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宮村氏の恩師の娘、YC氏の手記-宮村氏の計画は完璧だった。路上拉致を立案、実行した宮村氏

裁判傍聴記で予告した2つめの書面、つまり被告側弁護士たちが手にとって食い入るように見つつ、念入りに調べている書面のひとつをご紹介します。

この書面は、今から30年近く前、宮村氏の"完璧な計画"のもと、路上で拉致され、荻窪栄光教会で、森山諭牧師の説得を受けたYC氏の手記です。
このYC氏は、手記もふれていますが、宮村氏の恩師の娘です。
宮村氏が"拉致監禁"に手を染めるようになったきっかけになったのが、まさにこのYC氏なのです。

この手記は、原稿用紙に手書きで書かれた原本(コピーでない)です。
統一教会の友好団体である原理研究会の、とある施設から最近発見されたものらしいです。
いずれ、ゴミ箱行きになったであろう膨大な資料の中の一部が関係者の目に留まり、今回の大発見に繋がったそうですが、きっと関係者一同、目が点になってしまったことでしょう。(ゴミ箱行きにならなくてよかった~)

水面下で暗躍する宮村氏は、なかなか尻尾を出さないことで定評がありますが、この手記によれば、宮村氏は、YC氏の"拉致監禁"を立案し、自ら実行部隊の1人となっています。
また、宮村氏は監禁現場で、「俺は親に頼まれてきただけだ、文句があるなら親に言え」などと、よく言っていたようですが、拉致監禁するように親を説得して実行したのは、むしろ宮村氏だったということが、この手記にははっきりと書かれています。

このYC氏は、この手記を書いた数年後に、宮村氏の脱会説得をうけることになり統一教会を脱会しました。

なお、この手記が見つかった経緯や、この手記の内容が真実であることは、別の書面で論証しています。そちらの書面も後ほど本ブログでご紹介できると思います。

それにしても、被告側の都合で、口頭弁論が延長したわけですが、こんな風に宮村氏にとって都合の悪い書面が出てくると、なんだか、被告側はかえって墓穴を掘っているような気がします。

なお、プライバシー保護のため、固有名詞、地名、属性など適宜、伏字にしてありますので、ご了承ください。
 
氏名 YC
■■■■■■■■
■■■■■■

昭和■■年■月■日生


  私は八二年に原理研究会の会員になりました。
 
 事の起こりは、山梨県の故郷にいる母親が用事で東京に出て来るということで、一九八四年、十一月四日から五日にかけて、■■にいる私と母親とが東京で会う約束をしました。
 
 私の家は二年前、原理研究会に入っていると証明して以来、ずっと黙認状態が続いていたのですが、ただ、信仰を続ける条件として、卒業後は一般企業に就職するという約束をとられていたにもかかわらず、私が四年生になっても一向に就職活動をせず、献身についてほのめかしたりしたので、親が相当心配し、私と原理研究会に対する信用を失っていた事は事実ですから、その辺の事で反対派と連絡を取り始めたのではないかという懸念はありました。
 そこで、電話で何度か探りを入れてみたのですが、一向に反対派と連絡を取り合っているという気配すらも捕めませんでした。
しかし、色々不安もあり、万全を期して東京では会わないことにし、そのかわりに母親を■■に呼ぶことにしました。

