脱会者なのに
<私が暴れたり、話し合いの場を立ち去ろうとしたとき私の体にしがみづいたのは、母親と妹でした>
<これも統一協会の信者としての教え込みのためであり、決して本気ではなく、自分のペースにするためのパフォーマンスでした>
はい、はい。
<私は、自分の意思に反して拉致監禁されたわけではありません>
<1988年3月の第1回目の説得のときは、(中略)。両親が勝手にガードマンを雇い、私を強引に 東京から仙台まで連れて行きました。私としては、こんな形で強引に実家につれ戻されたので、(中略)。いわゆる偽装脱会をして、話し合いの場をのがれて、統一協会に戻ったのです>
こういうことを拉致監禁と言うんだけどなぁ…。
<<後藤徹氏の兄>さんがトイレに閉じ込められたときの話について。(中略)。私が到着してから、ドアが空くまで30分以上かかりました。その間、徹さんは、奥の部屋から、心配そうに、私のすることを見ていました>
なんで兄はOBさんに携帯電話で助けを呼んだの???
部屋に徹さんがいるのに…。
徹さんが工具を買いに行くなり、鍵屋さんを呼びに行くことだってできたはず。
どうしても、徹さんを外に出すわけにはいかなかったみたいですね。
<徹さんから拉致された、あるいは、監禁されているという話は聞いたことがありません>
偽装脱会経験者なのに、見え透いたウソつくんじゃねーよ!
<これも統一協会の信者としての教え込みのためであり、決して本気ではなく、自分のペースにするためのパフォーマンスでした>
はい、はい。
<私は、自分の意思に反して拉致監禁されたわけではありません>
<1988年3月の第1回目の説得のときは、(中略)。両親が勝手にガードマンを雇い、私を強引に 東京から仙台まで連れて行きました。私としては、こんな形で強引に実家につれ戻されたので、(中略)。いわゆる偽装脱会をして、話し合いの場をのがれて、統一協会に戻ったのです>
こういうことを拉致監禁と言うんだけどなぁ…。
<<後藤徹氏の兄>さんがトイレに閉じ込められたときの話について。(中略)。私が到着してから、ドアが空くまで30分以上かかりました。その間、徹さんは、奥の部屋から、心配そうに、私のすることを見ていました>
なんで兄はOBさんに携帯電話で助けを呼んだの???
部屋に徹さんがいるのに…。
徹さんが工具を買いに行くなり、鍵屋さんを呼びに行くことだってできたはず。
どうしても、徹さんを外に出すわけにはいかなかったみたいですね。
<徹さんから拉致された、あるいは、監禁されているという話は聞いたことがありません>
偽装脱会経験者なのに、見え透いたウソつくんじゃねーよ!
出入りは自由だった
場所を変えて話し合う。相手側は10人もいる、自分の意思で話し合いに応じた、出入りは自由、暴れたけれどパフォーマンスだった。これって、過去に拉致監禁にあった方たちに共通した事項であります。かの有名な、山崎浩子さんもしかりでありました。なぜ?逃げれば逃げられたの逃げないのか?暴れておきながらですよ。自分があばれるのは、パフォーマンス。統一教会が拉致監禁問題について取り組むのが、キャンペーン。反対派の人たちは、ちゃかしますけど。この方の暴れたのはパフォーマンスやらせ?そんな軽いノリでやりますか?理解できません。
ひきこもり?
<徹さんのわがままで10年以上の間ひきこもり、■<後藤徹氏の兄>さんたちの行動を制限しておいて、それが徹さんを監禁したという主張は全く逆だと思います>
ひきこもった…。
12年5ヶ月も…。
趣味での外出もせず…。
本当にひきこもったのなら、家族は話し合いどころじゃないよな、普通。
早く医者とか専門のカウンセラーに見てもらわなきゃ。
OBや宮村が訪ねていって、おしゃべりなんてしてる場合じゃないだろ!
ひきこもった…。
12年5ヶ月も…。
趣味での外出もせず…。
本当にひきこもったのなら、家族は話し合いどころじゃないよな、普通。
早く医者とか専門のカウンセラーに見てもらわなきゃ。
OBや宮村が訪ねていって、おしゃべりなんてしてる場合じゃないだろ!
No title
OBさんは幸せになれたならそれは良かったですが、ひどい状況の中苦戦して、可愛そうな立場なのだな、という感じがしました。
現在が幸せならばいいのではないでしょうか。
なにか漠然と復讐の思い等があって?また、そもそも自虐的な思想でもお持ちで?。
この人は本当に事実を伝えているのか?
自分にも他人にも、嘘をつき、もしかして過去の歴史が変わっている?または変えた?
そうだとすれば、震撼する話ですが、それらを平然とあるいはもしかすると葛藤を持ちながら?行う人達もいるのだという一つの証明ですか?感心する人いるんでしょうか。
結局、人間性でしょうか。面白い、、しかし恐ろしいといえば恐ろしいのかもしれない。
しかし、疑問符が絶えない話だ
現在が幸せならばいいのではないでしょうか。
なにか漠然と復讐の思い等があって?また、そもそも自虐的な思想でもお持ちで?。
この人は本当に事実を伝えているのか?
自分にも他人にも、嘘をつき、もしかして過去の歴史が変わっている?または変えた?
そうだとすれば、震撼する話ですが、それらを平然とあるいはもしかすると葛藤を持ちながら?行う人達もいるのだという一つの証明ですか?感心する人いるんでしょうか。
結局、人間性でしょうか。面白い、、しかし恐ろしいといえば恐ろしいのかもしれない。
しかし、疑問符が絶えない話だ
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