 十一月五日、約束通り持ち合わせ場所<ママ>のT駅の改札口に行ってみると、母が東京からの電車中で酔い、真青な顔をしていると見ず知らずのその女の人が介抱してくれた、というのです。
 それで娘が来たらお礼にお茶を御馳走する約束だったと言うので、三人で駅ビルの二階の喫茶店に入ってお茶を飲みました。
 その女の人は随分ソワヽしていて、下で主人と待ち合わせの約束をしていて、もうすぐ主人の乗った車が来る頃だと云って、何度も席を立ち窓の下を見に行くのです。
 私は、変だと思いながら、完全に母親を信頼し切っていましたので、(今回の事を計画したのは、きっと、父親で、母親は何も知らされていないに違いない、と思って、事実、母親が計画を知ったのは、前日だったそうです。
 そこで、二〇分位過ごしたところ、「あっ主人が来ました。」と、女の人が言って、「それではどうも」と、立 ろう<ママ>とするところを、母親が、「随分お世話になったから、御主人にもお礼を言いたい」と言い、私にも一緒に挨拶をしてくれ、と言うので、そこまでする必要があるんだろうか、と思いながら、女の人と母親について行くと、駅前にキャラバンが横づけされ、「これが私の主人です」と、女の人が言いながら、キャラバンに乗り込むや否や、母親もその中に入り、私は、「えっ!?」と思っているうちに、後から男の人数人の手で、中に押し込まれてしまいました。
 相当に暴れ、「助けて!」とか、「誘拐です!」とか叫んだつもりだったのですが、誰も助けに来る人は無く、何しろ、その時、働いた人の数は、十人だった、ということですから忽ち押えつけられ、車は東京に向う道を走っていました。
 相当、泣いたり叫んだりした後に、周りを見ると、父親と宮村さんが乗っていました。
 手口の巧妙さや、働いた人相の悪い人達の様子から見て、私は、完全に精神病院に入れられる、と思い連想していたのですが、実は、今回の事件を立案したのは、この宮村峻さんという人で、動いた十人の人も全て、宮村さんの親族だったそうです。

 私の父は、高校の教師をしているのですが、宮村さんは、父の若い頃の教え子であり、父を慕っていて私の小さい頃には、しょっ中、家に遊びに来ては私を可愛がってくれ、誕生日や、クリスマスが来る度に、年令に合ったプレゼントを本当に細めに贈って下さっていました。
 この人は、学生時代に左翼活動を相当やった人で、その当時から、原理講論を手に入れ、原理研究会とかなり激しくやり合っていたそうですが、私は、この人の、そういった前歴を知っていたので、私が統一教会に携っている、という事はなるべく知られないようにしていたにもかかわらず、今夏、ふとしたことから、彼がその事実を知ってしまい、それから統一教会に関するあらゆる情報を集め始めたのだそうです。
 私が見せてもらった限りでは、原理講論だけでも、第三版と第十八版の二冊があり、あと世に出ているあらゆる統一教会に関する書物、反対派の物が程ど<ママ>ですが、中には『文鮮明、人と思想』や、『救世主現わる』もあり、彼は『救世主・・・・』を、三回読んだと言っていました。
それから、文先生の御言集や、ファミリーや聖歌や、お写真まで大きな紙袋に二つ分位のコレクションがありました。
 中には、絶版で書店に売ってなくて、古本屋を何軒 探し回って見つけた、という日本の統一教会説立当時の、批判書の草分け的な本もあったようです。
 内部の御言集や、ファミリー等は、森山牧師によって統一教会を落ちた人が、沢山居るという事でしたので、それらの人から、入手したものではないかと思います。

 と、いう訳で、この計画は、今年の夏から進んでいて、宮村さんの動きとしては、自分の娘か妹のように思っている私が、客観的に見てもこれだけ問題のある統一教会に入っていて、それを信じ切っている、しかし、彼女は騙されているんだから一度だけでもインチキな統一原理でなく、正しい聖書解釈を聞かせなければならない、という事で、父親を説き伏せて、まさかそんな、といってとり合わなかったそうですが、反対派のひどい噂を聞くにつけ、そこまで言われているのなら、火の無い所に煙は立たないだろう、という事で教会を不信し始め、そして、前述した献身と留年問題による私に対する不信が決定打となって、父も重い腰をあげた、ということです。

 宮村さんと森山牧師との連がり<ママ>は、たまたま宮村さんの家が、森山牧師の栄光教会の目と鼻の先にあり、宮村さんの奥さんと、栄光教会の副牧師夫人が知り合いであったことから、森山牧師が、聖書解釈の権威であり、統一教会の誤りを指摘している事を聞き及び、宮村さん自身、森山牧師の聖書講義に何度か出席しているようです。
 その間に、統一教会をやめて栄光教会に出入りしている人達と連絡を取り合い、内部の様々な情報を仕入れたり、彼らが如何にして連れて来られ、そして、どうやって逃げようとしたか、というデーターまで全て取ってあって計画は完璧でした。

 私を連れに来たキャラバンが、最初から駅前に留っていなかったのも、もしも私が計画を事前に察知して、教会のメンバーを連れてきていたら、目立つといけない、ということで、わざわざ駅の裏に車を待期<ママ>させておいて、時を見払って駅前に回したということでした。
 ですから行く先が東京だと聞くや否やこれは大変だと思い、信号待ちで車が止った<ママ>際に逃げようとしたのですが、忽ち取り押えられ、それではということでトイレに止った<ママ>際にも脱出を試たのですが、トイレのドアの前には母が、入口には父が、窓の外には宮村さんが見張っている為、とても逃げられる可能性はなく、(トイレに関しては、栄光教会に着いてからも、警察が来るまでの三日間、ずっとこの調子でした。)本当に、ただ落ち着いて考える他はありませんでした。

 父や母が最初は私を信じ切っていたものですから、私を裏切って、こんなにも卑劣な手段で、さながら誘拐のように私をさらって行ったことが、ただ本当に悔しくて、悲しくて、最初は声を上げて泣き、溜息をついていましたが、しかしそれは徐々に祈りに変って、どうか、天の父が、どこにいても私を守り、導いて下さいますように、全ては父の御手の中で行われることですから、どのような試みに合っても、ただ強く雄々しくあらしめて下さい、と祈っていました。
 Tを立ったのが、五日の午後四時半位、荻窪の栄光教会に着いたのが八時位だったと思います。
 その頃には、私としてはもうかなり理性を取戻して、落ち着いて色々考えられるようになっていました。

 森山牧師は、七六歳の実直そうな老人でした。
私が、「私は、いつまでここに居たらいいのですか」と聞くと、「それは私が決める事ではなく、御両親が決めることだ。」と言い、これまで統一教会をやめた人の話を始めました。
 彼によれば、彼が統一教会から回心させた教会員の人数は、ほぼ一二〇名位で、途中で逃げ出さずに自分の話を聞いて止めなかったのは、二人きりだ、と言い、そのうち一人は、十六日間、聖歌を歌い通して十七日目に、両親が、「もうダメです」と言って、連れ帰り、もう一人は、五日間抵抗していたのだけど、六日目に森山牧師自身が長期の旅行に出なくてはならず、断念したということでした。

 その晩も、半年程前に、統一教会をやめた女性が来ていて、その女性に向って彼が「あなたも四日間は激しく抵抗したけれど、五日目からは素直になって私の話をよく聞くようになったね。」と言って、頷き合っているのを見て、半永久的にここに閉じ込められていたら、やめさせられるのは時間の問題だから何とかして、日を区切ってでも、ここを脱出しなければならない、と思いました。

 私が、寮の皆が心配しているから、何とか連絡だけでもとりたい、と言っても、「ダメだ。」と言って、許されず、連絡も不可能だった為、自分で判断せざるを得ない状態で、それならば、四日で止めた人が居るならば、五日間やり合って、一歩も引かなければ親も諦らめるのではないか、と思い、今週一杯五日間、ここに居て、聖日に帰ろう、と思い「これからテストもあるし、いつまでもここに居るわけにはいかないから、今週一杯五日間ここにいて、日曜日になったら私は帰ります。」とこちらから宣言しました。
  その時の決意としては、五日間どんな事をしても戦い抜くから、その期間を過ぎたら、例えどんなにボロボロになろうとも、よしんば、原理の真理性について信じることが出来ないような事態が起こったとしても、とにかく五日間を過ぎたらどんな事があっても逃げ出そう、逃げられなかったら死ぬまで断食しよう、とさえ思っていました。
  こう宣言しても、父や母が納得するはずはなかったのですが、私としては、五日間を一つの期間とし、この条件を神様の御前に心情を持って捧げよう、という一つの誓いを立てたような気持ちでした。

  森山牧師による聖書講義は、行ったその晩から始められ、火曜日の朝から土曜日の夜まで五日間、彼の都合でや々<ママ>不規則でしたが、ほぼ終日続けられました。
  我々の信仰の基盤が聖書を解いた統一原理にあることから、先ず、聖書をテキストとして、統一原理の間違いを暴き、我々の信仰の内側から崩しにかかる戦法のようでした。
  それで、我々が知的にぐらつき始め、原理の真理性を疑い出したところで、文鮮明先生や勝共連合に関する様々な外的な噂を入れていくようです。
  私の目から見た森山牧師は、敬虔なクリスチャンであり、邪宗を信じたならば皆、地獄に引かれて行ってしまう、という強い確信から、信仰をかけて統一教会や、エホバの証人や、その他の異端、あるいはマルキストに対して激しく戦っているように見えました。

  事実、私は彼自信の口から何度も信仰的な証詞を聞き、祈りをもって嵐を沈めた事実や死んだ子供を生き返らせた事、そして、韓国や中国における様々な慈善活動の様子等を、事細かに語ってくれました。(彼は、年間数度は訪韓しているようです。)
  また、太平洋戦争を予知し、戒厳令下の日本で命を賭して反戦論をとなえ、憲兵の目を盗んで伝道活動に励んだ証詞等・・・。
  実際彼は、私の目から見ても立派な人格者であり信仰者でした。
  彼が人格者であり信仰者であればある程、私は危いと感じました。
  人間は、人の語る言葉の真理如何にかかわらず、語る人の人格や、信仰に屈服してしまうものだから・・・。
  私は信仰歴たった二年半だし、人格的にもまだゝ未熟だし、私は、この人の六〇年にわたって培った信仰と人格に、どうやって、対処していったらいいのかと、あせりながら考えました。
  多分、これまでやめていった人達も、その大半が森山牧師の信仰と人格に負けてしまったのではないかと思います。

  聖書講義が始まって、最初の二日間は心理的に実に苦しい立場に置かれていました。
  先ず第一に、森山牧師の方が信仰的にも人格的にも上位であること。
  第二に、父と母と宮村さんが、森山牧師の話を側で共に聞いていること。
  私は娘として、まさ先がけて召された者として彼等を復帰しなければいけない使命があるのです。
  そういった一介の伝道者として立たされたときに、このような統一原理の批判を一方的に与えられるような場は、完全に不利でした。
  この事が終わった後に私は、両親を父兄対象のセミナーに出そうと決意していましたから、そこで原理講義を聞く時のことを考えると、どうしても森山牧師の原理攻撃にやっきとなって反対せざるをえなかったのです。
  第三に、私は原理研究会の代表として、この場に臨んでいるのだ、という思い。
  如何に信仰歴が短く、自分が未熟であり、原理研究会にはもっと立派な人格者が居るのだ、と語ってもやはり両親や宮村さんは、私の態度をもって、原理研究会を測るのです。

  私がこの場で口にする、一言ゝは全て、原理研究会を代弁しているのだ、ととられてしまう・・・。
  このような三つの精神的圧迫から、二日目まで、形勢は相手側に完全に優利<ママ>な状態に置かれ、如何にうまく反論したようであっても、何となく押されている、という感じを受けることは免れませんでした。
  又、逆に天下の森山諭を相手に二日間やり合って、少なくとも論議の上では一歩もひけをとっていない、という自負が頭をもたげて来て、何となく危い、という予感がしていました。

  一日目から私は再三、電話連絡を要求していたのですが、最初の夜、母が寮にかけてくれた電話は、何かの不都合で通じず、又、次日<ママ>、再度、正確性を図って母に要求した電話は、宮村さんに密かに止められていて、寮とは全く連絡のとれていない状態でした。
  しかし、二日目の夕方になって、■■<*YC氏の所属先>のメンバーが、私を救出する為に栄光教会の外から、私の名を呼びはじめました。
  その呼びかけが外から始まるや否や、私は両親に腕を捕まれて、身動きの出来ない状態でしたが、窓越しに話をして、誘拐された事実と、監禁されている事実とを叫び、伝えました。
  そうしているうちに数人の警官が来たのですが、そのうちで最も位置の高い人はMさんといい、私を助けに来て下さった、原理研究会の方が名刺交換した方でした。
  名刺交換の際に、栄光教会に女性が一人監禁されている、と聞いたMさんは、栄光教会に事情を説明してほしい、という電話を入れたのですが、その電話でMさんとしゃべったのは宮村さんで、彼等が何故、娘を誘拐するに至ったかを相当に、被害者としての立場で語り、Mさんの情を動かしていた為に、私達の前に現われた警官達は、ほぼ宮村さんや両親や森山牧師の味方になっていました。

  私がそこでも、誘拐された事と監禁されている事を訴えると、彼等は、「親を監禁罪で訴えるつもりか?!」と言い、「この騒ぎは、全てあなたが原因だ」と言いました。
  そして原理研究会の人達が押し入ったことを、家宅侵入罪になるかもしれない、という事もほのめかしたので、私が、教会の人達はには<ママ>、私の安否も知られず、又人権を無視して精神病院に入れられてしまうかもしれない可能性もある為、やむにやまれず行った行為なのではないか?」と言うと、彼等は、宮村さんも両親も森山牧師も、数人の警察官も誰一人として、メンバーが無理矢理に精神病院に入れられているという事実を知る人が居なかった為、取り合ってくれませんでした。
  それでも■■の兄弟を一人その場に呼んで、五分間だけ話すことが許されたので、私はその人に、私は無事であり心情的にも動かされていない事、そして両親達に、五日間はここに居ることを約束したので、後三日、ここを動けない事、それから警官達の前で、一日一回、寮に連絡を取る事と、もし三日過ぎても帰って来ない時には、助けに来てほしい、ということを確認しました。

  この事件によって、親は相当、原理研究会側を不信し、暴力的な組織であるかのように思ったようです。
  私が如何に原理研究会側の心情を説明しようとしても、「お前は、盲目的に信じているから解らないのだ。」と一向に耳を傾けてくれませんでした。
  しかし、このことによって一日一回、寮と連絡を取ることが許されたので、その日の夜から■■の責任者と連絡を取りました。
  その時責任者から与えられた話は、決して傲慢にならないことし<ママ>、知で屈服させようとすると、必ず混沌として来るから、知をもっては争う<ママ>とするな、という事、それから、この問題は霊的なものだから、決して私個人の問題や、私の家庭だけの問題でなく、原理研究会全体としての問題だから中心人物として立たねばならないこと、そしてサタン自然屈服の路程を歩み、最終的に私がかえって原理を実感するような結果とならなければならない、という事を話され、私は、本当に責任者からのみ言が命綱だと思いましたので、これをしっかりと心に止めて、どんな事があっても不信しないようにしよう、と強く思いました。
  それで、三日目の朝からは、随分心情が楽になって、森山牧師の説く解釈も、それが原理を侮辱するものでない限りは、心穏やかに知識として聞くことが出来るようになりました。

  そうしているうちに、森山牧師が又、証詞を話しました。
  ある時、森山牧師の家から、お金が無くなり嫌疑が森山牧師にかかり、父親さえも彼を疑うようになりました。
  しかし彼は弁明せずにいたところ、ある日、近所の青年が忍び込んでお金を盗んでいるところを見つけました。
  彼は、その青年を悟<ママ>して帰したのですが、もう一度、そのような事があった為、その青年の為にもならないと思い、両親の所へ話しに出かけたそうです。
  するとその両親は両手をついて謝り、どうか息子の罪を他人に暴かないで下さい、と懇願されたそうですが、ところがその話を密かに聞いていた人が居て、町中に、その事を広めてしまったというのです。
  青年の両親は烈火の如く怒って、「クリスチャンの信仰とはそんなものか」と、毎晩お酒を飲んで、どなり込んで来たそうです。
  そんな事が五年程も続いたある日、森山牧師の愛娘が死に、悲しみと苦しみの中に沈んでいる時、又、その父親がやって来て、「ざまを見ろ、天罰だ。お前の娘は死んだだろう」と言ったと言うのです。
  森山牧師は怒るというよりも、どうしようもなく悲しくなって、このままでは彼は地獄へ落ちてしまう、それならば、彼に本当の事を教えてあげようと思い、障子に手をかけたのですが、その時、心の中に一つのみ言、「父よ彼等をお許しください。彼等は何をしているのか解らずにいるのです。」という聖句が、啓示的に浮かび、御自身をムチ打つユダヤ人の前に、「ほふり場に引かれて行く子羊のように」引かれて行ったイエス様の御姿が、はっきりと映ったのだそうです。
  その時、森山牧師は「父よ、私をお許し下さい。私は自分の立場を弁明しようとしていました。私はもう少しで、イエス様の弟子として恥ずべき行いをする所でした。」と、障子の前に手をついて誤った<ママ>という事でした。

  私はこの事を聞いて、何か目から鱗が落ちたような気がしました。
  旧約の御言を完成する為に、新約の御言をたずさえて来ているのに、かえって律法を破壊する者だ、とされて、ユダヤ人に鞭打たれるイエス様は、ある意味では今の自分と同じ立場なのではないか、と思ったのです。
統一原理の御言は、新約の土台の上にあるのに彼等はそれを理解せず、世を惑す者だ、として中傷罵倒しているから・・・・。
 しかし、同じ立場に立たされているのに、イエス様の態度と自分の態度とは、あまりにも違いました。
  メシアとして、王の王として来られながら一言も御自身の立場を弁明しようとなさらなかったイエス様と、何の力無き、堕落人間でありながら、自己の立場を少しでも有利にしようと、躍起になっている自分。
  如何に私が小賢しい人間の知恵を使って、どうにかしようと思っても、かえって事態は悪くなる一方で、私は力を失い、両親達は不信の度合を強める・・・。
  私は、全てを神の御手にゆだねよう、とその時はじめて悟ったのです。
 私はただ、神を信じ、神の御前に心情を捧げる・・・・。
 そうしたら、全ては神様が愛を持って主管し、最終的には最もよい状態に導いて下さる・・・。
  神様が、私達の信仰によって私達を用い、私達が信仰によって義とされる、というのはこういう事なんだ、と始めて<ママ>思いました。
  そうして、私は何と傲慢だったのだろう・・・と。

  新約のクリスチャンであり統一教会を迫害している森山牧師であっても自己を弁解しようとせずに全てを神様の御手にゆだねて行こうとしているのに、その上に立つべき成約聖徒としての自分が傲慢にも、自分の力できり抜いてゆこうとしている・・・・。
  この事によって、私は人類全ての罪の為に十字架にかかって死んで行ったイエス様を信ずることによって、義とされる新約の信仰が始めて<ママ>判ったような気がしました。
  信ずる事こそが戦いであり、信じた後には全てを神様にゆだねてゆく・・・・。
  そのように考えてゆくと、私を此処に導いたのは神様なのだから、この事を通じてきっと、何か私に教えたい内容があるのだから、その神様を私は信じてゆこう、という気持ちになり、何の気負いもてらいも無くなりました。
  それから又、最初に、私がこの統一原理を信じたきっかけは、何だったのだろう、と深く考えていった時に、それは御言の真理性より何より先に、先ず教会の人の愛の人格に触れて「確かに此処には神が居る」と、思ったことではないか、そして、そういった愛の源泉は全て、文先生の愛の伝統ではないか、という所につき当たった時に、私は何も恐いものはなくなりました。
 私が原理を信じている基盤は、文先生の愛ですから、如何に外的な様々な噂を聞かされても、又教義に於ける誤りを指摘されても、それは少しも私の信仰を振がす<ママ>事にはならない、と思ったのです。
  ですから、この勝負は文先生の愛と、森山牧師の愛との戦いであると思いました。
  森山牧師は、自分の愛を自分で証詞していることで、既に負けている、と思いました。

  そうやって、私のこころは驚く程、平安になりこだわりの無い啓かれた心で、森山牧師の聖書講義を聞き始めた時、私が彼が、原理の誤りを見つけ、原理に反対しようとしながら、実は原理を語っていることに気付いたのです。
  例えば、彼は、原理ではイエス様を神だとしない、ということを三位一体論で論破しようと試みていましたが、私が、ゲッセマネの祈りや十字架上で、神であるイエス様が神様に向かって、懇願したり問いかけたりするのはおかしい、と指摘すると、彼は「一なる神が三者の姿をとって現れているのだ」と、言うので、「それでは、三存在が一体化しているという統一原理の立場のほうが判りやすくありませんか?」と言うと、「そうではない、例えばあなたのご両親は二人であるけれど、心を合わせて、一つの家庭を創っているではないか」と、言うので、「でも私は、父と母とは全く違った人格を持っていると思いますし、数える時にも、一人、二人と数えます。」と言うと、「そうではない」と言って、又、別の聖句を引き合いに出して、解釈し始めました。
  そんなふうに、本当に心を落ち着けて聞いていると、聞けば聞く程に私は原理を実感し感動するのでした。

  それ迄は、私が天に心をゆだねきれずに、我で頑張っていた為に時に、ちょっと突っ込まれて解らなくなると、血気怒気に走り、かえって立場を危うくしていたのですが、神様にゆだねきった時から、形勢が逆転し、私が低い声で落ち着いてしゃべると、森山牧師が語気を荒立てて憤る、といった感じになってきました。
  森山牧師に対しては、以後三日間ずっとこんな感じで、最後には、「私は、あなたの信仰には負けたよ。」と、冗談半分ですが、言わせることができたので、彼に対しては、一応の勝利をすることができたのではないかと思います。
  これは、私の勝利というよりも、原理原則の勝利であり、原理研究会全体の勝利であるように思えました。

  又、教会をやめて森山牧師の所に通っている数人の女性とも相当長時間に渡って話しましたが、私が話したのは大抵、教会の信仰を一、二年やってやめた人達でした。
 彼女達と話す方が、森山牧師と話すよりもある面で霊的には疲れました。
 彼女達は、相当親身になって話してくれるし、以前は共に御旨歩んでいたのだから傷つけたくないという思いと、それなら、何故やめて、今は反対側に回っているのか、という怒りとで、どうしても感情的にならざるを得ないのです。
 彼女達と話して私が感じたのは、自分は、統一教会に於いて信仰者だった、と自称するひとであっても、統一原理の理解が、実に皮相的である事、そして文先生の愛の世界に対して、確信が持てなかったのではないか、という事でした。
 原理は本当に深く、文先生は、本当に偉大であると、又新めて<ママ>思いました。

 このようにして、森山牧師に対してはある面で、勝利することが出来たのですが、家庭に対しては、そうはいきませんでした。
 家庭復帰に於いては、状況が状況であったとはいえ、私の両親に対する甘えから、何故判ってくれないのか、という思いが生じ、自分の立場や気持ちを判らせる為に、一方的にしゃべり、愛のない言葉を巻き散らし<ママ>、それによって如何に、両親を傷つけたか、という事が思われるのです。
 私は、もっともっと愛をもって、両親を理解し、両親に最もふさわしい言葉を語らねばならなかった・・・。
自分の愛は、親の愛と比べて見ても、とても比較にならない程、ちっぽけなものだと思いました。
 最終的に、親は教会の活動や、組織的な圧力という面で、完全に教会を不信し、かたくなになり、私は父親から勘当されました。
今回の事件を振り返ってみて、私の反省点としては、両親に対して「大丈夫ではないか?」と、楽観視してしまった事、責任者のみ言に神が働く、ということを完全に信じ切っていたならば、もっと緊張して母親との気持ち合わせの場所に臨んだでしょうし、もっとす早く、危険を予知できたはずだ、と思うのです。
 本当に中心性とは、責任者のみ言を、心情をもって信ずる事であると、思いました。
それからもう一つは、傲慢な愛のない言葉を語って、聞く人をかたくなにさせてしまった事、聞く人を屈服させるのは、結局は論理ではなく、愛である、と切に思いました。

 これからの家庭問題対処の為に、今回の事件で私が感じた教訓を二三書きますと、
 第一に、中心性を立てること、
連絡が出来る限りは、何度でも必ず中心と連絡を取り、そのみ言に、従順に従う事、この原則をはずすと、命取りになるな、と感じました。
 第二に、知で屈服をせようとしない事、
 自分に反対している人には何を言っても無駄ですから、知で納得をさせる事は難しいと思います。
 かえって、自分の知らない事を色々突込まれる混沌として来ますから、そうなったら知的活動をストップさせ、自分の信仰の基盤である愛の世界にたち返ってみたらいいと思います。
 第三に、傲慢にならない事、
 自分は絶対に落ちない、と言う自負は非常に危険だと思います。
 だ神様を信じ、全てをゆだねるていく時に天の知恵が与えられる、と思います。
 第四に、よく祈祷すること、
 事件の間中、いつもよりも、ずっと祈りが天に通じるような気がしました。
 天の働きを得る条件としても、本当に祈祷が大切だと思います。
 その場を神様側の有利に導く為に、講義や話の始まる前、許される限り祈ったらいいと思います。

 最終的に、今回の事件の結果として私が、復帰した内容は、自己の傲慢さと愛の必要性でした。
 森山牧師の話を通して、又、自分の両親達と話す態度を通して、私は、自分が如何に傲慢であったかを悟りました。
自分の力で事を成そうとし、自分の測りで人を裁こうとし、それによって私は、これ迄何人の人を傷つけて、神様の心情を蹂躙してきたか・・・。
 本当にどこまでもでこまでも悔い改めねば、と思いました。
 これを期として、深く悔い改め、新しい再出発を成してゆく決意です。
 もう一つ、家庭問題を最終的に勝利してゆくには、愛の心情の復帰しかない、ということ。
 私の条件が無い故に、今はかたくなになっている両親も、私が苦労して、愛の心情を復帰してゆく過程で、私の中の彼等に対する愛が、彼らの私に対する愛よりも大きくなった時に、両親は必ず復帰されてゆく、と思います。
 全てを溶かしてゆくのは、神様の愛ですから・・・・。 





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2012-11-28(Wed)
 
「全てを溶かしてゆくのは神様の愛」ある拉致体験者の手記 ~後藤代表裁判に有力な証拠、続々
先日、地区主催の 拉致監禁撲滅プロジェクト会議がありました。 後藤代表が 近況報告をしてくださいましたので、 紹介します。 そのうちの一つが これです。  宮村氏恩師の娘、YC氏
[いつも私のとなりに神さま]  2012-11-30 10:15
「全てを溶かしてゆくのは神様の愛」ある拉致体験者の手記 ~後藤代表裁判に有力な証拠、続々
先日、地区主催の 拉致監禁撲滅プロジェクト会議がありました。 後藤代表が 近況報告をしてくださいましたので、 紹介します。 そのうちの一つが これです。  宮村氏恩師の娘、YC氏
[いつも私のとなりに神さま]  2012-11-30 14:26

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チーン 

<相当、泣いたり叫んだりした後に、周りを見ると、父親と宮村さんが乗っていました>

<トイレに止った<ママ>際にも脱出を試たのですが、トイレのドアの前には母が、入口には父が、窓の外には宮村さんが見張っている為、とても逃げられる可能性はなく、(トイレに関しては、栄光教会に着いてからも、警察が来るまでの三日間、ずっとこの調子でした。)本当に、ただ落ち着いて考える他はありませんでした>

あらら~、宮村さんは最初の頃は、拉致&監禁の実行犯だったんですね。

このブログにアップされている宮村氏の陳述書にはこう書かれています。
「この話し合いもあくまで、信者本人が私と話し合うことを了解していない限り成立するものではありません。従って、私も信者本人が自ら話し合いを承諾しない限り行わないのです」

おいおい、話が全然違うじゃないか。
ウソばればれ。
そりゃ、被告側弁護士が焦るもの無理ないわ~。

さてさて、どのように取り繕うのでしょうか。
ご愁傷さまでした。チーン。
2012-11-30 08:27 | みんな | URL   [ 編集 ]

ある疑問 

 世話人さんは、次のように解説されています。

「宮村氏が"拉致監禁"に手を染めるようになったきっかけになったのが、まさにこのYC氏なのです」

 宮村氏による拉致監禁第1号がYCさんという意味だと思います。
 この判断は、鳥海豊さんの『脱会屋のすべて』で書かれた記述と符合します。
 私も、「高校時代の恩師の娘さん」が第1号かと思っていました。

 しかしながら、彼女の手記を読むと、あまりにも拉致の手際が良すぎる。結果として、拉致に成功したとしても、小さなドジさえない。

 それで疑問が浮かんできたのです。

 2つのことが考えられます。

 1つは、宮村氏の背後にいて、彼の拉致を指導した奴がいるのではないか。つまり、陰のコーチがいたのではないかという疑問。
 考えられるのは、精神病院送りが得意だった「後藤の富さん」だ。

 もう1つは、宮村氏はこれまで何度か拉致監禁を試みていた。しかし、いずれもうまくいかず失敗していた。彼にとって「美学」となったのがYCさんのケースであり、それゆえ印象深く、「統一教会と最初に関わるようになったのは」と、鳥海さんに話したのではないのか。
 だとすれば、YCさん以前に、宮村氏が失敗したという食口が後藤さんの前に会われれてもいいのだが、今日までない。

 結論。
 少なくとも、宮村氏が単独で、YCさんの拉致監禁を首尾よく成功させた。とは、到底思えないのである。
2012-12-08 15:53 | 米本 | URL   [ 編集 ]

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拉致監禁被害者後藤徹氏の裁判を支援する会
世話人:宿谷麻子 <2012年10月15日逝去>
(強制脱会者)
世話人:koyomi
(強制脱会者)
世話人:小川寿夫
(自主脱会者)
世話人:yama
(強制脱会説得体験者。教会員)

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